空に問う。

空に問うても果てがない

怒り

2017-11-15 13:29:52 | 日記
立民党の長妻さんのコメントの「怒り」。その怒りとは獣医学部新設に対する国民の意志を代弁したような「怒り」なんだけど、国民の半分は「またか」って感じで興味が薄れてる。

ただ確実に社会には強烈な不満とか怒りは溢れてる気がする。こういうときは気持ちが上に向かず、弱者にぶつけられてしまう。

続けざまに老人、障碍者施設で殺人が起きた。犯人は一応に「怒り」を感じたという。人を殺さずにはいられない「怒り」とは何だろう。憎しみがあったとか、一時的の衝動とかって言われたら分かるんだけど。

何に対しての「怒り」なんだろう。

昨日は久しぶりに姉がご機嫌だったから安心していたけど、どうも媒体力増した分、軽く取り憑かれていた。霊物ホイホイのおいらが能動的に取り込んでしまったけど。なんかあの世とこの世のバランスが崩れてる感じがするんだよね。最近の姉も相当な「怒り」をため込んでいたから、よくないモノを拾ったんだろう。

お陰で復調していたのに小さく躓くおいら。

たいていの良識ある善良な人は鈍感力が高いから「怒り」そのもののエネルギーを感じない。エンパスだとか超感覚的に過敏だと「怒り」の熱量でくらくらと充てられてしまう。少し霊的なバランスが取れているんで過敏性を抑えているけど、SNS観てるとやっぱり「怒り」が充満してて気持ち悪くなる。

祈りの対象が「神」であるか「鬼(その他のモノ)」であるかで消費還元されるエネルギー的なモノは違ってくる。おいらもそうだけど、ソレが「何」であるか分からずに手を合わせてることがある。ましてや普通の人は疑問に思うことなく祈るだろう。日本は多神教だから、おいらが祈る対象と、あなたが祈る対象が違うことが比較的に多い。

たぶんだけど、「怒り」が動機になってる事件現場の近くには〇国神社や啓蒙活動に意欲を燃やす神職さんがいる神社があるんではないかと思う。ここにきて神職さんらの中には神話の神々よりも超自然的な神々を解く人が増えてきてる。スーパーナチュラルな神とは自然崇拝を起源とする日本の神々ではないんだよね。人間原理に基づいた人間が使役できる存在こそ「超自然的な神」なのだ。

まあ神道的には神が無限だから今日でも新しく作り出すことは出来る。仏教に新しい仏もあるけれど、観音だとか菩薩という括りで縛るから新しく生み出すことは有限であるし、不徳とされる。菩薩、観音、如来とは悟りの段階でもある。

神は霊性だから形があるようでない。人型に見えたなら、それは視てる側の神の在り方に過ぎない。本来、妖怪だってバケモノ魑魅魍魎、疱瘡などの疫病も神として祀られているのが現状。もしかすると念が具現化されたものも「神」と位置付けていいのかも知れない。

概念的には幽霊すなわち霊体に対して「鬼」の形状は含まれない。カテゴライズすれば妖怪の類なのかなぁ。今の世には霊と神のようなモノと鬼の形状をしたモノが紛れていて、ちょうっとだけ厄介かも。突然に右翼化した同僚や知人が現れたら、ネット汚染とか考えずに「鬼憑き」になったと思った方がいいんではないのかなぁ。傾向としては視野が狭い意見を言い出し、反証する者がいれば断固糾弾するとか・・・。食べ物の趣向が変わるとか・・・。

それならば明治以降の生まれた新しい種類の新神道の影響だと思うぞ。今ある神社神道は系譜としては正しい過程にあるけど、長州で生まれおいらが長州教とよぶ新神道は、死者の魂を鬼化する術がベースになっていて、これが非常に厄介なのである。鬼神と言う表現も違うなぁ、鬼霊と呼ぶべきか。

おいらは一年くらい前から、英霊になれずに自決された帰還兵の霊障に悩まされてきた。鎮めるために山の廃寺に置かれていた鐘が移動されたために霊的なバランスが狂ってしまったからである。もちろん戦場で死ぬことのない国民は靖国神社や護国神社には祀られない。そういう存在になれなかった魂を鎮めるための鐘があったんだ。

先日この鐘を引き取った寺院に行く機会を強引に作って鐘に会いに行った。鐘つき堂に行って冷たい釣り鐘に触れたら、体が軽くなった。まあ鎮魂の鐘はポータルみたいなアイテムだったんだと改めて思ったなぁ。二重三重映しでぼんやりしていた視界がようやく自分だけの視野に戻ったし。

時々異常に欲しがった、蒲鉾や綺麗な服が要らなくなった・・・。まあ欲求が増しただけで「怒り」には囚われなかった。

「怒り」のエネルギーが増すと・・・治世は乱れ、冥界のバランスが崩れる。

結界のようなモノはあるんだけど・・・人々が長い間に祈りを忘れていたせいで弱まってるんだろうかねぇ。

経済誌のダイヤモンドが「最先端IT企業にも神棚がある」という特集を組んでいたけど、確実に経済界にまでエセ神道と右思想が蔓延ってんだと思った。別に神棚があろうとなかろうと、そういうのは慣習的なものであってただの世俗である。実際に江戸時代の一般家庭で飾られていたわけではないからね。筋違いの伝統である。

おそらく一般家庭で神棚を飾る習俗なんてものは明治後期・・大正時代に一般化したのではないかと思う。今は一宗教法人の定めてることだから神棚などなくても家は安定するし、安全だと思う。おいらみたいに”正式な手順を踏んで”お迎えしたにも関わらず禍い成すアイテムになり得ることもあるんだよ。神棚には小さな鏡があるけど、あれは基本的に天照大神の象徴であり、鏡自体は伊勢神宮のご神体とされてきた。まあ古い銅鏡のことだよね。

だから、別段天照大神(神宮大麻)のお札をいれない場合は鏡を据える必要はない。

しかし鏡をご神体をする神社もたくさんある。それは廃仏毀釈の際に「よくわからない」ご神体も処分するように政府から命令があったからだ。誤解されているけど廃仏毀釈で被害にあったのは寺院だけではない。記紀神話の神を祀らない神社も取り壊され、ご神体も破壊されてる。そうした被災にあった神社はだいたいご神体として鏡を用いた。

神道の信仰対象でもある禁足地や磐座、聖地も社が無ければ認めれず、次々に聖なる場所に社が築かれたんだ。社の前に灯篭のない神社はだいたい神仏習合時の神社ではありえないから比較的新しい施設だと思った方がいい。

靖国神社は当初神社として作られ整備された宗教施設ではない。明治初めに神道の葬祭儀礼の議論になったときに、斎場でもある招魂社が神社形態の中に組み込まれた。ただし神道では冥界の神はいても、その存在は人間の魂を救済する神ではないとされているから靖国神社や護国神社にはご祀神として記紀神話の神は祀られていない。組み込まれはしたがあくまで異質な神社特に内務省管轄の軍隊のための神社施設になる。

祖霊信仰は元々古神道の分野ではあるけど範疇としては専ら仏法の範疇だったと思う。しかし神仏分離令が出て、宗教という概念が浸透する中で神道を信仰する国民も増えてきた。奇しくもそういう要望に応えるために神道にも葬祭儀礼が出来たんじゃないかと思うし、一向一揆に業を煮やした為政者らの禁教とされた浄土真宗などを中心にして葬祭儀礼のみは寺院に任された。宗教の多くは祝いも喪も同様に扱う。生と死は根源だからだ。しかし今でも神道の神々は人の死を穢れとして忌み嫌う。血を嫌うから病人やけが人を嫌い、女性の月経を嫌う。

時々、神社で女子旅のグループを見かけるが、本来ならば月経中の女性は境内に入るのは遠慮した方がいい。おいらたちが子供の炉時は「月のモノがあるときは神社に行くな」と長老老婆が口やかましく言っていた。非科学的だ時代じゃないと言われるが、そういう決まり事を受け継いで現代にも存在しているのが神社を基盤にした神道である。良縁に恵まれなかったと嘆く人はあんがいそういう禁止事項を無視してお詣りしたせいじゃないのかと思うよ。運気が落ちたと思うならお詫びに行った方がいいし、願いが叶ったら願ほどきという、いわゆるお礼参りのようなことを欠かさずにするべきだよ。神様は優しいから許してくれるなんていう霊能者やスピ系の人が言ってんのは大ウソだから。

神の祟りだけは絶対にある。これは疑わない。ただ諺にあるように『触らぬ神に祟りなし』が言うとおりに縁起が良いと噂される神社に行くときも自分に合うかチャックしてね。HP見てて嫌な感じがしたら気のせいだとは思わずに行くのを控えた方がいい。触るとは触れることではなく、詣でることだと思う。護符や呪文みたいに目でみるだけの毒を含むものもあるけど、神社の場合は行かなければ祟られようがない。お守りなんかは分霊のアイテムだから、むやみに人にあげない方がいい。お守りを授かる場合はやむを得ない場合を除き、家族や親友であっても本人がまいらないと何の意味もないそうだし、障りにあうともいわれる。

実際は人間に対してやたら厳しいのが「神」である。人間に優しいなんて言うのは・・・それこそ人間の勝手な意見。人は自然災害や凶作が起こるたびに、神を怒らせていると考えた。だから神の機嫌を取るために神を召喚し祝宴をしもてなした。根底にあったのは「どうか祟らないでください、(私や家族や村に)障らないでください」という祈り。神=禍いが、身近に来ないようにお願いをしていたんだ。古代人は逆に尊ぶことで神を忌み嫌っていたと思われる。

今でこそ回数は減ったけど、神社に呼ばれることはある。おいらは神を形なきものとして思うが故に、存在が呼ぶのではなく神社の姿で現れる。時々は光みたいに来るけど、行ったところでロクな目に合わない・・・。思い過ごしが過ってるだけかも知れないけど笑。酷い時にはまいるとその土地に自然災害が起きる。こういう訳の分からない器になりたくなければ習俗的な祝いを除いて、行かない方がいいと思う。運気があがり神がかれる人などごく一部だから。多くはエネルギーみたいなモノを取られるか、祟られる。

おいらのはよく考えると”よくできたシナリオ”通りに呼ばれてるし、神道に近づかされてる。母方の先祖に所縁があると思っていた神社と思い込んでいたら、父方の親戚で、血の繋がりのない可愛がってくれたお婆さんの一族が長らく奉じてきた神社だったりする。巡り巡るとリングみたいに繋がるけど、それには何の意味もない。答えに辿りついても、その答えに意味がない。

何か、グゥッとくるものでもあれば違うんだろうけど、もうオカルト的なモノに免疫が出来てるから、ちょっとやそっとでは何も感じない。

損な体質。神的な現象はもう日常なんだ。

もっと荒れ狂うぞ。

繰り返す嵐みたいに。

たぶん、それは「鬼霊」だ。




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