●ああ、暑い、だりぃなぁ、なーんもやる気になんねぇ…って、べつに暑いからってわけでもなく、年中そんなふうにぼやいている気もするのだが、といって、なーんもやらずに無聊を決めて生計が成り立つほど恵まれてはいないので、とにかく金が流れてくるポイントをさがしつづけなければならない、動きつづけなければならない、ここだ!と思ったところでなりふりかまわず手を突っ込んで金を手にしなければならない、そのために、つい寝転びがちな海獣のような体に鞭打って、自分を騙しつつなんとか快活な体勢をとりつづけなければならない。
どうにも難儀なことであるが、そのためもあって、おれは、折にふれて、“武人”の言動に接し、だらけきった自分に渇を入れることにしている。ここでいう“武人”とは、“自らの身体に闘うための技を備えた人”という、とても広義の意味で言っているので、たとえば、スポーツ選手なども“武人”だし、棋士や雀士なんかも、あれはもはや“頭”で闘っているのではなく、“身体”で闘っているのだという意味で、“武人”ということになる。
ここ数年は、ずっと、古武術研究家の甲野善紀先生、雀鬼―桜井章一先生などの言動を、自らに活を入れるための拠り所としている。
●午前中、桜井章一『シーソーの「真ん中」に立つ方法』(TAKESHOBO2007年)を読んだ。
書かれていることは、彼がいつも語っていることと同じようなことである。それはそうだろう。“真理”はコロコロ変わったりはしない。いつもと同じようなことが書かれているのだが、説く相手が違えば、切り口にはいくらでもヴァリエーションがあり、だからいくらでも本が量産できるのだろうし、読者も、同じようなことが書かれているのはわかっていても、読むたびに、その同じようなことが別の光源から照らされるのをみて、より理解が深まるような気になり、それで同じようなことでもくりかえし反復して読むことになる。
桜井章一はよく、「間に合うこと」の重要性を語る。
何であれ、何かを為すために、もっとも重要なことは何か。それは、一定の速度―リズムにのって事を進め、タイミングを捉える、ということである。そのためには、立ちどまって考えていては遅れてしまう、現実はつねに思考よりも速く変化する、その変化を“考える”ことはできない、だから“考える”のではなく“感じる”ことが重要になる。…
この本でも、そのことが、くりかえし強調されていた。
―「気づいたことは、瞬間に行動に移す。
行動すると、さらに気づきが増える。
そうすれば、自然といろいろなことに間に合う。
『ピンと来る』という勘や感覚を研ぎ澄ませていくと、『何となく』『いつのまにか』良い方を選択する無意識のレベルの状態に、スーッと入っていけるものなのです。」
―「『武』のある人は、運動神経からくる素早さで、物事を瞬時に理解する能力があります。一方、知識の『文』から入る人は、どうしても物事の解決に時間がかかってしまうものなのです。
『武』の方は『瞬間』です。瞬間の能力、瞬間の決断力は本当に強いものですし、判断も正しいことが多い。
だから、日頃から瞬間で動くようにしていれば、勘もよく当たるのです。
世の中に科学や知識で解決できないことは、数え切れないほどありますが、『武』を鍛えて瞬間力を育めば、ほとんどの問題は解決できるようになるのです。」
―「『瞬間』とは、ひとつのことに囚われず、執着しないことです。『瞬間』でやっていくと、自分の良いところ、悪いところすべてがスピードに追われて表に出て、ごまかしがきかなくなります。
それで、もしも悪いところがあれば直せばいいだけの話なのです。
本人が自分の悪さに気付けば、その周囲も良い気分になり、手を貸しやすくなるものです。自分の非を非と認めた瞬間、何らかの救いの手も伸びてきます。それなのに自覚も反省もせず、『助けて』『直して』と言うのは、ただの身勝手ですよね。
ありのままを隠さず『素直』に瞬間で出し、『勇気』を持って非を認める。
鳴れないうちは、ありのままに瞬間でやると、直視したくない壊れた姿が出てくるかもしれません。でも、それを続けていくことが、人間本来の自然な姿を取り戻すことにもなるのです。」
●本を読み終え、毎日周回しているサイトを見ていたら、糸井重里が「ほぼ日」の「今日のダーリン」のなかで、こんなことを書いていた。ここで糸井重里が言っているのは、やはり「間に合う」ことの重要性に繋がるようなことだろう。
―「いいにつけわるいにつけ、変化しないものごとというのはありません。ついつい、目でものを見ようとすると、対象を静止させた状態で観察してしまいます。止めて見て見えるものは、限られているのですが、止めて見たほうが「じっくり見られる」ような気がして、 考え深い人ほど、そうしてしまうようです。(中略)
「変化のなかで、変化を見る」ことを、かなり自分に言い聞かせてないと、ついつい「静止画像」を凝視しちゃうんだよなぁ‥‥ なんてことをね、つくづく思ってました。」
どうにも難儀なことであるが、そのためもあって、おれは、折にふれて、“武人”の言動に接し、だらけきった自分に渇を入れることにしている。ここでいう“武人”とは、“自らの身体に闘うための技を備えた人”という、とても広義の意味で言っているので、たとえば、スポーツ選手なども“武人”だし、棋士や雀士なんかも、あれはもはや“頭”で闘っているのではなく、“身体”で闘っているのだという意味で、“武人”ということになる。
ここ数年は、ずっと、古武術研究家の甲野善紀先生、雀鬼―桜井章一先生などの言動を、自らに活を入れるための拠り所としている。
●午前中、桜井章一『シーソーの「真ん中」に立つ方法』(TAKESHOBO2007年)を読んだ。
書かれていることは、彼がいつも語っていることと同じようなことである。それはそうだろう。“真理”はコロコロ変わったりはしない。いつもと同じようなことが書かれているのだが、説く相手が違えば、切り口にはいくらでもヴァリエーションがあり、だからいくらでも本が量産できるのだろうし、読者も、同じようなことが書かれているのはわかっていても、読むたびに、その同じようなことが別の光源から照らされるのをみて、より理解が深まるような気になり、それで同じようなことでもくりかえし反復して読むことになる。
桜井章一はよく、「間に合うこと」の重要性を語る。
何であれ、何かを為すために、もっとも重要なことは何か。それは、一定の速度―リズムにのって事を進め、タイミングを捉える、ということである。そのためには、立ちどまって考えていては遅れてしまう、現実はつねに思考よりも速く変化する、その変化を“考える”ことはできない、だから“考える”のではなく“感じる”ことが重要になる。…
この本でも、そのことが、くりかえし強調されていた。
―「気づいたことは、瞬間に行動に移す。
行動すると、さらに気づきが増える。
そうすれば、自然といろいろなことに間に合う。
『ピンと来る』という勘や感覚を研ぎ澄ませていくと、『何となく』『いつのまにか』良い方を選択する無意識のレベルの状態に、スーッと入っていけるものなのです。」
―「『武』のある人は、運動神経からくる素早さで、物事を瞬時に理解する能力があります。一方、知識の『文』から入る人は、どうしても物事の解決に時間がかかってしまうものなのです。
『武』の方は『瞬間』です。瞬間の能力、瞬間の決断力は本当に強いものですし、判断も正しいことが多い。
だから、日頃から瞬間で動くようにしていれば、勘もよく当たるのです。
世の中に科学や知識で解決できないことは、数え切れないほどありますが、『武』を鍛えて瞬間力を育めば、ほとんどの問題は解決できるようになるのです。」
―「『瞬間』とは、ひとつのことに囚われず、執着しないことです。『瞬間』でやっていくと、自分の良いところ、悪いところすべてがスピードに追われて表に出て、ごまかしがきかなくなります。
それで、もしも悪いところがあれば直せばいいだけの話なのです。
本人が自分の悪さに気付けば、その周囲も良い気分になり、手を貸しやすくなるものです。自分の非を非と認めた瞬間、何らかの救いの手も伸びてきます。それなのに自覚も反省もせず、『助けて』『直して』と言うのは、ただの身勝手ですよね。
ありのままを隠さず『素直』に瞬間で出し、『勇気』を持って非を認める。
鳴れないうちは、ありのままに瞬間でやると、直視したくない壊れた姿が出てくるかもしれません。でも、それを続けていくことが、人間本来の自然な姿を取り戻すことにもなるのです。」
●本を読み終え、毎日周回しているサイトを見ていたら、糸井重里が「ほぼ日」の「今日のダーリン」のなかで、こんなことを書いていた。ここで糸井重里が言っているのは、やはり「間に合う」ことの重要性に繋がるようなことだろう。
―「いいにつけわるいにつけ、変化しないものごとというのはありません。ついつい、目でものを見ようとすると、対象を静止させた状態で観察してしまいます。止めて見て見えるものは、限られているのですが、止めて見たほうが「じっくり見られる」ような気がして、 考え深い人ほど、そうしてしまうようです。(中略)
「変化のなかで、変化を見る」ことを、かなり自分に言い聞かせてないと、ついつい「静止画像」を凝視しちゃうんだよなぁ‥‥ なんてことをね、つくづく思ってました。」