子どもは親が育て 成人は社会が育てる
そして老人になると自分が自分を育てる
三重城、別称「王ヌ大比屋(おひや)城」の建造は、尚清王の夫人となった娘を持つ楚辺村の豪族「王農大親(オーヌウフヤ)」によるとされている。
当初は、屋良座森城(ヤラザモリグスク)とともに、13世紀から16世紀に朝鮮半島や中国大陸沿岸で活動していた「倭寇」と呼ばれる海賊から自国を防衛するための砦であり、堤の中ほどに臨海寺を抱え、4つの橋で連なる長堤の先に存在したが、明治期から大正期にかけて「西の海」と呼ばれた海の部分の埋め立てが進み、現在のような地勢となった。
1832年頃に「球陽八景」を下絵として葛飾北斎が描いたとされる「琉球八景」の一枚、「臨海湖声(りんかいこせい)浦添美術館所蔵」を見れば、埋め立てられる前の様子を確認する事ができる。
倭寇の衰退とともに港防衛の役割の薄れてきた三重城は、琉球舞踊「花風」に唄われるように、大切な人の船出を見送る岬として知られるようになっていく。
現在では長堤砦であった時の様子をみる事は出来ないが、史蹟として残り「水神」や「五臓神」などの石碑をみる事ができる。