極薄特濃日記

無駄の2乗、無駄の3乗、無駄の4乗、無駄の5乗、…懲りることないくりかえし。

茂木健一郎『すべては音楽から生まれる ―脳とシューベルト』(PHP文庫 2007年) 引用

2008-01-22 10:42:09 | Chance Operation
●橋本治『小林秀雄の恵み』から。
小林秀雄は、ある時能を観劇して、大きな衝撃を受ける。その体験を書いたエッセイで発せられた言葉が有名な「『花』の美しさなどない。美しい『花』があるばかりだ」というフレーズである。小林秀雄は、そこで「全的な認識」=「もののあはれを知ること」がどういったことなのかをじっさいに体験したのである。
「<『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。>
既に『本居宣長』への道はここに拓かれていて、『本居宣長』へと続く道は、このような道なのである。
『水の冷たさ』は、解釈を拒絶する。人の泣き笑いも、解釈を拒絶するものは、解釈を拒絶する。<空想>での泣き笑いは、その声を読者の耳に響かせることが出来ない。そして、文中から聞こえるまざまざとした泣き笑いの声は、下らない解釈を拒絶するのである。それが<常なるもの>なのである。だから、その<常なるもの>への反応を専らとするようになった小林秀雄は、『平家物語』のある部分を、完全に否定する。『ざまァみろ』と言いたいほどに見事な、『生半可の解釈』に対する否定、あるいは転覆である―。
<『平家』のあの冒頭の今様風の哀調が、多くの人々を誤らせた。『平家』の作者の思想なり人生観なりが、其処にあると信じ込んだが為である。一応、それはそうに違いないけれども、何も『平家』の思想はかくかくのものであると仔細らしく取り上げてみるほど、『平家』の作者は優れた思想家ではないという処が肝心なので、彼はただ当時の知識人として月並みな口を利いていたに過ぎない。>
私にとって『万歳!』と叫びたいような一撃である。『悲しいことに対して、もったいをつけて“悲しい”と言う―そんなことになんの意味があるのか。悲しいことは、ただ悲しいのである』―小林秀雄の言うことを煎じつめればこういうことである」。

「小林秀雄は西行である」(この一文が全体の文脈にどう接続するのかについては保留する)。では、西行とは誰なのか。
「西行は、どう違うのか?西行は、常に和歌の主題に『自分自身』を据える―つまり、『私小説の歌人』で、それが『自分を問題にする』以前に『和歌を詠むこと』を専らにしていた、彼と同時代人、あるいは前時代の歌人達とは違うのである。だから、<心なき身にもあはれは知られけり>の異色はあるのである。彼が単独でいると、『あまりにもむくつけな自分』ばかりが目立つ。ところが、『自分のあり方』というものを根本のところで問題にしないような熟練の歌人達の間に置くと、西行の歌が『そういうあなたはどうなの?』と問題提起しているように見え、他の歌がそれこそ<美食家がああでもないこうでもないと言っているように見える>になって、西行は『真の詩人』のように輝くのである。だから、当代の歌手の名手―見識高い名手は、こぞって西行を評価する。(中略)
歌合いに出された西行の歌を、藤原定家は、<左歌、世の中を思へばなべてといへるより終の句の末まで、句ごとに思い入て、作者の心深くなやませる所侍れば、いかにも勝侍らん>と評価した。その西行の歌は、<世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん>である。
この歌の独自性は、<散る花>と<わが身>が完全にイコールになっていることである。<散る花>を見て、西行が『どうしよう……(いつぢかもせん)』と言っているわけではない。<世の中を思へば>、もう<わが身>はそのまま<散る花>なのである。あっちこっちに散る桜の花びら一つ一つが<わが身>で、だから<いづちかもせん>と行く方向で迷うのである。だから定家は、<世の中の思へばなべてといへるより終の句の末まで、句ごとに思い入て、作者の心深く悩ませる所>がある―それがいいと言っているのである。『一句一句のすべてに思いが深い』とは、『どこまでも“自分、自分”である』ということでもある。桜の花びら一つ一つに『自分』を見出して、『どうしよう……』をくっつけている人は、そうそういない。しかし、それが西行なのである」。

●茂木健一郎『すべては音楽から生まれる ―脳とシューベルト』(PHP文庫 2007年)を読み了えた。

「この世はままならぬことばかりである。自分の理想とはほど遠い現状に憤慨や焦燥、諦念を覚えることも少なくはない。だが、座標軸があれば、周りがどう思おうと関係ない、という潔い強さを持てる。『周りがどうあろうと、自分の中から光を発し続けいればいいのだ』という域に達することができるのだ。その光源たり得るものとして、音楽はある。
『美しい』『嬉しい』『悲しい』『楽しい』……。一瞬一瞬に生身の体で感動することによって、人は、自己の価値基準を生み出し、現実を現実として自分のものにできるのである。それが『生きる』ということである。だからこそ、本当の感動を知っている人は、強い。生きていく上で、迷わない。揺るがない。折れない。くじけない。
音楽はそんな座標軸になり得る。音楽の最上のものを知っているということは、他の何ものにも代えがたい強い基盤を自分に与えてくれるのだ」。

「私にとって、『耳をすます』ことと、新しいことを『発想する』ことは、同義である。つまり、外界からの音を聴きながら、同時に、自分の内面に耳をすませ、なにがしかの意見や考えを発しているのだ。
『聴くこと』とは、自分の内面にある、いまだ形になっていないものを表現しようとする行為に等しい。余計な夾雑物なしに、『いかに内面に耳をすませられるか』という問題と日々闘っているといっていい。(中略)『耳をすます』とは、『私は○○を感じる』という主観性をさらに奥底まで掘り下げていく手段なのだ。
その深度は、脳の喜びの深さと比例する。そして深く掘り下げれば掘り下げるほど、普遍に至る道も拓かれるのだと気づいた。
入り口は、日常生活の中にいくらでもある。たとえば、雨の日のもの思い。雨音を聴いていると、不思議に心が安らぎ、自分が大海とひとつながりになっているような気がしてくる。あるいは、公園の中のお気に入りのコースの散歩。木々の合間を歩きながら風のざわめきや鳥の鳴声を聴いていると、心の中に、喜びの回路が広がり始める。
さらに、耳をすます。
すると、えもいわれぬ解放感が生まれてくる。これこそ、心が脳という空間的限定から解放される過程であり、<私>という個が、『今、ここ』という限定を超え、普遍への道に舞い降りた瞬間だといえる」。

「考えることにおいて重要なのは、『リズム』だと思っている。物事を上手に考えながら、思考を前へ前へと進めていく時、欠かせない同伴者は、リズムなのだ。それも、自分の中から生まれるリズムである。
脳内がいい音楽で満ちている時は、泉のように発想が湧いてくる。すると、一日の中の思索の時間において、いかに自分の内側にうまく音楽を鳴り響かせるか、というのが今の私の最たる興味かもしれない。
端的にいって、頭がいい人とは、脳の中にいい音楽が流れている人だと思う。そして私は、シューベルトやモーツァルト、ベートーヴェンやワーグナーといった作曲家の作品を聴く度に、偉大な音楽が生む濃密な時間の流れに匹敵するような密度でものを考えたいと心底思う。
脳内に音楽を鳴り響かせるのは、なにも思索の時間に限ったことではない。日々の生活におけるあらゆる場面に、リズムはさりげなく入り込んでいる。
人と話す時の間合いのとり方、話題の変え方、そして打ち切り方に至るまで、リズム一つで全体の印象はがらりと変わる。たとえば、相手に重要な話を切り出す時のタイミングとは、相手とのリズムをうまくつかめるか、つかめないかという問題なのだ。その時私たちは無意識のうちに、音のない音楽に耳をすませているのである」。

「そもそも私は、言葉というものを意味においてとらえていない。言葉は意味ではなく、リズムや音といった、感覚的なものに負う部分も多い。意味だけを求めると、本質からは遠くなってしまう。
この感覚がわかる人と共有できるものも多いが、わかってもらえないとすごくつらい。意味に囚われている人と話していると、堅苦しく息苦しいと感じてしまうことがある。だから、物事を音楽として感じているか否かというところに、分水嶺がある気がしてならない。共感できるかどうかの大きな分かれ道になるのだ」。

「「秘仏を実見しながら私が思ったことは、結局は人の心も、お互いに見ることの決してできない『絶対秘仏』である、ということだった。
『見てはいけない』『見ることができない』という禁則は、ギリシャ神話や古事記から綿々と続く大切なモチーフである。その対象である『見えないもの』とは、人間の心というものの本質と置き換えられるような気がした。
だから、おもしろい。だから脳は、不可視の『なにか』を無限に追い求める。その『なにか』を考えることが<私>の『喜び』、生命運動となり、ひいては『生きる』ということにつながっていく。
音楽と同じなのだ。
本体は、見えない。聞こえない。それを、いかに想像するか、ということ。聴くということの本質がここにある。
秘仏の本質に酷似したものとして、私は音楽をとらえる。それは『聴く』行為における、聴覚に優るとも劣らぬ想像力の重要性と、『なにかわからない』存在に備わる美しい生命力を感じることでもある。
目を閉じ、私は考える。
想像力と生命力は、<私>の脳の生きる糧に他ならない。これらを原動力に、私は自分なりの秘仏をコツコツと彫り続けていく。その先に生まれるであろう表現は、どのようなものであれ自分自身の生き方の果実である」。

「脳の中の神経細胞であるニューロンの働きは、交響曲(シンフォニー)を奏でているような全体像を持っているともいえます。つまりそれは、一千億個のニューロンが、ある法則とともに微妙に変化しながらそれぞれのタイミングで活動しているので、たとえば、一つひとつの働きに音を与えたらとしたら、その重なりはシンフォニーのようになるだろう、という意味です。
ですから、脳の中に音楽が入ってくることによって、もともと脳内にある『音楽』と共鳴を起こし、いろんなものが鳴り響いてくる、といった感覚があるのでしょう。つまり、ある音楽を聴いても、それを自分の中のシンフォニーとどれくらい共鳴させることができるかによって、感動の度合いが変わってくると私は考えています」。

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