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MZの手下の日記

なんということもなく、このたび、日記を開設しました。昔の文章のいくつかも、すこし手を入れて移しています。

嬬恋郷土資料館と鎌原城址

2019-09-14 18:57:20 | 上州を旅する
嬬恋郷土資料館へ行った。ちょうど、浅間の天明噴火で有名な鎌原観音堂の真上に位置する。浅間北麓ジオパークの建物と向かい合って建っている。資料館の前には、上皇后さまの御歌の碑が建っている。


天明3年の浅間山の火山活動による岩屑流によって、当時の鎌原村はまるごと埋まってしまった。なんでも570名の村人のうち、生き残ったのは93名だったと伝わる。その多くは、この郷土資料館のそばにある鎌原観音堂のような高台に逃れた人々だそうである。観音堂の50段の石段のうち、35段までが岩屑流に埋まったそうである。



昭和54年から、科研費によって、この埋まった旧鎌原村の発掘が行われ、当時の状況が明らかにされつつある。この資料館には、その発掘の出土品が多く展示されており、一見の価値があると思う。科研費も、たまには、世の中の役に立つことがあるらしい。資料館の屋上からは、鎌原村や、もちろん観音堂も、広く見渡せ、なかなか景色がよい。



この資料館の裏手には、鎌原城という古いお城の跡があり、学芸員の方から、そこの道を入ったところですよ、何もありませんけど、と教わったので、訪ねてみることにした。細い道を登ると、吾妻川の少しひらけた段丘の上に出ることができ、今では畑になっている。吾妻川の段丘の要害を利用した守りの堅い城である。その中に、ポツンと鎌原城址の案内板がある。



鎌原氏は、真田氏と同じ滋野一族で、鎌原から三原あたりを本拠としていたらしい。戦国時代の終わりには、武田氏、そして武田滅亡後は真田氏に仕えたようである。戦国後期の真田氏について書かれた記録には、家老あるいは一族衆として鎌原氏の名前があると、ものの本にある。


この城は、元和の一国一城令で廃された。沼田・吾妻領の城は、沼田城だけになったのである。今では、畑と原っぱにしか見えない城跡である。興味がなければ、畑か鉄塔でも見に来たのかと思うかもしれない。その中で、三の丸と二の丸の間には、発掘された堀切が復元され、ああなるほど、昔は城があったのだと思いをはせられるのである。



国立演芸場で円楽と談春を聞く

2019-08-15 12:45:00 | 徒然なるままに
国立演芸場の定席公演を聞きに行った。新宿の末廣亭には、何度か行ったことがあるが、国立は初めてである。今回は連れがいたので、座席が指定できる国立がいいかと思い出かけた。

八月の中席は、国立演芸場開場40周年記念の興行で、仲入り前が談春、トリが楽太郎の円楽という取り合わせである。芸術協会(芸協)の定席で、円楽一門と立川流の噺家が一席、しゃべるということは、一昔前には、想像もつかなかったように思う。

出演した竜楽が、寄席に出る日が来るとは思わなかった、芸協も太っ腹と話していたが、その通りと思う。そのほかには、鯉昇、ナイツ、食い付きには枝太郎、ひざ代わりには、うめ吉で、たいへん面白いラインナップである。当日の演目は以下の通り



鯉昇の「鰻屋」は、やはりよく、竜楽の「そば清」はあっさりとしている。ナイツはやはり、寄席の舞台で見るのが面白く、テレビでは本当の良さが伝わらないと思う。いや、テレビでも十分面白いのだが。

仲入り前の談春の落語はきっちりとした噺だと思う。やはり、この人は噺がうまいと思う。好みかと聞かれると、少し迷うのだけれども、やはりよい。一度、米朝から許されたという除夜の雪を聞いてみたいものだが、そうそう機会はあるまいと思う。

食い付きの枝太郎には勢いがある。うめ吉の俗曲は、なんとなくほんわかとして、江戸の昔に引き戻されるようである。円楽の「藪入り」もよかったが、中盤少しダレたように思う。とはいえ、よく大病から復帰したものだ。

国立の定席は、他の寄席と比べると、演者の持ち時間が長く、じっくりと芸を見せ、聞かせるように思われる。とにかく、満足をして、良い演目を見たと思って家路についたのである。


愛妻の丘

2019-07-28 16:00:00 | 上州を旅する
嬬恋というのは、いい響きの地名だと思う。なんでも日本武尊(やまとたけるのみこと)が、亡き妻を偲んだことにちなむという。亡き妻とは、古事記にある弟橘媛(おとたちばなひめ)のことだろうか。もっとも、ろくに古事記などは読んだこともないので、真偽のほどは分からない。さて、その嬬恋村に、キャベツ畑の真ん中で愛を叫ぶ「愛妻の丘」という場所がある。





四阿山(あづまやさん)の東麓にあり、遠くに浅間山、近くにキャベツ畑がある丘である。丘の上には、叫び台と呼ばれる台と、ハグ台と呼ばれる台、そして鐘がある。ここに、二人で訪れて、まず、鐘をつき、次に叫び台の上で愛を叫び、最後にハグ台の上でハグをするのだそうである。



丘からの眺めは、たいへん素晴らしい。浅間山は雲に隠れて見えなかったが、田代湖から糠塚山、村上山、桟敷山、湯ノ丸までが一望に見渡せる。



毎年9月には、ここで、「キャベツ畑の真ん中で愛を叫ぶ」イベントが開かれるそうである。だが、ここに滞在している間、愛を叫ぶ人もハグする人もいなかった。帰ろうとしたとき、バスツアーの一団がついて、これだけたくさんの人がいれば、誰かがするかと思ったが、結局誰もしなかった。自分もそうだが、なかなか人前でできるものではないようである。



とはいえ、素晴らしい眺望を堪能し、キャベツ畑の中を家路についたのである。




旧中込学校と鉱物学教科書

2019-07-27 15:00:00 | 佐久を訪ねる
七月のある日、佐久市中込にある旧中込学校を訪ねた。旧中込学校は、明治8年に建てられた、日本で最も古い学校建築だそうである。疑洋風建築と呼ぶそうで、パッと見たところは、ハイカラの洋風建築だが、実際は、日本の建築技法が多く採用されている建築らしい。太鼓楼と呼ばれる塔とベランダが印象的な素敵な校舎である。



この学校を建てる費用は、当時の中込の村々の有志の募金などで賄われたそうである。激動の明治の初めに、村民たちが身銭を切って、子供たちの教育に投資したことに感慨を覚えた。長野県は日本有数の教育県だそうだが、その県民性は、遠い明治の初め、ひょっとするとそれ以前にまで、その由来を遡れるのかもしれない。





学校は、昭和44年に重要文化財に指定され、それを機会に解体修理を行い、復元された。その後も平成7年に、平成の修理などが行われ、校内には、写真の第一教場などが復元されている。二階の教員控所や第二から第四教場などには、往時の教材などが展示されており、なかなか興味深い。



その展示の中に、鉱物学教科書や、博物教科書なども見つけた。鉱物学教科書には、理学士伊藤貞市補訂とある。後の帝大教授である。若いころ、鉱物学を志した自分にとって、恩師に連なる名前が出てきたことに、少し驚くとともに、なんとなく嬉しくなった。しかし、高等小学校などで、こんな難しいことを教えていたのだろうか?もしそうなら、今日の大学生などより、よっぽど賢いのかもしれない。




表に回って、校舎の鬼瓦を見てみると、中込の文字を見つけた。これは解体修理のときに復元されたものらしく、併設された資料館には、往時の本物の瓦、まったく瓜二つのものが展示されていた。オリジナルをもとに復元したのだから、オリジナルと復元された瓦が似ているのは、当たり前なのだが・・・。

昔の学校は、個性的でおしゃれだと思う。それに比べると、最近の学校は箱が並んでいるようで、校舎を見ても、つまらないと思う。ただ一つの問題は、冷房がないので、汗をかきかき、見学したのである。


八ッ場ダムと川原湯温泉

2019-06-09 16:00:00 | 上州を旅する
川原湯温泉は、800年前に源頼朝が発見したとの言い伝えがある古い温泉である。吾妻川沿いにあるこの温泉は、まもなく八ッ場ダムの完成とともに、湖の底に沈むことになる。梅雨に入ろうかという6月の初め、機会があって訪ねた。



ダムは既にほとんど完成し、温泉街は5年前から、段丘の上へ移転している。ダムの底に沈む集落は既に取り壊されていた。昔の川原湯温泉がどこにあったかを、移転後の段丘の上や、吾妻川にかかる八ッ場大橋から眺めても、今となっては何もわからないように思う。



土産物屋で店番をしている老婦人に聞くと、もう昔の自分の店がどこにあったかを、眺めてみてもよくわからないと言っていた。時代が人の営みや様々な思いを超えて移って行くのを感じる。



その共同浴場の「王湯」は、多くの人でにぎわっていた。真新しい木の湯舟の露天風呂と内風呂は、以前と変わらない温泉を湛えている。いまでも循環ではなく、かけ流しらしい。線質は含硫黄・カルシウム・ナトリウム-塩化物・硫酸塩泉で、内湯は以前のように熱い。外湯は寒い日だったせいか、ぬるめの湯だったが、係の人が少しぬるすぎるといって温度を上げていった。



なんでも、二つあった源泉の一つが高台にあり、それを利用できたので、移転後も以前の泉質とあまり変わらなかったらしいというが、定かではない。次の冬にはダムも完成し、湛水が始まるとのことだ。昔の湯治場の雰囲気を残す温泉街も懐かしいが、緑が映える湖畔の温泉も、また、よいのかもしれないと思いながら家路についたのである。