●昨日読んだ古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』(講談社 2007年)から、古井由吉が「近代―現代」という時代について書いている箇所を引く。
「世界のどこかで惨事が起こる。理解を絶したことだと呆然としていると、そこに至るまでの、関係地域や関係民族の歴史を人に教えられて、そういうことだったのかと得心する。しかししばらくの後、たしかに歴史的な経緯はよほど呑みこめたが、それにしてもそこからどうしてこのような事件が生じたのかと、その発生の境のところがさらに不可解になる。事件そのものに、長い歴史の陰翳が濃く落ちているようには、かならずしも見えないのです。
すべては長い歴史から、由って来たるもののはずですが、近代は異常に屈折率の高いレンズのようなものであるらしく、歴史はそこに入ると鋭い角度で方向が折れる。レンズならそれだけだが、近代は歴史の質まで変える。普遍と言えば聞こえはよいが、すべてが同質になりやすい。極端まで行けば、無質になりかねない」。
この古井由吉の言葉を受けて、松浦寿輝はこう書いている。
「グローバリゼーションもインターネットも、言ってみれば、もはや『外部』はないという宣言です。岬を回りこんで新たな海域に出ようとしても、もはや既知なるものとしかめぐり遭えない。『近代』の船が逢着しつつある『異域』と古井さんが呼ばれたものは、案外、そうしたあっけない場所なのかもしれない。
『近代』は、破船の刻を先へ先へと繰り延べつつ、しかも破船への切迫した脅えそれ自体をむしろ原動力としつつ、航行を続けてきたような按配ですが、どうやら船は、難船という華々しい悲劇的運命を享受する以前に、燃料切れでぶざまに立ち往生し、新たな岬の在り処を遠望しようとする熱望そのものを、曖昧に萎えさせつつある。
言語の危機、と古井さんは言われた。まことにごもっともと思うのは、言語とは本来、『外部』それ自体に属するものだからです。『内部』の者同士の意思疎通に益する道具が言語だというのは俗見にすぎない。人間にとって言語は、とりわけ自国語は、絶対的な『外部』であり、どうしても手の届かぬ彼方に退いてゆく永遠の異物であるはずだ。ところが、今人々は、『内部』の閉域での符牒のやったり取ったりだけでコミュニケーションの用は足りると信じ、言語というこの怪異な化け物への畏れをすっかり失ってしまっているようです」。
「近代」が「異様な屈折率を持つレンズ」のようなものであるなら、「いま、ここ」を構成する「歴史」を知るためには、その「屈折率」を解きながらでなければなしえない。
「いま、ここ」を構成する「歴史」を知りえたとき、はじめて「次手」を指すことができるはずである。
しかし、それは幻想に過ぎず、もはや「歴史」という概念自体が失効しているのかもしれない。
どのような「言葉」が、この同質化した世界を、異様性―多様性へと切り開く力を持つのだろうか。
●小説は、今、どのようにして書かれえるのだろうか。
松浦は、今は、「距離のパトスのない時代」だと、ニーチェを引く。
「『偶像の黄昏』でしたか、ニーチェがおもしろいことを言っていて、ルネッサンスのような『強い』時代には、人と人との間、階級と階級との間に距離があり、その距離にパトスがみなぎっていた。そのパトスを通じてこそ、自分が自分自身になり、自分を他から卓越させたいという欲望が実現されたんだと。ニーチェ自身の生きていた十九世紀後半のドイツはそういう『強い』時代ではあり得ないという嘆きなんでしょうが、さらに時代がくだって、我々はそれよりさらにいっそう『弱い』時代を生きている。『距離のパトス』が失われているんですね。そうすると、結局、個人ひとりひとりが自分自身の内面に無理やり『距離』をつくり出していくしかない。これは何とも厳しい途ですよね。切羽詰った力業によって、そのつど捏造されるほかない文学の発生でしょう」。(松浦)
「距離のパトスがない」とはどのような事態を指すのか。
例えば小説に登場する誰が何をやっても、そのすべてが作者の恣意的な操作によるものでしかないという感覚。つまり、そこで描かれる人物の行動も心理も、現実に生きている自分とは、直接切り結ぶことのない、空疎な虚構でしかないといった感覚。こうした感覚は、「(作者である)個人ひとりひとりが自分自身の内面に無理やり『距離』をつくり出している」ことに由来するのかもしれない。小説を読むときにつきまとう徒労感は、小説を読むということが、そうした空疎な虚構に付き合うということを強いられる体験だからにほかならない。
「距離のパトス」がないということは、「歴史的な必然」もないということである。いや、「ない」というのは言い過ぎかもしれない。限りなく希薄になって、ほとんど「ない」に等しくなっている状態。小説の作者は、そのうっすらした濃淡を見据えて、そこに無理やり「距離」を「捏造」する。
「登場人物を造形し、その人物たちに何か葛藤を起こさせる、そういう仕掛けはとりあえずの口実に過ぎないのか、それとも小説の基本的な条件だと思ってらっしゃるところがそれでも多少はあるのか」。(松浦)
「基本的な条件でしょうね。ただ、その人間の出し方や葛藤の表し方について、近代小説はそれ自身の虚構で膨れ上がっているわけです。小説を評するときに、人間が書けている、人間関係の屈曲がよく出ているなんて常套句があるでしょう。でも、現実に人と渡り合っているとき、ああいう文学的な人間認識にどれだけリアリティがありますか。ドストエフスキーの時代ならともかく、小説の人間認識という神話はもう信じられないですね」。(古井)
「ドストエフスキーみたいな小説はもう成り立ちにくいでしょうね。」(松浦)
「だから、私の事としては、出来るだけ小説的な要素を切り詰めたほうがいいと思うんです。これ以上いったら小説としては成り立たないその際まで切り詰めたほうが、あるいは現実に人と渡り合う人間たちの認識や感情と一瞬出会う可能性がある」。(古井)
「言語は『わたし』という観念を、その文の理つまり文法の、『始め』に据えているのではないでしょうか。あらゆるセンテンスは、『わたしは言う』あるいは『わたしは思う』あるいは『わたしは聞く』あるいは『わたしはそれを真相と取る』など、その否定的な形も含めて、たいてい省略されていますが、これに支配されているのではありませんか。われわれ当今の作家の、しがない推敲も、この始めの「わたし」に照らしてのことではありませんか。
推敲のことはどうでも、ワタシの輪郭が崩れ去れば、アナタもソナタもなくなる。事物と事物との、同じも違うもない。何々であるも何々でないも、ない。すべて境界が失せて混然となり弁別がつかない。そのような極限は実際にあるでしょう。極度の下に置かれた人の心を、私は思います。とにかく、物が言えなくなる。
薄められた極限と言えば皮肉になりますが、満遍もないその予兆の中でわれわれの『わたし』は崩壊を思う。しかしそのつどあらためて自己を回復するその運動が、『わたし』というものなのでしょう」。(古井)
●いかにも小説に登場しそうな登場人物が、いかにも小説に書かれそうな人間関係の屈曲にもまれて、そのなかで葛藤し、融和する。そのような数多の小説は、現実を生きている「私」のリアリティとは、無関係に生産され、消費されている。
では、リアリティのある小説は、どのように書かれえるのか。
「今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね」。(古井)
―2008/01/10 木
「世界のどこかで惨事が起こる。理解を絶したことだと呆然としていると、そこに至るまでの、関係地域や関係民族の歴史を人に教えられて、そういうことだったのかと得心する。しかししばらくの後、たしかに歴史的な経緯はよほど呑みこめたが、それにしてもそこからどうしてこのような事件が生じたのかと、その発生の境のところがさらに不可解になる。事件そのものに、長い歴史の陰翳が濃く落ちているようには、かならずしも見えないのです。
すべては長い歴史から、由って来たるもののはずですが、近代は異常に屈折率の高いレンズのようなものであるらしく、歴史はそこに入ると鋭い角度で方向が折れる。レンズならそれだけだが、近代は歴史の質まで変える。普遍と言えば聞こえはよいが、すべてが同質になりやすい。極端まで行けば、無質になりかねない」。
この古井由吉の言葉を受けて、松浦寿輝はこう書いている。
「グローバリゼーションもインターネットも、言ってみれば、もはや『外部』はないという宣言です。岬を回りこんで新たな海域に出ようとしても、もはや既知なるものとしかめぐり遭えない。『近代』の船が逢着しつつある『異域』と古井さんが呼ばれたものは、案外、そうしたあっけない場所なのかもしれない。
『近代』は、破船の刻を先へ先へと繰り延べつつ、しかも破船への切迫した脅えそれ自体をむしろ原動力としつつ、航行を続けてきたような按配ですが、どうやら船は、難船という華々しい悲劇的運命を享受する以前に、燃料切れでぶざまに立ち往生し、新たな岬の在り処を遠望しようとする熱望そのものを、曖昧に萎えさせつつある。
言語の危機、と古井さんは言われた。まことにごもっともと思うのは、言語とは本来、『外部』それ自体に属するものだからです。『内部』の者同士の意思疎通に益する道具が言語だというのは俗見にすぎない。人間にとって言語は、とりわけ自国語は、絶対的な『外部』であり、どうしても手の届かぬ彼方に退いてゆく永遠の異物であるはずだ。ところが、今人々は、『内部』の閉域での符牒のやったり取ったりだけでコミュニケーションの用は足りると信じ、言語というこの怪異な化け物への畏れをすっかり失ってしまっているようです」。
「近代」が「異様な屈折率を持つレンズ」のようなものであるなら、「いま、ここ」を構成する「歴史」を知るためには、その「屈折率」を解きながらでなければなしえない。
「いま、ここ」を構成する「歴史」を知りえたとき、はじめて「次手」を指すことができるはずである。
しかし、それは幻想に過ぎず、もはや「歴史」という概念自体が失効しているのかもしれない。
どのような「言葉」が、この同質化した世界を、異様性―多様性へと切り開く力を持つのだろうか。
●小説は、今、どのようにして書かれえるのだろうか。
松浦は、今は、「距離のパトスのない時代」だと、ニーチェを引く。
「『偶像の黄昏』でしたか、ニーチェがおもしろいことを言っていて、ルネッサンスのような『強い』時代には、人と人との間、階級と階級との間に距離があり、その距離にパトスがみなぎっていた。そのパトスを通じてこそ、自分が自分自身になり、自分を他から卓越させたいという欲望が実現されたんだと。ニーチェ自身の生きていた十九世紀後半のドイツはそういう『強い』時代ではあり得ないという嘆きなんでしょうが、さらに時代がくだって、我々はそれよりさらにいっそう『弱い』時代を生きている。『距離のパトス』が失われているんですね。そうすると、結局、個人ひとりひとりが自分自身の内面に無理やり『距離』をつくり出していくしかない。これは何とも厳しい途ですよね。切羽詰った力業によって、そのつど捏造されるほかない文学の発生でしょう」。(松浦)
「距離のパトスがない」とはどのような事態を指すのか。
例えば小説に登場する誰が何をやっても、そのすべてが作者の恣意的な操作によるものでしかないという感覚。つまり、そこで描かれる人物の行動も心理も、現実に生きている自分とは、直接切り結ぶことのない、空疎な虚構でしかないといった感覚。こうした感覚は、「(作者である)個人ひとりひとりが自分自身の内面に無理やり『距離』をつくり出している」ことに由来するのかもしれない。小説を読むときにつきまとう徒労感は、小説を読むということが、そうした空疎な虚構に付き合うということを強いられる体験だからにほかならない。
「距離のパトス」がないということは、「歴史的な必然」もないということである。いや、「ない」というのは言い過ぎかもしれない。限りなく希薄になって、ほとんど「ない」に等しくなっている状態。小説の作者は、そのうっすらした濃淡を見据えて、そこに無理やり「距離」を「捏造」する。
「登場人物を造形し、その人物たちに何か葛藤を起こさせる、そういう仕掛けはとりあえずの口実に過ぎないのか、それとも小説の基本的な条件だと思ってらっしゃるところがそれでも多少はあるのか」。(松浦)
「基本的な条件でしょうね。ただ、その人間の出し方や葛藤の表し方について、近代小説はそれ自身の虚構で膨れ上がっているわけです。小説を評するときに、人間が書けている、人間関係の屈曲がよく出ているなんて常套句があるでしょう。でも、現実に人と渡り合っているとき、ああいう文学的な人間認識にどれだけリアリティがありますか。ドストエフスキーの時代ならともかく、小説の人間認識という神話はもう信じられないですね」。(古井)
「ドストエフスキーみたいな小説はもう成り立ちにくいでしょうね。」(松浦)
「だから、私の事としては、出来るだけ小説的な要素を切り詰めたほうがいいと思うんです。これ以上いったら小説としては成り立たないその際まで切り詰めたほうが、あるいは現実に人と渡り合う人間たちの認識や感情と一瞬出会う可能性がある」。(古井)
「言語は『わたし』という観念を、その文の理つまり文法の、『始め』に据えているのではないでしょうか。あらゆるセンテンスは、『わたしは言う』あるいは『わたしは思う』あるいは『わたしは聞く』あるいは『わたしはそれを真相と取る』など、その否定的な形も含めて、たいてい省略されていますが、これに支配されているのではありませんか。われわれ当今の作家の、しがない推敲も、この始めの「わたし」に照らしてのことではありませんか。
推敲のことはどうでも、ワタシの輪郭が崩れ去れば、アナタもソナタもなくなる。事物と事物との、同じも違うもない。何々であるも何々でないも、ない。すべて境界が失せて混然となり弁別がつかない。そのような極限は実際にあるでしょう。極度の下に置かれた人の心を、私は思います。とにかく、物が言えなくなる。
薄められた極限と言えば皮肉になりますが、満遍もないその予兆の中でわれわれの『わたし』は崩壊を思う。しかしそのつどあらためて自己を回復するその運動が、『わたし』というものなのでしょう」。(古井)
●いかにも小説に登場しそうな登場人物が、いかにも小説に書かれそうな人間関係の屈曲にもまれて、そのなかで葛藤し、融和する。そのような数多の小説は、現実を生きている「私」のリアリティとは、無関係に生産され、消費されている。
では、リアリティのある小説は、どのように書かれえるのか。
「今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね」。(古井)
―2008/01/10 木