城山の西側とその麓一帯は上野国館林(のち石見国浜田)
松平右近将監家(浜田侯)の上屋敷でした。
松平右近将監家は三代将軍家光の孫、六代将軍の弟である
松平清武を初代とする一流です。
代々右近将監(うこんしょうげん)の役職を継いでいたことからこう呼ばれます。
ちなみに右近将監とは天皇の護衛、御所の警備を役目とする近衛府の
重職ですが、江戸時代には実効的な意味はありません。
三代武元(たけちか)は田沼意次と同時代、老中の職にありました。
もともと館林にあった松平家が天保年間に石見浜田に移り、
浜田候と呼ばれるようになったのは、現在韓国ともめている
「竹島問題」が微妙に関係しています。
時に1836年、石見浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、
幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、
密貿易をしていた事が知られ、死刑になります。
ちなみにこの事件発覚の糸口を掴んだのが北方探検で有名な間宮林蔵で、
薩摩藩の密貿易を内偵に行く途中に立ち寄った浜田にも、同じく密貿易の
疑いがあると報告したのが事件の始まりでした。
竹島事件
会津屋は浜田藩の御用商人であり、事件の真相は浜田藩家老の岡田頼母や
勘定方橋本三兵衛らが後ろ盾となって破綻状態の藩財政を立て直すために
密貿易に手を出した、というところのようです。
当時同じように密貿易で藩財政再建を図る藩はいくつもあったようで、
実際薩摩藩は明治維新に向けて十分な基礎体力を蓄えるに至ります。
事件の責任を負って当時老中を務めていた藩主・松平周防守康任は老中職解任、
永蟄居、藩は奥州棚倉へ国替えとなりました。
この後入れ替わりに館林から入国したのが松平右近将監家というわけです。
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