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モナリザの背中よりも



昨日TBSドラマの『広島・昭和20年8月6日』を見た。
事前にたくさんCMをしていたし見た人も結構いるかと思いますが。

すごく期待していただけに正直イマイチな部分もあったけど,それでもすばらしく意味のあるドラマだと思う。今までの原爆に関するドラマや映画は原爆の威力や被害の悲惨さを描いたものが多かったがこのドラマはその点にはほとんど触れず,原爆により奪われた人々の幸せについて描いたものだった。

このドラマの感想自体は書くのが難しいので,これに関係して思ったことを書いてみたいと思う。
長くなるので携帯から見てる人は注意。携帯から見てる人が意外といるようなので。

よく日本は唯一の被爆国だと言うが,原爆だけでなく水爆の唯一の被爆被害を受けた(第五福竜丸)のもまた図らずして日本だったというのも何とも悲しい話ではある。
太平洋戦争に関してアメリカの原爆投下が正しい選択だったとはまったく思わないが,結果的に意味のあるものになったと思う。
というのもその後50年以上にわたり核兵器の開発製造が世界各国で続けられながら,一度も使用されないのは広島,長崎での被害の悲惨さを知っているからだと思う。
もちろんそのための犠牲はあまりにも大きいものであり,核兵器使用の歯止めのために広島,長崎の人たちが犠牲になる必然性は全くないのであるから,やはり原爆投下には怒りを感じて当然のことである。自分が言いたいのは被爆者の人たちの犠牲は無駄にはならなかったと言うことである。

ここで疑問になるのは,なぜ使用しない核兵器を世界中で作り続けるのかということである。一般的に考えられているのは「自衛のための威嚇」だと思う。しかしながら実際に
「あの国は核兵器を持ってるから攻撃するのはやめておこう」とか
「あの国は核兵器を持っていないから攻撃しても平気だろう」などと考える人や国がいるはずもない。


ここで少し核兵器とはどういうものであるかと言うことを考えてみる。基本的に原子爆弾っていうのはウランやプルトニウムなどの放射性物質を用いて,核分裂によりエネルギーを生み出す爆弾であり,水素爆弾というのは水素を用いて,核分裂とは逆の核融合によりエネルギーを生み出す爆弾である。これは太陽のエネルギーと同じらしい。

まあ詳しいことはよくわからないけど(電気科だから本当はわからなきゃいけないのかな?)定性的にいうと,質量をエネルギーに変換することによりエネルギーを生みだすということらしい。

アインシュタインによれば質量(物の重さ,理系じゃなくてもそれくらいわわかるか?)とエネルギーは等価らしく,物質の持つエネルギーは次の式で表されるらしい。

E=mc²  E:エネルギー,m:質量,c:光の速度

なんだかニュートンの運動エネルギーに似てるなあとか思ってしまった。

E=mv²/2 vは物体の速度

しかしながらこれはあくまで運動する物体の持つエネルギーであり物体の速度が0ならエネルギーも0である。
アインシュタインの式の場合は物質そのもののエネルギーであり,なによりcは一定なので0にはならない。・・・ていうか光速の二乗?
ちょっとまて,これはとんでもない数字だぞ。c=299792458m/sだぞ。その二乗だぞ?
なんだか核兵器のすごさがわかってきた気がする。

ていうか,初めはドラマの感想を書くつもりが何で数式とか出てきてるんだ?理系の悲しい性・・・


ここまで考えて,いくらかわかってきた気がする。何がって核兵器を開発する理由。

質量がそんなにすごいエネルギーを持ってて,それをエネルギーに変換することが可能だって言われたら誰だってやってみたくなると思う。それが科学者ならなおさら。

もしどこかの大学のオープンキャンパスか何かで,
『あなたも自分で水爆を作ってみませんか』なんてコーナーあったら作ってみたいもん。(不謹慎ですいません)

もちろんそれを作ってみたいと思うのは理論的に水爆の原理を説明されたらであって,逆に原爆とかの被害だけを知っていたら作りたいとは思わない。ただ実際に作っていい物なのかどうかというところが問題。

どこの国でも実際に核兵器を開発してるのはその国の一流の科学者だってことが大きいと思う。科学者たちは大量殺戮のための兵器を作りたいんじゃなくて,みんな自分の科学者としての研究欲というかそんなものから開発をしてるんだと思う。核実験を行うのも,殺戮のための予行演習ではなく自分の研究成果を確かめたいだけ。
だが一旦,完成してしまえばそれは殺戮のための兵器でしかなくなる。そこで問われるのが科学者の倫理観なのだと思う。

核兵器の原理を知れば作ってみたくなるのが当然と言ったが,核兵器なんて物は存在するべき物ではないと思う。背後に核兵器がある上での平和などあり得ない。そこで科学者たちの歯止めとなるべきものが広島,長崎での経験なのだと思う。核兵器という物をこの世に存在させていいのか?その答えを見つけるためにも,昨日のようなドラマ等も意味を持ってくるのだと思う。実際にあのドラマを目にする核兵器開発者がいるとも思えないが少なくともあのドラマを見た人の中から将来核兵器を開発する人間が出ないことを祈りたい。



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