●町田康『テースト・オブ・苦虫』(中公文庫 2007年)を読んだ。何年か前に単行本が出たときにも読んだので再読ということになる。内容はまったく覚えていなかったが、前回読んだときの感じは体に残っていて、読みながらその感じが蘇ってくるような感じがした。田島貴男が解説を書いていて、「脳の括約筋のトレーニング」をしているような文章だと書いていた。ああ、そんな感じだ。どこでもいいのだが、ペラペラとめくり、任意の箇所を読んでみる。
―「点け放しのテレビジョンから流れるぎゃんぎゃん喚き立てるばかりで無内容なこと甚だしい音が思考・思索の妨げになるのでリモコーン装置を操作して音を消し思考・思索に耽り、ふと疲れて顔をあげるとニュース画面に奇怪な文字と映像が映し出されていた。私は思索を中断午後中ずっとそのことについて考えた。画面には苦しげな顔の農林水産大臣。揃いの鉢巻を巻き襷をかけて気勢を上げている人たち。海のなかに横たわる長大な建造物が映し出され、それらにオーバーラップして『ノリ問題』という大きな文字が躍っていた。
『ノリ問題』。蓋し重要な問題である。やはり人間なにごともノリが大事で、世の中にはノリなどなくても大丈夫と思ってこれを軽視する人があるが大間違いであって、なにをやるにもノリというものがなければうまくいかぬ事が実に多い。……」。
この文章はこの後「人生においてノリがいかに大事であるか」ということをめぐって続けられていくのだが、この冒頭の第一節目は、文章の主題からすればべつになくてもいい余分な部分だと言える。しかしこの「ノリ問題」という「問題」が、そもそも「思索に疲れてふとテレビジョンの画面を眺めた」その刹那に思いついた、言わばその問題自体が取るに足らない、考えても考えなくても同じような、放っておけば泡のように消え失せるだろう「余分」な問題に過ぎないのである。冒頭第一節目の状況説明があることで、ふと余分な問題を思いついてしまう、そんな男の在りようが髣髴となる。この文章は、「ノリ問題について書かれたエッセイ」であると同時に、「ノリ問題などという『余分』な問題を考える男のドタバタ劇」でもあるのだ。
加藤典洋は、町田康の文学を指して、「何もない」を越えて「『何もない』がある」ということに気づいてしまった人間の書く文学である、という意味のことを語っていた。「『何もない』がある」という、その『何もない』は、どんな姿かたちをしているのだろうか。どんな在りようをしているのだろう。
空虚な『何もない』が、現実の圧のなかで、ひよひよと頼りなげにふらついたり、とんでもないタイミングで飛躍したり、いつまでも同じところをぐるぐる周り続けたり、そうした運動の軌跡が、つまり町田康の文章である。町田康の文章を読んでいるとき感じる独特のダイナミズム、脳の括約筋をトレーニングしているかのような感覚、その正体。
●何もすることないなぁ、といつものように街をふらついて、けっきょく図書館に向かい、稲川方人+樋口泰人編『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局 2000年)、リン・ティルマン『憑かれた女たち』(杉浦悦子訳 白水社 1994年)の2冊を借り出した。丸の内から名駅まで歩いて引き返し、いつものドトールに入って、『ロスト・イン・アメリカ』を読み始めた。青山真治、阿部和重、黒沢清、塩田明彦、安井豊による座談録(「1980年代以降のアメリカ映画の変容」が主題)を中心に編まれている。何箇所か、気になった発言を引用する。
「塩田の言葉で言えば物語の全体としてはサスペンスってものがまったくなくなってしまった。これからどうなるんだろうとハラハラドキドキするんじゃなくて、ただ唖然としてどうなるか見てるしかないっていう作り方ですね。各所各所に見せ場があるからそのとおりワーキャー言うんですけど、総体としてはまったく行き当たりばったり。これってつまり現実ってことですよね。『ジュラシック・パーク』は、スピルバーグが映画をいよいよ、物語のレベルから現実にレベルにスライドさせてきた作品であると僕は見るんですが」。(黒沢清)
「存在論的なものというのを一言で言うと、要するにさっき黒沢さんがおっしゃった現実ってことですよね。つまりそうであるしかないってことです。こうにも見える、ああにも見えると、いろんなふうに解釈しうるっていうのが観念だとしたら、こうとしかありえないっていう物事の有り様、つまり現実ですね。それをまさにそうとしかありえないものとして描くことを僕は叙事と呼んだりもするんですけど。例えば『悪魔のいけにえ』なんかが存在論的、あるいは叙事的だと思うのは、さっきも黒沢さんが『ジュラシック・パーク』に関して指摘されたように、あの怪物一家に出会った人間たちはただもう逃げるしかないわけですよね。何かをどうかすれば立場を逆転できるってことじゃないんですよね。なんらかの賢い行動があって、最後に見事な反撃に打って出るってわけでもない。ひたすら逃げて逃げて、助かったとしたら、それはあくまで偶然だよねっていう。そういう偽の距離を捏造しない映画の作り方ですよね。それは僕は存在論的とか叙事的とか言ったりしてるんですけど。ただ、そういうとりつく島のなさって要するに悲劇あるいは喜劇の基本的な世界把握ではないかとも思うんですけど」。(塩田明彦)
「これは以前から思っていたことなんですけど、キャメロンという人は要するに叙事の問題を分かっていないんですね。物事の有り様の決定性や絶対性に対する感性が、彼にはどうにも欠落している。物事が人間の感情なり思惑なりを平然と蹂躙しながら作動していく感覚、ひとたびスイッチが押されてしまえばもう誰にも止めようもなく、ある地獄へむけて歯車が作動していく感覚、そういう物事の有り様の非情さというものを彼は描くことできない。
例えばこれは傍系的な描写ですけど、(『タイタニック』の)あの楽師たちのエピソード。史実的なことを言えば、彼らがなぜ沈みゆく船の上で音楽を演奏し続けたかというと、そうやってみずから粛然と冷静さを示してみせることで乗客たちのパニックを抑えようとしたのですね。で、傾きゆく船の上で彼らは演奏を続けたわけだけど、一度それを始めたらもう止めることができないわけですよ。なぜかというと、危機の中で平然と音楽を演奏し続けていた彼らがあるとき不意に演奏を止めたら、まさにそのこと自体が一種の最後通牒として乗客たちに受け止められてしまうからです。それゆえ、彼等は本当にあの船と共に沈む覚悟で最後まで演奏を続けた。死を覚悟して職業意識を貫き通したわけです。実に感動的で、そして非情な話なんです。ところがこの場面は、ただなんとなく楽師たちがうなずきあって演奏してるという、なんとも間の抜けたものになっちゃってる。前半の段階からそれなりに楽師たちを描写しとかなくちゃ、いきなりあそこに出しても彼らの“顔”が見えてこないですよ。顔が見えないから、彼らの職業意識もまるで真に迫ったものになってこない」。(塩田明彦)
「二人を比べてみると、僕の印象では、キャメロンの方が実はずっと物語に固執しているように見えますね。物語に映画を合わせようとしてる。スピルバーグは本人何考えてるか知りませんけど、ともすると映像が突出してですね、語られている物語を見失う。で、慌てて説明に入ったりするんですが、それでますます混乱する。少しくらい混乱したっていいんだと開き直っているところがチャーミングで。だから、復古的な意味で言ってもキャメロンの方が僕にとってはえらく古く見えて、スピルバーグの方が見たこともない映画に見えることが実はあるんです。別にこの二人に限らず、安井君が言ったようなこの20年ぐらいのアメリカ映画をとりあえず肯定して、40年代と比べてどうだったかということをあまり考えず、見るとおもしろい。ほっとするとそれまでこんなものだねって思っていたかもしれない映画の物語が、すごく変に見えてくる。その結果2時間半になったりもする。それは悪いことかいいことか分からないんですけど、映像優位になるがゆえに、語られる物語も本人の意図と関係なく実は変容してきているんじゃないか。そんな状況の中にあって、スピルバーグではなくキャメロンの方が、いやいやそうではいけないと思っているのかもしれない、っていう気さえするんです」。(黒沢清)
「今の黒沢さんの発言を僕なりに言い直すと、要するにキャメロンの視覚性というのは物語に対してきわめて予定調和なんですよ。つまり説明してるわけですよ、キャメロンは。何かこれまでに見たこともないようなすごい映像を撮っているようで、実は見たことがなくても想像できる範囲のレベルの映像を物語に沿って律儀に配置しているだけなんですよ。例えば宮崎アニメの縦に割れる雲とか、飛行艇を跳ね返す雲というビジョンがありますね。あれはビジョンとして僕らの想像を超えていたがゆえに僕らを驚かす。ところがキャメロンの映像ってのは基本的に僕らのビジョンを超えないわけです。見たことはないけど、想像できるわけです」。(塩田明彦)
「例えば現実世界というものには本質的に統覚がないわけですね。そこに人間界から視点を導入しない限り、統覚というものはない。で、人はそこになにがしかの統覚を持ち込むことで現実世界の中にある種の目的と距離を導入する。すると、その時ある人間を登場人物とする物語が生まれるわけですね。ところが、映画は今やそうした統覚をあえて消す方向にある可能性を見いだしつつあると。あるいはそれがある形式として完成されつつあると」。(塩田明彦)
「オリヴァー・ストーンが『JFK』を撮った時に、安井さんがあの映画のカットの速さ、カメラの視線の在り方みたいなことで『JFK』を取り上げてましたよね。で、あの物語というのは、誰がどこからケネディを撃ったのか?ということに終始するわけじゃないですか。ミステリーというか、謎解きとしては。つまり、視線の位置を疑う物語ですよね。あの頃から、意識的にか無意識的にかアメリカ映画の中に、スピルバーグで言えば誰が語っているのかという問題やら、誰がそれを見ているのかという問題が、形式だけじゃなく物語のテーマそのものとしても出てきたんじゃないかなっていう気はしている」(青山真治)
―2008/01/12 土
―「点け放しのテレビジョンから流れるぎゃんぎゃん喚き立てるばかりで無内容なこと甚だしい音が思考・思索の妨げになるのでリモコーン装置を操作して音を消し思考・思索に耽り、ふと疲れて顔をあげるとニュース画面に奇怪な文字と映像が映し出されていた。私は思索を中断午後中ずっとそのことについて考えた。画面には苦しげな顔の農林水産大臣。揃いの鉢巻を巻き襷をかけて気勢を上げている人たち。海のなかに横たわる長大な建造物が映し出され、それらにオーバーラップして『ノリ問題』という大きな文字が躍っていた。
『ノリ問題』。蓋し重要な問題である。やはり人間なにごともノリが大事で、世の中にはノリなどなくても大丈夫と思ってこれを軽視する人があるが大間違いであって、なにをやるにもノリというものがなければうまくいかぬ事が実に多い。……」。
この文章はこの後「人生においてノリがいかに大事であるか」ということをめぐって続けられていくのだが、この冒頭の第一節目は、文章の主題からすればべつになくてもいい余分な部分だと言える。しかしこの「ノリ問題」という「問題」が、そもそも「思索に疲れてふとテレビジョンの画面を眺めた」その刹那に思いついた、言わばその問題自体が取るに足らない、考えても考えなくても同じような、放っておけば泡のように消え失せるだろう「余分」な問題に過ぎないのである。冒頭第一節目の状況説明があることで、ふと余分な問題を思いついてしまう、そんな男の在りようが髣髴となる。この文章は、「ノリ問題について書かれたエッセイ」であると同時に、「ノリ問題などという『余分』な問題を考える男のドタバタ劇」でもあるのだ。
加藤典洋は、町田康の文学を指して、「何もない」を越えて「『何もない』がある」ということに気づいてしまった人間の書く文学である、という意味のことを語っていた。「『何もない』がある」という、その『何もない』は、どんな姿かたちをしているのだろうか。どんな在りようをしているのだろう。
空虚な『何もない』が、現実の圧のなかで、ひよひよと頼りなげにふらついたり、とんでもないタイミングで飛躍したり、いつまでも同じところをぐるぐる周り続けたり、そうした運動の軌跡が、つまり町田康の文章である。町田康の文章を読んでいるとき感じる独特のダイナミズム、脳の括約筋をトレーニングしているかのような感覚、その正体。
●何もすることないなぁ、といつものように街をふらついて、けっきょく図書館に向かい、稲川方人+樋口泰人編『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局 2000年)、リン・ティルマン『憑かれた女たち』(杉浦悦子訳 白水社 1994年)の2冊を借り出した。丸の内から名駅まで歩いて引き返し、いつものドトールに入って、『ロスト・イン・アメリカ』を読み始めた。青山真治、阿部和重、黒沢清、塩田明彦、安井豊による座談録(「1980年代以降のアメリカ映画の変容」が主題)を中心に編まれている。何箇所か、気になった発言を引用する。
「塩田の言葉で言えば物語の全体としてはサスペンスってものがまったくなくなってしまった。これからどうなるんだろうとハラハラドキドキするんじゃなくて、ただ唖然としてどうなるか見てるしかないっていう作り方ですね。各所各所に見せ場があるからそのとおりワーキャー言うんですけど、総体としてはまったく行き当たりばったり。これってつまり現実ってことですよね。『ジュラシック・パーク』は、スピルバーグが映画をいよいよ、物語のレベルから現実にレベルにスライドさせてきた作品であると僕は見るんですが」。(黒沢清)
「存在論的なものというのを一言で言うと、要するにさっき黒沢さんがおっしゃった現実ってことですよね。つまりそうであるしかないってことです。こうにも見える、ああにも見えると、いろんなふうに解釈しうるっていうのが観念だとしたら、こうとしかありえないっていう物事の有り様、つまり現実ですね。それをまさにそうとしかありえないものとして描くことを僕は叙事と呼んだりもするんですけど。例えば『悪魔のいけにえ』なんかが存在論的、あるいは叙事的だと思うのは、さっきも黒沢さんが『ジュラシック・パーク』に関して指摘されたように、あの怪物一家に出会った人間たちはただもう逃げるしかないわけですよね。何かをどうかすれば立場を逆転できるってことじゃないんですよね。なんらかの賢い行動があって、最後に見事な反撃に打って出るってわけでもない。ひたすら逃げて逃げて、助かったとしたら、それはあくまで偶然だよねっていう。そういう偽の距離を捏造しない映画の作り方ですよね。それは僕は存在論的とか叙事的とか言ったりしてるんですけど。ただ、そういうとりつく島のなさって要するに悲劇あるいは喜劇の基本的な世界把握ではないかとも思うんですけど」。(塩田明彦)
「これは以前から思っていたことなんですけど、キャメロンという人は要するに叙事の問題を分かっていないんですね。物事の有り様の決定性や絶対性に対する感性が、彼にはどうにも欠落している。物事が人間の感情なり思惑なりを平然と蹂躙しながら作動していく感覚、ひとたびスイッチが押されてしまえばもう誰にも止めようもなく、ある地獄へむけて歯車が作動していく感覚、そういう物事の有り様の非情さというものを彼は描くことできない。
例えばこれは傍系的な描写ですけど、(『タイタニック』の)あの楽師たちのエピソード。史実的なことを言えば、彼らがなぜ沈みゆく船の上で音楽を演奏し続けたかというと、そうやってみずから粛然と冷静さを示してみせることで乗客たちのパニックを抑えようとしたのですね。で、傾きゆく船の上で彼らは演奏を続けたわけだけど、一度それを始めたらもう止めることができないわけですよ。なぜかというと、危機の中で平然と音楽を演奏し続けていた彼らがあるとき不意に演奏を止めたら、まさにそのこと自体が一種の最後通牒として乗客たちに受け止められてしまうからです。それゆえ、彼等は本当にあの船と共に沈む覚悟で最後まで演奏を続けた。死を覚悟して職業意識を貫き通したわけです。実に感動的で、そして非情な話なんです。ところがこの場面は、ただなんとなく楽師たちがうなずきあって演奏してるという、なんとも間の抜けたものになっちゃってる。前半の段階からそれなりに楽師たちを描写しとかなくちゃ、いきなりあそこに出しても彼らの“顔”が見えてこないですよ。顔が見えないから、彼らの職業意識もまるで真に迫ったものになってこない」。(塩田明彦)
「二人を比べてみると、僕の印象では、キャメロンの方が実はずっと物語に固執しているように見えますね。物語に映画を合わせようとしてる。スピルバーグは本人何考えてるか知りませんけど、ともすると映像が突出してですね、語られている物語を見失う。で、慌てて説明に入ったりするんですが、それでますます混乱する。少しくらい混乱したっていいんだと開き直っているところがチャーミングで。だから、復古的な意味で言ってもキャメロンの方が僕にとってはえらく古く見えて、スピルバーグの方が見たこともない映画に見えることが実はあるんです。別にこの二人に限らず、安井君が言ったようなこの20年ぐらいのアメリカ映画をとりあえず肯定して、40年代と比べてどうだったかということをあまり考えず、見るとおもしろい。ほっとするとそれまでこんなものだねって思っていたかもしれない映画の物語が、すごく変に見えてくる。その結果2時間半になったりもする。それは悪いことかいいことか分からないんですけど、映像優位になるがゆえに、語られる物語も本人の意図と関係なく実は変容してきているんじゃないか。そんな状況の中にあって、スピルバーグではなくキャメロンの方が、いやいやそうではいけないと思っているのかもしれない、っていう気さえするんです」。(黒沢清)
「今の黒沢さんの発言を僕なりに言い直すと、要するにキャメロンの視覚性というのは物語に対してきわめて予定調和なんですよ。つまり説明してるわけですよ、キャメロンは。何かこれまでに見たこともないようなすごい映像を撮っているようで、実は見たことがなくても想像できる範囲のレベルの映像を物語に沿って律儀に配置しているだけなんですよ。例えば宮崎アニメの縦に割れる雲とか、飛行艇を跳ね返す雲というビジョンがありますね。あれはビジョンとして僕らの想像を超えていたがゆえに僕らを驚かす。ところがキャメロンの映像ってのは基本的に僕らのビジョンを超えないわけです。見たことはないけど、想像できるわけです」。(塩田明彦)
「例えば現実世界というものには本質的に統覚がないわけですね。そこに人間界から視点を導入しない限り、統覚というものはない。で、人はそこになにがしかの統覚を持ち込むことで現実世界の中にある種の目的と距離を導入する。すると、その時ある人間を登場人物とする物語が生まれるわけですね。ところが、映画は今やそうした統覚をあえて消す方向にある可能性を見いだしつつあると。あるいはそれがある形式として完成されつつあると」。(塩田明彦)
「オリヴァー・ストーンが『JFK』を撮った時に、安井さんがあの映画のカットの速さ、カメラの視線の在り方みたいなことで『JFK』を取り上げてましたよね。で、あの物語というのは、誰がどこからケネディを撃ったのか?ということに終始するわけじゃないですか。ミステリーというか、謎解きとしては。つまり、視線の位置を疑う物語ですよね。あの頃から、意識的にか無意識的にかアメリカ映画の中に、スピルバーグで言えば誰が語っているのかという問題やら、誰がそれを見ているのかという問題が、形式だけじゃなく物語のテーマそのものとしても出てきたんじゃないかなっていう気はしている」(青山真治)
―2008/01/12 土
(因みに今4巻まで続いていますが)1を何回か読んでんの??
遅ればせながら、茂木さんの「芸術の神さま…」を
私もお正月に実家で読みましたー♪
先月の「買いなおした」を読んだのと間違えてたんだったわ~。
田島貴男が解説だったし。ところで、本編を読んだ後、田島貴男の解説の文章を読むと、町田康の文章がいかに柔軟でリズミカルかってのがよくわかりますね(田島貴男の文章がまずいってわけじゃないんですけど、やっぱり本職の小説書きは筆力が違うなぁ、と)。
「芸術の神様が降りてくる」では、町田康も良かったけれど、荒川修作がとにかく「すごい」でしょう。今ああいう人が存在していると思うと、それだけで、生きてるのも悪くないなと思えてきます。
早速行きつけの(←!)アマゾンで
オーダーしてきました。とことん外に出ない生活。
前回は、手つかずの伊坂幸太郎を3冊注文して、
昨日届いたんだけど、読んだことありますか?
ネビル・シュートの「渚にて」みたいな題材なんだけど、「渚にて」はやっぱり素敵に面白かった。
伊坂幸太郎のは、ほとんど印象に残っていないというか…。
どっか鼻につくところはあったかも。でも、一応最後まで読んだんで、つまらなくはなかったですw