●11時前に起きて、午前中はパソコンに向かって仕事をした。あっというまに昼。家を出て、昨日買ったCDを聴きながら、名駅に歩いた。ドトールでコーヒーを飲みながら、『SPT』01を読んだ。
180円のコーヒーで1時間半粘り、最後の戯曲は読み残して読了した。
りそな銀行に行って残金を確認する。某所からの振込み60万円があったようだ。ちょっとリッチな気分になる。15万円引き出した。
●<ジュンク堂>に行き、前から読もうと思っていてその機会を逸していた岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社 2007年)を手に取った。『SPT』04で岡田利規のインタビューが掲載されていて、数日前、それを興味深く読んだところである。
“社会学・社会問題”の棚の辺りで、岩村暢子という人(アサツー・ディ・ケイ200X年ファミリーデザイン室というところで社会調査の仕事をやっている人らしい)の『普通の家族がいちばん怖い ~徹底調査!破滅する日本の食卓』(新潮社 2007年)という本が目に留まった。帯に養老孟司の推薦が引かれていて、そこに「S.キングよりも怖かった」とあり、興味をそそられたのだ。
2冊を購入して3500円。
カフェ・ド・クリエに行き、不味いコーヒーを飲みながら、岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』を読み始めた。さらさらと読み飛ばし、1時間半で読了した。
●夜、DVDで山下淳弘監督『松ヶ根乱射事件』を観た。久しぶりに映画らしい映画を観ることができた。紙芝居のような映画ばかりが制作されるなかで、やはり映画がどういうものかがわかっている監督の存在は貴重である。
映画というのは、最初の3分でその良否が判断できるものだが、では、おれはそこに映し出されている“何”を見て、その判断をしているのだろうか。映画らしい映画の特質があるとすれば、それは、どんなものなのだろうか。
まず、映画らしい映画には、そこにリアルな“物”が映し出されている。例えば雪が積もっている場面であれば、そこにはちゃんと“雪が積もっている”が映っているのである。雪が積もった時の、独特の静けさ、寒々しさ、凛と張ったような空気感、瑞々しさ、そういったものがそこにはちゃんと映っている。つまり、映画らしい映画のなかには、リアリティのある“物”で構成された、現実と地続きの空間が存在しているのである。
現実と地続きの空間があって初めて、そこに登場する人物のリアリティが保証されるのだ。人物のリアリティが保証されることで、彼らが演じる役割、彼らが巻き込まれる物語に説得力が出る。観客は、登場人物に対して肯定的であろうと否定的であろうと、彼らが確かにそこに存在しているということそれ自体は疑うことができなくなる。彼らはたしかにそこに存在する。つまらない映画では、人物はただ単に物語を遂行する記号のようなものに還元されてしまう。
180円のコーヒーで1時間半粘り、最後の戯曲は読み残して読了した。
りそな銀行に行って残金を確認する。某所からの振込み60万円があったようだ。ちょっとリッチな気分になる。15万円引き出した。
●<ジュンク堂>に行き、前から読もうと思っていてその機会を逸していた岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社 2007年)を手に取った。『SPT』04で岡田利規のインタビューが掲載されていて、数日前、それを興味深く読んだところである。
“社会学・社会問題”の棚の辺りで、岩村暢子という人(アサツー・ディ・ケイ200X年ファミリーデザイン室というところで社会調査の仕事をやっている人らしい)の『普通の家族がいちばん怖い ~徹底調査!破滅する日本の食卓』(新潮社 2007年)という本が目に留まった。帯に養老孟司の推薦が引かれていて、そこに「S.キングよりも怖かった」とあり、興味をそそられたのだ。
2冊を購入して3500円。
カフェ・ド・クリエに行き、不味いコーヒーを飲みながら、岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』を読み始めた。さらさらと読み飛ばし、1時間半で読了した。
●夜、DVDで山下淳弘監督『松ヶ根乱射事件』を観た。久しぶりに映画らしい映画を観ることができた。紙芝居のような映画ばかりが制作されるなかで、やはり映画がどういうものかがわかっている監督の存在は貴重である。
映画というのは、最初の3分でその良否が判断できるものだが、では、おれはそこに映し出されている“何”を見て、その判断をしているのだろうか。映画らしい映画の特質があるとすれば、それは、どんなものなのだろうか。
まず、映画らしい映画には、そこにリアルな“物”が映し出されている。例えば雪が積もっている場面であれば、そこにはちゃんと“雪が積もっている”が映っているのである。雪が積もった時の、独特の静けさ、寒々しさ、凛と張ったような空気感、瑞々しさ、そういったものがそこにはちゃんと映っている。つまり、映画らしい映画のなかには、リアリティのある“物”で構成された、現実と地続きの空間が存在しているのである。
現実と地続きの空間があって初めて、そこに登場する人物のリアリティが保証されるのだ。人物のリアリティが保証されることで、彼らが演じる役割、彼らが巻き込まれる物語に説得力が出る。観客は、登場人物に対して肯定的であろうと否定的であろうと、彼らが確かにそこに存在しているということそれ自体は疑うことができなくなる。彼らはたしかにそこに存在する。つまらない映画では、人物はただ単に物語を遂行する記号のようなものに還元されてしまう。