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もりおか暮らし物語 盛岡ブランド日誌

盛岡ブランドは市民一人ひとりの暮らしの活動から生まる物語です。ひとりの盛岡大好き人間の盛岡自慢の情報日誌です。

二度泣き橋

2006-05-28 08:27:08 | 暮らし文化
開運橋のことを「二度泣き橋」というようになったのはいつの頃からだったろうか。私がその名前を知ったのは丁度10年前、啄木賢治生誕祭(1996年)が盛大に行われた時だった。誰がいつごろ言い出したのか気になっていた。
 二度泣き橋のいわれは「首都圏などから赴任してきた転勤族の方が、盛岡駅から降りてはじめて渡る橋、開運橋で、なんと遠くに来てしまったのだろうか、と泣き、数年後、再び転勤で盛岡を去るにあたって、盛岡の厚い人情や暮らしやすさを思い、離れがたい気持ちがこみ上げて、開運橋をわたり、再び泣く」というものだ。
 本日付けの盛岡タイムスの1面の「盛岡百景」の中で、はじめて言い出した人のことが載っていた。21日付けの同紙で「開運橋」「二度泣き橋」のことが記載されていたので、その記事に対する反応があったのだろう。
 短い記事(5月28日付け)なので全文を紹介する。
「21日の盛岡百景65「開運橋からの岸辺の緑と岩手山」で紹介した二度泣き橋は、91年5月から94年5月まで日銀盛岡事務所長で赴任していた古江和雄さん(58)=下関市在住=が名付け親です」
 古江さんが自らのことを記したのか、転勤族のお仲間のお話からネーミングしたのか定かではないが、機会があったらもっと調べてみたいものだ。
 なお、開運橋のことだが、明治23年に架けられている。前年、盛岡に市制が施行され、東北本線が盛岡まで開通している。近代盛岡の夜明けともいう時期だろう。以来、数多くの方々が盛岡を訪れ、そして去っていた。再び、盛岡を訪れるとき、「懐かしいなあ」と涙を流す、三度泣き橋といわれるような、盛岡の街を大切に残していきたいものだ。
 

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