●ガスファンヒーターを消すと、暖まっていた部屋もすぐに冷え始めて、背筋をそくそくとした寒気が這い上がってくる。寒い。冬らしい寒さなのだが、最近では冬は冬らしくなく夏は夏らしくないので、ここ数日のように冬らしい寒さがつづくと、その“それっぽさ”がかえってリアリティがないような、倒錯的な気分にもなる。
風も強い。外を歩いていると、鞄を持った手が悴み、耳が凍ったようになって、移動手段の基本が“徒歩”のおれは、そんなときは歩速を速めて自家発電するのがせいぜいだ。あまり効果はない。寒暖が気にならない頃であれば、音楽を聴きながら、どれだけでも歩けるのだけれど、これだけ寒いと20分も歩けば身体が冷え切ってしまうので、震えがこないうちに適当に喫茶店に逃げ込むことになる。
ドトールでホットショコラをすすりながら、人心地つき、鞄から本を取り出す。アイリバーを操作して、スチャダラパーからアファナシエフに音楽を変え、読書に没頭する体勢を整える。
佐藤優『国家を斬る』(宮崎学コーディネイト 同時代社 2007年)。2007年に行われた佐藤優の講演が2つ、まとめられている。ひとつめの講演はJR東労組で行われたもの、ふたつめの講演は「警察・検察の横暴を許さない連帯運動」の主催で日本教育会館で行われたものだ。宮崎学は、ふたつめの講演での司会、質疑応答で登場する。
●日本の裁判で起訴された場合、99.9%の確立で有罪になる。これは先進国としては異様な数値だと言っていい。スターリン時代のソ連や北朝鮮の裁判より高い数字ということである。こうした異様な司法の現状下で、東京地検特捜部に国策捜査の的としてかけられた場合、自らの行動にまったく非がなかったとしても、まず有罪になる覚悟は決めなければならないということになる。勝つことはまったく期待できない、とすれば、あとは負け方をどうするか、ということでしかない。そしてその後、裁判以外の言論の場において、あるいは友人間での友人への“釈明”において、社会的に失地回復すればよいのである。
「あれは、奴らが作った奴らの法廷なのです。ところが僕には僕の友だちがいる。外務省の仲間たちがいる。あるいは有識者の仲間たちがいる。その人たちに、その人たちの法廷を持ってもらえばいいのです。彼らが見たこと、知っていること、私は正直に話します。もちろんそれに反するようなデータも集めて、いろいろな法廷で判断してもらって判決をもらえばいいのです。
そうしたら私の場合は、たまたま公の国の法廷は有罪なんですが、それ以外の私の持っている法廷は全部、無罪なのです。この国策操作に引っ掛けられてしまうと、そういった形で、社会的な形で復権していくというやり方しか、残念ながら、ないのかなという感じがするのです」。
「それで今回のこの『警察・検察の不法・横暴を許さない連帯運動』、結論から言うと負けると思います。国家権力に対して闘って勝つことはできない、という大前提からスタートしなければいけないと思うんですね。そうしたら問題は負け方です。ここも、社青同の原理主義的なところで、やはりマルクス・エンゲルス『共産党宣言』に帰ってきたわけです。プロレタリアートの闘いは負ける、と。負けるんだけどそこで重要なのは広がりゆく団結の輪である、と。こういうふうにマルクス・エンゲルスは言っているんですね。私はそこのところというのは非常に重要だと思うんです。どういう負け方をして、どういう団結、連帯をしていくかということだと思います」。
国家は個人に対し、時に不当な仕打ちをする。それが不当だと訴えても、国家を構成する“体制側”の司法に、正当な判断を求めることはできない。―「三権分立は嘘だとか何とか言いますけれども、国家権力は国家権力ですから、国家権力だって都合のいいときは三権分立で、都合がよくないときは権力というのは一体になってくるわけです。それ以上でもそれ以下でもない話なんですね」。国家と闘っても勝ち目はない。その裁きは裁きで受けるしかないのだ。しかし、そこで、国家の裁断を鵜呑みにすることのない人々との、オルタナティブな人間関係をもっていれば、その社会において生き延びることはできるのである。
国家はあてにならない、真の友人は頼りになる、ということである。
●「官僚というのは、これはもう昔からある。その根っこのところは共同体と共同体の関係だと私は見ているんです。柄谷行人さんに言われて気づいたのですが、共同体と共同体の関係で、一方の共同体が圧倒的に強いか、もう一つの共同体が弱いと、一方の共同体が他方の共同体の連中を捕まえて奴隷にして働かせる、これが国家の原型だと思うんです。ですからそこは基本的には暴力で、収奪なんですね。
それに対して、共同体と共同体の間が五分と五分か、あるいはその力の差というのがそれほどでもないという状況だと、戦いを始めてしまうと自分の痛手が大きいし、勝たないかもしれない。あるいは共倒れに終わるかもしれない。そういう状況では交換をするわけなんです。そこから出て来るのが商品なんです。ですからマルクスは、商品というのは共同体と共同体の間から現れる、と言っている。ですから共同体と共同体の間で交換が起きると社会になったわけで、共同体と共同体の間で征服が起きれば国家になる。こういうところに私は起源があるんじゃないかと見ています。
それから、『プロレタリアートとブルジョワジーの関係』というのは、それは基本的な階級対立はあります。この社会の中には。他方、官僚階級を相手にする場合は、結果として、資本家階級、労働者階級、地主階級の利害が一致する場合というのがあるわけなんです。ここのところも一つのポイントだと思います」。
佐藤優はここで、官僚階級を、公の利益に資する公僕としてではなく、独自の収奪階級であると位置づけている。ずっと外務官僚として勤務してきた佐藤優の実感なのかもしれない。
国家は、ひとつの共同体が大きく育って生まれたものではない。国家の成り立ちには、複数の共同体間の暴力的な闘争があって、現在の国家にも、その闘争の痕跡が強く残っている。この考え方はおもしろい。栗本慎一郎、小松和彦、吉本隆明のいくつかの著作を再読してみようと思いついた。柄谷行人『トランスクリティーク』も、そろそろ読まないといけない。
もう90分ほども300円のホットショコラ一杯で粘っている。アファナシエフのブラームスも終わって、ペンギン・カフェ・オーケストラがかかっている。そろそろ喫茶店を移った方がいいだろうなと思いつつ、けっきょくさらに30分ほど粘って、本を読み了えてしまった。
●寒い中を歩いて、名駅に戻ってきた。ふたたびドトールに入り、コーヒーを注文して、佐藤優と鈴木宗男の対話『反省』(アスコム 2007年)を読み始めた。
『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んで、事件の流れ、その事件に当たっての佐藤優の視点・考察は把握していた。この本では、それ以上の新しい知見が語られているわけではないが、事件の当事者同士の対話ということで興味深く、のめりこんで一気に読んだ。
この本では、「特別付録」として、話題に出た外務省官僚の顔写真が載っている。なるほどなぁ。いかにもそーゆー恥ずかしいことしそうな顔してやがんな。と、思わせるような。
レジャックのドトールからエスカのカフェ・ド・クリエまで歩き、コーヒーを飲みながら読み継ぎ、読了した。
●<ジュンク堂>に寄り、元特捜検事でその後裏社会の弁護士に転身したという田中森一の本が目に留まった。宮崎学との対話『必要悪 ―バブル、官僚、裏社会を生きる』(扶桑社 2007年)を手に取る。ついでに、宮崎学『右翼の言い分』(アスコム 2007年)も。思想書の棚を流していたら、吉本隆明の新著『日本語のゆくえ』(光文社 2008年)を見つけてこれは迷わず。3冊購入した。
家に帰り、夜、田中森一・宮崎学『必要悪』を読んだ。
まず、1章では、バブル時の銀行がやった呆れるほど滅茶苦茶な融資の、その現場のエピソードが語られる。2章では司法官僚としての検察の実態。3章は田中弁護士が山口組の幹部とのつきあいのなかで見聞きしたエピソード。すべて体験者ならではの、実感の伴ったリアルな言葉で語られていて、読んでいて迫力があった。
「新宿西口に高級麻雀屋があったんです。一部屋二十畳ぐらいのところに一卓だけの個室麻雀で。そこでたまに麻雀やってたわけですけれども、メシを運んでくる兄ちゃんと仲良くなりましてね、ある日に隣はどんな奴がやっているのかと聞いたら、『いやあ、わからんのですよ。見て行きますか?』って。そうしたら、若いお姉ちゃんが打ってるわけですよ。青白い顔して、たぶん二十代だと思う。レートを聞いたらだいたいハコテンで一千万円ぐらい。東風戦だから回転が速くて、十五分か二十分で一千万が動くんだけど、そのお姉ちゃんは負けっ放しだというんです。
それで、カネがなくなってくるとどこかに電話するんだけど、おばさんがカネを持ってくるわけです。たぶん誰かの二号か三号なんでしょうけどね。『カネは一ヶ月でだいたい何億か使ってますが、もういなくなりますよ』と店員が言ってましたね。若い女性が何億も使って青白い顔をしたまま打ち続けている姿というのはね、これがバブルなんかなと思いました」(宮崎学)。
「司法のワイドショー化と言えば、その先鞭をつけたのが、僕は検察だと思ってるんですよ。あのガサ入れの時のダンボールの運び出しですね。今ではおなじみだけど、『東京地検特捜部』とかロゴが入っている箱を二十箱ぐらい準備して、事務官がダーッと腕章を巻いて行くわけですよ。
でも、事前に必要なものは押さえちゃってるんだから、ダンボールはカラなんですよね。実際に押収するのは紙一枚とかだけで。でも、テレビ的にはすごい絵でしょう。『これだけ検察はやってるんだ、この事件に対して熱意を示してるんだ』というのを見せてね。
裏が取れてないんですが、リクルート事件でNTT初代会長だった真藤恒がやられたのが最初だったと言われてますよね。ダンボールをたくさん運ぶことで、世論受けと言いますか、そういうことを八十年代に入って検察がやり始めたと。今やこれは警察も真似してるわけですね。だから、警察も神戸の山口組総本部のガサ入れ行くときは、大阪府警は特に屈強なのばっかり揃えて。
カメラの前で乱闘して見せたりね、わざわざ。単にこんだけやってんだということを示したいんですよ。押収品は当番表一枚だけ、とかでね」(宮崎学)。
「植草一秀がパクられた時のことなんですけどね。実は、村上ファンドの設立当初のアドバイザーが植草さんだったわけ。村上ファンドは、ほとんど植草の人脈と経済分析で成立してるの。植草さんはパクられた時に、最初に村上に連絡を取ろうと思ったらしい。そうすれば、村上は弁護士を付けて、ちゃんとやってくれると思ったんでしょう。でも、村上は、僕はそんな人とは関わりたくないと、即決で断るわけです。で、次に連絡が来たのが私だったんです。私はちゃんと高輪署まで面会に行って、すぐ弁護士をつけましたよ。それで植草さんは『やってない』と言うから、わかったと、もうそれで通せよと。ということで、どちらにしても、大した事件じゃないしという頭もありましたから。でも、村上は物の見事に逃げましたね。
村上は植草には足向けて寝られないぐらい世話になっていると思います。あそこまで上りつめるにあたって、ほとんど植草のノウハウを使っているわけです。
ただ、その時に村上はてっぺんまで上ってますから、そういうところで人間というのが見えますよね。そこで見える姿が、僕はほんとうの姿なんだろうと思う」(宮崎学)。
風も強い。外を歩いていると、鞄を持った手が悴み、耳が凍ったようになって、移動手段の基本が“徒歩”のおれは、そんなときは歩速を速めて自家発電するのがせいぜいだ。あまり効果はない。寒暖が気にならない頃であれば、音楽を聴きながら、どれだけでも歩けるのだけれど、これだけ寒いと20分も歩けば身体が冷え切ってしまうので、震えがこないうちに適当に喫茶店に逃げ込むことになる。
ドトールでホットショコラをすすりながら、人心地つき、鞄から本を取り出す。アイリバーを操作して、スチャダラパーからアファナシエフに音楽を変え、読書に没頭する体勢を整える。
佐藤優『国家を斬る』(宮崎学コーディネイト 同時代社 2007年)。2007年に行われた佐藤優の講演が2つ、まとめられている。ひとつめの講演はJR東労組で行われたもの、ふたつめの講演は「警察・検察の横暴を許さない連帯運動」の主催で日本教育会館で行われたものだ。宮崎学は、ふたつめの講演での司会、質疑応答で登場する。
●日本の裁判で起訴された場合、99.9%の確立で有罪になる。これは先進国としては異様な数値だと言っていい。スターリン時代のソ連や北朝鮮の裁判より高い数字ということである。こうした異様な司法の現状下で、東京地検特捜部に国策捜査の的としてかけられた場合、自らの行動にまったく非がなかったとしても、まず有罪になる覚悟は決めなければならないということになる。勝つことはまったく期待できない、とすれば、あとは負け方をどうするか、ということでしかない。そしてその後、裁判以外の言論の場において、あるいは友人間での友人への“釈明”において、社会的に失地回復すればよいのである。
「あれは、奴らが作った奴らの法廷なのです。ところが僕には僕の友だちがいる。外務省の仲間たちがいる。あるいは有識者の仲間たちがいる。その人たちに、その人たちの法廷を持ってもらえばいいのです。彼らが見たこと、知っていること、私は正直に話します。もちろんそれに反するようなデータも集めて、いろいろな法廷で判断してもらって判決をもらえばいいのです。
そうしたら私の場合は、たまたま公の国の法廷は有罪なんですが、それ以外の私の持っている法廷は全部、無罪なのです。この国策操作に引っ掛けられてしまうと、そういった形で、社会的な形で復権していくというやり方しか、残念ながら、ないのかなという感じがするのです」。
「それで今回のこの『警察・検察の不法・横暴を許さない連帯運動』、結論から言うと負けると思います。国家権力に対して闘って勝つことはできない、という大前提からスタートしなければいけないと思うんですね。そうしたら問題は負け方です。ここも、社青同の原理主義的なところで、やはりマルクス・エンゲルス『共産党宣言』に帰ってきたわけです。プロレタリアートの闘いは負ける、と。負けるんだけどそこで重要なのは広がりゆく団結の輪である、と。こういうふうにマルクス・エンゲルスは言っているんですね。私はそこのところというのは非常に重要だと思うんです。どういう負け方をして、どういう団結、連帯をしていくかということだと思います」。
国家は個人に対し、時に不当な仕打ちをする。それが不当だと訴えても、国家を構成する“体制側”の司法に、正当な判断を求めることはできない。―「三権分立は嘘だとか何とか言いますけれども、国家権力は国家権力ですから、国家権力だって都合のいいときは三権分立で、都合がよくないときは権力というのは一体になってくるわけです。それ以上でもそれ以下でもない話なんですね」。国家と闘っても勝ち目はない。その裁きは裁きで受けるしかないのだ。しかし、そこで、国家の裁断を鵜呑みにすることのない人々との、オルタナティブな人間関係をもっていれば、その社会において生き延びることはできるのである。
国家はあてにならない、真の友人は頼りになる、ということである。
●「官僚というのは、これはもう昔からある。その根っこのところは共同体と共同体の関係だと私は見ているんです。柄谷行人さんに言われて気づいたのですが、共同体と共同体の関係で、一方の共同体が圧倒的に強いか、もう一つの共同体が弱いと、一方の共同体が他方の共同体の連中を捕まえて奴隷にして働かせる、これが国家の原型だと思うんです。ですからそこは基本的には暴力で、収奪なんですね。
それに対して、共同体と共同体の間が五分と五分か、あるいはその力の差というのがそれほどでもないという状況だと、戦いを始めてしまうと自分の痛手が大きいし、勝たないかもしれない。あるいは共倒れに終わるかもしれない。そういう状況では交換をするわけなんです。そこから出て来るのが商品なんです。ですからマルクスは、商品というのは共同体と共同体の間から現れる、と言っている。ですから共同体と共同体の間で交換が起きると社会になったわけで、共同体と共同体の間で征服が起きれば国家になる。こういうところに私は起源があるんじゃないかと見ています。
それから、『プロレタリアートとブルジョワジーの関係』というのは、それは基本的な階級対立はあります。この社会の中には。他方、官僚階級を相手にする場合は、結果として、資本家階級、労働者階級、地主階級の利害が一致する場合というのがあるわけなんです。ここのところも一つのポイントだと思います」。
佐藤優はここで、官僚階級を、公の利益に資する公僕としてではなく、独自の収奪階級であると位置づけている。ずっと外務官僚として勤務してきた佐藤優の実感なのかもしれない。
国家は、ひとつの共同体が大きく育って生まれたものではない。国家の成り立ちには、複数の共同体間の暴力的な闘争があって、現在の国家にも、その闘争の痕跡が強く残っている。この考え方はおもしろい。栗本慎一郎、小松和彦、吉本隆明のいくつかの著作を再読してみようと思いついた。柄谷行人『トランスクリティーク』も、そろそろ読まないといけない。
もう90分ほども300円のホットショコラ一杯で粘っている。アファナシエフのブラームスも終わって、ペンギン・カフェ・オーケストラがかかっている。そろそろ喫茶店を移った方がいいだろうなと思いつつ、けっきょくさらに30分ほど粘って、本を読み了えてしまった。
●寒い中を歩いて、名駅に戻ってきた。ふたたびドトールに入り、コーヒーを注文して、佐藤優と鈴木宗男の対話『反省』(アスコム 2007年)を読み始めた。
『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んで、事件の流れ、その事件に当たっての佐藤優の視点・考察は把握していた。この本では、それ以上の新しい知見が語られているわけではないが、事件の当事者同士の対話ということで興味深く、のめりこんで一気に読んだ。
この本では、「特別付録」として、話題に出た外務省官僚の顔写真が載っている。なるほどなぁ。いかにもそーゆー恥ずかしいことしそうな顔してやがんな。と、思わせるような。
レジャックのドトールからエスカのカフェ・ド・クリエまで歩き、コーヒーを飲みながら読み継ぎ、読了した。
●<ジュンク堂>に寄り、元特捜検事でその後裏社会の弁護士に転身したという田中森一の本が目に留まった。宮崎学との対話『必要悪 ―バブル、官僚、裏社会を生きる』(扶桑社 2007年)を手に取る。ついでに、宮崎学『右翼の言い分』(アスコム 2007年)も。思想書の棚を流していたら、吉本隆明の新著『日本語のゆくえ』(光文社 2008年)を見つけてこれは迷わず。3冊購入した。
家に帰り、夜、田中森一・宮崎学『必要悪』を読んだ。
まず、1章では、バブル時の銀行がやった呆れるほど滅茶苦茶な融資の、その現場のエピソードが語られる。2章では司法官僚としての検察の実態。3章は田中弁護士が山口組の幹部とのつきあいのなかで見聞きしたエピソード。すべて体験者ならではの、実感の伴ったリアルな言葉で語られていて、読んでいて迫力があった。
「新宿西口に高級麻雀屋があったんです。一部屋二十畳ぐらいのところに一卓だけの個室麻雀で。そこでたまに麻雀やってたわけですけれども、メシを運んでくる兄ちゃんと仲良くなりましてね、ある日に隣はどんな奴がやっているのかと聞いたら、『いやあ、わからんのですよ。見て行きますか?』って。そうしたら、若いお姉ちゃんが打ってるわけですよ。青白い顔して、たぶん二十代だと思う。レートを聞いたらだいたいハコテンで一千万円ぐらい。東風戦だから回転が速くて、十五分か二十分で一千万が動くんだけど、そのお姉ちゃんは負けっ放しだというんです。
それで、カネがなくなってくるとどこかに電話するんだけど、おばさんがカネを持ってくるわけです。たぶん誰かの二号か三号なんでしょうけどね。『カネは一ヶ月でだいたい何億か使ってますが、もういなくなりますよ』と店員が言ってましたね。若い女性が何億も使って青白い顔をしたまま打ち続けている姿というのはね、これがバブルなんかなと思いました」(宮崎学)。
「司法のワイドショー化と言えば、その先鞭をつけたのが、僕は検察だと思ってるんですよ。あのガサ入れの時のダンボールの運び出しですね。今ではおなじみだけど、『東京地検特捜部』とかロゴが入っている箱を二十箱ぐらい準備して、事務官がダーッと腕章を巻いて行くわけですよ。
でも、事前に必要なものは押さえちゃってるんだから、ダンボールはカラなんですよね。実際に押収するのは紙一枚とかだけで。でも、テレビ的にはすごい絵でしょう。『これだけ検察はやってるんだ、この事件に対して熱意を示してるんだ』というのを見せてね。
裏が取れてないんですが、リクルート事件でNTT初代会長だった真藤恒がやられたのが最初だったと言われてますよね。ダンボールをたくさん運ぶことで、世論受けと言いますか、そういうことを八十年代に入って検察がやり始めたと。今やこれは警察も真似してるわけですね。だから、警察も神戸の山口組総本部のガサ入れ行くときは、大阪府警は特に屈強なのばっかり揃えて。
カメラの前で乱闘して見せたりね、わざわざ。単にこんだけやってんだということを示したいんですよ。押収品は当番表一枚だけ、とかでね」(宮崎学)。
「植草一秀がパクられた時のことなんですけどね。実は、村上ファンドの設立当初のアドバイザーが植草さんだったわけ。村上ファンドは、ほとんど植草の人脈と経済分析で成立してるの。植草さんはパクられた時に、最初に村上に連絡を取ろうと思ったらしい。そうすれば、村上は弁護士を付けて、ちゃんとやってくれると思ったんでしょう。でも、村上は、僕はそんな人とは関わりたくないと、即決で断るわけです。で、次に連絡が来たのが私だったんです。私はちゃんと高輪署まで面会に行って、すぐ弁護士をつけましたよ。それで植草さんは『やってない』と言うから、わかったと、もうそれで通せよと。ということで、どちらにしても、大した事件じゃないしという頭もありましたから。でも、村上は物の見事に逃げましたね。
村上は植草には足向けて寝られないぐらい世話になっていると思います。あそこまで上りつめるにあたって、ほとんど植草のノウハウを使っているわけです。
ただ、その時に村上はてっぺんまで上ってますから、そういうところで人間というのが見えますよね。そこで見える姿が、僕はほんとうの姿なんだろうと思う」(宮崎学)。