●竹村健一・佐藤優『国家と人生 ―寛容と多元主義が世界を変える』(太陽企画出版 2007年)を読んだらおもしろかったので、佐藤優の処女作『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫 2007年)を買って読んだ。単行本は2005年の刊行。それからここ2年くらいは、本屋の新刊書の棚に佐藤優の本が並んでいないときはない。
文庫版では解説を川上弘美が書いている。佐藤優に川上弘美というのは、じつに意外な感じのする取り合わせだ。川上弘美自身この解説文の冒頭で、「情報。官僚と政治家。検察。外交。そんなふうな言葉が具体的にあらわれる世界について、ものを書く、ということを職業とする者の中で、わたしほど通暁していない人間は、なかなかいないと思います。自慢しても、いいくらいです」と断っている。しかしそんな「門外漢」が読んでも「いい本だな」と思えるということは、この本が、数多い内幕情報本ではなく、ひとつの文学として成立している証左であると言える。
川上弘美はこの本の「いい本だと思う」理由としていくつか挙げている。まず、ある事態を「克明に」描くために、どこを端折って何を描写するかといった取捨選択。この著者は、そのセンス、すなわち文章を書くセンスがある。
第二に、「その書きようがとても明晰」である、という点―「本の後半には、拘置所に入ってからの作者と検察官のやりとり、それからこの事件を作者のやりかたでさまざまに解析してみたその過程と結論、が書かれています。なぜ作者は国策捜査を受けたのか、考えつづけます。その書きようが、とても明晰なのです」。
この「書きようが明晰である」とはどういったことか。作者の思考が、自己弁護の堂々巡りに陥ることなく、自分を突き放したところで為されていて、その結果、読者がその状況の全体を多面的に捉えることを可能にしている、その書きようのことを「明晰」だと言っているのである。
佐藤優が読者に伝えたいと思ったことは、「自分は無実の罪を着せられました」という名誉回復の訴えとはすこし違ったところにある。作者が自分が巻き込まれたこの事件を、ひとつのケーススタディとして捉え、その克明なドキュメントを通して、「物事の見方」「世界観」をメッセージとして伝えようとしているのである。
―「ともかく、いろんなことをうのみにしない方がいいよ。作者はこの本の中で、さまざまに声を変えてそう言っているように、わたしには思えたのです。絶対的に正しいことは、ない。絶対的に間違ったことも、ない。あるのは、立場や目的や品性の違い、その他。
多面的にものごとを見ることが、なにしろ、大事なことなのですよ。
ぜんたいの記述を通じて、そんな作者の声が、わたしの頭の中には、鳴り響きつづけていたのです。ずいぶんと激しい告発を行っている本なのに、不思議なことでした。その告発自体をまるのみにしてはいけない、と、行間から語りかけてくるなんて。
この本の明晰さは、行間から語りかけるその作者の声を書きとめえたところにあると、わたしは思うのです」。
第三に、この本の作者の言動と眼差しには、ある一貫した「美学」があるという点。―「拘置所で作者と対峙する西村検察官。盟友鈴木宗男。ソ連時代の共産党高官イリイン。登場する主要な人たちは、みな、自己憐憫におちいらず、感傷におぼれず、自分の仕事の目的を遂行することに関してゆるぎがありません。いさぎよい。一言でいえば、そういうことなのかもしれません」。
●独房暮らしが127日目を越えた頃、佐藤優は、親しく付き合っていたソ連時代の政治犯のことばを思い出す。
「強い者の方から与えられる恩恵を受けることは構わない。しかし、自分より強い者に対してお願いをしてはダメだ。そんなことをすると内側から自分が崩れる。矯正収容所生活は結局のところ自分との闘いなんだよ」―。
自分より強い者にお願いをする、媚びる。自分がそうしてしまった瞬間、「内側から自分が崩れる」。屈辱のなかで、もはや自分で自分を恃むことができなくなってしまう。
自分自身を裏切ってしまったのだ。もはや自分自身に留まることはできない。もはやひとりでいることはできない。誰かの飼い犬としてしか生き延びるしかなくなる。
逆に言うなら、自分を恃むことができるという、この矜持さえ保つことができれば、たとえ何を奪われたとしても、自分自身でいつづけることができる。事件に対して佐藤優がとった態度、言動の根底には、「自分自身でいることを放棄してはならない」という、佐藤優が自身に課した原則があったように思う。
そして、「自分自身を放棄しない」ことを貫いたからこそ、佐藤優は、作家として立つことができたのだと思う。作家である佐藤優にとって、刑事被告人として有罪判決を受けたとしても、それが何ほどのことだろうか。彼は、自分との闘いに勝ったのである。
●佐藤優は外交のプロフェッショナルだ。外交のプロフェッショナルということは、つまり、情報を取るプロフェッショナルということである。外務省の役人がすべて佐藤優のようなプロフェッショナルかというとそういうわけでもなさそうだ。外交官試験に受かり、役人として務めているというだけで、彼のような情報取得能力、状況解析能力が身につくわけではないのだ。現実はつねにとりとめがない。あるひとつの状況の中にも、多様な人間の多様な思惑が含まれている。その曖昧模糊と広がる現実のなかから、自分にとって必要な情報を取るためには、観察力、洞察力といったものが必要になる。観察力や洞察力を発揮するには、見聞きしたことを咀嚼し消化するだけの「器官」が自らに備わっていなければならない。その「器官」とは、具体的には、有機的に結びついた幅広い知識、これを「教養」と呼んでもいいかもしれないが、その「教養」が必要になる。試験はできても、そうした「教養」のない人間は、たくさんいる。むしろその方が多いかもしれない。
こうした「教養」を身につけた人間を、佐藤優は、「地頭がいい」と言う。地頭がいいか悪いか、それは、個人の資質といってしまえばそれまでだが、たぶん、自らのうちに「教養」を給養できるかどうかは、その人間が根本で抱いている「どう生きるか」という志、モチベーションに大きく関わっているのだと思う。高い志を保持しつづけている人間は地頭も良くなる、というわけである。
●この本には、とりとめのないような人間関係、現実の動きの中から、自分にとって必要な情報をどのように取得すればいいのか、そのヒントとなるような視点、考え方がたくさん含まれている。
スパイが情報を取るというと、例えば盗聴など、どうしても「盗る」というイメージがあるが、じっさいはそればかりではなく、むしろ、必要な情報を握っている人間といかに人間関係を結べるか、ということの方がずっと肝になってくる。人間関係を結ぶ、というのは、相手の世界観、価値観を理解したうえで、自分のそれをぶつけて、闘ったり融和したり、そうした細かな突合せのプロセスを経て、信頼を得る、与えるということである。多様な歴史、文化のなかで棲息する多様な人間のいちいちと、そのプロセスを踏んでいくということである。前提として、世界の多様性を認め、そのなかで自分自身を相対化する構えがなければならない。
「この事務官は経験不足なのか、自己陶酔癖があるのか、仕事に酔って興奮しているだけだ。こういう手合いはたいしたことはない。過去の経験則から、私は利害が激しく対立する相手とソフトに話がでkりう人間は手強いとの印象をもっている。その意味で、この検事の方は相当手強そうだ」。
「私は田中真紀子女史は『天才』であると考えている。田中女史のことばは、人々の感情に訴えるのみでなく、潜在意識を動かすことができる。文化人類学で『トリックスター(騒動師)』という概念があるが、これがあてはまる。
『トリックスター』は、神話は昔話の世界によく見られるが、既成社会の道徳や秩序を揺さぶるが、同時に文化を活性化する。田中女史の登場によって、日本の政治文化が大きく活性化されたことは間違いない。しかし、問題は活性化された政治がどこに向かっていくかということだ」。
「情報収集、調査・分析の世界に長期従事すると独特の性格の歪みがでてくる。これが一種の文化になり、この分野のプロであるということは、表面上の職業が外交官であろうが、ジャーナリストであろうが、学者であろうが、プロの間では臭いでわかる。そして国際情報の世界では認知された者たちでフリーメーソンのような世界が形成されている。
この世界には、利害が対立する者たちの間にも不思議な助け合いの習慣が存在する。問題は情報屋が自分の歪みに気付いているかどうかである。私自身も自分の姿が完全には見えていない。しかし、自分の職業的歪みには気付いているので、それが自分の眼を曇らせないようにする訓練をしてきた。具体的には常に複眼思考をすることである」。
「私を含め、外務省関係者は鈴木宗男氏こそが日露関係のキーパーソンであるとロシア人に紹介してきた。もし、私が鈴木氏を裏切れば、ロシア人は今後、日本人外交官がどのような政治家をキーパーソンと紹介しても、信用しないであろう。私が最後まで鈴木氏と進み、一緒に沈めば、ロシア人は『われわれが信用する日本人外交官が、この政治家は信用できるといえば、それは本気の発言だ。政治の世界に浮き沈みはつきものだ。いつかまた、われわれが信用する日本人外交官がこの政治家は信用できると言って紹介してくれば、その話に乗ってもロシア側が裏切られることはない』と受け止めてくれる。これがロシア人の常識なのだ。
ロシア人はタフネゴシエーターで、なかなか約束をしない。しかし、一旦、約束すれば、それを守る。また、『友だち』ということばは何よりも重い。政治体制の厳しい国では、『友情』が生き抜く上で重要な鍵を握っているのである。このことはイスラエルをはじめとして世界中で活躍するユダヤ人についても言えることだった。私が沈むことによって、ロシア人とユダヤ人の日本人に対する信頼が維持されるならば、それで本望だと私は思った」。
「小泉政権の誕生により、日本国家は確実に変貌した。私はこれまで、私自身が見聞きしたことを中心にその変貌をたどってきた。この章のまとめとして外交政策、外務省を巡る政管関係に関係に絞って、その意義を簡潔に整理してみたい。
第一は、外交潮流の変化である。
『トリックスター』田中真紀子女史が外相をつとめた九ヶ月の間に、冷戦後存在した三つの外交潮流は一つに、すなわち『親米主義』に生理された。
田中女史の、鈴木宗男氏、東郷氏、私に対する敵愾心から、まず『地政学論』が葬り去られた。それにより『ロシアスクール』が幹部から排除された。次に田中女史の失脚により、『アジア主義』が後退した。『チャイナスクール』の影響力も限定的になった。
そして『親米主義』が唯一の路線として残った。九点一・一同時多発テロ事件後の国際秩序を『ポスト冷戦後』、つまり、冷戦、冷戦後とも時代を異にする新しい枠組みで捉える傾向があるが、日本は『ポスト冷戦後』の国際政治に限りなく『冷戦の論理』に近い外交理念で対処することになった。
第二は、ポピュリズム現象によるナショナリズムの昂揚だ。
田中女史が国民の潜在意識に働きかけ、国民の大多数が『何かに対して怒っている状態』が続くようになった。怒りの対象は100%悪く、それを攻撃する世論は100%正しいという二項図式が確立した。ある時は怒りの対象が鈴木宗男氏であり、ある時は『軟弱な』対露外交、対北朝鮮外交である。
このような状況で、日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった。私が見るところ、ナショナリズムには二つの特徴がある。第一は、『より過激な主張が正しい』という特徴で、もう一つは『自国・自国民が他国・他国民から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう』という非対称な認識構造である。ナショナリズムが行きすぎると国益を毀損することになる。私には、現在の日本が危険なナショナリズム・スパイラルに入りつつあるように思える。
第三に官僚支配の強化である。外務省を巡る政管関係も根本的に変化した。小泉政権による官邸への権力集中は、国会の中央官庁に与える影響力を弱め、結果として外務官僚の力が相対的に強くなった。ただし、鈴木宗男氏のような外交に通暁した政治家と切磋琢磨することがなくなったので、官僚の絶対的力は落ちた。
外務官僚は、田中女史、鈴木に対する攻撃の過程で、内部文書のリークなど『禁じ手』破りに慣れてしまい、組織としての統制力がなくなった。組織内部では疑心暗鬼が強まり、チームとして困難な仕事に取り組む気概が薄くなった」。
「情報専門家の間では『秘密情報の98%は、実は公開情報の中に埋もれている』と言われるが、それを掴む手掛かりになるのは新聞を精読し、切り抜き、整理することからはじまる。情報はデータベースに入力していてもあまり意味がなく、記憶にきちんと定着させなくてはならない。この基本を怠っていくら情報を聞き込んだり、地方調査を進めても、上滑りした情報を得ることしかできず、実務の役に立たない」。
「大森一志弁護士だった。私より四歳年下の青年弁護士である。お互いに簡単な自己紹介をした後、友人や家族からのメッセージを聞いた。外はまだ雨が降っているのか、安物の傘をもっている。腕時計もごく標準的だ。異常に高価なアクセサリー類に関心の強い青年弁護士もときどきいるが、この弁護士は金銭に対する執着が強くなさそうだ。金銭に執着のない者は概して自己顕示欲を抑えることができる。第一印象で私は大森弁護士に好感を持った」。
「西村氏の説明には確かに説得力がある。私が逮捕、起訴され、その後も拘留されているのは、佐藤優と鈴木宗男を絡める事件を作り、現下の政管の関係を摘発、断罪し、検察官のことばでいうところの『時代のけじめ』をつけるためだ。ここまではそれほど難しい操作を経ずにも分析できる。問題はその先だ。なぜ、他の政治家ではなく鈴木宗男氏がターゲットにされたかだ。それがわかれば時代がどのように転換しつつあるかもわかる。私は独房で考えをまとめ、それを取り調べの際に西村氏にぶつけ、さらに独房に持ち帰って考え直すと言うことを繰り返した。
その結果、現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で『時代のけじめ』をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男がいるので、どうも国策操作の対象になったのではないかという構図が見えてきた。
小泉政権の成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化した。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の母体から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化することである。外交上の変化は、日本人の国家意識、民族意識の強化である。
この二つの変化は、小手先の手直しにとどまらず、日本国家体制の根幹に影響を与えるまさに構造的変革という性格を帯びている。それと同時に、私に見立てでは、この二つの変化は異なる方向を指向しているので、このような形での路線転換を進めることが構造的には大きな軋轢を生み出す。この路線転換を完遂するためにはパラダイム転換が必要とされることになる」。
「独房生活では、何か一つのことにこだわりをもつと、それが思考の中で急速に肥大する。この頃になると私も独房生活のコツを少し身につけた。悪いシナリオについてはあまりくよくよ考えず、具体的に危機が迫ったところで知恵を巡らすことだ」。
「今回は、国策調査の手法について、私なりの見方を記します。国策操作の場合、『初めに事件ありき』ではなく、まず役者を決め、それからストーリーを作り、そこに個々の役者を押し込んでいきます。その場合、配役は周囲から固めていき、主役、準主役が登場するのはかなり後になってからです。ジグソーパズルを作るときに、周囲から固め、最後のカケラを『まっ黒い穴』にはめこむという図式です。役者になっていると思われるにもかかわらず、東京地検特捜部から任意の事情聴取がなかなか来ない場合は要注意です。主役か準主役になっている可能性があります。ストーリー作りの観点から物証より自供が重要になります。ストーリーにあわせて物証をはめ込んでいくという手法がとられます。私がかつて行っていた仕事の経験からすると、情報収集・分析よりも情報操作(ディスインフォメーション)工作に似ています。国家権力をもってすれば、大抵の場合、自供を引き出すことに成功します。特に官僚や商社マンなどは子供の頃からほめられるのに慣れ、怒鳴られるのに弱いので、ストーリー作りのための格好のターゲットになります。情報操作工作の場合、外形的事実に少しずつ嘘を混ぜ、工作用ストーリーを作り上げて行きます。ストーリーが実態からそれ程かけ離れていない場合、工作は成功します。国策操作の場合、どの様なストーリーが形成されるかについて、私は注意深く観察しています」。
―2008/01/24 木
文庫版では解説を川上弘美が書いている。佐藤優に川上弘美というのは、じつに意外な感じのする取り合わせだ。川上弘美自身この解説文の冒頭で、「情報。官僚と政治家。検察。外交。そんなふうな言葉が具体的にあらわれる世界について、ものを書く、ということを職業とする者の中で、わたしほど通暁していない人間は、なかなかいないと思います。自慢しても、いいくらいです」と断っている。しかしそんな「門外漢」が読んでも「いい本だな」と思えるということは、この本が、数多い内幕情報本ではなく、ひとつの文学として成立している証左であると言える。
川上弘美はこの本の「いい本だと思う」理由としていくつか挙げている。まず、ある事態を「克明に」描くために、どこを端折って何を描写するかといった取捨選択。この著者は、そのセンス、すなわち文章を書くセンスがある。
第二に、「その書きようがとても明晰」である、という点―「本の後半には、拘置所に入ってからの作者と検察官のやりとり、それからこの事件を作者のやりかたでさまざまに解析してみたその過程と結論、が書かれています。なぜ作者は国策捜査を受けたのか、考えつづけます。その書きようが、とても明晰なのです」。
この「書きようが明晰である」とはどういったことか。作者の思考が、自己弁護の堂々巡りに陥ることなく、自分を突き放したところで為されていて、その結果、読者がその状況の全体を多面的に捉えることを可能にしている、その書きようのことを「明晰」だと言っているのである。
佐藤優が読者に伝えたいと思ったことは、「自分は無実の罪を着せられました」という名誉回復の訴えとはすこし違ったところにある。作者が自分が巻き込まれたこの事件を、ひとつのケーススタディとして捉え、その克明なドキュメントを通して、「物事の見方」「世界観」をメッセージとして伝えようとしているのである。
―「ともかく、いろんなことをうのみにしない方がいいよ。作者はこの本の中で、さまざまに声を変えてそう言っているように、わたしには思えたのです。絶対的に正しいことは、ない。絶対的に間違ったことも、ない。あるのは、立場や目的や品性の違い、その他。
多面的にものごとを見ることが、なにしろ、大事なことなのですよ。
ぜんたいの記述を通じて、そんな作者の声が、わたしの頭の中には、鳴り響きつづけていたのです。ずいぶんと激しい告発を行っている本なのに、不思議なことでした。その告発自体をまるのみにしてはいけない、と、行間から語りかけてくるなんて。
この本の明晰さは、行間から語りかけるその作者の声を書きとめえたところにあると、わたしは思うのです」。
第三に、この本の作者の言動と眼差しには、ある一貫した「美学」があるという点。―「拘置所で作者と対峙する西村検察官。盟友鈴木宗男。ソ連時代の共産党高官イリイン。登場する主要な人たちは、みな、自己憐憫におちいらず、感傷におぼれず、自分の仕事の目的を遂行することに関してゆるぎがありません。いさぎよい。一言でいえば、そういうことなのかもしれません」。
●独房暮らしが127日目を越えた頃、佐藤優は、親しく付き合っていたソ連時代の政治犯のことばを思い出す。
「強い者の方から与えられる恩恵を受けることは構わない。しかし、自分より強い者に対してお願いをしてはダメだ。そんなことをすると内側から自分が崩れる。矯正収容所生活は結局のところ自分との闘いなんだよ」―。
自分より強い者にお願いをする、媚びる。自分がそうしてしまった瞬間、「内側から自分が崩れる」。屈辱のなかで、もはや自分で自分を恃むことができなくなってしまう。
自分自身を裏切ってしまったのだ。もはや自分自身に留まることはできない。もはやひとりでいることはできない。誰かの飼い犬としてしか生き延びるしかなくなる。
逆に言うなら、自分を恃むことができるという、この矜持さえ保つことができれば、たとえ何を奪われたとしても、自分自身でいつづけることができる。事件に対して佐藤優がとった態度、言動の根底には、「自分自身でいることを放棄してはならない」という、佐藤優が自身に課した原則があったように思う。
そして、「自分自身を放棄しない」ことを貫いたからこそ、佐藤優は、作家として立つことができたのだと思う。作家である佐藤優にとって、刑事被告人として有罪判決を受けたとしても、それが何ほどのことだろうか。彼は、自分との闘いに勝ったのである。
●佐藤優は外交のプロフェッショナルだ。外交のプロフェッショナルということは、つまり、情報を取るプロフェッショナルということである。外務省の役人がすべて佐藤優のようなプロフェッショナルかというとそういうわけでもなさそうだ。外交官試験に受かり、役人として務めているというだけで、彼のような情報取得能力、状況解析能力が身につくわけではないのだ。現実はつねにとりとめがない。あるひとつの状況の中にも、多様な人間の多様な思惑が含まれている。その曖昧模糊と広がる現実のなかから、自分にとって必要な情報を取るためには、観察力、洞察力といったものが必要になる。観察力や洞察力を発揮するには、見聞きしたことを咀嚼し消化するだけの「器官」が自らに備わっていなければならない。その「器官」とは、具体的には、有機的に結びついた幅広い知識、これを「教養」と呼んでもいいかもしれないが、その「教養」が必要になる。試験はできても、そうした「教養」のない人間は、たくさんいる。むしろその方が多いかもしれない。
こうした「教養」を身につけた人間を、佐藤優は、「地頭がいい」と言う。地頭がいいか悪いか、それは、個人の資質といってしまえばそれまでだが、たぶん、自らのうちに「教養」を給養できるかどうかは、その人間が根本で抱いている「どう生きるか」という志、モチベーションに大きく関わっているのだと思う。高い志を保持しつづけている人間は地頭も良くなる、というわけである。
●この本には、とりとめのないような人間関係、現実の動きの中から、自分にとって必要な情報をどのように取得すればいいのか、そのヒントとなるような視点、考え方がたくさん含まれている。
スパイが情報を取るというと、例えば盗聴など、どうしても「盗る」というイメージがあるが、じっさいはそればかりではなく、むしろ、必要な情報を握っている人間といかに人間関係を結べるか、ということの方がずっと肝になってくる。人間関係を結ぶ、というのは、相手の世界観、価値観を理解したうえで、自分のそれをぶつけて、闘ったり融和したり、そうした細かな突合せのプロセスを経て、信頼を得る、与えるということである。多様な歴史、文化のなかで棲息する多様な人間のいちいちと、そのプロセスを踏んでいくということである。前提として、世界の多様性を認め、そのなかで自分自身を相対化する構えがなければならない。
「この事務官は経験不足なのか、自己陶酔癖があるのか、仕事に酔って興奮しているだけだ。こういう手合いはたいしたことはない。過去の経験則から、私は利害が激しく対立する相手とソフトに話がでkりう人間は手強いとの印象をもっている。その意味で、この検事の方は相当手強そうだ」。
「私は田中真紀子女史は『天才』であると考えている。田中女史のことばは、人々の感情に訴えるのみでなく、潜在意識を動かすことができる。文化人類学で『トリックスター(騒動師)』という概念があるが、これがあてはまる。
『トリックスター』は、神話は昔話の世界によく見られるが、既成社会の道徳や秩序を揺さぶるが、同時に文化を活性化する。田中女史の登場によって、日本の政治文化が大きく活性化されたことは間違いない。しかし、問題は活性化された政治がどこに向かっていくかということだ」。
「情報収集、調査・分析の世界に長期従事すると独特の性格の歪みがでてくる。これが一種の文化になり、この分野のプロであるということは、表面上の職業が外交官であろうが、ジャーナリストであろうが、学者であろうが、プロの間では臭いでわかる。そして国際情報の世界では認知された者たちでフリーメーソンのような世界が形成されている。
この世界には、利害が対立する者たちの間にも不思議な助け合いの習慣が存在する。問題は情報屋が自分の歪みに気付いているかどうかである。私自身も自分の姿が完全には見えていない。しかし、自分の職業的歪みには気付いているので、それが自分の眼を曇らせないようにする訓練をしてきた。具体的には常に複眼思考をすることである」。
「私を含め、外務省関係者は鈴木宗男氏こそが日露関係のキーパーソンであるとロシア人に紹介してきた。もし、私が鈴木氏を裏切れば、ロシア人は今後、日本人外交官がどのような政治家をキーパーソンと紹介しても、信用しないであろう。私が最後まで鈴木氏と進み、一緒に沈めば、ロシア人は『われわれが信用する日本人外交官が、この政治家は信用できるといえば、それは本気の発言だ。政治の世界に浮き沈みはつきものだ。いつかまた、われわれが信用する日本人外交官がこの政治家は信用できると言って紹介してくれば、その話に乗ってもロシア側が裏切られることはない』と受け止めてくれる。これがロシア人の常識なのだ。
ロシア人はタフネゴシエーターで、なかなか約束をしない。しかし、一旦、約束すれば、それを守る。また、『友だち』ということばは何よりも重い。政治体制の厳しい国では、『友情』が生き抜く上で重要な鍵を握っているのである。このことはイスラエルをはじめとして世界中で活躍するユダヤ人についても言えることだった。私が沈むことによって、ロシア人とユダヤ人の日本人に対する信頼が維持されるならば、それで本望だと私は思った」。
「小泉政権の誕生により、日本国家は確実に変貌した。私はこれまで、私自身が見聞きしたことを中心にその変貌をたどってきた。この章のまとめとして外交政策、外務省を巡る政管関係に関係に絞って、その意義を簡潔に整理してみたい。
第一は、外交潮流の変化である。
『トリックスター』田中真紀子女史が外相をつとめた九ヶ月の間に、冷戦後存在した三つの外交潮流は一つに、すなわち『親米主義』に生理された。
田中女史の、鈴木宗男氏、東郷氏、私に対する敵愾心から、まず『地政学論』が葬り去られた。それにより『ロシアスクール』が幹部から排除された。次に田中女史の失脚により、『アジア主義』が後退した。『チャイナスクール』の影響力も限定的になった。
そして『親米主義』が唯一の路線として残った。九点一・一同時多発テロ事件後の国際秩序を『ポスト冷戦後』、つまり、冷戦、冷戦後とも時代を異にする新しい枠組みで捉える傾向があるが、日本は『ポスト冷戦後』の国際政治に限りなく『冷戦の論理』に近い外交理念で対処することになった。
第二は、ポピュリズム現象によるナショナリズムの昂揚だ。
田中女史が国民の潜在意識に働きかけ、国民の大多数が『何かに対して怒っている状態』が続くようになった。怒りの対象は100%悪く、それを攻撃する世論は100%正しいという二項図式が確立した。ある時は怒りの対象が鈴木宗男氏であり、ある時は『軟弱な』対露外交、対北朝鮮外交である。
このような状況で、日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった。私が見るところ、ナショナリズムには二つの特徴がある。第一は、『より過激な主張が正しい』という特徴で、もう一つは『自国・自国民が他国・他国民から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう』という非対称な認識構造である。ナショナリズムが行きすぎると国益を毀損することになる。私には、現在の日本が危険なナショナリズム・スパイラルに入りつつあるように思える。
第三に官僚支配の強化である。外務省を巡る政管関係も根本的に変化した。小泉政権による官邸への権力集中は、国会の中央官庁に与える影響力を弱め、結果として外務官僚の力が相対的に強くなった。ただし、鈴木宗男氏のような外交に通暁した政治家と切磋琢磨することがなくなったので、官僚の絶対的力は落ちた。
外務官僚は、田中女史、鈴木に対する攻撃の過程で、内部文書のリークなど『禁じ手』破りに慣れてしまい、組織としての統制力がなくなった。組織内部では疑心暗鬼が強まり、チームとして困難な仕事に取り組む気概が薄くなった」。
「情報専門家の間では『秘密情報の98%は、実は公開情報の中に埋もれている』と言われるが、それを掴む手掛かりになるのは新聞を精読し、切り抜き、整理することからはじまる。情報はデータベースに入力していてもあまり意味がなく、記憶にきちんと定着させなくてはならない。この基本を怠っていくら情報を聞き込んだり、地方調査を進めても、上滑りした情報を得ることしかできず、実務の役に立たない」。
「大森一志弁護士だった。私より四歳年下の青年弁護士である。お互いに簡単な自己紹介をした後、友人や家族からのメッセージを聞いた。外はまだ雨が降っているのか、安物の傘をもっている。腕時計もごく標準的だ。異常に高価なアクセサリー類に関心の強い青年弁護士もときどきいるが、この弁護士は金銭に対する執着が強くなさそうだ。金銭に執着のない者は概して自己顕示欲を抑えることができる。第一印象で私は大森弁護士に好感を持った」。
「西村氏の説明には確かに説得力がある。私が逮捕、起訴され、その後も拘留されているのは、佐藤優と鈴木宗男を絡める事件を作り、現下の政管の関係を摘発、断罪し、検察官のことばでいうところの『時代のけじめ』をつけるためだ。ここまではそれほど難しい操作を経ずにも分析できる。問題はその先だ。なぜ、他の政治家ではなく鈴木宗男氏がターゲットにされたかだ。それがわかれば時代がどのように転換しつつあるかもわかる。私は独房で考えをまとめ、それを取り調べの際に西村氏にぶつけ、さらに独房に持ち帰って考え直すと言うことを繰り返した。
その結果、現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で『時代のけじめ』をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男がいるので、どうも国策操作の対象になったのではないかという構図が見えてきた。
小泉政権の成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化した。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の母体から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化することである。外交上の変化は、日本人の国家意識、民族意識の強化である。
この二つの変化は、小手先の手直しにとどまらず、日本国家体制の根幹に影響を与えるまさに構造的変革という性格を帯びている。それと同時に、私に見立てでは、この二つの変化は異なる方向を指向しているので、このような形での路線転換を進めることが構造的には大きな軋轢を生み出す。この路線転換を完遂するためにはパラダイム転換が必要とされることになる」。
「独房生活では、何か一つのことにこだわりをもつと、それが思考の中で急速に肥大する。この頃になると私も独房生活のコツを少し身につけた。悪いシナリオについてはあまりくよくよ考えず、具体的に危機が迫ったところで知恵を巡らすことだ」。
「今回は、国策調査の手法について、私なりの見方を記します。国策操作の場合、『初めに事件ありき』ではなく、まず役者を決め、それからストーリーを作り、そこに個々の役者を押し込んでいきます。その場合、配役は周囲から固めていき、主役、準主役が登場するのはかなり後になってからです。ジグソーパズルを作るときに、周囲から固め、最後のカケラを『まっ黒い穴』にはめこむという図式です。役者になっていると思われるにもかかわらず、東京地検特捜部から任意の事情聴取がなかなか来ない場合は要注意です。主役か準主役になっている可能性があります。ストーリー作りの観点から物証より自供が重要になります。ストーリーにあわせて物証をはめ込んでいくという手法がとられます。私がかつて行っていた仕事の経験からすると、情報収集・分析よりも情報操作(ディスインフォメーション)工作に似ています。国家権力をもってすれば、大抵の場合、自供を引き出すことに成功します。特に官僚や商社マンなどは子供の頃からほめられるのに慣れ、怒鳴られるのに弱いので、ストーリー作りのための格好のターゲットになります。情報操作工作の場合、外形的事実に少しずつ嘘を混ぜ、工作用ストーリーを作り上げて行きます。ストーリーが実態からそれ程かけ離れていない場合、工作は成功します。国策操作の場合、どの様なストーリーが形成されるかについて、私は注意深く観察しています」。
―2008/01/24 木