●午前中、家で、角田光代『三面記事小説』(文芸春秋 2007年)を読み終えた。殺害した女性を自分の家の庭に埋め、26年間隠し通した男の事件を基にした短編「愛の巣」が、とりわけ陰惨な味わいの強い、とびきりの“ホラー小説”になっていた。
●最近、傍からみれば安易な短絡としか思えないような“頭の悪い”犯罪が増えている。しかし、そうした犯罪を起こす人間が、特別に頭が悪い人間なのかというと、たぶんそうではない。
彼ら(彼女ら)は、きっと、その犯罪行為のなかに、“間違った希望”を見てしまったのだと思う。“間違った希望”を見て、その実現に都合の悪い現実はすべて安易に排除し、短絡的な行動化に走ってしまったのだ。その「都合の悪い現実はすべて安易に排除」できる心性には、なにか狂気の匂いが漂うものの、彼ら(彼女ら)は、現代の日本に生きる平均的な人間の像から、さほど大きく隔たっているわけではない。
いま“間違った希望”と書いたが、それは結果として犯罪に結びつくものだから“間違っている”ということではない。その“希望”に向かって進むことが、その人間が抱える問題を解決する方向にはけっして繋がらないから、それは“間違っている”のである。しかし、“間違い”がそうしたことだというなら、現代の日本に生きる平均的な人間が思い描く“健全な”希望にしたところで、けっきょくのところ“間違った希望”でしかないのではないか。
●昼に家を出て、とりあえず喫茶店でサンドイッチのランチを食べた。食べながら、赤瀬川源平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 ―岩波写真文庫再発見』(岩波書店 2007年)を読んだ。
戦後5年目から発刊された岩波写真文庫。この本では、一章に一冊を取り上げ、それぞれの写真からたちのぼる1950年代の空気をとらえようとしている。
「時代は切れ目なくつづいている。昔を振り返るときに重要なのは、その時代の空気だ。いつの世も空気の中でものごとは生まれる。その空気を壊さずに出来事を探るのは、大変難しい。一つだけ取り残されて、ウィンドウの中に飾られた物からは、空気が飛び散っている。
この写真文庫はカメラを基に、種々雑多なものを採集したことで、はからずもその空気を保存した貴重なシリーズだ。これを一冊ずつ見ていく中で、そのことをつくづく感じた。その予感があったから、これを連載でといわれたときは、嬉しかった。二十四冊の選定は、終戦時小学校三年という年齢の自分の空気感による。何しろ全三百冊近くあるのだから、ほかにも深呼吸してみたい空気はまだたくさん残されている」。
「世の中の活字メディアにしても、単行本や雑誌などはまだしも残るが、日々の新聞からまず消えていく。まして折り込みで入ってくるチラシの類は、ほとんど見ずに捨てられる。その時にはそれがうんざりするほど沢山あって、何の価値もないからだ。でもそれから百年たった後に残された一枚をたまたま目にすると、そこに染み込んだ時代の空気、その空気のニュアンスに、あらためて驚く。
といった、すぐに捨てられたかもしれない生活の末端のニュアンスが、この本(『玉音放送を聞いて家に』)の写真のあちこちに潜んでいる。そういう論理化できないようなニュアンスは、経験した体感の記憶にまで届いて掘り起こされるものだから、新世代の人々には及ばないかもしれない。いや、そこから先は想像力の問題となるのか。
たとえばの話、景山一家でゴルフ場に行って遊んだ日、お昼のお弁当を広げて海苔で包んだおにぎりをぱくついている。どこがどうというわけではないのだけど、そうだ、おにぎりの美味さはこれだったと、ぼくの記憶の蓋がめくれ上がった。おにぎりなんて、いまはスーパーやコンビニでたくさん売っている。たまに買って食べても、ありきたりの三食の中の一食に過ぎない。でもあの時代、地べたにしゃがんで食べるおにぎりは、この美味しさだった。
といわれてこの写真を見ても、いまの時代の人にはたぶん通じない。いや通じないかどうか、その体験を持っているぼくらに、それはわからない。でもさっき想像力といったが、いつの時代にもある生活感覚の底流の、末端の、いずれかの近似の経路を通して、そこにタッチする可能性はあるものと思っている」。
こうした、例えば「おにぎりの美味しさ」をそのまま追体験するような想像力の働かせ方が、いわゆる「歴史意識」というものに繋がるのだと思う。
「いつの時代にもある生活感覚の底流の、末端の、いずれかの近似の経路を通して、そこにタッチする」という想像力。
もう一箇所、こうした想像力が働いた、当時の空気がそのまま蘇ってくるような記述を抜粋しておく。蒸気機関車を取り上げた章だ。
「思い出を書いているときりがないが、すべてが重厚だった。旅の時間が重厚であり、だからみんな持っていく荷物も重厚であり、乗る人も見送る人も重厚な気持で、それらをまとめて牽引する機関車は、世の中にこれ以上重厚なものはないというほど、重々しく、黒々として、かすれた低温の汽笛をフッと漏らし、それが鉄の猛獣の吐息みたいだった。もうそれはたんに客車を引っ張る道具ではなく、人間の造った偉大な鉄の芸術だった。いや芸術という言葉は昨今では軽すぎる。偉大な鉄の神様だ。
だから働く人も乗る人も、全員がその黒々とした機関車を畏敬していた。荒ぶる力を秘めた巨大獣の、その逆鱗に触れないように、恐る恐る列車に乗り込んでいた」。
●2時間弱で読み終え、それから、高島屋の三省堂に寄った。中村うさぎ『うさぎが鬼に会いにいく』(アスキー 2007年)、中山康樹『超ジャズ入門』(集英社新書 2001年)を買う。
夕方から、毎月月末の恒例になっているメニュー撮影の仕事で、店に向かった。
夜は、テレビでK-1を観た。おれの興味が薄れたのか、試合がつまらないのか、最近ではほとんど惰性で観ているような感じだ。
●最近、傍からみれば安易な短絡としか思えないような“頭の悪い”犯罪が増えている。しかし、そうした犯罪を起こす人間が、特別に頭が悪い人間なのかというと、たぶんそうではない。
彼ら(彼女ら)は、きっと、その犯罪行為のなかに、“間違った希望”を見てしまったのだと思う。“間違った希望”を見て、その実現に都合の悪い現実はすべて安易に排除し、短絡的な行動化に走ってしまったのだ。その「都合の悪い現実はすべて安易に排除」できる心性には、なにか狂気の匂いが漂うものの、彼ら(彼女ら)は、現代の日本に生きる平均的な人間の像から、さほど大きく隔たっているわけではない。
いま“間違った希望”と書いたが、それは結果として犯罪に結びつくものだから“間違っている”ということではない。その“希望”に向かって進むことが、その人間が抱える問題を解決する方向にはけっして繋がらないから、それは“間違っている”のである。しかし、“間違い”がそうしたことだというなら、現代の日本に生きる平均的な人間が思い描く“健全な”希望にしたところで、けっきょくのところ“間違った希望”でしかないのではないか。
●昼に家を出て、とりあえず喫茶店でサンドイッチのランチを食べた。食べながら、赤瀬川源平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 ―岩波写真文庫再発見』(岩波書店 2007年)を読んだ。
戦後5年目から発刊された岩波写真文庫。この本では、一章に一冊を取り上げ、それぞれの写真からたちのぼる1950年代の空気をとらえようとしている。
「時代は切れ目なくつづいている。昔を振り返るときに重要なのは、その時代の空気だ。いつの世も空気の中でものごとは生まれる。その空気を壊さずに出来事を探るのは、大変難しい。一つだけ取り残されて、ウィンドウの中に飾られた物からは、空気が飛び散っている。
この写真文庫はカメラを基に、種々雑多なものを採集したことで、はからずもその空気を保存した貴重なシリーズだ。これを一冊ずつ見ていく中で、そのことをつくづく感じた。その予感があったから、これを連載でといわれたときは、嬉しかった。二十四冊の選定は、終戦時小学校三年という年齢の自分の空気感による。何しろ全三百冊近くあるのだから、ほかにも深呼吸してみたい空気はまだたくさん残されている」。
「世の中の活字メディアにしても、単行本や雑誌などはまだしも残るが、日々の新聞からまず消えていく。まして折り込みで入ってくるチラシの類は、ほとんど見ずに捨てられる。その時にはそれがうんざりするほど沢山あって、何の価値もないからだ。でもそれから百年たった後に残された一枚をたまたま目にすると、そこに染み込んだ時代の空気、その空気のニュアンスに、あらためて驚く。
といった、すぐに捨てられたかもしれない生活の末端のニュアンスが、この本(『玉音放送を聞いて家に』)の写真のあちこちに潜んでいる。そういう論理化できないようなニュアンスは、経験した体感の記憶にまで届いて掘り起こされるものだから、新世代の人々には及ばないかもしれない。いや、そこから先は想像力の問題となるのか。
たとえばの話、景山一家でゴルフ場に行って遊んだ日、お昼のお弁当を広げて海苔で包んだおにぎりをぱくついている。どこがどうというわけではないのだけど、そうだ、おにぎりの美味さはこれだったと、ぼくの記憶の蓋がめくれ上がった。おにぎりなんて、いまはスーパーやコンビニでたくさん売っている。たまに買って食べても、ありきたりの三食の中の一食に過ぎない。でもあの時代、地べたにしゃがんで食べるおにぎりは、この美味しさだった。
といわれてこの写真を見ても、いまの時代の人にはたぶん通じない。いや通じないかどうか、その体験を持っているぼくらに、それはわからない。でもさっき想像力といったが、いつの時代にもある生活感覚の底流の、末端の、いずれかの近似の経路を通して、そこにタッチする可能性はあるものと思っている」。
こうした、例えば「おにぎりの美味しさ」をそのまま追体験するような想像力の働かせ方が、いわゆる「歴史意識」というものに繋がるのだと思う。
「いつの時代にもある生活感覚の底流の、末端の、いずれかの近似の経路を通して、そこにタッチする」という想像力。
もう一箇所、こうした想像力が働いた、当時の空気がそのまま蘇ってくるような記述を抜粋しておく。蒸気機関車を取り上げた章だ。
「思い出を書いているときりがないが、すべてが重厚だった。旅の時間が重厚であり、だからみんな持っていく荷物も重厚であり、乗る人も見送る人も重厚な気持で、それらをまとめて牽引する機関車は、世の中にこれ以上重厚なものはないというほど、重々しく、黒々として、かすれた低温の汽笛をフッと漏らし、それが鉄の猛獣の吐息みたいだった。もうそれはたんに客車を引っ張る道具ではなく、人間の造った偉大な鉄の芸術だった。いや芸術という言葉は昨今では軽すぎる。偉大な鉄の神様だ。
だから働く人も乗る人も、全員がその黒々とした機関車を畏敬していた。荒ぶる力を秘めた巨大獣の、その逆鱗に触れないように、恐る恐る列車に乗り込んでいた」。
●2時間弱で読み終え、それから、高島屋の三省堂に寄った。中村うさぎ『うさぎが鬼に会いにいく』(アスキー 2007年)、中山康樹『超ジャズ入門』(集英社新書 2001年)を買う。
夕方から、毎月月末の恒例になっているメニュー撮影の仕事で、店に向かった。
夜は、テレビでK-1を観た。おれの興味が薄れたのか、試合がつまらないのか、最近ではほとんど惰性で観ているような感じだ。