極薄特濃日記

無駄の2乗、無駄の3乗、無駄の4乗、無駄の5乗、…懲りることないくりかえし。

2007-9-29 土 曇

2007-09-30 12:44:31 | DIARY
●午前中、家で、角田光代『三面記事小説』(文芸春秋 2007年)を読み終えた。殺害した女性を自分の家の庭に埋め、26年間隠し通した男の事件を基にした短編「愛の巣」が、とりわけ陰惨な味わいの強い、とびきりの“ホラー小説”になっていた。

●最近、傍からみれば安易な短絡としか思えないような“頭の悪い”犯罪が増えている。しかし、そうした犯罪を起こす人間が、特別に頭が悪い人間なのかというと、たぶんそうではない。
彼ら(彼女ら)は、きっと、その犯罪行為のなかに、“間違った希望”を見てしまったのだと思う。“間違った希望”を見て、その実現に都合の悪い現実はすべて安易に排除し、短絡的な行動化に走ってしまったのだ。その「都合の悪い現実はすべて安易に排除」できる心性には、なにか狂気の匂いが漂うものの、彼ら(彼女ら)は、現代の日本に生きる平均的な人間の像から、さほど大きく隔たっているわけではない。
いま“間違った希望”と書いたが、それは結果として犯罪に結びつくものだから“間違っている”ということではない。その“希望”に向かって進むことが、その人間が抱える問題を解決する方向にはけっして繋がらないから、それは“間違っている”のである。しかし、“間違い”がそうしたことだというなら、現代の日本に生きる平均的な人間が思い描く“健全な”希望にしたところで、けっきょくのところ“間違った希望”でしかないのではないか。

●昼に家を出て、とりあえず喫茶店でサンドイッチのランチを食べた。食べながら、赤瀬川源平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 ―岩波写真文庫再発見』(岩波書店 2007年)を読んだ。
戦後5年目から発刊された岩波写真文庫。この本では、一章に一冊を取り上げ、それぞれの写真からたちのぼる1950年代の空気をとらえようとしている。

「時代は切れ目なくつづいている。昔を振り返るときに重要なのは、その時代の空気だ。いつの世も空気の中でものごとは生まれる。その空気を壊さずに出来事を探るのは、大変難しい。一つだけ取り残されて、ウィンドウの中に飾られた物からは、空気が飛び散っている。
この写真文庫はカメラを基に、種々雑多なものを採集したことで、はからずもその空気を保存した貴重なシリーズだ。これを一冊ずつ見ていく中で、そのことをつくづく感じた。その予感があったから、これを連載でといわれたときは、嬉しかった。二十四冊の選定は、終戦時小学校三年という年齢の自分の空気感による。何しろ全三百冊近くあるのだから、ほかにも深呼吸してみたい空気はまだたくさん残されている」。

「世の中の活字メディアにしても、単行本や雑誌などはまだしも残るが、日々の新聞からまず消えていく。まして折り込みで入ってくるチラシの類は、ほとんど見ずに捨てられる。その時にはそれがうんざりするほど沢山あって、何の価値もないからだ。でもそれから百年たった後に残された一枚をたまたま目にすると、そこに染み込んだ時代の空気、その空気のニュアンスに、あらためて驚く。
といった、すぐに捨てられたかもしれない生活の末端のニュアンスが、この本(『玉音放送を聞いて家に』)の写真のあちこちに潜んでいる。そういう論理化できないようなニュアンスは、経験した体感の記憶にまで届いて掘り起こされるものだから、新世代の人々には及ばないかもしれない。いや、そこから先は想像力の問題となるのか。
たとえばの話、景山一家でゴルフ場に行って遊んだ日、お昼のお弁当を広げて海苔で包んだおにぎりをぱくついている。どこがどうというわけではないのだけど、そうだ、おにぎりの美味さはこれだったと、ぼくの記憶の蓋がめくれ上がった。おにぎりなんて、いまはスーパーやコンビニでたくさん売っている。たまに買って食べても、ありきたりの三食の中の一食に過ぎない。でもあの時代、地べたにしゃがんで食べるおにぎりは、この美味しさだった。
といわれてこの写真を見ても、いまの時代の人にはたぶん通じない。いや通じないかどうか、その体験を持っているぼくらに、それはわからない。でもさっき想像力といったが、いつの時代にもある生活感覚の底流の、末端の、いずれかの近似の経路を通して、そこにタッチする可能性はあるものと思っている」。

こうした、例えば「おにぎりの美味しさ」をそのまま追体験するような想像力の働かせ方が、いわゆる「歴史意識」というものに繋がるのだと思う。
「いつの時代にもある生活感覚の底流の、末端の、いずれかの近似の経路を通して、そこにタッチする」という想像力。

もう一箇所、こうした想像力が働いた、当時の空気がそのまま蘇ってくるような記述を抜粋しておく。蒸気機関車を取り上げた章だ。
「思い出を書いているときりがないが、すべてが重厚だった。旅の時間が重厚であり、だからみんな持っていく荷物も重厚であり、乗る人も見送る人も重厚な気持で、それらをまとめて牽引する機関車は、世の中にこれ以上重厚なものはないというほど、重々しく、黒々として、かすれた低温の汽笛をフッと漏らし、それが鉄の猛獣の吐息みたいだった。もうそれはたんに客車を引っ張る道具ではなく、人間の造った偉大な鉄の芸術だった。いや芸術という言葉は昨今では軽すぎる。偉大な鉄の神様だ。
だから働く人も乗る人も、全員がその黒々とした機関車を畏敬していた。荒ぶる力を秘めた巨大獣の、その逆鱗に触れないように、恐る恐る列車に乗り込んでいた」。

●2時間弱で読み終え、それから、高島屋の三省堂に寄った。中村うさぎ『うさぎが鬼に会いにいく』(アスキー 2007年)、中山康樹『超ジャズ入門』(集英社新書 2001年)を買う。
夕方から、毎月月末の恒例になっているメニュー撮影の仕事で、店に向かった。
夜は、テレビでK-1を観た。おれの興味が薄れたのか、試合がつまらないのか、最近ではほとんど惰性で観ているような感じだ。

2007-9-28 金 曇

2007-09-29 22:22:05 | DIARY
●午前中、女の子の面接代行の仕事があり、9時前には家を出た。名駅の喫茶店で、コーヒーを飲みながら、その子が到着するのを待った。しかし、約束の時間を過ぎても女の子は現われず、約束の時間を15分経過したところで電話をしてみると、「お客様の都合」で電話が繋がらなくなっていた。
すっぽかされるのは慣れているのでどうということはないが、しかし、もしかするとただ遅れているだけなのかもしれない。前にも、似たような状況で、ある女の子に2時間待たされたことがある。その女の子は、約束の時間から2時間後に、「すいません、“すこし”遅れちゃいましたぁ」と悪びれもせずに姿を現わしたのだった。
もうすこし待ってみることにして、鞄から昨日買った吉本隆明『よせやぃ』(ウェイツ 2007年)を取り出して、読み始める。

●吉本隆明のこうした語り下ろし、というか、インタビューをまとめた形の著作は、最近、あちらこちらの出版社から、毎月のように出版されている。話されている内容も、さほど違っているようにも思えない。ただ、もちろんインタビュアーや対話者がそれぞれ違っているから、同じようなことが語られていても、微妙にその焦点が違ったものにはなっている。それらのヴァリエーションを読み比べてみることで、吉本隆明の、ある意味わかりづらいところのある術語=観念について理解が深まって、ある時「ああ」と腑に落ちることがある。だから、同じような話が繰り返されていても、読んでいて「またか」という気分になることはなく、ちょうど螺旋階段を昇るように、読後必ず理解の階梯をいくつか上がっていることに気づく。月並みにいえば、読むたびに新しい発見があるのだ。

吉本隆明は、この本で、ある種の“革命理論”について、くりかえし語っている。
現在、人間を解放するうえで、資本主義も、社会主義も、超資本主義も、すべて「ダメ」だと吉本隆明は言う。
しかし、あらゆる党派的な運動がすべて失効してしまった現在、それでも、人間が現状に埋もれてしまうことなく生きていこうとするなら、それぞれ個々の人間が「構想力」をもつようにならなければならない。
そして、現在のようなハイテク社会では、特に運動という形をとらずとも、そのような「構想力」をもった人間が一定数以上増えれば、それだけで社会は変わることになる。
“それぞれ個々の人間が「構想力」を持つ”とは、どんなことか。「構想力」とは、どんな力なのか。吉本隆明は、「構想力」とは、「人間が理想の可能性を描き得る能力のこと」だと定義している。

「マルクスはもうちょっと簡単に、ひと暴れすれば資本主義から社会主義に行くというぐらいに思っていたんだけど、残念なことに後進国は先進化するためだけにしか、いままでのところ革命は起こっていないんです。先進国の革命はないんです。だいたい、どうやったらいいかわからないんですよ。誰に聞いてもわからないと思います。
だけどわからないでは済ませられないから、見当をつけて考えておくことは重要じゃないかと思います。あとは個々の場面でやっていく以外にやりようがないというか、『三人でもモデルは十分検討できる』というようにやって、その考え方の人数規模を広げていけばいいと具体的に考えていくよりしようがないと思います。人員の半数を占めたら、もちろん社会はそのまま変わってしまいます。
理屈から言ってそうですが、いまの先進民族国家は半数に近いところまで行っていますから、そんなに面倒な考え方にはならないで行くような気がします。ただし期間は相当長いと思ったほうがいいんじゃないでしょうか」。

しかし、「わからないでは済ませられないから、見当をつけて考えておく」と言われても、どうすればいいのかわからないではないか、と疑問が起こる。
吉本は、その疑問への回答として、「ある兆候に対してどう振舞うかとか、どう考えるかということだけが問題です」としている―「ここで黙っていればみんなパーになりますよ。そのときに右も左もヘチマもないし、思想も、職業とか専門というのもあまり関係ないし、ただ黙っていたらみんなだめになる」、そんな「兆候」を敏感に察知し、そのつど、その個々の「兆候」に対して、自分なりの“対処療法”を考えていくということである。
「構想力」の定義は、「人間が理想の可能性を描き得る能力」ということだった。こうした「構想力」をもたないと、「兆候」を「兆候」として察知することもできない。人間は、「理想の可能性」に照らして現状の歪みが感触しえるのだし、また、現状の歪みを感触して初めて「現状“のようではない”理想の可能性」を描く動機を得る。

「構想力というか、配慮というか、僕の文学上の言葉で言えば、『自己批判をどこかに含んでいる』という言い方をしますし、フーコーみたいな哲学者は『自己への配慮』とか『主体への配慮』という言葉を使っています。いわゆる主体性ということで、『産業は儲けることばかり考えていたら済むというものではない。利潤以外のものとして、自分への配慮を考えなければ、産業なんか発達していかないよ。発達した産業の構想力は持てないぞ』と言えるようにするべきだし、言うべきである。そう考えるべきである」。
―「構想力」の核には、いわゆる「主体性」がある。主体性とは、ここで言われているように、人間が一個の主体として、自らへの「自己批判をどこかに含んでいる」ということであり、「自己への配慮」がなされているということにほかならない。
そこには、「それでは、その『自己』とは、どんなものなのか」といった問いが、たえず前提とされるだろう。いわゆる「自意識」の問題である。

「自意識」とは、現在とはどんな時空なのか、私とは誰なのか、といった、人間にとって根源的な「自己」の意識のことである。「歴史」、「存在」への眼差しを繰り込んだ意識、と言ってもいい。しかし、根源的であるがゆえに、すっきりとわかりにくい観念でもある。
吉本隆明は、この「自意識」ということの在りようをめぐって、さまざまな角度から、いくつかの話題を語っている。そのうちいくつかを下に引用してみよう。「自意識」という観念のイメージがつかめるかもしれない。

「たとえば大正時代の自意識のことを言うと、多少進歩して明治維新とは違うわけですが、柳田國男という民俗学者と折口信夫という国文学者と、この二人はわりあいに自意識家じゃないでしょうか。
いわゆる国文学者というのは、それこそナショナリストという、ただそれだけですね。ナショナリストと思っていないナショナリストで、ほかのことはどうでもいいぐらい、そこにのめり込んでいる。だけど折口さんという人は、この人の知識、教養、考察力の基になっているのは何かよくわからないけど、日本における古典的な法、特に刑罰、犯罪法がどこから発生してどうなってくるかというところからやり出して、そういう研究をちゃんと論文化して持っています。古典文学もありますが、そういうことをやっているのはあの人だけですよ。普通に考えているのとは大違いで、そういうことをやっています」。

「啄木の『秋の風/我等明治の青年の/危機をかなしむ/顔撫でて吹く』という歌です。あの人得意の口語口調の歌ですが、この歌はよくないと思うんですね。なぜかというと、この表現の中には自意識が入っていないからです。つまり文学的あるいは芸術的に言えば『自分だけでもここは考えざるを得ないとか、考えるという要素が入っていないじゃないか。この歌は大きなことを言っているようだけどだめだよ』となるわけです。
でも、啄木の『空家に入り/煙草のみたることありき/あはれただ一人/居たきばかりに』の歌は、そのころ都会には空き家がよくあって、自分がなんとなくそうしたくなったから、その中に一人で入って、そこでタバコを吹かしてみたというものですね。
啄木が何を考えたかは言わないんですが、空き家に入って一人でタバコを吹かしたというイメージが伝われば、この人が何を考えたかというのがなんとなくわかるわけです。それが政治のことであるか、家族のことであるか、夫婦げんかのことであるか、金がないことであるか、そういうことは書いてないから何とでも解釈するのは勝手だけど、その種の自意識がここに働いていて、この人は空き家に入ってなんとなくタバコを吹かしてみたくなったと歌っているんだなということだけは文学的にわかる。これは自意識があるわけです。(中略)
自意識の問題というのはかくの如きものであって、いろいろな問題についてそういうことが言えるし、言いっぱなしとそうじゃないのとどこが違うんだという問題は、その違いに表れてきます。もしかすると他人にはわからないかもしれないけど、そういうものが『ある』『ない』というのは持続性というか、永続性というか、それに関係すると思います」。

(小泉純一郎が「郵政民営化」を問う解散総選挙に及んだことを受けて)「政治的見解がどうかというのは人によって違いますけど、政治家の態度としては、危機感を感じている自分をもろに、本気になって表に出してやっている。
『俺が感じている危機感は郵政民営化だ。交通・通信関係から末端の郵便局まで、これは巨大なコミュニケーションの問題で、それが民営か官営かということでは、自分は民営化が重大な問題だと考えている』ということも言っている。その見解に対しては否定的な人も肯定的な人もいるでしょうが、『政治家としての自己』ということで言えば、郵政民営化のとき小泉はすべてのことをやっているわけです。
それに対して郵政民営化なんてそんなに重要ではないというのは見解だからいいけど、『自衛隊の海外派遣とか重大な問題がほかにあるじゃないか』と言って、そのことばかり主張しているのは政治家としての意味もないし、政治政党としての意味もまったくないですね。その違いがたぶん選挙に表れていて、若い人はわりあいに理解力もあるし、精神活動も活発だから、その見解がどうであるかというよりも、小泉は政治家としてこれだけ本気になっているじゃないかというのがわかって、『もっとほかに重要なことがあるとか言って、自衛隊の問題とかを持ち出しているが、それは本気じゃないじゃないか。郵政民営化のために解散すると言っているのにほかのことを言っても、それは何も言っていないのと同じだ』と、こうなりますね。
政治家の問題としても、本人の問題として言っても、危機の内容はそれぞれ違いますし、保守的な人と進歩的な人で危機の順位や事柄が違うのはごもっともでいいけど、その主題に対してどれだけ政治家としてまっとうに本気になっているか、そうではなくてあらぬことを言っているかという段になれば、若い人にとっては政治的な見解が多少違っても『これは真面目だよ。小泉は本気になってやっているよ』と感じた方に票を入れるのは、選挙をやる前からわかっていたように、僕には思えました」。

●昼まで待って、けっきょく女の子は現われなかったので、その旨をクライアントに報告し、その後いったん家に帰った。
昼飯を食べ、食後、ベッドのうえに寝転んで、1時間くらい午睡した。今日は外はまた蒸し暑さが戻ってきており、すこし疲れてもいた。
2時過ぎ、再度家を出て、三省堂に入った。角田光代『三面記事小説』(文芸春秋 2007年)、阿満利麿『親鸞 普遍への道』(ちくま学芸文庫 2007年)、赤瀬川源平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 ―岩波写真文庫再発見』(岩波書店 2007年)を購う。

●喫茶店に入って、角田光代『三面記事小説』を読み始める。新聞の三面記事に題材をとった短編連作。
角田光代の小説は、前に『エコノミカル・パレス』を読んでいるので、これが二冊目になる。
石川忠司が、『エコノミカル・パレス』を論じる文章で、「金が減っていく」という恐怖を書く角田光代の筆致はほとんどホラー小説である、というような意味のことを書いていたのを、共感しつつ読んだ覚えがある。
現代日本に起こっている異様な感じのする三面記事を題材にとった小説ということであれば、角田光代の“ホラー小説家”としての真骨頂が発揮されるのではないか。そう見当をつけて購入したのだが、その予想は当たっていた。じつに陰惨で、読む者をしてロウでナーバスな気分にさせる、ナイスな味わいがある。
2編読んで、頭の調子がおかしくなってきたので、栄まで40分くらい歩いた。歩くと、クールダウンできる。
栄でK君と待ち合わせ、クライアントの会社へ向かった。あるソフトのレクチャー。2時間かかって、8時過ぎに終わった。
なんだか、ぐったりと疲れた。

2007-9-27 木 曇

2007-09-28 23:26:09 | DIARY
●7時過ぎに起床。11時までパソコンに向かって仕事をした。
昼過ぎ、家を出て、そのままジュンク堂へ入った。
車谷長吉『反時代的毒虫』(平凡社新書 2004年)、坪内祐三『新書百冊』(新潮新書 2003年)、吉本隆明『よせやぃ』(ウェイツ)の3冊を購入し、喫茶店で車谷長吉『反時代的毒虫』を読んだ。

●車谷長吉の対談集。対談集が新書で出るのはめずらしい。対談、鼎談の相手は、江藤淳、白洲正子、水上勉、中村うさぎ、河野多恵子、奥元大三郎、それに奥さんの高橋順子との「句会」が2編。
車谷長吉は、いつか読もうと思いつつ実現しえていない作家のひとりだ。おれはある作家に近づこうとするとき、その主要な作品からではなく、まずは周縁的な随筆や対談に手を出す癖がある。

この対談集では、江藤淳との対話が読みごたえがあった。
江藤淳が、日本語における「物」と「事」ということについて、次のように語っている箇所がある―「『もの』というのは、車谷さんが『物の怪』『物狂い』『物心がつく』などといわれたように、輪郭のはっきりしない、正体のさだかでないものをいうらしいですね。フワフワァーと何かがあるのは確かなのだけれど、しかしそれはただの気分かというと、そうではない。まさに『もの』なのであって、実体ではないかもしれないけれど、なにがしかの実体を含む、輪郭のはっきりしない、ある広がりでもあり、それが自分のなかに入ってきたときのやるせなさでもある。要するに、限定しにくい、輪郭を恒に曖昧にするものだと思うんです。それに対して『事』というのは同時に『言』でもあるわけです。『事』は『言』と同意義になるわけで、当然、輪郭がはっきりするんですが、『もの』は輪郭がはっきりしないからこそ、逆に文学的であり得るんでしょうね」。
これは、車谷長吉が、自分の小説は「書き手である私に『物』がくっついて、私の口、あるいは手を借りて、『物』がある物語を私に書かせる」と言うのを受けての言葉である。
車谷長吉は、「物狂い」のない小説などはつまらないだけだ、と言う。つまり、指し示せる実体のない、限定しにくいある広がり、「それが自分のなかに入ってきたやるせなさ」に突き動かされていない文筆などは、読むに値しないと言う。
小説は、「事」を書くものだけれど、しかし、ただ起こったことをそのまま書けば小説になる、というふうにはできていない。それは「私小説」においても同じことであり、作者はそこでただ現実の自分に起こった「事」を書いているわけではない。
「もの」に憑かれ、「もの」を書こうとして、しかし「『もの』をそのまま『事』として書くことはできないから」、そこに一つの仕掛けを設定する。江藤淳は、その仕掛けこそが、私小説における「虚点としての私」なのだと述べている―「それが、現実生活における『私』と文学における『私』との決定的な差」なのである。

●店を変え、車谷長吉『反時代的毒虫』を読み終え、さらに店を変え、坪内祐三『新書百冊』を読み始めた。
坪内祐三は抜粋の名手だ。熟練のDJが個々の楽曲をミックスして、フロアにうねるような流れをつくりだすように、坪内祐三は、地の文に的確な引用を的確に配置することで、読者がその文章の読むときのドライブ感をそこなわないように気を遣っている。

●桑原武夫による、竹越与三郎『二千五百年史』の紹介文を、著者が抜粋している箇所がある。そのまま孫引きする。

「こんにち歴史科学者は多いが、歴史家はきわめて少ない。いうまでもなく歴史は事実の学であって、事実の発見、その真偽の判別、その相互連関などを調べることを基礎的作業とする。しかし、そうした作業を実証科学的にまたは法則追求的におこなうだけでは、まだ歴史にはならない。歴史はつねに全的把握を必要とする。たとえ限られた時期の、限られた問題を扱うにしても、そこに全的把握の光がさしていなければ、歴史の部分品であって、歴史とはいえない。こんにち歴史書はきわめて乏しいのである。学問の細分専門化と精密化という美名が、こうした欠陥の存在を学者に忘れさせており、欲求不満に陥った読書人は、さすがにトインビーは偉いなどと思ったり、時代物大衆文学をひもといたりして、ごまかしている」。

●もう一箇所、清水幾太郎の読書法を紹介した一節から。

「(本の読み方には)スピードが必要だと清水幾太郎は言う。
著者というものは、『特別の遅筆家は例外として』、皆、『相当のスピードで』原稿を書いている。『頭の中を飛び交う無数の観念の間にひとつの秩序が出来たとなると、その途端に、観念の急流のようなものが動き始めて、それを文字に移す手の動きが間に合わないような、そういう気分の中で』、書く。だからこそ、『文章を貫く一筋の連続性』が生まれるのだと清水幾太郎は言う。
―『読書というのは、この「観念の急流」に乗ることである。乗るのには、相当のスピードで読んで行かねばならない。世の中には、速読主義を勧めたり、熟読趣味を勧めたりする人物がいるらしいが、そんな下らないことではない。著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである。その意味で、読書は、蕎麦を食うのに少し似ている。蕎麦というものは、クチャクチャ噛んでいたのでは、味は判らない。一気に食べなければ駄目である。すべての書物がそうだとは言い切れないが、多くの書物は、蕎麦を食べる要領で、一気に読んだ方がよいようである』」。

「頭の中を飛び交う無数の観念」は、きっと、ある「もの」を核にして、「ひとつの秩序」を形成する、というか、変成して一連の文章の「流れ」になる。
著者のなかで起こっているのは、そうしたダイナミックな精神の運動であり、それを追体験するのが“読む”という体験なのである。

2007-9-26 水 晴

2007-09-27 22:15:18 | DIARY
●昨夜は宵のうち、月を眺めながら、Iととりとめもなく喋ったり、うつらうつらしたり、ベッドで本を読んだりして過ごして、なんだかそうやって心地よくダラダラしているうちに、気づくと夜中の2時を回っていた。今日目ざめたのは6時過ぎだから、4時間くらいしか睡眠時間が取れなかったことになる。それでも身体がだるいということもなく、コンディションはまあまあいい。昨日からめっきり秋らしく涼しくなり、その気候のおかげで体調がいいのかもしれない。

午前中は、家で、パソコンの画面に向かって過ごした。すこし仕事をして、日記を書いて、時々ポン太を猫じゃらしでじゃらしたりしているうちに、昼になった。

●午後、大須まで歩き、喫茶店を2件はしごして、阿満利麿『法然の衝撃 ―日本仏教のラディカル』(ちくま学芸文庫 2005年)を読んだ。
著者のことは知らない。自分がなぜこの本を買ったのかは憶えていないが、おれはときどき法然、親鸞のラディカルな言葉を欲するような心持ちの時があるから、ちょうどそんな時に本屋をうろついていたのだろう。
読み解くのが面倒で、言文一致以前の古典は避けて通ってきたので、法然、親鸞の著作を直接読んだことはない。吉本隆明や山折哲雄など、現代の著述家の書いたものを通して、彼らの思想、姿に接してきた。最近では、法然、親鸞のものであれば、多少表現にぶつかるところがあっても、注釈さえあれば読み解けるような気がしているから、今度何冊か読んでみようと思っている。

著者は冒頭で、宮古島を訪れたときのことを報告する。そのなかで著者は、宮古島では今まさしく仏教が受容されようとしているところであるようだ、と指摘している。
その宮古島の仏教化のはじまりに触れることから、「私の思いは、二つの方向へのびる」と著者は書いている―「一つは、一挙に古代へさかのぼり、仏教伝来当時、仏教がどのように受容されたかを知ること。二つは、仏教儀礼とユタの両者を必要とする問題から、神と仏の共存という、日本宗教史を貫く信仰形態をあらためてふりかえってみること、である」。
著者は、この本ではまず、日本で仏教が受容されるとき、それ以前からあったアニミズム的な自然宗教の神々と、仏教の仏が、どう折り合いをつけ、習合していったのか、その様子を推測し描出している。
著者はその作業を、「法然の革命性を明確にとらえるための前提なのである」としている。

●「法然の革命性」とは何か。それはどのようにラディカルなのか。
著者は書く―「法然の革命性とは(中略)、<宗教の絶対的価値>(本願念仏の絶対至上性)を主張したところにある。本願念仏は、倫理道徳、政治や経済といった、この世の価値の一切に左右されるところがない。善人であろうが悪人であろうが、金持であろうが貧乏人であろうが、修行を積んだ人であろうが破戒の人であろうが、それらは、本願念仏による往生を妨げる原因には決してならないのだ」。
ここに、日本人にとって、初めての純粋な<信>が成立した。そのことが<革命>であり、<ラディカル>なのだ。それまでの日本人にとって、仏は神と習合して存在するものであり、日本人はずっと、いわば「漠然とした神格を漠然と信じ」るという態度を取ってきた。宗教の領域と世俗の倫理道徳、政治、経済の領域(つまり共同体の領域)との境界は曖昧なものでしかなかっただろう。そうではなく、「きわめて明白な原理を、わが身のあり方にひきあてた上で、選びとる」、だからそこに「明確な決断が要求され」るといった、そのような宗教意識は、法然の出現によって、(民衆レベルでは)初めてもたらされたものであった。

●凡夫は、いかなる自助努力によっても救われることはない。むしろ、自助努力に頼るのは、凡夫としての自覚が足りないがゆえの迷妄、傲慢でしかない。
たとえば、いわゆる「善人」と呼ばれる人の傲慢―「『善人』は、世間のさまざまな善の実践には自信がある。おのずと何ごとにつけても、自らの力を判断の基準とする。本願念仏についても、そこにこめられている阿弥陀仏の慈悲を理解せず、自分のできる善行の一つとみなしてしまっているのだ」。

「法然自身は、心をしずめ精神を集中して浄土のさまを観想することもできた人である。だが、そのように精神を統一し、深い瞑想に達すれば達するほど、人間の心の、底知れない深みを知ることになる。そこには、我執に発するあらゆる欲望がうずまいている。煩悩の発見といってよいであろう。現代風にいえば、無意識の自己の発見といってもよい。私の中には、私でさえ知ることができない、荒れ狂う私がひそんでいるのだ。それは、縁があればかならずや姿を見せる。少々の精神統一ぐらいで、それをあらかじめ統御することはむつかしい」。
自分とは、徹底して自分の意のままにはならないものである。そうした透徹した自己認識、凡夫の自覚がここにある。
自分はどこまでも凡夫でしかなく、いかなる自助努力、精進によっても、その限界を超えることはできない―「凡夫の自覚とは、たんに、愚かものということではない。自分で自分に戦慄することである」。
「自分で自分に戦慄する」こと、“自分という他者”への畏れ、人間という不可思議な存在への畏れ、いわば自力への徹底した絶望を覚えること。そのことがあって、はじめて、「どうしても念仏でなければ私は救われないのだ、というせっぱつまった自己認識」が生まれる。

●徹底した自力への絶望を通して、自らを空しくしたところに、“浄土”の光がさしこんでくる。阿弥陀仏の慈悲が注がれ、凡夫はその他力によって救われることになる。
なぜ、そのように信じられるのかは、わからない。昨日読んだ山折哲雄の本にもあったように、おそらく宗教者としての法然、親鸞は、その身体の体験レベルでの信をもっていたのには違いない。
例えば、キリスト教における神秘主義の系譜をたどれば、そこでも同じように、徹底して自分を空しくすることで、神秘的な神との合一体験を得るという事例が、いくつも見つかるだろう。むしろ、自己の放擲が神秘的な合一体験を呼び込むという事態は、神秘体験の普遍的な定理ともいうべきかもしれない。

法然においては、我々が生きるこの世界と浄土とは、けっして交わることはない。法然、親鸞が展開するロジックは、徹頭徹尾の二元論である。そうであるなら、やはりこの世界に住まう凡夫である自分は、けっして、浄土に行くことはできないということになるだろう。
浄土とは、いわゆる“あの世”といったものではない。死後の生などは、存在しないのだ。それでは、浄土とは、どんな観念なのか。それは、“他界”の観念ではなく、ある“特異点”、そこから救いの光が逆照してくる“特異点”の観念なのである。
バタイユに、「エロティシズムとは、死に至る生の昂揚である」という逆説的なアフォリズムがある。バタイユはそのアフォリズムを展開して、「死を前にしての歓喜の実践」という凄まじい思考=非―知の領域へと踏み込んでいく。浄土を信じるということは、あるいは、バタイユのそうした思考=非―知の領域への踏み込みに通底するようなものであるのかもしれない、とも考えた。

●夕方から事務所に行き、S君に、あるソフトの操作法についてのレクチャーを受ける。金曜日には、今度はおれがクライアントの担当者に、そのソフトの扱い方をレクチャーしなければならない。めんどうだが、仕事なので仕方がない。

家に帰ると9時前。久しぶりに激しい空腹。Iも空腹を抱えておれの帰りを待っていた。空腹だから、というわけではないが、Iのつくったつくねスープが身体に染み入るように美味しかった。

10時過ぎにはベッドに寝転び、そのまま眠ってしまった。

2007-9-25 火 晴

2007-09-26 11:14:57 | DIARY
●昨日は、10時過ぎには眠りに就いたのだが、ものすごく厭な夢を見て、12時過ぎに一度目が覚めてしまった。
目が覚めて、夢の内容はすぐに散ってしまったのだが、厭な後味はいつまでも残って、その後なかなか寝付くことができなかった。
胸の辺りが不穏な心地がして、不安が亢進しているのが分かった。
ただ、おれは、不安のなかに一人佇むようにして過ごすことが、それほど耐えがたいことだとは感じない。
じっと息を潜めていると、不安のなかに、微かなゆらぎのようなものが感知できるのだが、その光の揺籃を眺めるのは、むしろ、そのときしか味わうことのできない妙味がある。

●夜はそんなことがあったが、それでもその後すぐに眠りに就くことができ、朝はすっきりした気分で目が覚めた。
不安が消えたというわけではない。しかし、朝の光のなかでゆらぎが増幅して、胸のうちはマーブル状に混濁し、不安はもはや不安とはいえない、ほとんど昂揚に近いようなものになっている。

今日はコンディションがいい。昨日の夜、涼しかったからだろうか。中秋。まだ暑くなりそうだけれど、でも朝晩は、すっかり秋の気配が濃くなってきた。うれしい。

●午後。マリオットホテルのカフェで、悪徳弁護士の秘書をやっているZ君と会い、仕事の話をし、その後30分くらい雑談した。
「Mさんは、怖くなること、ないんですか?」と訊かれる。
「Z君はあるの?」と訊き返すと、
「ありますよ。完璧だ、どうやってもばれるわけはない、ってところまで詰めてるつもりなんですけどね。それでも、ほんとうは、完璧なんてこと、あるわけないですしね」
「そりゃそうだ。おれも、でも、同じだよ。ただ、不安に慣れてるだけのことだと思うね」
それから教訓めいた話を、すこしした。
悪事を働く時は、自分が悪事を働いてるんだという自覚を失わないほうがいい。弱い人間は、自分を正当化しようとしてしまう。そうすると盲点が広がる。自分に都合の悪い情報は見ないようになってしまうからね。悪いことをしているという自覚を持ちつづけるのは、普通の人間には、けっこうしんどいことで、だから、中途半端な悪人は、すぐに尻尾を出す。無意識のうちに罰せられることを望むようになるんだな。
「Mさんは、どうなんです?」
「おれは、真正の悪人だから大丈夫。まぁ、きみのところの先生に比べれば、可愛いもんだけどね」。

●午後、遅く。ドトールに移動し、山折哲雄『悪と往生 ―親鸞を裏切る「歎異抄」』(中公新書 1999年)を読んだ。
歎異抄は、親鸞の弟子、唯円による聞き書きという形をとった著作である。
山折哲雄は、分析家である唯円は、知的な解釈に寄りすぎることにより、親鸞の実像を歪めてしまっているのではないか、と論を立てる。唯円は、『歎異抄』において、知らずして師親鸞を裏切っているのではないか。唯円=ユダ。山折哲雄は、親鸞自身が記した他の書物を参照しつつ、それらと『歎異抄』との決定的な違いを指摘する。
『歎異抄』で簡潔に編集された親鸞のアフォリズムには、簡潔であるがゆえに、その語りの流れが捨象されている。親鸞の言葉は、ある種の宗教的昂揚にドライブされた語りの流れのなかでこそ、その個々の断言が生きてくる。唯円は、その流れを切断し、編集し、そのことで、親鸞の像を解体してしまった。裏切りといっても、唯円に底意があったわけではなく、唯円の宗教家としての限界が、結果的に親鸞の像を歪めてしまうことにつながってしまったのである。

山折哲雄は、唯円の限界が象徴的に集約されているポイントとして、唯円が親鸞の「無上仏」体験にまったく言及していない、という点を挙げている。そして、唯円は「無上仏」という言葉の真の意味を理解することができなかったのではないか、と疑義を呈している。
「無上仏」体験とは、宗教的昂揚からくる一種の“神秘体験”で、念仏をくりかえすなかで、自らと阿弥陀如来が一体化する、という体験のことである。
山折哲雄は、親鸞の言う「無上仏」体験は、親鸞に固有のものではなく、例えば、親鸞の師法然の言う「三昧発得」、ほぼ同時代の宗教家道元の言う「心身脱落」も、同じ体験のことを指しているとしている。
「それらの身体感覚は、いずれも自己と宇宙との同一、自己と仏の融合の経験を表現したものにほかなら」ない、と山折哲雄は書く―「そこにみられるのは、自己の心が身体を媒介にしてある超越的な価値へと転移していく運動である。そしてこの同化へのプロセスは、自己が自己から脱けでていく一種の脱我、法悦の感情に満たされている。そのエクスタティックな脱我の感覚が『仏』との新鮮な邂逅を実現するのである」。
そして、山折哲雄は、この時代を底流する横断的な水路も、『歎異抄』の本文世界には導入されることがなかった、と指摘する―「親鸞が同時代の法然や道元ととともに共有していたであろう思想の水脈が唯縁に分断された『歎異』の領域に流れ入ることはないのである。分析家、唯円がそのような視界をあらかじめ閉ざしてしまっていたからだ。親鸞の信仰体験を物語る場が、唯円が採用した集団的綱領の箇条的文章へとその席を譲ったからにほかならない。『歎異抄』というテキストから生き生きした座談の雰囲気が消し去られたのである。あの『聖書』が実現しえていたはずのイエスをめぐる『物語性』が『歎異抄』のテキストから奪われてしまっているのだ」。

●山折哲雄はここで、親鸞の思想がはらむ可能性を、理路を徹底することで突詰めていく、という、例えば吉本隆明『最後の親鸞』におけるような試みをしようとしているのではなく、知的な理解からはこぼれおちてしまわざるを得ない、親鸞の宗教家としての身体性をとらえようとしている。

山折哲雄は、この本を、オウム真理教のサリン事件が起こったのを発端に書こうと思ったと書いている。
オウム真理教の事件に関わらず、人が犯罪、悪を裁くときの“知的”な眼差しについて、山折哲雄は人間存在というのは、そんなふうに“知的”に“理解”できるものなどではない、と書く。
人がこの種の犯罪、悪を知的に理解しようとするとき、「犯行にいたるまでの心理的動機の解明、ついでその社会的背景の分析、最後に精神病理的な診断、という三段階の推理パターン」すなわち、「『犯罪』の心理学的還元、社会学的還元、精神医学的還元」の「三種還元」が適用される。
しかし、そんな分析によってその人間の何がわかるというのか。
「三種還元にもとづく固定観念に底流するものは何か。それは、人間とは究極的には了解しえない存在かもしれないという怖れの感覚の完全な欠如、である。人間というこの未知なる存在の前に、まず辞を低くして心を澄ましてみようとする謙虚な姿勢の完全な弛緩状態、といってもいいだろう。それはひょっとすると、人間とは本質的な理解可能な社会的生物であるとする、傲慢なヒューマニズムの裏返しの意識なのかもしれないのだ。
人間、この不可思議なるもの、この未知なもの、という認識が、そこにはかけらもみられないのだ。かつて哲学や宗教は、このような認識をめぐってそれこそ千年を超える思考の試行錯誤をくり返してきたのである。そのような血の滲むような試行錯誤の遺産をほとんど顧慮することなき言論がいまわれわれの社会に横行している。しかしそのような言説がほんとうに人びとの心の奥底にとどくことなど、ほとんど望めないのではないだろうか」。

親鸞を、思想家としてではなく、宗教家として捉えかえすということのなかには、人間存在がけっして逃れることのできない深い闇の領域と、どう向き合っていけばいいのかという問いがはらまれている。その意味で、これは、単にアカデミックな議論を超えたアクチュアルな問題を提起している本でもある。

●夕方、中古レコード屋で、ビリー・ヴォーン楽団のコンプリートベストを手に入れ、夜はずっとそのCDを流していた。
Iが月見団子を買ってきたので、食べながら、お月見をした。
それから、眠るまでのあいだ、ベッドのうえで、古今亭志ん朝『志ん朝のあまから暦』(河出文庫 2005年)を読んだ。

2007-9-24 月 曇

2007-09-25 11:52:35 | DIARY
●昨日に引き続き、終日眠気が漂う一日だった。

近くにマックスバリュがオープンしたので、午前中、Iといっしょにさっそく行ってみる。オープン初日ということで、ものすごい人手だった。入場制限が行われていて、入るのに30分並び、さらにレジで1時間並んで、ようやくおからを買うことができた。
おからを3袋カゴに入れ、他の棚も見てまわった。2日前に1週間分の食材の買出しに行き、今は冷蔵庫がほぼ一杯の状態だったので、あまり買い込むわけにはいかない。今日は、とりあえずの視察と、おからを買いに来たのだ。おからなどどこにでも売ってそうなものなのだが、なかなか売っている店がない。マックスバリュなら売ってるかも、と行ってみたら、やはり売っていた。それにしても、おからを手に入れるために1時間30分の行列は、ちときつかった。

帰りにデニーズに寄り、スープと、パフェを食べて帰った。

●午後はずっと昼寝をした。2時頃から5時頃まで、たっぷり眠った。たっぷり眠ったにもかかわらず、もうひとつ頭がはっきりしない。
夕方、赤瀬川源平・東海林さだお・奥本大三郎『うまいもの・まずいもの』を読む。3人のとりとめもない会話の流れが心地よい。

夕食は、昨日の蟹といっしょにとどいたホッケ。


ホッケを焼いているあいだずっと、ポン太が鼻をクンクン動かしていた。

2007-9-23 日 曇

2007-09-24 20:28:37 | DIARY
●昨日もあまりいい眠りではなかった。午前中、午後を通して、うとうとと過ごし、合間にポン太と遊んだり、本を読んだりする。
『怪』の最新号を隅々まで読み、夕方、Iと散歩に出た。
ブックオフで、本を何冊か買う。赤瀬川源平・東海林さだお・奥本大三郎『うまいもの・まずいもの』(中公文庫 2006)、川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』(新潮文庫 2006)、嵐山光三郎『芭蕉紀行』(新潮文庫 2004)。
夜は、Iが楽天で取寄せたズワイガニ、毛ガニを食べる。1時間かけて、黙々と、解体し、身をすすった。



2007-9-22 土 晴

2007-09-23 21:20:17 | DIARY
●クーラーを消すと蒸し暑くて目が覚め、クーラーをつけると寒くて目が覚める。そんなことを繰り返していたら朝になってしまった。昨日は完璧なコンディションだったのが、今日はまた頭が眠気に濁ったようになっている。

●午前中、昨日買った(日記に書くのを忘れてしまったが)四方田犬彦『人間を守る読書』(文春新書)を、ベッドに持っていき、寝転んで読み始める。
四方田犬彦の著作は、たまに読むのだが、読んで知的に興奮したという覚えがない。つまらないといえばつまらないのだが、しかしではなぜ読むのかというと、四方田犬彦の本というのはどれもこれも読む前は面白そうに思えてしまうのである。本には佇まいというものがあって、読んで面白そうな本は、本屋に並んでいる時点でそれとわかるのだが、四方田犬彦の本というのはいかにも面白そうな佇まいをしているのだ。その直感に惹かれて購い、読み始め、読み進んでいき、そしてけっきょく最後まで読んでしまう。

●「書物は情報の束ではないのです。書物というのは何かを伝えようとする意志なのです。何かを他の人に向かって話しかけようとする声が書物なのであって、無機的に情報がずらっと並んでるものではない。そこがインターネットと決定的に違うところです。何かを人に告げ知らせようとする意志、または情熱が書物をつくっているのだと思います」。

「『映画史』のゴダールがいうように、歴史意識は、事物の素朴な列挙からではなく、衝突のモンタージュからのみ生まれるものなのだ」。

●うつらうつらしながら読み進め、昼からは、仕事でクライアントの会社に向かった。2時間弱で打ち合わせを終え、高島屋に寄り、Iに頼まれていた野菜類を買って帰った。
冷蔵庫には、もう何もない。高島屋で買ってきた野菜類を収め、今度はIとユニーへと向かった。肉類、乾物類、調味料類を買い込み、冷蔵庫を食材で埋めた。これで一週間はもつ。





2007-9-21 金 晴

2007-09-22 21:32:43 | DIARY
●6時過ぎに目が覚める。昨日は10時には眠りに付いたので、睡眠は充分とれている。ひさしぶりに完璧なコンディションだ。すぐにパソコンに向かって、昨日やりそこねた仕事にかかり、途中で朝飯をとりつつ、昼までずっと集中力が途切れなかった。

●昼過ぎ、家を出て、アル・アビスでランチをとりながら、昨日読み残していた川上弘美『真鶴』を読み終えた。

●店を変え、石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)を読み始める。石川忠司の著作は、以前に『極太!!思想家列伝』(ちくま文庫)を読んでいて、これが二冊目になる。その『極太!!思想家列伝』は、解説を保坂和志が書いていて、石川忠司の批評の面白さは、彼が「『書く』なんかそっちのけで、まず全身を投げ出して『読む』をする」ところにある、と書いている。

「『読む』という行為は、本質的にはスポーツをスタジアムで観るのや音楽をコンサートホール会場で聴くのと同じ一回性の出来事であって、事後的にも確認可能な論旨や筋の流れをただ追うことなんかでは全然なく、文章に紛れ込んだノイズにまで注意を行き渡らせて、その歪みや唐突さに出会って、驚いたり嘆息したり笑ったりすることで、そうすることで『読む』は評論家が陥っている事後的で硬直したもっともらしい時間から飛び出して、小説家や思想家たちが現に書いている時間にダイブすることができる。
誰よりも本人が認めているとおり、石川忠司は書くことが遅い。というかほとんど書かない。それは「読む」に全力を傾けるからで、それゆえ彼はノイズまで聴き取って、書き手が持つ形のない核を掴み出す」。

この『現代小説のレッスン』においても、石川忠司は、「小説家が書いている」、まさにその時間に「ダイブ」して、「書き手が持つ形のない核」をヴィヴィットに掴み出している。

●例えば石川忠司は、村上龍の描写の特異さ、素晴らしさを、こんなふうに掴み出してみせる。

「『描写』がそもそも物語の流れを堰き止め、『もしかすると未決のままこわ』してしまう危険と裏腹なのはどうしてか。まず物語とは畢竟『旅に出る』『無頼漢と戦う』『お姫様を救出する』などの大きな行為、およびその大きな行為が下位区分として従属させる『旅籠に泊まる/旅籠から出発する』、『剣を鞘から抜く/(格闘後)剣を鞘に収める』などの(主体的な判断・反応をも含む)小さな行為、この両者が絡み合って織りなす『行為の連鎖』(ロラン・バルト)にほかならない。こうした連鎖を支配しているのは契機や因果や持続の論理、すなわちそれぞれ不均質なかたちで複雑に分岐していくのであれ、ともかく物語を前に進める『時間』にかかわる論理である。一方『描写』は、右の行為群が登場人物たちによって行われる環境=バックグラウンドやそのときの彼ら(彼女ら)の風貌とか衣装、そしてやはり彼ら(彼女ら)が見聞きしたものを静止画像として、ゆえにまとまりよく克明・精緻に記述しこちらは明らかに『空間』にかかわるので、増殖した『描写』は時間的な論理と対立し、必然的に物語の流れを堰き止めるまでに至るのだ。
村上龍においてはまったく異なる。まずそもそもこの人は人間=主体的契機と<知覚作用>とを分割していて、ゆえに語り手=主人公は自ら<知覚>した物事に対し、行為と感情の両レベルにわたって何の反応も示さない。つまり村上龍の小説には物語の展開・冒険を司るエキサイティングないわゆる『行為』が存在しないのであって、では彼が現に記述している『行為』とはどんなタイプのものなのか」。

石川忠司は、『五分後の世界』を例にとり、村上龍が記述する「行為」とは、つまり「ガイドの行為」のことである、と論証する。
「大体、『五分後の世界』みたいなSFは、例えば小田桐(主人公)がアンダーグラウンドの命運を握って彼の『行為』がその世界の危機を救うとか、普通そんな展開を辿らないか?というか、小説でこの手の舞台が用意されたら普通いやが応でもそんな展開になっていかないか?ところが小田桐はまさしく一介のガイド以上の存在ではなく、彼の出現はアンダーグラウンドの体制に一切合財何の影響も与えない。彼がいようといまいと、生きようが死のうが、またもといた世界へ戻ろうとここにとどまろうと、アンダーグラウンドにとってはまったくどうでもいい問題なのだ。ここで小田桐は気象観測用バルーンにも似た、彼の本体から分離した<知覚作用>を引きずって、本来的=主体的な『行為』を脱落させたまま目新しい土地を彷徨うだけ(後略)」。

そんな村上作品の「行為」の特異性が、「描写」のレベルにも影響を与えている、と石川忠治は論を進めていく。
「村上龍における『行為の連鎖』はガイド=語り手の歩みや足どりと正確に一致し、その目的は主人公を物語の真っ只中で活躍させることではなく、読者(およびときには語り手の見込んだ特定の登場人物)にとって未知の『観光名所』へと彼ら(彼女ら)を案内することに絞られている。語り手は読者=ツアーに参加した客を引き連れさまざまな『景勝地』を訪問しながら、そこで同時に当の場所にまつわる事項や事跡の解説=『描写』を行うのであって、つまり村上龍の『行為』と『描写』とは、通常の場合のように一方が『時間』、他方が『空間』と、それぞれ異なる領域に属して反発し合ってはいない。ここで『行為(案内)』と『描写(解説)』は連続的に接続されていて、まったく自然に前者から後者への移行が可能になっていることが重要なのだ。
すると『描写』は、もはや『行為』の流れを邪魔したり阻害したりする空間的なものではなくなっているだろう。前のセンテンスでは『(村上作品の)語り手は読者=ツアーに参加した客を引き連れさまざまな「景勝地」を訪問しながら事項や事跡の解説=「描写」を行う』と言った。しかしより厳密には、『語り手の「景勝地」への訪問行為それ自体が同時にその場所の解説=「描写」になっている』と言うべきだ。語り手の『移動』や『体験』イコール『描写(解説)』なのであり、つまり村上龍においては『描写』は『行為』にすっかり従属し、呑み込まれ、『行為』と同化し、本来空間的である性質が見事に時間化されている」。

「通常の小説の場合、物語の流れを妨害しかねぬ『描写』の長大さは巧みに避けられ、代わりに観念的な『意味』に頼って適当に切り上げるのが常である。つまり戦闘シーンならば、最終的には『彼(彼女)は勇敢に戦った』という単一でまとまりのよい『意味』に還元できるであろう、観念的な記述のヴァリエーションをいくつか積み重ねる―村上春樹や舞城王太郎の『描写』は結局そんなふうにできている―だけで済ますわけだ。
村上龍の『描写』にはその手の観念臭=『まとまりのよさ』、すなわち空間的に整頓され秩序だった感じはまるでない。物語が時間的進行の中で次第に複雑さを増すように、戦場という場はやはり時間の中で刻々と複雑な変化を見せ、そしてこの変化は一つのシーンの総体=まとまりが別のシーンの総体=まとまり(単位)へときっちり変わっていくのではなく―それならば従来の空間的な『描写』で対応可能だろう―、ある部分に新たな思わぬ要素がさり気なく混入しているかと思えば、しかし別の部分にはもっと大胆に混入しているといった具合で、そんな微妙に不均質な変化を捉えるため、村上流はシーンの各部分にふさわしい視点のピント、角度、色遣いなどをめまぐるしく変え臨場感を醸し出す」。

「村上龍は、『アクション』とは人間の動作の逐次的・機械的な連続でできているのではなく、またアクションを行う当事者の『リアル』な実感のたぐいが重要なのでもなく、それは徹頭徹尾、多様にピントの合わされた多角的なショットの不連続的で飛躍的な連続によってできているのだと正確に理解しているのであって、でもそんな画像的に思考可能な人間があんな『味のある』映画を撮り続けているのはどうしてだ?誰がピーター・フォンダの空飛ぶシーンなどを好き好んで見たいと思うか?」

●この本で、石川忠司は、村上龍、保坂和志、藤沢周、高橋源一郎、村上春樹、阿部和重他様々な現代日本の小説家たちの「形のない核」を掴みだしている。
そして、それを個々の作家論としてバラバラに論じるだけでなく、それらの作家たちが、現在文学を書く=読むということが孕む“ある共通の課題”にどう対処しているのか、といった、ひとつのリニアな展開を設定し、その展開に沿って論じていくという力技を成功させている。
その、「現在文学を書く=読むということが孕む“ある共通の課題”」とはどんなものか。それは、「文学の“エンタテイメント化”(この用語を、石川忠司は、吉本隆明の『ハイイメージ論』から借りた、と言っている)をめぐる課題である。

「結局、純文学の『エンタテイメント化』とは、活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性、言葉を換えれば、物語の豊かさを目指しつつ活字に踏みとどまる方向性であって、必然的に二重の課題を背負っている。一つ。それは活字が話し言葉の豊かさと対抗するために生み出した『内言』や『描写』や『思弁的考察』を蔑ろにしてはならない。つまり、単純に物語へと回帰してはならない。いわゆるエンタテイメント小説のほとんどは、作品から『描写』と『思弁的考察』をごっそり削り取り、『内言/内省』だけはほどほどに残すのだが、しかしそうした作業は小説ジャンルを真に『エンタテイメント化』したのではなく、たんに『スカスカ』にしただけなのではないか。
二つ。それは、まともに物語るためにはあくまでも『言葉のさまざまな位相』を必要とするという、いわば活字の条件=『運命』を厳密にふまえた上で、なおかつ『内言』のたぐいを果敢に『排除』もしくは訓致・『抑圧』していかねばならない。以上の綱渡り的プランがうまく達成できたとき、純文学はかつて物語(話し言葉)に宿っていたようなストレートな痛快さ、明朗な喜び、しみじみとした深さなどを、活字媒体においてもふたたび回復できるのではないか」。

●本を読み終え、夕方6時過ぎには家に帰った。家に帰ってからは、またパソコンの前で、仕事にかかる。今日はコンディションがいいから、どれだけつまらない仕事でも、つまらないからと集中力が途切れたりはしない。サクサクとすませ、夜は、ポン太と遊んで過ごした。

2007-9-20 木 晴

2007-09-21 22:27:56 | DIARY
●昨日は泥のように眠った。眠りの勢いが強すぎて、夜中に一度目が覚めてしまったのだが、その後またすぐに眠りに落ち、朝まで目ざめなかった。しかし、どうも、あまり眠りの質が良くなかったようで、まだ疲労が取れきっていない。
午前中仕事にかかるものの、毎日のルーティンワークが終わったところで、持久力が途切れてしまった。本当は、今日やるべき仕事がまだ残っていたのだが、取り掛かるのがひどく億劫に感じて、「明日でもいいか」とベッドにゴロン。そのまま1時間くらいゴロンゴロンして過ごした。

●午後、県図書館まで歩く。湿気が高くて、Tシャツが汗びっしょりになった。2階の雑誌のコーナーから、『文学界』10月号を取り出して、机に向かった。中原昌也と青山真治の映画『サッド・バケイション』をめぐる対談を読んだ。

●「シーンが頭に残っているのに、どんな入り口でこの世界に入っていったのか、全く思い出せない。でも、これこそが映画的体験でしょう」(中原昌也)。
例えば、おれにとって、黒沢清やクローネンバーグの映画は、そのほとんどを何度も見返し、ほとんどすべてのシーンを覚えているにもかかわらず、その「全体」をまとまりよく思い出すことができない。まさにそこで、おれは映画的体験を味わっているのである。

●強烈な眠気に抗えず、机に突っ伏して、30分意識を失った。クーラーで汗が冷えて、身体が冷たくなり、起きてから何度か鼻をかんだ。それでも、眠ったら、すこし頭がはっきりした。
佐野元春『ビートニクス コヨーテ、荒地を往く』を読み継ぎ、読了した。
佐野元春によるいわゆる“ビートニク”たち(とその周辺にいた人たち)へのインタビュー。アレン・ギンズバーグ、グレゴリー・コルソ、ケン・キージー、ローレンス・ファリンゲッティ、アン・ウォルドマン、マイケル・マクルーア、デヴィッド・アムラム、ハル・ウィルナー、エド・サンダース、レイ・マンザレク、ゲイリー・スナイダー。

●彼らの政治的な発言に対しては、愚直な左翼性を感じてしまうことが多い。彼らの言動は、“世界を変えるため”には、もはや充分な有効性を失ってしまっているのかもしれない。
それでも、彼らの生への態度は、あいかわらずその魅力を失わないでいる。
佐野元春が書いているように、「亡びに向けて反抗すること、破滅から脱出を試みることではないだろうか。疑問を持ち続けること、眼や耳を鋭敏に働かせること、充実した『個』に向けて絶えまなく探求を続けること、変化と反復のうちに、自分の存在を確認すること。望みはたったひとつ、自分自身でいたいだけ」といった生への態度。
世界は、個々の人間が主体的に制御できる規模を超え、ほとんど脅威や暴力、滅亡と同義の言葉となった。それが現代という“時代=世界”だ。個々の力や意識がどれだけ集まったところで、もはや“世界”には届かないのだろう。
しかし人間ひとりひとりは、「『個』として充実する」という望みを捨てることはできないだろうし、また、捨てるべきではない。
個としての人間は、もはや“世界”を変える権能は持ち得ないけれど、しかし、“世界”のなかでバラバラに散らばった「個」としての人間同士が、再び出会い、共に何かを始める可能性は失われていないのだ(あるいは、そのことが、“世界を変える”ということなのだろうか?)。

●佐野元春がグレゴリー・コルソに、「詩を書くことの他に、何かやっていらっしゃいますか?」と訊く。
グレゴリー・コルソの答―「いや、何も。俺は働きたくない。くだらないことはしたくないんだ。詩を書くだけ。でも、わかる?それは、けっこう問題なんだ。詩っていうのは二四時間、机に向かって書くようなもんじゃない。それで怠け者になっちゃうってわけさ。怠け者になっちゃった時に何をするか―女の子を追っかけたり、ドラッグをやったり、そういうことになる。だからね、詩っていうのはすごく危険なものなんだ」。

●次いで、川上弘美『真鶴』(文芸春秋)を読み始める。かなり以前に買って、そのまま放置してあった小説だ。6章分、201ページ読み進む。

夜はテレビのバラエティー番組を眺めて過ごし、10時にはベッドに入った。すぐに眠りに落ちた。