もりおか暮らし物語 盛岡ブランド日誌

盛岡ブランドは市民一人ひとりの暮らしの活動から生まる物語です。ひとりの盛岡大好き人間の盛岡自慢の情報日誌です。

豆腐について

2006-10-28 07:21:34 | 水の恵
 毎月12日は豆腐の日。盛岡が総理府の全国家計調査で豆腐消費量NO1というのはかなり前から知られている。市職員のシンガーソングライターが「イーナ豆腐」という曲をつくったり、豆腐買地蔵があったりするが、案外知られていないのは、市内の全小学校で毎月12日に豆腐料理を出すということだ。
 東京の某局のニュース担当が取材したいという話を聞いた。なぜ、盛岡の人は豆腐をよく食べるのですか?と聞かれる。おいしいからですよ。ではなぜおいしい?
水がいいから。そこからが続かない。もっと調べてみなくてはと思う。

川のまちはダムのまち

2006-09-15 06:49:24 | 水の恵
 盛岡は川のまち、水のまちだが、実はダムの町でもある。県の五大ダムのうち、北上川の四十四田ダムとつなぎの御所ダムがあるほか、中津川の綱取ダム、藪川地区の岩洞ダム、外山ダム、そして今、簗川ダムの建設準備が進んでいる。
 ダムの用途は、治水・発電・取水(水道・農業用水)など多岐にわたるほか、ダム湖はスポーツ・レジャー・観光にも活用される。特にも、岩手では農業用水の取水により田圃面積が飛躍的に伸びたといわれる。また四十四田ダムは北上川の松尾鉱山鉱毒水の浄化にも一役買っている。
 こうしたダムの効果とは裏腹に、多額の建設費に見合う効果なのか、自然破壊を招いてはいないか、土砂堆積によるダムの寿命に対応できるのか、などという問題も見過ごせない。
 盛岡秋祭りが終わると鮭の遡上の時期を迎える。
 ふと思うことがある。鮭はどこまで遡って産卵するのだろう。中津川だけではなく、最近は北上川を遡上する鮭もいるという。四十四田ダムの前で産卵するのだろうか。雫石川では御所ダムを遡れるのだろうか。ダムの影響で街なかの地下水(伏流水)はどうかわるのか、川の持っている自然の浄化作用はどう変化するのか。
 盛岡のまちは、水の恵のまちだ。地酒・染物・そば・景観等々、これら盛岡の水の恵の上流にダムがあることを忘れてはならないし、ダムの寿命についても他人事であってはならないだろう。

盛岡の清水

2006-06-18 08:54:22 | 水の恵
 古い資料を見ていると、ご先祖様の名が「清水普請寄進面附」(青龍水)に見えた。明治8年とあるから、もう130年も前のことだ。
 盛岡には沢山の清水・湧水があるが、有名な三清水は、鉈屋町の青龍水と大慈清水、そして御田屋清水(大通り)。特に、青龍水と大慈清水は、地域の人に利用される共同井戸として庶民の暮らしの中で生きている。青龍水は、近くの祇陀寺からの湧水を引いたもので、大慈清水は隣の大慈寺の湧水を利用したものだ。この辺は湧水が多い、造り酒屋があるのも、この水の恵だろう。盛岡は川のまちでもある。北上川、雫石川、中津川がひとつのところで一緒になり、この合流点を基点に町が形成されてきた。中世は、北上川と雫石川に挟まれた地域に豪族の館があり、近世になると北上川・中津川の間に、盛岡城が作られ城下町が出来た。中津川の東岸が河南と呼ばれ、西岸が河北と呼ばれた。河南は、庶民の町だった。
 鉈屋町、紺屋町、鍛冶町、呉服町など城下町の職人町の名が残る。鉈屋町かいわいは遠野街道・奥州街道の交わるところで賑わっていた。明治・大正・昭和と続く盛岡独特の町家も多く、最近、盛岡町家とまちなみを保存活用しようという活動もさかんだ。清水があり、寺院群があり、造り酒屋があり、盛岡町家がある。それらが一体となって「もりおか暮らし」を体感できる。大きな酒造会社だった「岩手川」の倒産によって、歴史的な建造物群の行く末が懸念されている。たんなる建物としての価値だけではなく、盛岡の暮らしを形成してきた歴史的な重みとまちなみ景観の一体性の問題もある。
 盛岡ブランドの主要プロジェクトのひとつ、「もりおか水の恵み」も暮らしから生まれた物語だ。青龍水の飲み場で、一口、水をいただいた。癖のない水が心地よく喉を潤す。盛岡の暮らしの味だ。