極薄特濃日記

無駄の2乗、無駄の3乗、無駄の4乗、無駄の5乗、…懲りることないくりかえし。

橋本治『小林秀雄の恵み』(新潮社 2007年) 引用・メモ

2008-01-19 12:17:10 | Chance Operation
●橋本治『小林秀雄の恵み』(新潮社 2007年)を読み了えた。400ページばかりの本だったが、3日かけてゆっくりと読んだ。
橋本治は37歳の時、小林秀雄最晩年の著作『本居宣長』を読み、「震えるほど感動した」のだそうだ。『小林秀雄の恵み』は、その感動を起点に、それがどういったものなのかを解きほぐすように書かれている。
①橋本治にとって本居宣長とはどういった存在なのか。②小林秀雄にとって本居宣長とはどういった存在なのか。③橋本治にとっての小林秀雄とはどういう存在なのか。
その三つの複線が絡み合うのを、少し後に戻って読み返したり、そうやってくりかえし文意を辿り直しながら、ゆっくり読み進んだ。

「十七八で和歌を詠み始めた宣長は、ひたすらに和歌が好きなのである。それが好きなのは、和歌が『自分の生の声』を発する手段だからである。あるいは、こういう言い方をすることをいやがる人もいるかもしれないが、若き本居宣長は、自分に合致したおしゃべりをしたかったのである。(中略)
宣長は『自分の生の声』を発したい。それは、『人の情(ココロ)の、事にふれて感(ウゴ)く』に由来するものである。であるならば、彼が詠む歌は、『彼の物のあはれ』なのである。『彼の物のあはれ』と『「源氏物語」の物のあはれ』の違うところは、『彼の』と『「源氏物語」の』というところだけで、『物のあはれ』であることに違いはない。『物のあはれ』が『人の情の、事にふれて感く』である以上、それは当然のことである。
『宣長の歌=「源氏物語」=物のあはれ』で、であればこそ宣長は、『物のあはれを十全とさせる土壌のルーツ』を探して、真っ直ぐに『古事記』へと向かう」。

橋本治にとっての本居宣長は、とても単純明快な貌を見せる。
宣長は「自分に合致したおしゃべりをしたかった」、そしてそれは「人の情の、事にふれて感く」といった「物のあはれ」に由来する。だから「自分の生の声」を、そこに見いだしてしまった宣長にとっては、それでもうそれ以上言うべきことも何もないということになる。本居宣長とは誰だったのか、それだけで言い尽くせてしまう。
「宣長が『もういいだろう』と言うのは、彼の目的が「古事記」に現れた神代の合理的解明なんかではなく、『歌う』という行為がどこから生まれたかを探ることだからである―そのはずである。それが『把握できた』と思えばこそ、宣長にとって、他のことは『どうでもいいこと』になる。だから、<凡て神代の伝説は、みな実事にて>という、狂信にも通うような投げやりに言ってしまうのである」。

橋本治が本居宣長のありようを単純明快に描くことができるのは、本居宣長を「近世の人」と割り切って捉えているからである(近世がどういう時代だったのかということも、この本にはしっかり書かれている)。しかしそう割り切ってしまって終わりであるなら、近代は近世ではないのだから、本居宣長など近代に生きる我々には無関係である、というだけのことになる。じっさい、橋本治は、「だから本居宣長には関心がない」と言い切っている。橋本治の関心は、本居宣長を読む近代的知性としての小林秀雄に向かっている。単純明快な近世を、小林秀雄は、近代として捉えてその可能性を探っている。そのことから、小林秀雄にとっての本居宣長は、単純明快な貌のものではなくなり、その記述を辿ることは「ひどい悪路」を行くようなものになる。小林秀雄にとっての本居宣長はどのような存在だったのだろうか。それは橋本治にとっては小林秀雄はどのような存在なのかという問いと重なっている。さらにそれは、近代とはどのような時代だったのか、という問いでもある。読んでいて、ここが勘所なんだろうなと思いつつ、おれはまだ十分に理解できた気がしていない。
「『物のあはれを知る』が<全的な認識>だというのは、そういう知識教養を持った小林秀雄の設定したゴールで、本居宣長はそう考えない。『そう考えれば分かると思うのならそう考えなさい』と宣長は言うかもしれないが、<全的な認識>という西洋由来の考え方を欠いているという点に於いて、私には小林秀雄の考え方よりも、本居宣長の考え方の方が分かりやすいのである。分かりやすいがしかし、困ったことに私は、本居宣長に関心がない。なぜないのかと言えば、彼が『近世』という彼の生きた時代のなかに自足してしまっているからである。しかし、本居宣長を読んで『本居宣長』を書く小林秀雄は、『本居宣長のいた時代は、近代であってもいい』と言うのである。それが私にとっては衝撃であって感動でもあるから、小林秀雄の書いた『本居宣長』を読む―読んで、頭を抱えたりもする。私と小林秀雄の中で、なにかが根本的に違っているからである。それはなにか?」

●夜、竹村健一・佐藤優『国家と人生 ―寛容と多元主義が世界を変える』(太陽企画出版 2007年)を読み了えた。元外務官僚、「外務省のラスプーチン」佐藤優の著作は、2007年怒涛の新刊ラッシュだったが、どういうものか判断がつかなかったので買うのを控えていたところ、松岡正剛がブログで「佐藤優はおもしろい」と書いていたので読んでみる気になった。
読んでみて、なるほどただ情報を羅列してある種類の本ではなかった。ただ誰がどこで何を言ったか、やったかという事実を情報として得るだけでは、世界を見ることはできない。歴史を知り、システムを捉えるための知的な蓄積が必要なのだ。この竹村健一との対談を読んで、佐藤優という人には、この知的蓄積があるように感じた。他の著作も読んでみよう。

―2008/01/18 金

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