「孤光燈(アークライト)にめくるめき、
羽虫の群れの集まりつ、
川と銀行木のみどり、
まちはしづかにたそがるる」
宮沢賢治が「岩手公園」と題したこの作品は、特製原稿用紙に書かれた文語詩稿一百篇の中に収められている。死期が迫る昭和8年8月22日に賢治がまとめたもので、賢治本人は「本稿想は定まりて表現未だ定らず。唯推敲の現状を以ってその時々の定稿となす」と表紙にしるしている。歌稿Bの大正7年5月~に関連する短歌がある。この年、賢治は盛岡高等農林を卒業して同校の研究生になっている。また、短歌を作ったと思われる6月頃には肋膜炎の診断を受け、将来の死を予感している。
この作品に出てくる銀行は、明治44年に出来た盛岡銀行本店(現岩手銀行中の橋支店)のことであるが、天気のいい日の夕方、夕日が銀行の建物を照らすと、いつもこの詩のことを思いだす。特に秋の日の夕方は、涼やかな空気と、盛岡城跡公園の紅葉、中津川の鮭の遡上と相まって「盛岡暮らしの恵み」が実感できる。
羽虫の群れの集まりつ、
川と銀行木のみどり、
まちはしづかにたそがるる」
宮沢賢治が「岩手公園」と題したこの作品は、特製原稿用紙に書かれた文語詩稿一百篇の中に収められている。死期が迫る昭和8年8月22日に賢治がまとめたもので、賢治本人は「本稿想は定まりて表現未だ定らず。唯推敲の現状を以ってその時々の定稿となす」と表紙にしるしている。歌稿Bの大正7年5月~に関連する短歌がある。この年、賢治は盛岡高等農林を卒業して同校の研究生になっている。また、短歌を作ったと思われる6月頃には肋膜炎の診断を受け、将来の死を予感している。
この作品に出てくる銀行は、明治44年に出来た盛岡銀行本店(現岩手銀行中の橋支店)のことであるが、天気のいい日の夕方、夕日が銀行の建物を照らすと、いつもこの詩のことを思いだす。特に秋の日の夕方は、涼やかな空気と、盛岡城跡公園の紅葉、中津川の鮭の遡上と相まって「盛岡暮らしの恵み」が実感できる。