ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

電車で行く「薩摩街道」 (その11: 川尻宿 :熊本城攻めの薩軍本営の地)

2019-01-15 05:35:16 | Weblog


(写真は、「川尻宿」の「薩軍本営」で、熊本城攻めの指揮を執るNHK大河「西郷どん」の鈴木恭平) 

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「熊本宿」に続いて 、
今回は「川尻(かわしり)宿」を散策します。


「川尻宿」は、熊本から八代、鹿児島へと結ぶ「薩摩街道」の
宿場町だったので、参勤交代の薩摩藩や相良(さがら)藩の
宿泊のための本陣がありました。

また、川尻宿は、細川藩の重要な軍港で、かつ藩の年貢米の
集積・積出港でもあったので、港町として大いに栄えました。


JR熊本駅から10分、2駅目のJR川尻駅で下車します。

川尻町は、中学時代に住んでいた町なので、懐かしくて
ドキドキしながら、JR川尻駅で下ります。

中学時代は、ここから、熊本宿の北の端の熊本大学附属中学へ
バス通学していました。

川尻駅入口信号の交差点から、薩摩街道沿いに南へ向かって
歩き始めます。



川尻町を訪れるのは、中学時代以来ですが、川尻町のメイン
ストリートの雰囲気は、余り変わっていない様な気がします。

先ず、街道沿いの次頁の写真の「くまもと工芸会館」に入り、
「川尻マップ」を貰って、文末の地図を見ながら散策します。






上の写真は、創業200余年の和菓子の「天明堂」です。



薩摩街道沿いの左右には、上の写真の熊本伝統工芸の「刃物
工房」があり、江戸時代の川尻宿の歴史を感じさせます。



街道を右手の道に入ると、写真の「瑞鷹(ずいよう)酒造」の
建物と工場があります。(国の景観重要建造物)






この瑞鷹の先に、西南戦争の熊本城攻めの際に、薩摩軍が本陣
として使った写真の「川尻薩軍本営」跡(今村邸)があり
ました。







NHK大河「西郷どん」では、西郷隆盛は、この「薩軍本営」
から、放火で燃え上がる熊本城の煙を眺めています。

川尻の町は、西郷隆盛以下、1万5千人の兵で埋め尽くされ
ました。



このとき、西南戦争に参加した川尻町出身者は、政府軍
15名、薩摩軍50名でした。

この辺りは、政府軍の川尻奉行所があったところでもあります
が、当時の川尻町奉行は、上田休(やすみ)でした。

上田休は、西南戦争の際、戦時下の川尻町の治安を守るため
に、鎮撫隊を組織しましたが、戦後、薩摩軍に与したとして
処刑されました。



上の写真は、薩軍本営跡の少し先にある、加勢川沿いの木造
2階建て「川尻の御蔵」ですが、御蔵は熊本地震で被災した
ため修復工事中でした。

川尻港は、年貢米の集積・積出港だったので、20万俵もの
米が、ここ「川尻の御蔵」に集められました。


その年貢米の荷揚げや船積のために設けられたのが、次の
写真の「川尻御蔵前の船着場」です。(国指定史跡)





潮の干満や水量の増減に影響を受けないように、長さ
150メートルにわたって14段の石段を設けています。


中学時代、この石段には、我が家の池の金魚のために、よく
浮草を取りに来ていましたが、この様な歴史ある石段だとは
全く気付きませんでした・・・

「川尻御蔵前の船着場」の先に、「御船手 渡し」跡の説明杭が
ありました。

それによると、「御船手」とは「水軍」のことで、川尻の
「御船手」は、加藤清正が設けました。





細川藩時代には、川尻港には、常に軍船が浮かんでおり、
「細川藩 御船手」として有名だったそうです。

前頁の写真は、川尻御船手の近くの「川尻の札座跡」の
説明板です。

それによると、藩札(紙幣)を刷る札座を、港町として
栄えていた川尻に置いたそうです。


上の写真は、川尻薩軍本営跡の隣にある安政年間創業のうなぎ
めしの「七代目 若松屋」です。

早い時間だったので、残念ながら未だ営業開始前でした。

川尻町のメインストリートの雰囲気は、私の中学時代と余り
変わっていないものの、一歩住宅街に入ると、昔の面影が全く
なく、町名変更等もあり、私の住んでいた家も、どの辺り
だったのか全く分かりませんでした。




JR川尻駅からJR熊本駅へ戻りますが、最近、川尻駅と熊本駅
の間に新しく出来たJR西熊本駅で下りてみます。



JR西熊本駅は、私が小学4年生のときに住んでいた苅草
(かりくさ)町に最近出来た新設の駅です。





私は、ここ苅草に住んでいるときは、ここの校区の次頁の
写真の「力合(りきごう)小学校」に通っていました。




JR熊本駅に戻り、お昼過ぎに、駅の構内の食堂で、写真の
「郷土盛り合せのほろ酔いセット」(1,280円)を注文
します。



懐かしい馬刺し、辛子蓮根等と生ビールがセットになって
います。

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電車で行く「薩摩街道」 (その10:熊本宿: 城下町)

2019-01-14 07:31:45 | Weblog


(写真は、船場山の狸)

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「熊本城」に続いて 、
今回は熊本宿の「城下町」を散策します。

薩摩街道は、熊本城の中を抜けて、前回のゴールの「札ノ辻」
をスタートします。


一つ先を左折すると、一新幼稚園に突き当たるので、ここを
右折します。



薩摩街道は、すぐにまた左折して、市電のある道に出ます。



電車道に「諸毒消丸の吉田松花堂」という大きな横看板を
掲げた旧い屋敷があります。


「吉田松花堂」は、江戸末期の創業で、佐賀・鍋島藩の御典医
でシーボルトの弟子だった「吉田順碩」が、熊本に来て、
「毒消丸」(どくけしがん)を創製、販売したのが始まりです。


毒消丸は、今も製造販売されており、動悸、息切れ、夜泣き、
下痢、消化不良などに効くそうです。

因みに、ここ吉田松花堂の跡取り娘は、私と中学校で同じ
クラスで、毒消丸というあだ名でした。

電車通りを進むと、明治7年創業の写真の「長崎次郎書店」が
あり、、現在も、2階で喫茶店を営業しています。

現在の建物は、大正13年建築で、2階の連続したアーチや
軒廻りの装飾に特色があります。(国有形文化財)
当時は、森鴎外や夏目漱石も訪れ、また最近では、村上春樹も
お忍びで来たそうです。
薩摩街道歩きも、この喫茶店で一休みします。

眼下の路面電車を眺めながら、のんびりとします。


長崎次郎書店を出ると、電車通りは先の新町交差点で左へ
曲がりますが、薩摩街道は直進します。

新町交差点周辺の新鳥町商店街は、ノスタルジックな昭和が
漂う町で、写真の江戸創業のおもちゃ問屋「むろや」などが
軒を連ねます。

この「むろや」で、次頁の写真の「熊本城下町歴史鳥瞰図
:文化文政年間」(2,100円)を買いました。


この古地図を片手に、熊本宿の城下町の散策を続けます。

薩摩街道から少しだけ外れますが、ここから電車に乗って、
次の「船場」町の「洗馬橋」電停で下りると、童謡「肥後
手まり唄」で有名な「船場(せんば)」です。




写真は洗馬橋の電停と洗馬橋の欄干です。 



あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 
熊本どこさ 船場(せんば)さ

 船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 
煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと
隠(かぶ)せ


江戸時代、洗馬橋の周辺は、坪井川を行き来して、領内外の
商品を輸送する船の船着き場があったので、「船場町」の地名
になりました。


洗馬橋から、長崎次郎書店の前へ戻って、薩摩街道を直進
します。


少し進むと、明治8年に板橋から石造の眼鏡橋に架け替え
られた、坪井川に架かる「明八橋」があります。


明八橋の脇に「新三丁目御門」跡の案内板がありました。





それによると、江戸時代、明六つ(午前6時)に開き暮六つ
(午後6時)に閉ざされる、下の写真の「櫓門」があった
そうです。



ここは、城下町の出入口で、薩摩街道の要衝だったので、
「新三丁目御門」として守りを固めていたそうです。

明八橋を渡って、雰囲気のある家に突き当たって左折します。


この辺りが「唐人町」で、古い建物が散見されます。


古い建物の中には、未だ、青いビニールシートを被せた地震の
爪跡が生々しい家が点在します。




街並みを見ながら暫く行くと、前方の交差点の一つ手前に
古荘本店があり、ここを右折すると、直ぐに、白川に突き
当たり、左手に次頁の写真の「長六橋」があります。



「薩摩街道」は、この長六橋を渡って、次の「川尻宿」へ
向かいます。
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電車で行く「薩摩街道」 (その9:熊本宿: 熊本城と西南戦争)

2019-01-13 06:08:51 | Weblog


(写真は、熊本城を見下ろす花岡山の中腹の「官軍墓地」)

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「田原坂」に続いて 、
今回は「熊本城」周辺を散策します。

(田原坂については、(田原坂 散策歴史)と(田原坂 散策
を見てね。)


「薩摩街道」の「熊本宿」の北の端から、南の方へ歩いて
行きます。

熊本宿の北の端に位置するのは、次頁の写真の我が母校
「熊本大学附属中学校」です。




中学時代は、歴史に興味がなかったせいか、我が母校の横の
道路が「薩摩街道」だとは知りませんでした。

我が母校の隣に「光永寺」がありました。


「史蹟 光永寺」の門の脇の白い標柱には、もともとは山鹿宿
にあった光永寺を、加藤清正が、熊本城の築城の際に、ここに
移転させ、築城の余材で建造させた、と書かれています。



3年間も毎日通学したのに、母校の隣がお寺だったという記憶
がありません。

歴史に無関心というのは恐ろしい・・・

そして、お寺の門には、何と!、西南戦争の弾痕の跡が残って
います!


えぇ~?、西南戦争では、我が母校の隣で撃ち合いをやって
たの?

光永寺を出て、薩摩街道を進みます。


街道沿いの上の写真の「池田屋醸造」は、1792年創業の老舗
です。


薩摩街道沿いの電柱には、前頁の写真の様に「京町は清正公
さんのおひざもと!!」の標語?が張られています。
加藤清正は、熊本では「清正公(せいしょこ)さん」と
呼ばれ、県民から慕われている郷土の英雄なのです。

薩摩街道の右手に、上の写真の小さな観音堂のような建物が
あり、その前に、下の写真の「清正のまちと街路づくり」の
案内板がありました。

その案内板によると、加藤清正は、熊本城の築城と並行して、
ここ京町に、町家を移転して町づくりにも力を入れました。

関が原の戦いで西軍に味方して敗れた柳川・立花藩や、
宇土・小西藩の家臣団を、ここ京町台地に住まわせたこと
から、京町の通りを、柳川小路や宇土小路と呼ぶように
なったそうです。

西軍の家臣団を城下に集めたりして、家康に睨まれる恐れは
なかったのでしょうかねえ。



薩摩街道は、熊本城の城内に入る直前に、写真の様に、
ゆるやかに左に曲がり、直ぐに右に曲がる「枡形」に
なります。



「京町一丁目」の信号を右折して、直ぐに左折すると、熊本城
への入口となる新堀橋があります。





新堀橋を渡ると、正面に地震の復旧工事中の「監物櫓
(けんもつやぐら)」が見えてきます。





西南戦争では、熊本城の守備隊は、この「監物櫓」の脇の
赤丸印の石垣の場所に大砲を据えて、赤矢印の方向の西郷軍
を狙い撃ちにしたそうです。

籠城策を採用した熊本城・鎮台司令官の谷干城(たに 
たてき)は、西郷軍の総攻撃の2日前に熊本城に火を放ち
ました。

(出火原因については諸説あり。)


(NHK英雄たちの選択「決戦西南戦争」から)
これは、戊辰戦争の際に、会津城の天守が、砲撃の目標に
された教訓からでした。


(NHK英雄たちの選択「決戦西南戦争」から)
同時に、城下町も焼き払ってしまいます。

これは、敵に利する可能性のある家屋を焼毀するためでした。


(NHK英雄たちの選択「決戦西南戦争」から)

熊本城の攻防戦は、熊本城を取り囲む西郷軍14.000人対、
熊本鎮台の守備隊4,000人の52日間にも及ぶ篭城戦と
なりました。

話を戻して、薩摩街道は、監物櫓の石垣を見ながら右折
すると、左手に長さが百間あると言われる、地震で壊滅状態
の次頁の写真の「百間石垣」があります。



熊本では、「清水の舞台から飛び降りる」とは言わないで、
「百間石垣後ろ飛び」と言います。

これは、昔、三東弥源太という若者が家老の長岡監物邸の
しめ飾りを盗んで逃げるとき、この高い石垣から後ろ向きに
飛び降りて逃げたからだそうです。



百間石垣の反対側は、三の丸跡で、その先に長塀が続きます
が、ここは2万5千石の細川刑部家の「旧細川刑部邸」跡で、
熊本地震による被災のため現在は閉鎖中です。





薩摩街道は、「二の丸門跡」の前を右折します。



薩摩街道は、法華坂に突き当たり、右手に清爽園を見ながら
坂を下りきったところが「札の辻」です。





上の写真の「新一丁目門 札の辻跡」の案内板と、次頁の
写真の「里程元標跡」の石碑があります。



この案内板によると、かっては、ここに高札が掲示される
「札の辻」と呼ばれる広場があり、豊前・豊後・薩摩・日向
街道の里数は、ここを起点として測られていた、とあります。

ここまで薩摩街道を歩いて来て疑問が湧きました。
薩摩街道は、熊本城を回避せずに、何故、城内の真ん中を
抜けているのでしょうか?

(「熊本城下町歴史鳥瞰図:文化文政年間」(2,100円)
から)

江戸時代の絵図を見ても、島津藩の参勤交代でしょうか、
確かに、城内を抜けています。
お城の機密が漏れる心配はなかったのか、それとも、百閒石垣
などの鉄壁の守りを他藩に見せつけ様としたのか・・・

ここから先は、熊本宿の城下町に入って行きますが、城下町
は次回にご紹介することとして、いったん、JR熊本駅に戻り
ます。

JR熊本駅の裏手から、熊本城を見下ろす小高い花岡山の坂道
を上って行きます。



花岡山の中腹の熊本城(上の写真の赤丸印)を見下ろせる
場所に、西郷軍が大砲を据えて、熊本城を砲撃した下の
写真の「薩軍砲座の跡」があります。



その説明板によると、大砲の弾は熊本城までは届かず、手前の
城下町の段山町付近に落ちたそうです。


(段山町の「西南戦争の激戦地」の碑)



(段山激戦図)




ここ「薩軍砲座の跡」には、明治9年、不平武士による
「神風連の乱」で戦死した熊本鎮台司令長官の種田政明少将
以下、116名が埋葬されている写真の「花岡山陸軍埋葬地」
もあります。


次回は、熊本宿の城下町を、薩摩街道沿いに散策します。



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電車で行く「薩摩街道」   (その8:田原坂 散策)

2019-01-12 09:20:07 | Weblog

(写真は、田原坂の戦いで活躍した薩摩軍の美少年の像)

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「田原坂の戦い」に
続いて 、今回は「田原坂」周辺を散策します。

熊本駅からJR鹿児島本線に乗って、5駅20分の田原坂駅で
下車します。





田原坂駅から線路沿いの道を30分くらい歩くと、次頁の
写真の「田原坂」の入口に着きました。

ここが田原坂のスタート地点で、長さ1.5キロ、標高差
60メートルの田原坂を上っていきます。

熊本城に籠城する政府軍を救援するために、唯一大砲が通れる
田原坂を通ろうとする政府軍と、それを阻止しようとする
薩摩軍との戦いで、壮絶な死闘が、この地で17日も繰り広げ
られました。

官軍は、ここで薩摩軍の激しい抵抗に遭い、田原坂の最後の
300メートルにある「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」を
抜けるための苦戦が続きます。
  


(一の坂)
次頁の写真は、「二の坂」で、更に次の頁の写真は、その
二の坂にある「谷村計介戦死の碑」ですが、谷村は、
熊本城の守備で功績をあげましたが、ここで25歳で戦死
したそうです。
 

 



  
(三の坂)

(三の坂)

西南戦争は、日本初の本格的な近代戦となりましたが、
同時に、日本刀が実戦で活躍した最後の戦いでもありました。

連日冷たい雨が降り続く中、濡れると使用できなくなる旧式の
銃を使用していた薩摩軍は、日本刀による接近戦に切り替え
ます。

薩摩軍は、士族で構成されていたため、日本刀の剣術に優れた
軍隊でした。

一方、官軍は、徴兵されてから初めて銃剣等の訓練を受けた
農民出身の兵士が多く、刀での接近戦は苦手でした。

薩摩軍の兵士が、甲高い奇声を発して斬り込むと、その
恐ろしさに政府軍の兵士は散り散りになって逃げたと
いわれます。

そこで政府軍は、士族が多い警視隊の中から特に剣術に
秀でた者を集めて「警視抜刀隊」を結成します。

(警視抜刀隊:西南戦争資料館)

警視抜刀隊の志願者には、戊辰戦争で薩摩藩に滅ぼされた
旧会津藩士会が多くいました。
旧会津藩士は、「戊辰の復讐!」と叫んで薩摩軍に斬り込んだ
そうです。

しかしながら、実は、官軍側の大半は旧薩摩藩士でした。
西南戦争は、「明治政府」対「薩摩」の戦いとされてますが、
実態は「薩摩」対「薩摩」の戦いでした。
実際に、戦場でも、親子同士、兄弟同士で戦う姿が見られた
そうです。
官軍側の総司令官・川村純義、警視隊の司令長官・川路利良、
川路の後任・大山巌、熊本鎮台守備軍の参謀長・樺山資紀
など、皆、旧薩摩藩士でした。

戦いが長引く中、天候は官軍側に味方しました。
雨が降り続き、薩摩軍側の旧式の銃は不発になります。
また近代式の軍服の官軍に比べ、薩摩軍側は、木綿の服に
わらじの靴で、体力を消耗する戦いを強いられます。
ついに官軍側が、一の坂・二の坂・三の坂を越えて勝利を収めます。

「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」を抜けると、「田原坂
公園」があります。
田原坂公園は、激戦地の跡に造られた公園です。

公園の中に、前回ご紹介した上の写真の「田原坂西南戦争
資料館」があります。
資料館の入口では、西南戦争140周年の記念品として、次頁
の写真の銃弾を売っていました。(1,000円)

写真左側が官軍の「元込め銃(スナイドル銃)」、右側が
薩摩軍の「先込め銃(エンフィールド銃)」です。
記念品のこの銃弾は、当時の鋳型を使用して、新たに鋳造した
銃弾だそうです。


資料館の前のデッキからは、戦場全体を見渡せます。



資料館の隣には、両軍の無数の弾痕が白壁に残る「弾痕の家」
(復元)があります。




公園の中心には、写真の「西南役戦没者慰霊之碑」が建って
います。



この碑には、西南戦争で戦死した官軍6,923名、薩摩軍
7,186名の”ラストサムライ達”の氏名が刻まれています。


また、公園内の上の写真は、「田原坂崇烈碑」で、”もし
薩摩軍が田原坂で勝利し北上していたら、各地の不平士族が
これに呼応して立ち上がり、測り知れない禍があっただろう”
と、官軍の立場から、官軍勝利の意味が刻まれています。


更に、公園内には、写真の「美少年像」もあります。

雨は~降る降る~、人馬は濡れる~、越すに越されぬ
田原坂~

右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱~、
馬上ゆたかに 美少年~

この有名な歌が示すように、田原坂の戦いは、まさに泥沼の
中での戦いでした。

黒い瞳で白面の23歳の薩摩軍の銅像の美少年「高田露
(あきら)」は、太刀を振るい、政府軍に切り込みます。

これに勢いを得た薩摩軍は、緒戦に勝利しました。

実際には、西南戦争には、僅か15才くらいで参加した者も
少なくなく、これらの幼い少年達の多くが田原坂で散り
ました・・・

私事で恐縮ですが、私の熊本での中学時代の同学年に
「美少年」というあだ名の男の子がいました。

どう見ても、美少年には程遠い風貌なので(失礼)、ずっと
不思議に思っていました。

あとで知ったのですが、彼は、熊本の”清酒・美少年”の
跡取り息子だということでした。



田原坂公園を出て、写真の「七本の薩摩軍墓地」へ向かい
ます。

ここには、田原坂で戦死した薩摩軍と熊本隊の兵士311名が
眠っています。

地元の人が祖母から聞いた話として、

「我が家は茅葺きの大きな家だったので、薩摩軍が73人
泊まっていた。

 薩摩軍は、柿木台場の戦闘に毎日出て行くのだが、5人
欠け、10人欠けて、最後は3人だけになった。

 戦闘の銃声が止んだので、高くなっている畑に上がって
みると、柿木台場の方から官軍の鬨の声(ときのこえ)が
流れて来た。」

(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)

 
薩摩軍墓地を出て、近くの写真の「七本の官軍墓地」へ向かい
ます。




地元の人が祖母から聞いた話として、

「畑作業に行くと、弾丸が私の首と背中の近くをビューンと
通ったので、驚いて転げた。

 戦闘が終わると、隣家の庭に、政府軍の死体が置いて
あった。
 
 その後、死体が運ばれるときに、死体の懐中のお金は
そのままだったので、係官から「田原坂の人は正直だ」と
言われた。」

(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)


地元の人が祖父と父から聞いた話として、

「田原坂で敗れた薩摩軍は、続々と敗走、多くは手負いで、
うめき声をたてて死ぬ者もあった。

 政府軍は、この後を追って迫り、また山の上から砲撃した。

 祖父に背負われていた父は当時3才だったが、父が赤い着物
を着ていたので、近衛兵と間違われて集中砲撃を受け
怖かった。」

(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)



官軍墓地を出て、田原坂駅へ坂道を下りて行きます。

田原坂駅からJR鹿児島本線で熊本駅へ戻りました。





(田原坂の戦いを描いた絵)
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電車で行く「薩摩街道」 (その7:”田原坂の戦い”)

2019-01-11 00:01:28 | Weblog

(上の写真は、田原坂の戦い)
電車で行く「薩摩街道」は、前回の「八代宿」に続いて 、
今回は「田原坂」です。

明治維新になると、失業した武士達の新政府に対する不満
から、佐賀の乱(首謀者:江藤新平)、福岡の秋月の乱(宮崎
車之助)、山口の萩の乱(前原一誠)、熊本の神風連の乱
(太田黒伴雄)などの不平士族の乱が全国各地で起きました。

その一連の戦いの最後の戦いが、明治10年に起きた「西南
戦争」です。
西郷隆盛率いる旧薩摩藩士が熊本城を目指し、”国内最大で
最後の内戦”になりました。 
「西南戦争」の戦場は、鹿児島、熊本、宮崎、大分と広範に
わたりました。
政府軍6万に対し、薩摩軍は3万、そして戦死者は両軍
合わせて1万4千にものぼる激しい戦いでした。
戦死者1万4千のうちの1/4が「西南戦争最大の激戦地・
田原坂」でした。

では、「西南戦争」最大の激戦地「田原坂」を散策する前に、
先ず、田原坂にある下の写真の「西南戦争資料館」に入って、
その展示資料を見ながら、当時の激戦の様子を振り返って
みましょう。

平成27年に新装オープンした次頁の写真の「西南戦争
資料館」には、実際に使われた銃や弾、古文書等が展示
され、西南戦争の時代背景や裏話など、分かりやすく
展示してあります。

また、映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現
した「体感展示」では、陣地の中にいる様な凄い迫力の臨場感
が味わえます。(写真撮影可:300円)

下の4枚の写真が、放映中の「体感展示」です。
  











明治10年、西南戦争における緒戦「熊本城での戦い」が
始まり、薩摩軍は、熊本城を包囲し、総攻撃をかけます。
これに対して、官軍側は、熊本城へ援軍を送ろうとします。
薩摩軍は、熊本城周辺に兵士3千だけを残し、残りの部隊は、
官軍の援軍を迎え打つために北上します。

これに対し、援軍側は、唯一、大きな大砲が通れる「田原坂」
を目指してへ南下します。
両軍は、田原坂で衝突、田原坂は激戦地となりました。
田原坂は、熊本市の北部の植木町にある標高差60メートル、
距離1.5キロの緩やかな坂道です。
実は、この田原坂は、加藤清正が築いた熊本城の北の守りの
拠点でした。
田原坂は、簡単に進めない様に、坂の先の見通しが利かず、
丘陵を蛇行しながら進む様に、清正が手を加えた坂でした。
西南戦争では、先込め銃(エンフィールド銃)、元込め銃
(スナイドル銃)、連発銃(スペンサー騎銃)、火縄銃など、
さまざまな性能の小銃が使用されました。

(西南戦争に使用された新旧の小銃)


(政府軍の装備)


(薩摩軍の装備)


(薩摩軍兵士と政府軍兵士)


(政府軍の兵士の写真)

当時では近代的な武器だった大砲や小銃などを使用した戦い
となりましたが、この田原坂で発砲された弾丸は、政府軍側
だけで、何と!、”1日に60万発”にも達したそうです!


撃ち合った弾同士が空中で激突するほどの激しさで、その激突
した弾を「かちあい弾(たま)」といいますが、田原坂から
は、互いに激突して変形したかちあい弾が、今でも出土する
そうです。


この田原坂での戦いによって、西南戦争の実質的な勝敗が
決定し、以降、薩摩軍の敗走が始まります。

(田原坂の戦いを描いた絵)

地元の人が父から生前に聞いた話として、

「我が家が政府軍の本部となり、大山巌、山形有朋などの将校
が床几に腰かけて作戦を練っていた。

 家族は納屋に住まわされた。

 大山巌は、毎日、戦闘の指揮に出ていた。

 砲術長は、手を振り下ろして、我が家の庭で大砲の撃ての
合図をしていた。

 大砲は、夜間に薩摩軍に分捕られるのを恐れ、毎晩、七本の
本営に運んでいた。」 

(西南戦争資料館に展示されていた「西南戦争裏話」から抜粋)


次回は、「西南戦争」で最大の激戦地である「田原坂」を散策
します。
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電車で行く「薩摩街道」 (その6:「八代城」 (続日本100名城))

2019-01-10 09:10:53 | Weblog

(写真は、八代城の堀と石垣)


江戸時代には、島津斉興(NHK大河では鹿賀丈史)や島津
斉彬(渡辺謙)などの島津の殿様が参勤交代のために
「薩摩街道」を通りました。

また、篤姫(北川景子)も、将軍への嫁入りの際に「薩摩
街道」を江戸へ向かいました。

そして明治時代、西南の役の際には、西郷隆盛軍が、熊本城
攻撃のために「薩摩街道」を北上しました。

今回の帰省では、「薩摩街道」の「八代(やつしろ)宿」を
訪れました。

「八代宿」は、「薩摩街道」の要衝の地で「八代城」の城下町
でもあります。

ちなみに、八代市出身の歌手・八代亜紀は「やしろ亜紀」で、
八代市は「やつしろ市」で、地元では八代を「やっちろ」と
発音します。


「八代城」は、熊本城主の加藤忠広(「加藤清正」の三男)が、
家老の加藤正方に命じ、1622年に、球磨川の河口の松江村に
築城した「平城」です。

江戸時代の「一国一城令」の例外として、肥後国(熊本県)
は、熊本城と「八代城」の2城が許されたために、「八代城」
は破却されずに残りました。

1632年、加藤家の改易により、細川忠利が肥後の藩主になる
と、忠利の父である「細川忠興」が八代城に入城し、八代城
は忠興の隠居城となりました。

その後、1646年に、細川家の筆頭家老の「松井興長」が
八代城の城主となりましたが、以降、明治3年の廃城まで、
八代城は代々「松井氏」の居城となり、松井家が八代地域
を支配しました。

現在、水堀に囲まれた本丸石垣や天守台が残っており、八代市
の中心部の公園として親しまれています。

昨年、「続日本100名城」にも選定されました。



熊本駅から、JR鹿児島本線に乗り、終点の八代駅で下車
します。


工事中のためでしょうか、JR八代駅は、次頁の写真の様に、
熊本県第二の都市の駅とは思えないショボい駅です。



八代駅駅からバスで15分、下の写真の八代市役所前で下車
すると、その前が八代城です。


現在、「八代城」には、当時の城を偲ばせる建造物は何も
残っていませんが、美しい堀と石垣は綺麗に残っています。







城跡の中央部分の本丸跡には、1884年に創建されたという
写真の「八代宮」があります。




神社の境内には、発掘調査で見つかったという上の写真の江戸
時代の井戸跡がありました。

本丸の東側には、「表舛形(おもてますがた)門」を設け、
「高麗門」と「頬当(ほほあて)御門」が置かれていました。

(高麗門跡)


(欄干橋)


(欄干橋から頬当御門跡)

また、北の丸に至る部分には、「裏舛形(うらますがた)門」
を設け、「廊下橋門」と「埋(うずみ)御門」が置かれて
いました。

(廊下橋門跡)


(廊下橋から北九間櫓の石垣を臨む)


(埋御門跡)

石垣の上には、「月見櫓」、「宝形櫓(ほうぎょう
やぐら)」、「磨櫓(みがきやぐら)」、三階櫓、
舞台櫓が設けられていました。

(月見櫓跡)


(宝形櫓跡)

 
(磨櫓跡)


(舞台櫓跡)

本丸の北西隅には、5層6階の「大天守」があり、渡り廊下を
通して2層2階の「小天守」とつながっていました。


(小天守跡)

 
(小天守跡から大天守跡へ)



  
(大天守跡)

 
(大天守跡)


(大天守跡から小天守跡を臨む)

  
(唐人櫓跡)


(唐人櫓から天守台を臨む)


(小天守跡と大天守跡の石垣)


また、現在、相撲場となっている上の写真の場所には、かつて
能舞台が設けられていたそうです。


本丸を一周ぐるっと堀と石垣が巡っており、階段を上ると、
全ての石垣の上が歩ける様になっていて、素晴らしいです!




全ての石垣の上は、綺麗に手入れが行き届いて、とても
歩きやすいです。
もっとも、石垣には柵がないので転落の危険はありますが・・・

 
石垣の上から、市内全体を見渡すことができます。
 

上の写真の赤丸印は、八代港に巨大客船を横づけにして
押し寄せる中国人の観光客向けに作られた「八代城址の
舟巡り」の船着き場です。
巨大客船が着く度に、八代城址を船上から見物する中国人
観光客で賑わうそうです。
 

八代城を出て、お城のすぐ近くにある「松浜軒(しょうひん
けん)」へ向かいます。

上の写真は、松浜軒の長い~塀です。



八代城の城主・松井直之が、母の崇芳院尼のために造らせた
御茶屋「松浜軒」は、国の名勝として当時のまま現存して
います。(500円)





そして、驚くことに、松井の殿様のご子孫の方が、現在も
引き続き、ご自宅として、ここにそのままお住まいになって
いるそうです。

明治3年に、八代城が国有になったため、10代・松井章之氏
は城を出て、この松浜軒に引っ越し、今日に至ったらしい
です。

我々観光客が、お宅の中を覗き込みながら見物してゆくので、
殿様のご子孫も、うっかり自宅の縁側で日向ぼっこも
出来ませんよねえ・・・



松浜軒を出ると、道路向いに、上の写真の「未来の森
ミュージアム」があり、ここには下の写真の八代城の大きな
復元模型が展示されていました。
(300円:撮影禁止)

(八代城の復元模型:ミュージアムのパンフレットから)

お昼過ぎに、JR熊本駅に戻り、駅の構内の食堂で、
写真の「牛深御膳」(2,800円)を食べます。

天草の牛深港は、熊本県内最大の漁港で、熊本市内では、
ここで水揚げされた豊富で新鮮な魚介が安く食べられます。



写真の中央左が「新鮮な牛深の刺身」、中央右が「馬刺し」
です。

そして、上段左端が「あら炊き」、中央が「一文字の
ぐるぐる」と「辛子蓮根」、上段右端が子供の頃おやつ
代わりに食べさせられた「キビナゴの天ぷら」です。





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電車で行く「薩摩街道」 ( その5:山鹿宿・八千代座 )

2019-01-09 16:56:22 | Weblog


(写真は、「八千代座」の内部)

前回の薩摩街道・山鹿宿の「さくら湯」に続いて、今回は
山鹿宿の「八千代座」です。

豊前街道沿いの「山鹿宿」は、江戸時代、参勤交代の宿場町
として栄えた歴史、文化、温泉の町です。

今でも、当時の面影を残しており、前回ご紹介した「さくら
湯」、今回ご紹介する「八千代座」などの見どころが、豊前
街道沿いの”徒歩5分圏内”に集まっています。



「八千代座」の周辺には、江戸時代創業の麹専門店や、明治
創業の造り酒屋など、間口が狭く奥行きが長い、典型的な
宿場町の家並みが残されています。




「八千代座」(国重文)は、江戸時代の建築様式を受け継いで
おり、明治43年に、旦那衆と呼ばれる山鹿の実業家たちの手
によって造られた芝居小屋です。
 
当時の山鹿は、菊池川の水運、豊前街道を利用した陸運の要所
で、物資の集散地であると同時に、九州屈指の温泉場として
隆盛を極めていました。
八千代座は、その様な当時の山鹿の豊かさの象徴するもので
あり、そのため大正から昭和にかけては、全国各地から多くの
有名な芸能人たちも来演しました。
昭和に入ると、テレビの普及などにより一時廃屋同然となり
ましたが、市民を中心に復興運動を展開、大修理を経て、
平成13年に復活したそうです。

今では、坂東玉三郎の芝居小屋として広く知られる様になり、
時々、玉三郎が歌舞伎公演しているらしいです。

八千代座の木戸口をくぐります。
( 大人520円、第2水曜休館 )
館内に入ると、華やだった明治・大正の熱気や、観客の
ざわめきが聴こえてくるようです。



  
八千代座では、歌舞伎以外にもコンサート等のイベントが開催
されていますが、公演日以外は、見学可能で、親切なガイド
さんが、40分くらいかけて、丁寧に説明してくれます。

ドイツ製のレールを使った廻り舞台、花道、囃子場などを
備え、客席も桝席と桟敷席で構成された、江戸時代の歌舞伎
小屋の様式を今に伝えています。



現在の劇場は、大正12年当時の姿を、平成13年に修復復元
したもので、往時を偲ぶ天井広告看板や、桟敷天井の
シャンデリアは一見の価値があります。





奈落(スッポン)


廻り舞台(奈落)


八千代座と同じ様な芝居小屋については、福岡県飯塚市の
「嘉穂劇場」へ行ったことがあります。

嘉穂劇場は、昭和6年落成の1,200人収容という、地方
にしては驚く大きさの芝居小屋です。

かつての飯塚が、炭鉱の街として、活気に溢れて栄えていた
事を考えると、その規模の大きさに納得したものでした。
しかし、今回、鄙びた熊本の山鹿の田舎町に、飯塚と同規模の
立派な芝居小屋が残っているのは、驚きで感動でした。

(飯塚の嘉穂劇場については、「JR九州・飯塚本線:石炭王
嘉納伝助の邸宅へ」
を見てね。)



「八千代座」を出て、近くの上の写真の「山鹿灯篭民芸館」に
入ります。



「山鹿灯篭民芸館」(国有形文化財)は、大正14年に
建てられた安田銀行(現みずほ銀行)山鹿支店の内部を
改造して、「山鹿灯篭」を展示しています。




「山鹿灯篭」は、古く室町時代を端に発するもので、金灯篭や
神社仏閣などを、和紙と糊だけで作り上げる伝統的な工芸品
です。



館内では歴代の灯籠や、非常に精巧な灯篭作りの熊本城、
八千代座などが展示されています。





「山鹿」で有名なのは、毎年8月15・16日の「山鹿灯籠
まつり」です。

「山鹿灯籠まつり」は、浴衣姿の女性が、中に火が灯った和紙
で出来ている金色の灯篭を、頭に載せて「♪よへほ節♪」を
踊る、とても優雅で幻想的な祭りです。


(山鹿灯篭民芸館の展示絵画)


山鹿灯篭民芸館の先の国道交差点の湯の端公園には、写真の
観光客用の「あし湯」があります。
バスの時間まで、あし湯で過ごします。

山鹿温泉については、次は、ゆっくり泊りがけで来たいと
思いました。


(山鹿灯篭民芸館の展示写真)

♪主は 山鹿の 骨なし灯籠♪  ♪よへほ よへほ♪

♪骨もなけれど 肉もなし♪  ♪よへほ よへほ♪

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電車で行く「薩摩街道」 ( その4:山鹿宿・山鹿温泉 )2018.3.18

2019-01-08 05:53:44 | Weblog

(写真は、山鹿温泉の「さくら湯」)

3/16から3/24まで、熊本の実家に帰省していた間に、西郷
や篤姫も通ったという「薩摩街道」を歩いてみることに
しました。

しかし、現在、私は股関節炎のため、整形外科医から「1日の
歩行距離を5キロに抑えること」と命ぜられているので、薩摩
街道の宿場間を歩くことは断念しました。

その代わり、電車かバスで薩摩街道の宿場町まで出掛け、その
宿場町の中を歩くことにしました。
と言う訳で、前回の薩摩街道の「佐敷(さしき)宿」に
続いて、今回は薩摩街道の「山鹿(やまが)宿」です。

  
「薩摩街道」は、”鹿児島”から”熊本”を経て、肥前(佐賀)
の田代で長崎街道に合流し、”豊前・小倉(北九州市)”へ
至る参勤交代のルートでした。
「薩摩街道」のうち、”熊本”から北上して、「山鹿」を経て
”小倉”に至る部分については、「豊前街道」とも呼ばれ
ました。

「山鹿宿」は、「薩摩街道」の名湯の宿場町として栄え、大名
行列も足を止めて、ゆるりと温泉を楽しんだそうです。


熊本市の交通センターからは、山鹿行きのバスが約30分毎に
出ており、ここから産交バスで1時間10分の「山鹿温泉
プラザ前」で下車します。

「豊前街道(薩摩街道)」沿いの「山鹿宿」には、次頁の写真
の様に、歴史ある商家が軒を連ね、風情ある町並みが続きます。

















上の写真は、豊前街道沿いの真言宗・金剛乗寺の入口にある
アーチ状の石門です。




街道沿いのバス停・温泉プラザ前の前には、写真の立派な
唐破風玄関の山鹿温泉「さくら湯」があります。
さくら湯は、街の中心地にあり、外見からも歴史を感じる、
シンボル的な公共温泉施設です。

上のさくら湯の航空写真から分かる様に、独特の屋根の形は、
十字にクロスしています。
約800年前、”湯に浸っている鹿”を発見したのが「山鹿
温泉」の始まり、と伝えられる由緒ある温泉です。
江戸時代に入ると、山鹿温泉を大変気に入った肥後藩主・細川
忠利が、ここに「御茶屋」(藩主の休息所)を建てました。
この御茶屋の温泉が、写真の「さくら湯」の始まりだ
そうです。

山鹿温泉を大変気に入った細川忠利は、客人の宮本武蔵を、
この温泉に招待しました。

この御茶屋の温泉は、江戸時代、殿様と重臣の「御前湯」、
家臣の「御次湯」、庶民の「外湯(さくら湯)」に分かれて
いました。
庶民のさくら湯は、男女混浴でしたが、御前湯と御次湯には、
それぞれ専用の門があったそうです。
「さくら湯」は、明治初期に、細川藩から山鹿市に払い下げ
られました。

しかし、「御前湯」「御次湯」「外湯(さくら湯)」の区分
は、明治時代に入っても、「松の湯(一等)」、「紅葉湯
(二等)」、「さくら湯(三等)」として残っていた
そうです。

江戸時代からの「さくら湯」の建物は、昭和48年に
取り壊されましたが、平成24年に、山鹿市が再生事業
として、現在の「さくら湯」の建物を再建しました。


(北の玄関)

さくら湯には南北に2つの唐破風の玄関があります。


(南の玄関)


(さくら湯の前に建つ宮本武蔵像)

300円を払って、北の唐破風玄関から「さくら湯」の温泉に
入ります。

豊富な湯量の山鹿温泉の泉質は、アルカリ性単純温泉で、
神経痛、筋肉痛に効くそうです。
入ってみると、温度がやや温めで、無臭無色、優しい感じの
温泉で、肌触りが気持ちいいです。
 
昔は、浴槽の底から自噴していたそうで、それを再現した
造りの浴槽は、20畳ほどもあり、広々としています。


(さくら湯の玄関の写真から)


次頁の写真は、江戸時代には、殿様のための「御前湯」だった
という「龍の湯」ですが、市松模様の大理石の床と龍の天井絵
が特徴です。




この「龍の湯」は、明治時代に入ると、貴賓客用として使用
されたそうです。


さくら湯の中には、山鹿温泉の歴史を説明する上の写真の
資料室もあります。



お腹が空いたので、さくら湯を出て、その奥の通りにある
レトロな飲食店街の「郷土料理 彩座(いろどりざ)」に
入ります。



熊本の郷土料理と言えば、やはり、”馬刺し”です。
私は、「馬刺し重」(1,200円)と「馬刺し握り」(720円)
を注文しました。
やはり、熊本の馬刺しは美味い!

「馬刺し重」は写真を撮り忘れましたゴメンナサイ・・・
上はお店のメニューの写真です。)
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電車で行く「薩摩街道」 ( その3:佐敷宿・佐敷城 ) 2018.3.24

2019-01-07 16:58:50 | Weblog

(佐敷城址から佐敷港を臨む)

現在残る「佐敷城」は、肥後国(熊本県)の南部の防衛拠点
として、「加藤清正」が築きました。
佐敷城の城代となったのは、加藤清正の家臣の「加藤重次」
でした。
(加藤重次の遺構については、前回の「佐敷宿」を見てね。)

重次が城代を勤めていた1592年に「梅北の乱」が起き
ました。

「梅北の乱」とは、朝鮮出兵に向けて佐敷に在陣していた
島津家の家臣・梅北国兼が、城代の加藤重次が出陣し手薄に
なった佐敷城を、突如、奇襲して乗っ取った、という事件
です。
佐敷城から逃れた重次の家臣の安田弥右衛門は、酒肴をもって
佐敷城に再び現われ、梅北国兼に投降する素振りを見せます。
梅北国兼は、寝返った安田弥右衛門を迎え入れて酒宴の席と
なりますが、この酒宴の最中に、安田弥右衛門は、国兼に
接近し、国兼を討ち取ってしまいました!
この様にして、「梅北の乱」は、あっけなく幕切れとな
りました・・・

加藤清正の死後も、佐敷城は、肥後支配のための重要な支城の
1つとして維持されていましたが、1616年の一国一城令に
より廃城となりました。

更に、島原の乱で、原城に籠った一揆勢の掃討に苦労した幕府
は、加藤清正が築いた堅固な佐敷城を危険視する様になり、
再度、城址の石垣を徹底的に破壊する様に命じました。

佐敷宿の交流館「枡屋」のボランティアのオバサマに教えて
もらった佐敷城への道順に従って、佐敷宿の外れの坂道を
上って行きます。







坂の途中には、写真の大師堂と八十八札所地蔵群があり
ました。


佐敷宿の外れから10分くらい坂道を上ったところで、次頁の
写真の佐敷城址の入口に着きました。




見事な満開の桜ですが、平日とは言え、花見客が一人も
いません・・・

勿体ない!!




ここまでは、車で上がって来れるので、車での佐敷城址
見物は便利です。

駐車場から山の上を見上げると、佐敷城址の石垣が見えます。
(写真の赤丸印)

大きな駐車場には綺麗なトイレも完備しており、詳しい案内板
も設置されています。
佐敷城址は、この駐車場から、更に、数分、坂を上ったところ
にありました。
城址は現在、佐敷城跡城山公園として整備されており、
平成20年に国の史跡に指定されています。



佐敷城址は、肥薩街道を眼下に見下ろす高台にありました。

城址からからの眺望は素晴らしく、佐敷港と不知火海がよく
見渡せ、港の掌握を意識した城であったことが分かります。

(佐敷城址の航空写真 : 駐車場の案内板から)
城址を一回り歩いて気づいたのは、2度にわたって破壊された
というのが嘘の様に、驚くほど綺麗に、石垣が残っている事
でした。
また、城址の整備も行き届いており、完璧な石垣の修復と
併せて、地元の人々の「佐敷城」への深い愛着を感じました。

(二ノ丸搦め手門付近の石垣)


写真は、本丸の内部に入れられている堀切状の窪みで、東西に
延びて大手門口と搦め手門口とをつないでいます。




上の写真は、本丸から西方を見たところで、眺望がよく、
遠くの不知火海まで見えます。


(本丸西門)






(二ノ丸東門の枡形)





(二ノ丸東門の下の大手口の枡形)


(二ノ丸の石垣)

佐敷城址の全体的な感想としては、余り期待せずに行きました
が見事な石垣と見晴らしの素晴らしさに感動しました!

私は、佐敷城址を、勝手に、”天空の城”と命名しました。

さすが!、加藤清正が築いた城だけのことはありました!

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電車で行く「薩摩街道」 (その2:佐敷宿:宿場町) 2018.3.24

2019-01-06 16:57:11 | Weblog

(写真は、佐敷宿の町並み)

「佐敷(さしき)宿」は、肥後(熊本)と薩摩(鹿児島)を
結ぶ「薩摩街道」の要衝の地で、「佐敷城」の城下町でも
あります。

薩摩街道へは、古くは、豊臣秀吉が、薩摩遠征のために大軍を
率いて押し寄せました。    
江戸時代には、島津斉興(鹿賀丈史)や島津斉彬(渡辺謙)
などの島津の殿様が参勤交代のために通りました。
また、篤姫(北川景子)も、将軍への嫁入りの際に佐敷宿に
宿泊して江戸へ向かいました。
そして明治時代、西南の役の際には、西郷隆盛軍が、熊本城
攻撃のために、薩摩街道を北上しました。


駅で貰った下の写真の佐敷宿絵地図を見ながら、佐敷駅から
徒歩15分の「薩摩街道」沿いの「佐敷宿」を目指して歩き
始めます。

駅前の道を右に進み、高速の陸橋の下を歩行者専用道で
くぐり、最初の交差点を左折して佐敷橋を渡ると、
佐敷宿に入ります。


白壁の土蔵造り風の家が続き、旅情をかきたてます。
 


佐敷川沿いの街道には、「薩摩街道」の標石がありました。

下の写真は、篤姫も宿泊したという薩摩藩の本陣「薩摩屋」
です。





更に川沿いに進み、相逢橋(あいおいばし)を渡ると、佐敷の
商店街が真っ直ぐに延びています。




相逢橋の先に、明治42年創業の上の写真の「岩永醤油」が
ありました。


「岩永醤油」の隣の上の写真のお地蔵さんは、昭和5年の
佐敷町大火の際に、この地蔵堂を境にして類焼を免れたので、
火除けの地蔵として祀られているそうです。

古い町並みは約300メートル続きます。



白壁塗りの土蔵造り風の家が点在するこの辺りは「のこぎり
家並み」地域です。




写真ではちょっと分かり辛いですが、街道の通りに対し、建物
が斜めに建っており、まるでのこぎりの刃のように見えること
から「のこぎり家並み」と呼ばれます。

敵の侵入時に、建物の陰から様子を伺い、待ち伏せするための
ものだそうです。


上の写真の「岩崎新聞販売店」付近は、パンフレットに
よると、熊本藩の「本陣・御茶屋跡」だそうです。


新聞販売店の道路向かいには、両側を瓦屋根付きの塀で
守られた前頁の写真の「恵比寿さん」がありました。


上の写真は、レトロな洋風の建物です。

その先の右手は下の写真の「来迎寺」です。



境内には、1635年に建てられた上の写真の「六地蔵塔」が
あります。

境内で写真を撮っていると、住職の方が出てこられて、
「もっと奥まで自由に撮影してよいですよ。」と、声を
かけて頂きました。

佐敷町の人は、どなたもフレンドリーで親切です。

写真は、交流館「枡屋」です。



枡屋は、町並み保存活動の活動拠点として、佐敷城の城下町や
宿場町の風情を後世に残そうと、景観形成住民協定を結んで
活動しているそうです。


説明のオバサマに、佐敷城への道順を教えてもらいます。


枡屋の先の左手の「俳人種田山頭火宿泊の地」の標柱に従い、
路地を入って行くと、写真の山頭火の句碑がありました。
”捨てきれない 荷物のおもさ まへうしろ”



山頭火の句碑の先の左手の「実照寺」には、前頁の写真の
見事な仁王像があります。
寄木造で定朝、運慶の作とも伝えられているそうです。

薩摩街道を相逢橋まで戻り、街道と並行する1本奥の道に
入ると、写真の「武徳殿」がありました。

「武徳殿」(国有形文化財)は、剣道・柔道の武道場として
建てられたものだそうです。


武徳殿の前に、写真の「佐敷城代・加藤重次の縁者の墓石」が
2基建っていました。


説明板によると、佐敷城代であった加藤重次の母の石塔と
妻の墓だそうです。




更に、この墓石の横には、写真の巨大な鬼瓦が展示して
あります?



説明板によると、佐敷城の発掘調査により出土した「天下泰平
國土安隠」銘の鬼瓦(県重文)を400倍の大きさにして、
町のシンボルとして、”日本一の大瓦のモニュメント”と
したそうです。


武徳殿の先に、佐敷城への矢印がありました。

佐敷城への坂道を上って行きます。

(to be continued ・・・)


(佐敷町並みマップ)
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電車で行く「薩摩街道」   (その1:「肥薩オレンジ鉄道」で佐敷宿へ) 2018.3.24 

2019-01-05 08:22:36 | Weblog

(写真は、「肥薩オレンジ鉄道」のロゴマーク入りの
「くまもんバッグ」)

最近は、町人に変装した徳川慶喜(松田翔太)が、品川宿で
女遊びをしているところで西郷(鈴木亮平)に遭遇するなど、
歴史的に有り得ないシーンに微妙にテンションが下がりつつ
も、NHK大河「西郷どん」を毎回見ています。

(原作者の林真理子が、暴れん坊将軍のストーリーと間違えて
書いた?)

それでも、毎週見ているうちに、西郷や篤姫も通ったという
「薩摩街道」を歩いてみたくなりました。

という訳で、3/16から3/24まで、熊本の実家に帰省して
いた間に、「肥薩オレンジ鉄道」に乗って「薩摩街道」の
宿場町へ行って来ました。

熊本駅から、鹿児島本線に乗り、八代駅で「肥薩オレンジ
鉄道」に乗り換えます。

「肥薩オレンジ鉄道」は、熊本県の八代(やつしろ)駅から、
鹿児島県の川内(せんだい)駅まで、九州南部の西海岸の
117キロ、28駅を走ります。


ちなみに、八代から人吉経由で鹿児島とを結ぶのは「JR肥薩
線」ですが、今回乗車する第三セクターの「肥薩オレンジ
鉄道」と名称が似通っていて、ちょっと紛らわしい気も
します。

JR鹿児島本線・熊本駅(6:45) → (7:23)八代駅(7:58)
→ (肥薩オレンジ鉄道) → (8:42)佐敷駅

熊本駅を出発したJR鹿児島本線は、熊本県第2の都市である
終点の八代(やつしろ)市を目指します。

ちなみに、八代市出身の歌手・八代亜紀は、”やつしろ”
ではなく”やしろ”です。

ついでに、熊本市の名所は熊本城と水前寺公園ですが、歌手の
水前寺清子は熊本市出身です。

更についでに、歌手の森高千里(ちさと)は熊本出身ですが、
熊本名所の阿蘇の草千里(くさせんり)や高森町と関係がある
のかないのか、私はよく知りません・・・?

鹿児島本線の終点の八代駅で「肥薩オレンジ鉄道」に乗り換え
ます。


(肥薩オレンジ鉄道の八代駅)

肥薩オレンジ鉄道の始発駅の八代駅の改札口で売っていた、
下の写真の地域限定・肥薩オレンジ鉄道ロゴマーク入りの
「くまもんバッグ」を衝動買いしてしまいました。
(2,000円)

我ながら、”地域限定”には弱いなあ~。





肥薩オレンジ鉄道の始発駅である八代駅に、折り返しの電車が
入って来ました。




上の写真は、折り返す前に、追加の車両を連結して、車両の
数を増やしているところです。



肥薩オレンジ鉄道は、右手に不知火海(しらぬいかい)の景色
を眺めながら海岸線を走って行きます。



不知火海は、波もなく鏡の様に静かです。







八代駅から8駅目の佐敷駅で下車します。(熊本県葦北郡
佐敷町)


到着した佐敷駅のホームからは、加藤清正が築いた「佐敷城」
の石垣が見えます。

(上の写真の赤丸印が佐敷城の石垣)


(駅のホームの名所案内)


駅のホームでは、ギネスに登録されたという「葦北(あし
きた)鉄砲隊」の看板が出迎えてくれます。

下の写真は、「佐敷城」を背景にしたその「葦北鉄砲隊」
です。

かつて、ここ芦北地方(佐敷)は、細川藩にとっては、薩摩藩
(鹿児島)と相良藩(人吉)との藩境を接する防衛の拠点
でした。
「葦北鉄砲隊」は、1630年代に、熊本・細川藩が、防衛の
目的と、帰農していた旧勢力である加藤清正の遺臣達を
取り込むために、在地浪人からなる鉄砲隊を組織したのが
始まりだそうです。
天草・島原の乱では、葦北鉄砲隊は、原城総攻撃において
目覚しい活躍をみせました。

(天草・島原の乱については、「島原の乱の真相」を見てね。)
その後、400数十名に上る藩直属の鉄砲隊「葦北御郡筒」
(あしきた おごうりづつ)として、明治3年まで配備
されていました。
 
そして、2014年に、本物の火縄銃を使い、大人数が一斉に
空砲をならすギネス世界記録への挑戦イベント「全国
火縄銃サミット」が、ここ芦北で開催されました。
このサミットへは、全国約30の鉄砲隊や、韓国、イギリスの
鉄砲隊も参加しました。

このイベントで、葦北鉄砲隊の251人が、一斉に空砲を発射
し、ギネス世界記録に認定されました。

古くは、豊臣秀吉が大軍を率いて押し寄せたという「薩摩
街道」は、江戸時代には参勤交代の通り道でした。
「佐敷(さしき)宿」は、肥後(くまもと)と薩摩(かごしま)
を結ぶ「薩摩街道」の要衝の地で、「佐敷城」の城下町でも
あります。
駅で貰った写真の佐敷宿絵地図の地図を見て、駅から
徒歩15分の佐敷駅と少し離れた「薩摩街道」沿いの
「佐敷宿」を目指して歩き始めます。

(to be continued ・・・)
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