琉球王国時代に王様からご褒美として植えられたそうです。
門柱に残っている弾痕
沖縄師範学校の跡で、現在の沖縄県立芸術大学の敷地内の一角にある。沖縄師範学校は1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。沖縄師範学校の起源は、1880年に設立された会話伝習所であり、標準語や小学校教育を教えていたとされている。沖縄戦では、師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出している。
喜名小学校の前にある児童公園にありました。説明板もなく問い合わせしました。
お問合せありがとうございます。 お問い合わせの件につきまして、地元自治会に調査しました所、 観音堂の下の井戸は、十数年前に掘ったそうですが、 水が湧かず井戸として機能していないそうです。 ですので、特に名前も無いとの事でした。
親川(ウェーガー)は掛保久のほぼ中央にあり、掘り込みの共同井戸として利用されの拝井泉でもある。この井泉は水量が豊富で、明治37年の大旱魃の時にも水が枯れることはなく、近隣から水をもらいにつめかけたという。
戦災で埋もれていたこの井泉は戦後、修復され、今でもの拝井泉として崇められている。現在はコンクリート製の社殿型の祠が建てられており、下方にわずかな石積みがみられる。
これと同じつくりの井泉が与那原町にもある。その井泉も親川とよばれ、掛保久親川と一対であるといわれている。
糸満市大里の南山城跡近くにあります。
嘉手志川の豊かな水は、地元ではウフガー(大井泉)と呼ばれ、領地の田畑を潤し、南山繁栄の基礎を成したと伝えられています。
しかし、1743年〜1745年に編纂された琉球王国の正史『球陽』(きゅうよう)によれば、南山最後の王となった他魯毎(たるみぃ)が、中山王の尚巴志(しょうはしおう)が持っていた金屏風を欲しがり、泉(嘉手志川)と交換。
これがもとで人心が離れ、他魯毎は尚巴志に滅ぼされたと伝えられています。
琉球石灰岩と基盤岩の泥岩との接合部から湧き出るンブガー(産井泉)は、プールのようになり、今でも生活用水、農業用水として利用されています。
夏は納涼スポット、清流をせき止めた天然のプールは、子供たちの絶好の水遊び場に(深い場所では1mほどあるので幼児連れは注意が必要)。
ちなみに嘉手志(かでし)とは、琉球方言で幸を意味する言葉。