極薄特濃日記

無駄の2乗、無駄の3乗、無駄の4乗、無駄の5乗、…懲りることないくりかえし。

12月28日(金) 雨

2007-12-29 12:45:51 | DIARY
●11時前に起きて、午前中はパソコンに向かって仕事をした。あっというまに昼。家を出て、昨日買ったCDを聴きながら、名駅に歩いた。ドトールでコーヒーを飲みながら、『SPT』01を読んだ。
180円のコーヒーで1時間半粘り、最後の戯曲は読み残して読了した。

りそな銀行に行って残金を確認する。某所からの振込み60万円があったようだ。ちょっとリッチな気分になる。15万円引き出した。

●<ジュンク堂>に行き、前から読もうと思っていてその機会を逸していた岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社 2007年)を手に取った。『SPT』04で岡田利規のインタビューが掲載されていて、数日前、それを興味深く読んだところである。
“社会学・社会問題”の棚の辺りで、岩村暢子という人(アサツー・ディ・ケイ200X年ファミリーデザイン室というところで社会調査の仕事をやっている人らしい)の『普通の家族がいちばん怖い ~徹底調査!破滅する日本の食卓』(新潮社 2007年)という本が目に留まった。帯に養老孟司の推薦が引かれていて、そこに「S.キングよりも怖かった」とあり、興味をそそられたのだ。
2冊を購入して3500円。

カフェ・ド・クリエに行き、不味いコーヒーを飲みながら、岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』を読み始めた。さらさらと読み飛ばし、1時間半で読了した。

●夜、DVDで山下淳弘監督『松ヶ根乱射事件』を観た。久しぶりに映画らしい映画を観ることができた。紙芝居のような映画ばかりが制作されるなかで、やはり映画がどういうものかがわかっている監督の存在は貴重である。
映画というのは、最初の3分でその良否が判断できるものだが、では、おれはそこに映し出されている“何”を見て、その判断をしているのだろうか。映画らしい映画の特質があるとすれば、それは、どんなものなのだろうか。
まず、映画らしい映画には、そこにリアルな“物”が映し出されている。例えば雪が積もっている場面であれば、そこにはちゃんと“雪が積もっている”が映っているのである。雪が積もった時の、独特の静けさ、寒々しさ、凛と張ったような空気感、瑞々しさ、そういったものがそこにはちゃんと映っている。つまり、映画らしい映画のなかには、リアリティのある“物”で構成された、現実と地続きの空間が存在しているのである。
現実と地続きの空間があって初めて、そこに登場する人物のリアリティが保証されるのだ。人物のリアリティが保証されることで、彼らが演じる役割、彼らが巻き込まれる物語に説得力が出る。観客は、登場人物に対して肯定的であろうと否定的であろうと、彼らが確かにそこに存在しているということそれ自体は疑うことができなくなる。彼らはたしかにそこに存在する。つまらない映画では、人物はただ単に物語を遂行する記号のようなものに還元されてしまう。

12月27日(木) 晴

2007-12-29 11:39:50 | DIARY
●昼までパソコンに向かって仕事をした。
午後、昨日買ったCDを聴きながら、名駅、伏見、大須、上前津、鶴舞と歩いた。万歩計でだいたい1万歩くらいの距離だ。鶴舞からJRで名古屋駅に帰った。途中、中古CDショップ、古本屋に寄り、CDを何枚かまとめて購入した。

まず上前津のサウンドベイで、純アリス『花模様』、『メモリアル・フォーク・クルセイダーズ』、湯川潮音『湯川潮音』の3枚を購入。5000円。鶴舞の古本屋でサンダルズ『エンドレス・サマー』。1200円。駅西の69で、トゥイーカー『アトラクション・トゥ・オール・シングス・アンサーティン』、ザ・ジーザス・アンド・メリーチェイン『サイコキャンディー』、エイフェックス・ツィン『リチャード・D・ジェイムズズアルバム』、スクエアプッシャー『ゴー・プラスティックス』、ザ・ベータ・バンド『ザ・ベータ・バンド』、『松田優作クロニクル ‘73~’89』。7500円。

●今日は活字をまったく読まなかった。歩いたり、喫茶店でコーヒーを飲んだりしつつ、ずっと音楽を聴いて過ごした。薄い曇り空のような、ほの明るい気分で過ごした。

12月26日(水) 晴

2007-12-27 11:43:38 | DIARY
●眩暈が緩和した。一週間ほど症状が続いたが、まだ本調子ではないものの、フワフワしている感じはなくなった。
空はどっピーカン。11時頃家を出て、とりあえず名駅のカフェで、カジキマグロフライを挟んだパニーニとコーヒーの昼食をとりつつ、坪内祐三編『戸川秋骨 人物肖像集』(みすず書房 2004年)の続きを読んだ。210ページ読了。

●午後から、地下鉄に乗って、千種の正文館へ行った。『SPT』のバックナンバーがあったので、手にとって目次を見て、01を選んだ。松浦寿輝『方法叙説』(講談社 2005年)、池内紀『作家の生きかた』(集英社文庫 2007年)と合わせて3冊購入した。3500円。

今池まで歩き、P-CANファッジで、中古CDを4枚。ハワード・ショアがオーネット・コールマンをフィーチャーして作った映画『ネイキッドランチ』のサントラ、小西康弘プロデュースのムッシュかまやつ『ムッシュ』(この2枚は以前持っていたが、データを飛ばしてしまったので買いなおした。『ネイキッドランチ』が500円、『ムッシュ』が800円と安かった)、プティ・マミ『Girl Friend ~Baby Doll』、ピコ『abc』。4700円。

●今池から、栄まで歩いた。栄町ビルのバナナレコードに寄って、ここでは何も買わず、ハーゲンダッツでアイスのカップを食べながら、松浦寿輝『方法叙説』を読み始める。しかし、数ページ進んだところで激しい眠気に襲われ、ソファーに深く凭れてうつらうつらした。そういえば、昨日は4時間くらいしか眠っていない。

12月25日(火) 晴

2007-12-27 11:14:43 | DIARY
●眩暈、あいかわらず。起床時、上体を起こすと、一回強いのがフワッと来る。活動にさほどの支障はないのだが、それでも無意識に身体が構えているのだろう、普段は凝らない肩が痛いくらいガチガチになっている。

●テレビを眺め、ネットでいつものレギュラーサイトを周回し、昼前に家を出る。ドトールで、椎名誠選 日本ペンクラブ編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983年)の残りを読んだ。野坂昭如(○)、夢野久作(○)、渋澤龍彦(○)、江國滋(○)、椎名誠(△)、鏡明・目黒考二・椎名誠(鼎談)(△)。363ページ読了。

午後、一件仕事で人と会い、家賃や光熱費の支払いを済ませ、<ジュンク堂>へ向かった。普段はあまり熱心に見ることのない“演劇”の棚で、『SPT ~Setagaya Public Theatre』という雑誌が目に留まった。野村萬斎監修で、表紙の装丁は大竹伸朗。中身も充実している―野村萬斎、田中冺、岡田利規、宮台真司、弘中淳一郎、平田オリザ、白井晃、松本修のインタビュー、豊竹咲甫太夫と長島有の対談、渡辺守章、谷川多佳子、飯沢耕太郎の論考、岡崎武志のブックレビュー、それにカフカの『審判』を松本修が構成した戯曲。これで値段は税込1000円である。とても“お得”な感じがする。
購って、ドトールに行き、ココアを飲みながら、さっそく読み始めた。喫茶店を移動し、一息で読みきった。

●家に帰り、食事(駅弁)を済ませた後、ゲオにDVDを返しに行き、ついでに栄向のブックオフに寄った。柴田宵曲著 小出昌洋編『団扇の絵』(岩波文庫 2000年)、保坂和志『季節の記憶』(中公文庫 1999年)、『もうひとつの季節』(中公文庫 2002年)、柴田元幸編訳『夜の姉妹団 ―とびきりの現代英米小説14篇』(朝日文庫 2001年)、車谷長吉『忌中』(文春文庫 2006年)、山岸涼子『甕のぞきの色』(秋田文庫 1997年)、『神かくし』(秋田文庫 1998年)を買った。3200円。

●夜は、録画してあった『M1グランプリ』を観た。ファイナル進出は、キングコング、トータルテンボス、サンドイッチマンの3組。優勝はサンドイッチマン。キングコング、トータルテンボスは、テンポも速く語彙も的確で、技術は素晴らしかったのだが、ネタに新味は感じられなかった。うまいなぁ、とは感じても、観ていて思わず笑ってしまうという場面はあまりなかった。その点、サンドイッチマンは、うまいというだけでなく、なによりセンスが良くて、思わず笑ってしまう部分が何箇所もあった。

12月24日(月) 晴

2007-12-25 22:43:35 | DIARY
●11時過ぎまで惰眠を貪る。起き上がるとき、また、眩暈。終日フワフワする。どうもこれは長引きそうな予感がする。

午前中、妻がアマゾンで注文したマンガが6冊、届いた。さそうあきら『トトの世界』1、2、4巻(なぜか3巻がなかったらしい)、『コドモのコドモ』全3巻。午後、『コドモのコドモ』『トトの世界』の順で一気に読んだ。さそうあきらの作品は初めて読んだが、じつにおもしろかった。『コドモのコドモ』は、小学生が妊娠、出産するという物語である。ここでの子供の描き方、捉え方が、なんというか“的確”なのである。例えば、これを当の“子供”が読んだとしても、白々しく感じないないのではないか。“的確”とはそういうことだ。
小学生が妊娠、出産というと、いわゆるスキャンダラスな次元で捉えられがちなテーマだが、このマンガには、そうした下種な視線は、まったく繰り込まれていない。作者はこのマンガの主人公を、あくまでも肯定的に捉え、彼女が妊娠、出産する過程を、大げさな抑揚を加えることなく、リアリスティックに描き出している。その丁寧な描写の積み重ねが、最後の感動を産む。

●今日は終日家に蟄居して過ごした。夕方からは、椎名誠選 日本ペンクラブ編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983年)を読み始めた。200ページまで読み進んだ。“活字中毒”をテーマにしたエッセイ、小説のアンソロジーである。山口瞳(○)、武井武雄(×)、田辺聖子(△)、石川喬司(△)、内田魯庵(○)、植草甚一(○)、大岡昇平(△)、殿山泰司(△)、井上ひさし(△)、鶴見俊輔(○)、小林秀雄(○)、紀田順一郎(△)、野呂邦暢(△)、開高健(△)、江戸川乱歩(○)、高田宏(△)。○△×は、おもしろかった・まあまあ(または「どうでもいい」)・つまらない、の区別である。批評ではなく、気分的なものだ。

●夜、DVDで『憑神』を観た。またもや浅田次郎原作の映画で、やはりおれはこの人のドラマの盛り上げ方が嫌いである。ただ、この映画は、愉しんで観ることができた。脇の西田敏行、赤井秀和、佐々木蔵之助、香川照之らが味わいのある演技を見せてくれたからだろう。

12月23日(日) 晴

2007-12-24 11:31:20 | DIARY
●昨日の午後から降り続いた雨も、朝には止んで、雨上がりの気持ちのいい天気になった。妻が、木がいっぱいあるところに行きたい、というので、熱田神宮に散歩に出ることにする。名古屋駅からJRに10分乗り、熱田神宮に到着した。

樹齢何千年という木々が鬱蒼としげる神域である。
雨上がりということもあるのか、空気がじつにうまい。空気がおいしいなんてのは気分的なものかと思っていたけれど、じっさいに味があるのだなと思う。木々の匂いといっしょに瑞々しい空気を思いっきり吸い込んだ。
本宮まで歩き、賽銭を投げ入れ、拍手を打つ。べつに何を祈るわけでもない。形だけのことだが、それでも気分が刷新したような心地がする。

昼食に名物、宮きしめんを食べて、神宮を出た。帰りは名鉄で帰った。なんだか甘いものが食べたくなり、妻もそうだと言うので、名駅の地下のカフェに寄り、ケーキと飲み物を口にした。

●家に帰り、DVDで、三池崇史監督『龍が如く』を観た。人気ゲームの映画化作品。主演は北村一樹。三池監督らしい、破綻スレスレの映画であった。岸谷五朗の怪演を見るためにだけでも観る価値はある。
続いて、録画しておいた『極道の妻たちⅡ』。ううむ、じつに昭和くさいというか、ああ、日本映画ってこういう感じで当時駄目だったんだよなぁ、というノスタルジアに浸った。

12月22日(土) 雨

2007-12-24 10:27:30 | DIARY
●昼過ぎから雨が降り、そのまま夜までずっとしとしと降り続いた。あいかわらず頭の体勢を変えると眩暈がしてふらつく。

●昼過ぎまでパソコンに向かって仕事し、午後から<三省堂>へ行き、坪内祐三編『戸川秋骨 人物肖像集』(みすず書房 2004年)を買った。2400円。カフェ・ド・クリエでゆず湯を飲みながら、読み始めた。110ページまで読み進み、その後、栄まで歩き<丸善>に行った。椎名誠選 日本ペンクラブ編『素敵な活字中毒患者』(集英社文庫 1983年)、関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫 2003年)を買った。1100円。

12月21日(金) 曇

2007-12-24 10:18:39 | DIARY
●眩暈つづく。ずっとこのまま続くのか、何か悪い病気が進行しているのか、そのうち自然に治るのか。不安な気分はない。

●昼前までパソコンに向かって仕事をし、午後からパッセの<星野書店>に行き、宮崎学『警察の闇 愛知県警の罪』(アスコム 2007年)、森銑三『明治人物閑話』(中公文庫 1988年)、谷川俊太郎編『中勘助詩集』(岩波文庫 1991年)を買う。3500円。

●ドトールで、小島信夫『書簡文学論』(水声社 2007年)を読んだ。181ページ読了。夕方、K君と落ち合い、一件、プレゼンの仕事をこなした。今蓄えは来月分くらいで尽きるほどしかないので、今日のプレゼンが成功しないと、再来月困る。慌てて何か仕事を作らなければならなくなる。結果は、成功。ただし、予定していた金額より、2割減といったところで落ち着いた。微妙な感じだ。

●夜、DVDで『亀は意外と速く泳ぐ』を観た。三木聡の映画を観るのはこれが初めて。シティボーイズのライブはずっと観ていたから、彼が作る世界観はなんとなく想像がついたが、その想像通りの映画だった。小さな“意外性”のある出来事が連続して起こり、日常がそのまま非日常の様相を呈してくる。主演は上野樹里。やっぱりいいな、上野樹里。コンビ訳の蒼井優、好きな女優なのだが、この映画ではうまくはまっていないようにも感じた。

12月20日(木) 晴

2007-12-22 13:18:24 | DIARY
●今日もまた眩暈がする。フワフワと覚束ない。
午前中、パソコンに向かって仕事をし、午後から家を出て、ドトールに向かう。坪内祐三『「別れる理由」が気になって』(講談社 2005年)の残りを読み継ぎ、317ページ読了した。

●仕事の打合せを一件済ませ、その後、ふたたびドトールへ。朝倉喬司『ヤクザ・風俗・都市 ―日本近代の暗流』(現代書館 2003年)を読んだ。店を移動しながら、277ページ読了した。

どうも自律神経に失調があるようだ。眩暈だけじゃなく、体温調整もうまくいかない。微熱が出ている。更年期障害だろうか。

夜は、テレビを観て、ぼんやりと過ごした。みのもんたが司会で、ブラジルの予知夢を見るという超能力者の特集番組。荒俣宏が出ていたので、なんとなく観てしまった。続いて、映画。ハリケーンと竜巻と停電が都市を襲うという、安っぽいパニック映画。これも、なんとなく観てしまった。


12月19日(水) 晴

2007-12-20 18:35:22 | DIARY
●今日もまだ起床時に軽い眩暈がした。昨日のようにひどい症状ではなくすぐに治まったけれど、終日、なんとなく頭のなかに小さな渦巻きがまわっているような、フワフワした感じが続いた。

●午前中、録画しておいたNHKスペシャルのワーキングプア特集を見た。働いているのに貧困から抜け出せない層の人々を記録したドキュメンタリーである。

その録画映像を、最近買った37インチの大きなテレビ画面で眺めているおれにとって、彼らの状況はとりあえずは“他人事”ということになる。今日明日に自分が彼らと同じような貧困に陥ることはないだろう。しかし、一年後となると、どうなのか。おれが彼らのような状況にはならないと、はっきり断言できるのだろうか。おれは定職にも就いていなければ、何かすぐに間に合うような技能を身につけているわけでもない。いまのおれは、“ワーキングプア”ではない。むしろ、ほとんど働かず、それなりに金を得ている身の上である。しかし、それは、たまたま運がいいだけのことで、一年後どうなるか、まったく見通しは立っていない。そういう意味では、この番組で映し出された彼らの姿は、ぜんぜん“他人事”だとは思えない。

ワーキングプアが生まれるのは、社会構造的な問題で、例えば、産業構造の改変、地域の疲弊など、そこにはいくつかの目立った要因がある。たまたまそれらの要因が作用する場に居合わせ、さらに先行世代による援助が受けられない(つまり、親が経済的に余裕のない)人々が、ワーキングプアと呼ばれる状態に陥ることになる。
(おれの親は、資産は何もないけれど、平均よりはずっと金を稼ぐ人で、おれは親から金をせびろうとは思わないけれど、いざとなったら親からの援助を受けられるだろう。おれにはそうした“甘え”があって、見通しの立たない生活をのほほんと送っていられるのも、たぶん、そうした“甘え”に支えられてのことなのだろう)。

●それに、最近よく思うのだが、おれは長生きはしないような気がする。長生きなんてしたくない、ということではない。なんとなくそんな予感がするのだ。なぜ、そんなふうに感じるのか、様々な小さな原因は考えつくけれど、本当のところはわからない。小さな原因が重なり合って、なんとなくそう感じているだけのことなのかもしれない。

「私」は、たぶん、生命活動から生起する複合的な現象であり、その生命活動がなくなれば、もちろん「私」が生起することもなくなる。つまり、「死後の世界」などというものはなく、人間は死んだら死に切りである。

しかし、自分の生命が、長くても短くてもせいぜい何十年という限りがあるものである、というあたりまえの“限定感覚”を持つとき、その“限定”の向こうには必ずや彼岸が映し出される。それは、人間の意識の必然なのである。
だから、生きている限り、言い換えれば、生命の側から見るとき、死後の世界=死者というのは存在する。

断末魔の苦痛は、何歳になっても、悟りを開こうが、変わらずあるのだ、とこれは吉本隆明がそう言っていた。それを読んだおれは、なんだ、じゃあ、いつ死んでも同じことだな、と、救われるような気持ちになった。

●午後、カフェ・ド・クリエで、橋本治『日本の行く道』(集英社新書 2007年)を読み継いだ。読み残していた第四章「『家』を考える」を読んで、270ページ読了。

その足で<ジュンク堂>へ行き、坪内祐三『「別れる理由」が気になって』(講談社 2005年)を買った。小島信夫『別れる理由』を読んでから読もうと思っていたのだが、先に買ってしまった。ドトールで読み始める。何件か喫茶店を移動しつつ、第16回、272ページまで読み進んだ。

●夜、DVDで、三池崇史監督『46億年の恋』を観た。安藤政信、松田龍平のふたりがダブル主役、脇を固めるのが、石橋凌、遠藤憲一、石橋 蓮司他といった素晴らしいキャスティングの映画である。
安藤政信に強姦され自殺した妻を持つ刑務所長の役が石橋凌。安藤政信の目には、石橋凌の背後に、常にその自殺した妻の亡霊が見えている。妻の亡霊を背負って、口の端を引き攣らせ、ニヤアッと笑う石橋凌の顔が、もう、背筋が寒くなるような不気味さを感じさせる。