5時起床。ポン太、ほんとうに夜中に鳴かなくなった。ぐっすり眠れる。とはいうものの、ポン太が来る前より、かなりの早起きになってしまった。朝起きて、Iがポン太のトイレを掃除をして、皿に餌を追加し、水を注ぎ足してやる。ポン太は、Iがトイレの砂を触り始めると、すぐ傍に寄ってきてちょこんと座り、その様子をじっと見つめている。餌は基本的にはドライフードを与えているのだが、朝起きたときだけ、一回分チャオをあげるようにしている。それを3日続けたら、朝はチャオがもらえると覚えたのか、Iが台所に行って、カチャカチャ用意し始めると、走り寄っていって、Iの足元でじっと待つようになった。
5時に起き、しばらくポン太が餌を食べたり、毛づくろいをしたりするのを観察し、それからパソコンを立ち上げ、日記を書き、6時過ぎにまた眠たくなったので、ポン太が寝そべっている床にいっしょに寝そべって、しばらくうつらうつらした。
朝飯は、粥とプリン。
昼飯は、久しぶりの激辛カップ麺。しばらくこういうジャンクフードは食べていなかったので、お腹の具合が悪くなるんじゃないかとびくびくして食べたのだが、案の定、食後しばらく胃に違和感があった。
午前中は、一昨日読み終えた樫村愛子『『ネオリベラリズムの精神分析 ―なぜ伝統や文化が求められるのか』を、再度、ノートを取りながら読み返した。
午後からは仕事が3件重なり、夜10時頃まで忙しく過ごした。そのうち1件はプレゼン用の資料作りだったので、夕方家に帰ってからやった。
夕飯は、サラダと豆腐。
<読書メモ>樫村愛子『『ネオリベラリズムの精神分析 ―なぜ伝統や文化が求められるのか』
※現在、フランス社会で、「プレカリテ」と呼ばれる現象が、問題になっている。「プレカリテ」とは「不安定化」という意味をもつ言葉で、「労働の流動化によって生活が不安定化し、住居を失い、貧困化することや、その過程で人々の連帯が解体していくさまを示している」。
この「プレカリテ」現象の背後には、労働や雇用の構造変化がある。「主要となる産業が情報・サービスへシフトするなど、産業構造の変化」があった。その結果、「多くの均質な工場労働者は不要となり、一握りの優秀な企画者や管理者と、第三世界(日本ではフリーターなど)の低賃金で働くスウェット労働者(十九世紀末、汗まみれ-スウェットで働いた繊維工場の悲惨な労働者の状況への回帰として、こういわれる)や、ディーセント(尊厳的)でない労働を行う者のみを必要とするようになった」。
フランスではこの「プレカリテ」現象を批判する言説が盛んだが、それは、「グローバリゼーション(その結果としての「プレカリテ」)が人々から生活の安定や豊かさだけでなく、存在の安定や関係の豊かさまで奪っていくという危惧があるからである」。
フランスには、豊かな人文主義的・政治的な言説の伝統があり、それを拠点にして、「プレカリテ」現象への批判的な言説が組織できる。しかし、日本には、そのような豊かな言説の伝統がなく、日本社会もフランスと同じ「プレカリテ」現象のなかにあるにもかかわらず、それに抵抗する言説を組織する拠点を持てないでいる。
※「再帰性」と、それを支える「恒常性」。
まず「再帰性」とは、「英社会学者ギデンズの言葉で、自分自身を意識的に対象化し、メタレベルから反省的視点に立って自己を再構築していく能力のことである」。つまり「再帰性」とは、自分のことは自分で考え、自分で決める、という存在の在りようを指した言葉である。
「現代の社会では、多くのことを自ら決定しコントロールする必要があり、再帰性は高まっている(けれども、再帰的な能力は人々の間で差があり、ついていけない人は打ち捨てられつつある。)」。
自分で自分を創っていく、という、この再帰性は、それ自体否定されるべきものではない。「再帰性が中核となる社会で重要なのは、どのような質の再帰性を確立できるか、また、再帰性をどのように確保し形成できるかということである」。
さて、しかしながら、人間はもともと「再帰的主体」として生まれるわけではない。「一定の教育や文化のもとで主体は形成されていくので、「再帰的主体の形成過程」を抜きに、再帰性は成立しない」。つまり、「人が再帰的人間になるためには、そのように育てられる過程が必要であるが、その過程は再帰的ではない」のである。
「再帰性」の概念を提示したギデンズ自身が、「再帰的主体を支えるものとして、「存在論的安心」という、再帰性と相容れない再帰性の外部にある概念を精神分析理論から導入している」。「精神分析が示すように、人は他者に絶対依存して生まれてくる。それなのに再帰的議論が想定するように、人が自分で何かを決定できるという前提に立てば、この初期の他者依存と、それがその後の人間にも及ぼす影響を見ることができなくなってしまう。他者に依存していた人間は、成長してからも他者に対して合理的な判断を超えた信頼や依存を持ち続け、それは、ネガティヴにもポジティヴにも作用する」。
他者に対する合理的な判断を超えた信頼や依存が担保されていることが、「存在論的安心」として、「再帰的主体」を支えている。
他者と他者が、ある超越的な信頼、依存を媒介にして、フィクショナルな共同性を実現している。「恒常性」とは、こうした、「他者と共に構成している、現実と距離をもつフィクション」のことである。「そしてそれは文化や社会と同義である」。
十全な再帰的主体であるためには、それが「恒常性」というフィクションに支えられている必要がある。しかしながら、現代の「プレカリテ」現象のなかでは、この「恒常性」が奪われつつある。
●「これまでの議論で、「再帰性」という議論を掲げてきたギデンズ自身が、専門化システムは大衆の信頼によって支えられていると述べていること、創造的な再帰性は実存性をはらむ象徴的なものによって支えられ、それは他者や社会と関わること、現実を留保する時間や空間が創造のために必要であること、現実にないものを見る想像力が社会を創造していくこと、などを見てきた。
この信頼、象徴性、想像性、留保などが、「恒常性」と関わるものであり、「プレカリテ」とネオリベラリズムの社会の中で奪われつつあるものである。そして「恒常性」とは、これまでの議論で垣間見られるように、現実と距離をもつフィクションであり、他者と共に構成しているものである。そしてそれは文化や社会と同義である。」
※ところで、「再帰性」が可能になるには、自分が“自由”であるという前提が必要になる。つまり、「再帰性の成立のためには、行為の対象が主体にとってコントロール可能なように脱制度化(制度ではなくなり、個人や市場のコントロールに委ねられていくこと)している必要がある」。これをギデンズは「脱埋め込み」という概念で示した。
「ギデンズは「脱埋め込み」を進めている「脱埋め込みメカニズム」を提示し、それには二つのタイプがあるとしている。それは、「象徴的通票」と「専門化システム」である。
まず「象徴的通票」とは、「標準的な価値を持った交換メディアであり、さまざまな文脈を横断して交換可能」なものを指す。
この第一の例として、ギデンズは「貨幣」を挙げる。ドルを出せば、言葉が通じなくても、例えば第三世界の材料や労働力が手に入る。貨幣に見られるような「象徴的通票」は、こうしてローカルな慣習やルールを掘り崩していく(「脱埋め込み化」する)。
次に「専門化システム」とは、「システムの実行者およびクライアントとは独立に有効性をもつ技術的知識様式を用いて、時間と空間を括弧に入れるもの」である。
例えば医療技術は、昔のように呪術を使う呪術者に帰属するものではなく、脱人格化している。学ぶことができれば誰でも使用可能であり、共有されるものとなった。専門技術も、やはり有効性を通してローカルなコンテクストを解体していくのである(「脱埋め込み化」)」。
※さて、「再帰性」は、しかし、「恒常性」の解体によって、現代においてはある「機能不全」に陥っている。
●「現在の再帰的社会に起こっている機能不全について、四つの観点から見ていこう。
1.専門化システムの高度化、専門化と大衆の乖離
まず、象徴的通票や専門化システムの高度化と、それによる専門家と大衆の乖離である。
脱埋め込み化により、時間と空間は拡大し、多くの知識が直接的に接触できる世界を超えたものとなる。(中略)
専門化システムは、専門知にアクセスできる人であれば、その正当性を手続き的に脱人格的に検証できる。そのことがシステムの信頼を支えている。しかし、大衆はそういった能力を持ち合わせているわけではない。それゆえ大衆の信頼のレベルは、基本的な社会への信頼といった漠然としたものに依然支えられる。今後、ますますそうなるだろう。
ギデンズはこのことを指摘し、専門性の細分化、専門的知識の更新の速さ、知の多様性などにより、人々の専門性への懐疑は、ポストモダン社会においてはさらに高まると述べる。(中略)
2.再帰性の格差
第二に、再帰性の格差である。
現在、社会(制度)の再帰化の進行に伴い、社会(制度)の再帰化についていけない人々が生み出され、そこに見られる主体の再帰性の格差が生じている。(中略)
制度が個人の再帰性をあてにした設計になっていると、制度を活用しうる資源や能力をもち、それあRの資本を再生産する人々とそうでない人々の格差は拡大していく。
例えば、介護保険制度では、要介護の認定には自己申告と自己登録が必要だが(最近の問題では年金!)、そのような知識や情報がなければ、保険料を請求されるがままに払っても、制度の恩恵に預かれない。(中略)
3.限定付きの再帰性
第三に、再帰性が限定付きの再帰性でしかないということである。
「再帰性」について、日本での文脈を振り返れば、それは「自己責任社会」といった言葉で語られ、進められているものである。国家や共同体が個人を規制することを排し、結婚のみならず教育や健康、福祉のあり方までも、自己デザインする社会を志向している。
しかし、よく指摘されるように、国民に与えられているのは限定付きの再帰性である。
例えば、「参加型福祉社会」における「参加」とは、現場の手足だけを意味している。解体しつつある地域を再興するボランティアの動員が叫ばれているが、地域計画に住民は参加できない。(中略)
お上決定方の日本の政治の伝統の中で、再帰性とは、社会学者の渋谷望が示すような「動員への参加イデオロギー」でしかない。主体的・能動的にボランティアに参加しているつもりでも、実際は安上がりな労働として使われ、行政サービスの切捨ての口実になっている。
4.マクドナルド化
第四に、社会の中の種々のシステムの制度設計において、合理化、自動化、再帰化を推し進めるにあたり、偶然性や創造性をはらむ知的・サービス的領域で、結果としては非合理性を生むような合理化がなされてしまうことである。
これは「マクドナルド化」と呼ばれている現象で、「社会システムのマクドナルド化」は、「主体のマクドナルド化」を帰結する」。
●「再帰性が、コントロールを意識し、操作性を高めることであるならば、計算可能性、予測性、制御を高めることが目指される。生産性のための効率性も望まれるだろう。しかし、計算や予測、制御には、不確実な点が存在する。その不確実性に対し、計算可能性を超えた判断や行為が要請されることもあり、むしろそれが創造性を形作る。
これに対し、マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。このようにマクドナルド化は、創造性の源泉を排除していく。(中略)
本来の再帰性は、オリジナルから変化することを含む。つまり本来的な再帰性-実質的合理性をはらんだ再帰性-は、この創造性を含むはずである。
私たちの生活は、生産賃金から医療保険のシミュレーション、老後の生活設計、毎日のカロリー計算まで、現在、管理によってがんじがらめになりつつある。(中略)
すべてが可視化され、私たちの毎日がタスクをこなすだけのものであるならば、私たちの生は枯渇してしまう。シミュレーションを前提にしつつ、むしろそこから跳躍する行為が求められている」。
●「スティグレールの言うように、予測不能性をはらんだ未来への期待こそが、個人の実存性を支える。すなわち、不確実な未来に対して、計算可能性を超えて想像し、行為することが、個人の生の固有性を形作る。が、情報の氾濫は、主体のこのような労働を節約しようとするあまり、主体にとって創造性を意味する行為そのものも奪ってしまう。」
●「象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「固体化」の衰退が広まると述べる。そうなれば、象徴的なものは瓦解し、それは欲望の瓦解を引き起こす。欲望とは人に対する欲望であり、人に対する関心を意味する。それが解体すれば、人は自分のことしか考えなくなる。これによって社会的なものが崩壊すれば、戦争状態に至ると彼は指摘する。
象徴的なものとは、人間が生きている意味を問うような実存的な領域であり、それは人が他者を欲望することとつながっている。そして、それが人と共に生きるという社会性を支えているのであり、それがなくなれば、自分と他者をつなぐものはなくなってしまう。
社会に対する構想とは、私とあなたが同じ痛みをもち、喜びを分かち合えるという前提に立って、人に対する関心や欲望から牽引されるものである。あとで見る「恒常的なもの」とは、そういった同一視に支えられている。
スティグレールは、人が動物的欲求の状態から他者と関わる欲望の状態へ移行することで、社会的存在となることを「固体化」と規定している。哲学者アレントは、同様の事態を「現れによる複数性の保持」という議論として示している」。
※「移行対象」(―「浮遊するシニフィアン」)という概念について
●「快感原則では、自分の快不快を中心に、子どもは妄想に近いことも想像する(子どもの頭の中ではお母さんは神に等しい)。その多くは修正されるが、目の間にいないお母さんは見えないところでも存在するという信念は現実にも正しいことが検証され、この想像は子どもの現実となる。このように現実における有効性を通して、人間的主観的世界は、現実の人間を支え、その中で科学的世界が形成されていく。
人間的現実とは、ラカンがいう想像界と象徴界が織り合わさったもの-人間の想像力によって構成されるフィクションと、それが現実に科学的に構成されていく象徴界が、コンビネーションできて存在しているもの-である。
両者はぴったりとは重ならない(科学や実践知が弱い宗教的社会などでは、かなり重なっていただろうが)。人間が認識を向上させていくときのジャンピングボードとして想像界は機能するからである。
ギデンズは、基本的信頼が、「未知なるものへの飛躍」というコミットメント、つまり、新しい種類の経験を受けいれる準備を可能にするとし、基本的信頼と創造性の結びつきを指摘する。カストリアディスのいう、新しいものを生む力は、こうして、基本的信頼という恒常性に依拠しているのである。」
●「ギデンズはさらに、基本的信頼から、人がアイデンティティや言語や世界を受容していく過程を、ウィニコットの「移行空間」論から記述している。
フロイトの議論は、糸巻遊びの中から「いない」と「いた」が結合されていることはわかっても、それがいつどのように結合されるのかは見えにくい。またくり返される遊びが終わって現実へと統合されるプロセスが見えづらい。
これに対し、ウィニコットの「移行空間」論は、遊びというフィクションが現実へと統合されるプロセスを記述している。
ウィニコットの「移行空間論」とは、人が主観的に生きている世界と現実の橋渡しをし、人間にとって常に外傷となりうる新しい現実との出会いやその処理を本人にとって無理のない形で受容させる装置である。
ウィニコットは「移行空間」において使用される道具を「移行対象」と規定して、その例としてぬいぐるみや毛布の切れ端などを挙げている。これはお母さんの代理である。ゆえにお母さんであってお母さんでない。こんなものをいつまでも抱えている子どもは、外から見れば幼稚に見える。しかしお母さんにしがみついているよりは断然自立の一歩を踏み出しているのであり、実際、そのうちぬいぐるみは捨てられていく。糸巻遊びの「いない」「いた」が結合し、それが不在のお母さんの代理ではなくなり、言語にって構造化されることで、遊びは終了し新しい現実認識が獲得されていく。
先述したように、基本的信頼の問題は、単に、それが、無力な人間に常に居続けるわけではない母の代理として幻想的な慰めや支えを与えるということに留まらず、その想像力が表象を媒介に言語(という恒常性、他者の代理)を生み、言語を通じて、現実認識を獲得していくという過程を意味している」。
●「近代初期の資本家たちは、これまで卑しい行為とされていた金銭獲得に励んだ。なぜこれまでと180度反対の思想や心情をもてたのだろうか。それはプロテスタンティズムの生み出した「神のための利得行為」という思想(=移行対象)のもとで、現実に利得行為に励むことができたのである。「神のための利得行為」という橋渡しが必要だったのである。
その隠れ蓑のもとで、利得行為は習得され習慣化され、それが身体化され社会化されれば(マルクスのいう物質的無意識的レベル、唯物論的レベルで)、もはやプロテスタンティズムの倫理は形骸化し必要ではなくなり、捨てられていく。
このように、移行空間の議論は、単に幼児の発達過程の問題だけでなく、「消滅する媒介装置」という議論として広く論じられる。そして人や社会が大きく変容するとき、主体の解体を防ぎ、ラディカルな変容を支えるものとして議論できる」。
●「一時「政治改革」という言葉が流行った時代があった。当時、左から右まですべての政治家が使用するオールマイティな言葉であった。それは、ラカンのいう「浮遊するシニフィアン」という意味内容が開かれている言葉であり、多くのものと結びつきうる移行対象であった。当時「政治改革」といっていれば何でもできた。人々から支持され、政治の舵取りを変えていける創造性や新しさの可能性があったのである。が同時に、何でも意味できるという意味の過剰性は、危険もはらんでいた」。
※人間にとって、言語の獲得もまた、「恒常性」を抜きにしてはありえない。
●「例えば、庭にきれいな桜が咲いていて、母親が「きれいな桜だね」「桜」とくり返し、子どもが指摘される目の前の映像に「桜」という音声を記憶において結合させていくとしよう。
次に子どもは、目の前をひらひら飛んでいく蝶を見て、花びらとの類似性から「桜」というかもしれない。このとき母親は、「あれは桜じゃなくて蝶だよ」と訂正するだろう。こうやって言葉は獲得されていく。
すなわち、このとき子どもは、桜の映像に対し、桜は「ひらひらしたもの」であり「蝶ではない」という情報をつけ加えていく。しかしこうやって追加情報をつけ加えられるのは、桜は「ひらひらした」「蝶ではない」「X(何か)」と措定できる、「X(何か)」という空項があるからである。(中略)
何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤の中で間違いが否定され、その中で真実が成立していくのが人間の言葉や情報の獲得過程である。ここでこの否定はいきなり外に現れるのではなくて潜在的なものであることに意味がある。(中略)
人間において言葉が何とでも結合し、驚くほどの可塑性をもつのは、カストリアディスも示唆していたように、このXという留保的措定ができるからである。留保的措定は、他者によって支えられる(今はわからなくてもすべてを知っている母がいつか教えてくれるといった期待において)。また、現実的には時間によって支えられる。未来とは他者であり、だからこそ他者が解体すると時間が解体するのである(時間とはフィクションであるから)。
このように恒常性とは、原理主義の夢想するレベルにあるユートピア的な蒙昧な幻想なのではなく、人間の生物学的条件において、人間が言語を中心とする認識機能を発展させていくために不可欠な唯物論的構造であることがわかる」。
●「人間は、他の動物と比べて他者に絶対に依存しており、その他者が現実的に不在になるとき、その不在(は同時に自身の不在を意味する)を言語によって代補し、恒存させた。
お母さんが目の前にいないという危機において、お母さんは「いない」という言葉によって、常に世界に存在しているものに変えたのだった。
動物的能力(目で見て認知できる能力)を超えて世界を記述するツールを得た人間は、本能の内部で自足している動物と比べ、どんどん自分にとって広がる世界に対し、逆に世界の無根拠さ、過酷さに立ち向かわなくてはならなくなった。
人間は、最初に他者の全能性に守られて、自分が全能だというポジションからスタートしている。それは想像的なものとしての自我の出発点であり人間を支えている。それゆえ自分が死ぬとか何でもないということは受け入れがたいし、自分が生きていることが無根拠であることも受け入れがたい。
しかし現実に適応していくためには、客観的に世界を認識する必要がある。この埋めがたい二つの自己-全能から出発してナルシシズムを引きずり、他者に依存する自己と、世界を認識、支配し、自分の世界を実質的に拡大するが、自己の卑小さをも受け入れざるをえない自己-の両者を生めるものが文化であるといってもよい」。
※さて、では、現在「恒常性」を奪われることで、機能不全に陥った「再帰性」を、十全なものに回復するためには、どうすればいいのか。
●「これまで見てきた議論でわかるように、今、進行している透明性や形式合理性の幻想のもとで破壊されている、個々人の固有性(スティグレールのいう固体化)や複雑性、それに伴う人々の行為の自由や創造性や豊かさ、それを保証する人々の想像性とそのベースとなる人々の信頼を確保していくことが文化の中身である。
それは本書の言葉でいえば、貧しい再帰性が破壊しようとする恒常性を守ることであり、しかし再帰性を排除するような貧しい恒常性(原理主義)も退けることである。
そしてまたコミュニケーションにまで切り詰められている文化(と文化的無意識)の深さや豊かさを取り戻し、コミュニケーションの場に張り付いて自らの存在と他者を確かめようとしている人々に、メタレベルの信頼や落ちつきや余裕を与える場や文化的・社会的認識を提供していくことであり、その場にフランクに参加できるようにすることである。
ドゥルーズがいうように、普段の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている人々に、現在の貧しいコミュニケーションとは異なる想像への回路を開き、管理を逃れるために非=コミュニケーションの空洞や断続器を作ることである」。
5時に起き、しばらくポン太が餌を食べたり、毛づくろいをしたりするのを観察し、それからパソコンを立ち上げ、日記を書き、6時過ぎにまた眠たくなったので、ポン太が寝そべっている床にいっしょに寝そべって、しばらくうつらうつらした。
朝飯は、粥とプリン。
昼飯は、久しぶりの激辛カップ麺。しばらくこういうジャンクフードは食べていなかったので、お腹の具合が悪くなるんじゃないかとびくびくして食べたのだが、案の定、食後しばらく胃に違和感があった。
午前中は、一昨日読み終えた樫村愛子『『ネオリベラリズムの精神分析 ―なぜ伝統や文化が求められるのか』を、再度、ノートを取りながら読み返した。
午後からは仕事が3件重なり、夜10時頃まで忙しく過ごした。そのうち1件はプレゼン用の資料作りだったので、夕方家に帰ってからやった。
夕飯は、サラダと豆腐。
<読書メモ>樫村愛子『『ネオリベラリズムの精神分析 ―なぜ伝統や文化が求められるのか』
※現在、フランス社会で、「プレカリテ」と呼ばれる現象が、問題になっている。「プレカリテ」とは「不安定化」という意味をもつ言葉で、「労働の流動化によって生活が不安定化し、住居を失い、貧困化することや、その過程で人々の連帯が解体していくさまを示している」。
この「プレカリテ」現象の背後には、労働や雇用の構造変化がある。「主要となる産業が情報・サービスへシフトするなど、産業構造の変化」があった。その結果、「多くの均質な工場労働者は不要となり、一握りの優秀な企画者や管理者と、第三世界(日本ではフリーターなど)の低賃金で働くスウェット労働者(十九世紀末、汗まみれ-スウェットで働いた繊維工場の悲惨な労働者の状況への回帰として、こういわれる)や、ディーセント(尊厳的)でない労働を行う者のみを必要とするようになった」。
フランスではこの「プレカリテ」現象を批判する言説が盛んだが、それは、「グローバリゼーション(その結果としての「プレカリテ」)が人々から生活の安定や豊かさだけでなく、存在の安定や関係の豊かさまで奪っていくという危惧があるからである」。
フランスには、豊かな人文主義的・政治的な言説の伝統があり、それを拠点にして、「プレカリテ」現象への批判的な言説が組織できる。しかし、日本には、そのような豊かな言説の伝統がなく、日本社会もフランスと同じ「プレカリテ」現象のなかにあるにもかかわらず、それに抵抗する言説を組織する拠点を持てないでいる。
※「再帰性」と、それを支える「恒常性」。
まず「再帰性」とは、「英社会学者ギデンズの言葉で、自分自身を意識的に対象化し、メタレベルから反省的視点に立って自己を再構築していく能力のことである」。つまり「再帰性」とは、自分のことは自分で考え、自分で決める、という存在の在りようを指した言葉である。
「現代の社会では、多くのことを自ら決定しコントロールする必要があり、再帰性は高まっている(けれども、再帰的な能力は人々の間で差があり、ついていけない人は打ち捨てられつつある。)」。
自分で自分を創っていく、という、この再帰性は、それ自体否定されるべきものではない。「再帰性が中核となる社会で重要なのは、どのような質の再帰性を確立できるか、また、再帰性をどのように確保し形成できるかということである」。
さて、しかしながら、人間はもともと「再帰的主体」として生まれるわけではない。「一定の教育や文化のもとで主体は形成されていくので、「再帰的主体の形成過程」を抜きに、再帰性は成立しない」。つまり、「人が再帰的人間になるためには、そのように育てられる過程が必要であるが、その過程は再帰的ではない」のである。
「再帰性」の概念を提示したギデンズ自身が、「再帰的主体を支えるものとして、「存在論的安心」という、再帰性と相容れない再帰性の外部にある概念を精神分析理論から導入している」。「精神分析が示すように、人は他者に絶対依存して生まれてくる。それなのに再帰的議論が想定するように、人が自分で何かを決定できるという前提に立てば、この初期の他者依存と、それがその後の人間にも及ぼす影響を見ることができなくなってしまう。他者に依存していた人間は、成長してからも他者に対して合理的な判断を超えた信頼や依存を持ち続け、それは、ネガティヴにもポジティヴにも作用する」。
他者に対する合理的な判断を超えた信頼や依存が担保されていることが、「存在論的安心」として、「再帰的主体」を支えている。
他者と他者が、ある超越的な信頼、依存を媒介にして、フィクショナルな共同性を実現している。「恒常性」とは、こうした、「他者と共に構成している、現実と距離をもつフィクション」のことである。「そしてそれは文化や社会と同義である」。
十全な再帰的主体であるためには、それが「恒常性」というフィクションに支えられている必要がある。しかしながら、現代の「プレカリテ」現象のなかでは、この「恒常性」が奪われつつある。
●「これまでの議論で、「再帰性」という議論を掲げてきたギデンズ自身が、専門化システムは大衆の信頼によって支えられていると述べていること、創造的な再帰性は実存性をはらむ象徴的なものによって支えられ、それは他者や社会と関わること、現実を留保する時間や空間が創造のために必要であること、現実にないものを見る想像力が社会を創造していくこと、などを見てきた。
この信頼、象徴性、想像性、留保などが、「恒常性」と関わるものであり、「プレカリテ」とネオリベラリズムの社会の中で奪われつつあるものである。そして「恒常性」とは、これまでの議論で垣間見られるように、現実と距離をもつフィクションであり、他者と共に構成しているものである。そしてそれは文化や社会と同義である。」
※ところで、「再帰性」が可能になるには、自分が“自由”であるという前提が必要になる。つまり、「再帰性の成立のためには、行為の対象が主体にとってコントロール可能なように脱制度化(制度ではなくなり、個人や市場のコントロールに委ねられていくこと)している必要がある」。これをギデンズは「脱埋め込み」という概念で示した。
「ギデンズは「脱埋め込み」を進めている「脱埋め込みメカニズム」を提示し、それには二つのタイプがあるとしている。それは、「象徴的通票」と「専門化システム」である。
まず「象徴的通票」とは、「標準的な価値を持った交換メディアであり、さまざまな文脈を横断して交換可能」なものを指す。
この第一の例として、ギデンズは「貨幣」を挙げる。ドルを出せば、言葉が通じなくても、例えば第三世界の材料や労働力が手に入る。貨幣に見られるような「象徴的通票」は、こうしてローカルな慣習やルールを掘り崩していく(「脱埋め込み化」する)。
次に「専門化システム」とは、「システムの実行者およびクライアントとは独立に有効性をもつ技術的知識様式を用いて、時間と空間を括弧に入れるもの」である。
例えば医療技術は、昔のように呪術を使う呪術者に帰属するものではなく、脱人格化している。学ぶことができれば誰でも使用可能であり、共有されるものとなった。専門技術も、やはり有効性を通してローカルなコンテクストを解体していくのである(「脱埋め込み化」)」。
※さて、「再帰性」は、しかし、「恒常性」の解体によって、現代においてはある「機能不全」に陥っている。
●「現在の再帰的社会に起こっている機能不全について、四つの観点から見ていこう。
1.専門化システムの高度化、専門化と大衆の乖離
まず、象徴的通票や専門化システムの高度化と、それによる専門家と大衆の乖離である。
脱埋め込み化により、時間と空間は拡大し、多くの知識が直接的に接触できる世界を超えたものとなる。(中略)
専門化システムは、専門知にアクセスできる人であれば、その正当性を手続き的に脱人格的に検証できる。そのことがシステムの信頼を支えている。しかし、大衆はそういった能力を持ち合わせているわけではない。それゆえ大衆の信頼のレベルは、基本的な社会への信頼といった漠然としたものに依然支えられる。今後、ますますそうなるだろう。
ギデンズはこのことを指摘し、専門性の細分化、専門的知識の更新の速さ、知の多様性などにより、人々の専門性への懐疑は、ポストモダン社会においてはさらに高まると述べる。(中略)
2.再帰性の格差
第二に、再帰性の格差である。
現在、社会(制度)の再帰化の進行に伴い、社会(制度)の再帰化についていけない人々が生み出され、そこに見られる主体の再帰性の格差が生じている。(中略)
制度が個人の再帰性をあてにした設計になっていると、制度を活用しうる資源や能力をもち、それあRの資本を再生産する人々とそうでない人々の格差は拡大していく。
例えば、介護保険制度では、要介護の認定には自己申告と自己登録が必要だが(最近の問題では年金!)、そのような知識や情報がなければ、保険料を請求されるがままに払っても、制度の恩恵に預かれない。(中略)
3.限定付きの再帰性
第三に、再帰性が限定付きの再帰性でしかないということである。
「再帰性」について、日本での文脈を振り返れば、それは「自己責任社会」といった言葉で語られ、進められているものである。国家や共同体が個人を規制することを排し、結婚のみならず教育や健康、福祉のあり方までも、自己デザインする社会を志向している。
しかし、よく指摘されるように、国民に与えられているのは限定付きの再帰性である。
例えば、「参加型福祉社会」における「参加」とは、現場の手足だけを意味している。解体しつつある地域を再興するボランティアの動員が叫ばれているが、地域計画に住民は参加できない。(中略)
お上決定方の日本の政治の伝統の中で、再帰性とは、社会学者の渋谷望が示すような「動員への参加イデオロギー」でしかない。主体的・能動的にボランティアに参加しているつもりでも、実際は安上がりな労働として使われ、行政サービスの切捨ての口実になっている。
4.マクドナルド化
第四に、社会の中の種々のシステムの制度設計において、合理化、自動化、再帰化を推し進めるにあたり、偶然性や創造性をはらむ知的・サービス的領域で、結果としては非合理性を生むような合理化がなされてしまうことである。
これは「マクドナルド化」と呼ばれている現象で、「社会システムのマクドナルド化」は、「主体のマクドナルド化」を帰結する」。
●「再帰性が、コントロールを意識し、操作性を高めることであるならば、計算可能性、予測性、制御を高めることが目指される。生産性のための効率性も望まれるだろう。しかし、計算や予測、制御には、不確実な点が存在する。その不確実性に対し、計算可能性を超えた判断や行為が要請されることもあり、むしろそれが創造性を形作る。
これに対し、マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。このようにマクドナルド化は、創造性の源泉を排除していく。(中略)
本来の再帰性は、オリジナルから変化することを含む。つまり本来的な再帰性-実質的合理性をはらんだ再帰性-は、この創造性を含むはずである。
私たちの生活は、生産賃金から医療保険のシミュレーション、老後の生活設計、毎日のカロリー計算まで、現在、管理によってがんじがらめになりつつある。(中略)
すべてが可視化され、私たちの毎日がタスクをこなすだけのものであるならば、私たちの生は枯渇してしまう。シミュレーションを前提にしつつ、むしろそこから跳躍する行為が求められている」。
●「スティグレールの言うように、予測不能性をはらんだ未来への期待こそが、個人の実存性を支える。すなわち、不確実な未来に対して、計算可能性を超えて想像し、行為することが、個人の生の固有性を形作る。が、情報の氾濫は、主体のこのような労働を節約しようとするあまり、主体にとって創造性を意味する行為そのものも奪ってしまう。」
●「象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「固体化」の衰退が広まると述べる。そうなれば、象徴的なものは瓦解し、それは欲望の瓦解を引き起こす。欲望とは人に対する欲望であり、人に対する関心を意味する。それが解体すれば、人は自分のことしか考えなくなる。これによって社会的なものが崩壊すれば、戦争状態に至ると彼は指摘する。
象徴的なものとは、人間が生きている意味を問うような実存的な領域であり、それは人が他者を欲望することとつながっている。そして、それが人と共に生きるという社会性を支えているのであり、それがなくなれば、自分と他者をつなぐものはなくなってしまう。
社会に対する構想とは、私とあなたが同じ痛みをもち、喜びを分かち合えるという前提に立って、人に対する関心や欲望から牽引されるものである。あとで見る「恒常的なもの」とは、そういった同一視に支えられている。
スティグレールは、人が動物的欲求の状態から他者と関わる欲望の状態へ移行することで、社会的存在となることを「固体化」と規定している。哲学者アレントは、同様の事態を「現れによる複数性の保持」という議論として示している」。
※「移行対象」(―「浮遊するシニフィアン」)という概念について
●「快感原則では、自分の快不快を中心に、子どもは妄想に近いことも想像する(子どもの頭の中ではお母さんは神に等しい)。その多くは修正されるが、目の間にいないお母さんは見えないところでも存在するという信念は現実にも正しいことが検証され、この想像は子どもの現実となる。このように現実における有効性を通して、人間的主観的世界は、現実の人間を支え、その中で科学的世界が形成されていく。
人間的現実とは、ラカンがいう想像界と象徴界が織り合わさったもの-人間の想像力によって構成されるフィクションと、それが現実に科学的に構成されていく象徴界が、コンビネーションできて存在しているもの-である。
両者はぴったりとは重ならない(科学や実践知が弱い宗教的社会などでは、かなり重なっていただろうが)。人間が認識を向上させていくときのジャンピングボードとして想像界は機能するからである。
ギデンズは、基本的信頼が、「未知なるものへの飛躍」というコミットメント、つまり、新しい種類の経験を受けいれる準備を可能にするとし、基本的信頼と創造性の結びつきを指摘する。カストリアディスのいう、新しいものを生む力は、こうして、基本的信頼という恒常性に依拠しているのである。」
●「ギデンズはさらに、基本的信頼から、人がアイデンティティや言語や世界を受容していく過程を、ウィニコットの「移行空間」論から記述している。
フロイトの議論は、糸巻遊びの中から「いない」と「いた」が結合されていることはわかっても、それがいつどのように結合されるのかは見えにくい。またくり返される遊びが終わって現実へと統合されるプロセスが見えづらい。
これに対し、ウィニコットの「移行空間」論は、遊びというフィクションが現実へと統合されるプロセスを記述している。
ウィニコットの「移行空間論」とは、人が主観的に生きている世界と現実の橋渡しをし、人間にとって常に外傷となりうる新しい現実との出会いやその処理を本人にとって無理のない形で受容させる装置である。
ウィニコットは「移行空間」において使用される道具を「移行対象」と規定して、その例としてぬいぐるみや毛布の切れ端などを挙げている。これはお母さんの代理である。ゆえにお母さんであってお母さんでない。こんなものをいつまでも抱えている子どもは、外から見れば幼稚に見える。しかしお母さんにしがみついているよりは断然自立の一歩を踏み出しているのであり、実際、そのうちぬいぐるみは捨てられていく。糸巻遊びの「いない」「いた」が結合し、それが不在のお母さんの代理ではなくなり、言語にって構造化されることで、遊びは終了し新しい現実認識が獲得されていく。
先述したように、基本的信頼の問題は、単に、それが、無力な人間に常に居続けるわけではない母の代理として幻想的な慰めや支えを与えるということに留まらず、その想像力が表象を媒介に言語(という恒常性、他者の代理)を生み、言語を通じて、現実認識を獲得していくという過程を意味している」。
●「近代初期の資本家たちは、これまで卑しい行為とされていた金銭獲得に励んだ。なぜこれまでと180度反対の思想や心情をもてたのだろうか。それはプロテスタンティズムの生み出した「神のための利得行為」という思想(=移行対象)のもとで、現実に利得行為に励むことができたのである。「神のための利得行為」という橋渡しが必要だったのである。
その隠れ蓑のもとで、利得行為は習得され習慣化され、それが身体化され社会化されれば(マルクスのいう物質的無意識的レベル、唯物論的レベルで)、もはやプロテスタンティズムの倫理は形骸化し必要ではなくなり、捨てられていく。
このように、移行空間の議論は、単に幼児の発達過程の問題だけでなく、「消滅する媒介装置」という議論として広く論じられる。そして人や社会が大きく変容するとき、主体の解体を防ぎ、ラディカルな変容を支えるものとして議論できる」。
●「一時「政治改革」という言葉が流行った時代があった。当時、左から右まですべての政治家が使用するオールマイティな言葉であった。それは、ラカンのいう「浮遊するシニフィアン」という意味内容が開かれている言葉であり、多くのものと結びつきうる移行対象であった。当時「政治改革」といっていれば何でもできた。人々から支持され、政治の舵取りを変えていける創造性や新しさの可能性があったのである。が同時に、何でも意味できるという意味の過剰性は、危険もはらんでいた」。
※人間にとって、言語の獲得もまた、「恒常性」を抜きにしてはありえない。
●「例えば、庭にきれいな桜が咲いていて、母親が「きれいな桜だね」「桜」とくり返し、子どもが指摘される目の前の映像に「桜」という音声を記憶において結合させていくとしよう。
次に子どもは、目の前をひらひら飛んでいく蝶を見て、花びらとの類似性から「桜」というかもしれない。このとき母親は、「あれは桜じゃなくて蝶だよ」と訂正するだろう。こうやって言葉は獲得されていく。
すなわち、このとき子どもは、桜の映像に対し、桜は「ひらひらしたもの」であり「蝶ではない」という情報をつけ加えていく。しかしこうやって追加情報をつけ加えられるのは、桜は「ひらひらした」「蝶ではない」「X(何か)」と措定できる、「X(何か)」という空項があるからである。(中略)
何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤の中で間違いが否定され、その中で真実が成立していくのが人間の言葉や情報の獲得過程である。ここでこの否定はいきなり外に現れるのではなくて潜在的なものであることに意味がある。(中略)
人間において言葉が何とでも結合し、驚くほどの可塑性をもつのは、カストリアディスも示唆していたように、このXという留保的措定ができるからである。留保的措定は、他者によって支えられる(今はわからなくてもすべてを知っている母がいつか教えてくれるといった期待において)。また、現実的には時間によって支えられる。未来とは他者であり、だからこそ他者が解体すると時間が解体するのである(時間とはフィクションであるから)。
このように恒常性とは、原理主義の夢想するレベルにあるユートピア的な蒙昧な幻想なのではなく、人間の生物学的条件において、人間が言語を中心とする認識機能を発展させていくために不可欠な唯物論的構造であることがわかる」。
●「人間は、他の動物と比べて他者に絶対に依存しており、その他者が現実的に不在になるとき、その不在(は同時に自身の不在を意味する)を言語によって代補し、恒存させた。
お母さんが目の前にいないという危機において、お母さんは「いない」という言葉によって、常に世界に存在しているものに変えたのだった。
動物的能力(目で見て認知できる能力)を超えて世界を記述するツールを得た人間は、本能の内部で自足している動物と比べ、どんどん自分にとって広がる世界に対し、逆に世界の無根拠さ、過酷さに立ち向かわなくてはならなくなった。
人間は、最初に他者の全能性に守られて、自分が全能だというポジションからスタートしている。それは想像的なものとしての自我の出発点であり人間を支えている。それゆえ自分が死ぬとか何でもないということは受け入れがたいし、自分が生きていることが無根拠であることも受け入れがたい。
しかし現実に適応していくためには、客観的に世界を認識する必要がある。この埋めがたい二つの自己-全能から出発してナルシシズムを引きずり、他者に依存する自己と、世界を認識、支配し、自分の世界を実質的に拡大するが、自己の卑小さをも受け入れざるをえない自己-の両者を生めるものが文化であるといってもよい」。
※さて、では、現在「恒常性」を奪われることで、機能不全に陥った「再帰性」を、十全なものに回復するためには、どうすればいいのか。
●「これまで見てきた議論でわかるように、今、進行している透明性や形式合理性の幻想のもとで破壊されている、個々人の固有性(スティグレールのいう固体化)や複雑性、それに伴う人々の行為の自由や創造性や豊かさ、それを保証する人々の想像性とそのベースとなる人々の信頼を確保していくことが文化の中身である。
それは本書の言葉でいえば、貧しい再帰性が破壊しようとする恒常性を守ることであり、しかし再帰性を排除するような貧しい恒常性(原理主義)も退けることである。
そしてまたコミュニケーションにまで切り詰められている文化(と文化的無意識)の深さや豊かさを取り戻し、コミュニケーションの場に張り付いて自らの存在と他者を確かめようとしている人々に、メタレベルの信頼や落ちつきや余裕を与える場や文化的・社会的認識を提供していくことであり、その場にフランクに参加できるようにすることである。
ドゥルーズがいうように、普段の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている人々に、現在の貧しいコミュニケーションとは異なる想像への回路を開き、管理を逃れるために非=コミュニケーションの空洞や断続器を作ることである」。