日和山めぐり ~郷土「室積」を見つめる~

岡山・瀬戸内市(牛窓浦)・玉島市(日比港)・倉敷市(児島港)

道の駅を早朝5時半に出発、牛窓港に向かいました。

小豆島と向き合う牛窓浦は、海運の中心地として幹線航路に面した港として繁栄しました。

岡山藩が建設した牛窓港の一文字波止場
岡山藩が建設した牛窓港の一文字波止場に大小の島々があって風波を防ぎ、港内には干潮時でも水深12メートルという天然の良港である牛窓を、岡山藩はさらに整備しました。その一つが「一文字波止場」になります。
眺望のよい場所を求めて近くの天満宮に登りました。
さらに上にあがると天神様
夕陽百選の場所は今一歩でした。
 

天神様に上がる前に、街の東端に岡山藩が設置した高さ5メートルもある木造灯籠堂に行ってみました。

 
 
燈籠の小高い山に五香宮がありました。
おそらくこの場所が牛窓の日和山だったと思われます。

境内に私の好きなブイキャラの花壇がたくさんありました。

境内の管理は80代のボランティアの方が一人でやられているそうです。
地域愛がとても感じられました。
海商通りにはとても新しい家がありました。
左側はパン屋さんでマキを割っていました。
牛窓が気に入って移住したそうです。
右側の家には屋根に天文台があります。
観察した天文写真を展示されるとのこと、これも地域愛が感じられました。
 
次は、本蓮寺に向かいました。
朝鮮通信使資料室のある「海遊文化館」(旧牛窓警察署 )の裏手の山の上に、古刹本蓮寺があります。
本堂
阻師堂
初めて耳にする建物です。
三重塔
鐘撞き堂からの眺望

 岡山藩が牛窓浦を重視したのは、参勤交代の大名船に加え、幕府の賓客である「朝鮮通信使」も牛窓港に寄港したからです。牛窓に寄った9回の朝鮮通信使のうち、初めの4回の宿舎になりました。

宿舎

宿舎から本堂に上がる階段
地域の方から牛窓の様子をうかがうことができました。
牛窓の人口は現在7000人切るくらいだそうです。
三つあった小学校も一つに統合されたそうです。
現在、小学校100あまり、中学校100足らずの児童生徒数とのこと
 本蓮寺とソテツの大木
 家事除けで植えられたものでしょう。見事な大木です。
 
本蓮寺から海商通りを散策してみました。
 
 
 
 
 平日と言うこともあるのか、人通りはまったくありません。
 
途中金毘羅様の入口がありました。
 境内は子ども達の遊び場もありました。
今日が、月一の敬老会の清掃日だったとのこと
ここからの眺望も抜群でした。撮影には雑木林を避けました。
一文字波止場の全景もはっきりと見えました。
最後は瀬戸内観光協会に立ち寄りました。
牛窓のイメージアップを狙った紹介ビデオでした。
若い層の感性を大切しながら制作されたものでした。
 
朝鮮通信使資料室のある「海遊文化館」
元は牛窓警察署でした。
船の歴史や牛窓のお祭り(だんじり)についても知ることができました。
牛窓の遊女が寄進した常夜灯といわれています。
 外観も室内も中のスタッフもすべておしゃれでした。
 
元は牛窓警察署でした。
船の歴史や牛窓のお祭り(だんじり)について知ることができました。

 
牛窓の町並みに残る赤レンガの旧牛窓銀行本店
赤レンガの外壁、漆喰白モルタルの内壁など大正期のレトロで美しい建築様式を知ることができます。
現在は観光案内使節「街角ミュゼ牛窓文化館」となっています。
館内は自由に出入りでき管理人は常時いないそうです。
 
 
 
 
 
 
 
牛窓神社とオリーブ園に登るとさらに眺望がよいということで行ってみました。
牛窓神社(拝殿と本殿)
 
神社からの眺望
 
交通安全ステッカーも入手
オリーブ園からの眺望
本日は最高の好天気でした。
まさに牛窓神社、オリーブ園ともに最高のデートこーすだと思われます。
 
次は玉野市日比港へ向かいました。
11時20分に出発、12時20分着、ちょうど1時間でした。
かつての湊の面影はなく、小規模だが近代的な港に変貌しているようです。

西回り航路を確立した河村瑞賢は、牛窓から南西の日比の廻船も推挙しました。
湾をはさんで 西側が日比、東側が向日比と、二つの集落があった港町です。
塩積み港と「ゆが山」詣での渡海船が主流になっていました。
「ゆが山」は倉敷市児島由加にあり、山頂近くに「ゆk権現」がありました。
ゆか権現には、讃岐の金毘羅参りの帰りに詣でなければいけないという信仰があり、大正時代までにはかなりの参拝客があったそうです。
 
とりあえず、向日比の集落側に行ってみました。
本日の訪問箇所がどこにあるのか、どのような方法で探訪しようかと思いあぐねていた時に、港で孫を連れている方(大賀さん)二人を目にしました。。
話しかけてみると、地域の歴史に詳しい方でとてもラッキーな出逢いでした。
お二人の後ろに見える工場は三井金属で、大賀さんはそこに以前は勤務されていたそうです。
しばらくの間、大賀さんから日比の歴史話をお聞きしました。
工場の右側の見える町並みが北前船寄港地だった日比の集落、背後にある山が日比湾の日和山にあたるそうです。
正面に見えるのが三井金属の工場
工場の右側が北前船寄港地日比の集落
大賀さんの案内で、塩田の跡地(現在は団地になっている所)、海商通り、遊郭のあった場所などを知ることができました。
 
古い町並みの中に、「是よりゆが山へ九十六丁」という道標があります。
 
金毘羅参りの帰りに詣でる信仰のあった「ゆが権現」のことで、大正時代まではかなりの参拝客あったそうです。
「ゆが山」は倉敷市児島由加にあり、山頂近くに「ゆか権現」がありました。
「ゆが権現」は明治時代に由加神社と蓮台寺に分離したそうです。
集落の端に「ゆが権現」を祀る稲荷様もありました。
 
 
日比の遊郭から芸者を連れ出した船乗りたちは、背後の日和山の広場で飲食を楽しんだそうです。これを「日和申し」と称したと言われています。
「横山稲荷大明神」という小さな社がひより山頂の広場にありましたが、現在は日和山に登る人もいなくなり、正確には崇敬者が年老いて登れなくなったので、数年前に社は麓におろされていました。
新調されています。
、以上のことは、以前にひびきだな文化会長をされていた藤田さんが教えてくれました。
藤田さんの出逢いは、大賀さんの紹介によるものです。
藤田さんからは文化研究会の冊子とパンフレットも頂戴しました。
今日は土曜で資料の入手先となる日比出張所は休みでした。
大賀さんや藤田さんに出会えなっかたら、日比での今回予定していた調査活動を円滑達成することはできませんでした。
人との出逢いは不思議なもの、かつ、人とのかかわりの大切を実感させられました。
 
 本日の最後の訪問先は塩の一大産地、積み出し港
児島港です。
旧野崎家住宅を見学して今日の活動を終了しました。
塩の一大産地だった倉敷市児島では、製塩業で大金持ちになった宅です。
予想をはるかに超える大邸宅に唖然、建物の保存状態もとてもいいです。
昔、この家を見た北前船の船頭が、
「庄内にある酒田の本間家よりすごい屋敷だ」
と驚いたというエピソードがあったそうです。
 
 

 
 
 
 
昨日は入浴しなかったので立ち寄り湯「瀬戸内温泉たまの湯」にいきました。
入浴料金2000円にビックリ!!!
 やめるわけにもいきません。
入浴後、今日の車中泊先である道の駅「みやま公園」に向かい本日は終了
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