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比企の寺へ~畠山重忠ゆかりの地(二)

2022-03-23 | 旅行
おはようございます。

前記事「菅谷館跡」に続き、畠山重忠公ゆかりの地巡り、
本日は埼玉県比企郡の二つのお寺です。
どうぞ、おつきあいくださいませ。



平安時代の中頃、奥州へ下向した、桓武平氏の平良文から
始まる一族が、秩父氏。
畠山重忠公も、この一族に連なります。


(グーグルマップをスクショ後、貼付けました)



菅谷館跡から向かったのは、嵐山(ランザン)町の平沢寺(ヘイタクジ)。↓

武蔵(東京、埼玉、神奈川の一部)で、
秩父氏の地位を固めたのが、重忠公の曾祖父、秩父重綱です。

久安4(1148)年に、重綱と妻らが埋葬した経筒が、
江戸時代になって、この平沢寺から出土したのだとか。



つまり、その頃には、秩父氏あらため畠山氏一族が、
後に菅谷館を構える、嵐山に移っていたと考えられるとのこと。
重忠公の生まれる、16年程前のことでした。

発掘調査で、当時、東日本最大級とされる堂跡を持つ、
大伽藍だったとわかったそうですが・・・今は地域のお寺という感じ。
雨も強かったので、車から撮影だけして、失礼しました。




その後、郡内ときがわ町の慈光寺(天台宗)へ。↑
奈良時代に開かれた名刹、阪東三十三観音霊場第九番札所です。

ここまで来るだけでも、くねくねした細い道を登る、深い山の中、
この日は霧も立ちこめ、いっそう深山幽谷の風情、
神秘的でした。



鎌倉時代以前、既に「一山七十五坊」を持つ、一大山岳寺院、
その勢力は北関東一帯に、及んだそうです。
これを支えたのが、畠山氏の経済力、政治力でした。

山深い斜面に、大伽藍・・・
当時の人々の度肝を抜いたことでしょう。



後に、源頼朝も、奥州藤原氏との合戦の際に
この寺で、戦勝祈願をするなど、篤く信仰したそうです。

鎌倉殿は、信頼する畠山重忠ゆかりの寺であることからも
この寺を信仰したのかもしれません。



鎌倉殿の信仰も篤いとなれば、当然、寺も栄えるというものです。
そのためか、日本三大装飾経として知られる、国宝「慈光寺経」が
伝えられているのだとか。

宝物殿を見学しなかったことが悔やまれます・・・



わたしたちが拝観したのは、山門から御本堂までの
ごく一部だけ。

でも、その後、車で山を下りながら、
昭和の火事で焼失したという跡などを観ると、↑
かつての大伽藍が想像できるようでした。



これだけの寺を支えられてきたのですから、
畠山氏の力はいかばかりだったことでしょうか・・・
(・・・って中川大志さんのイメージを浮かべていますw)



・・・このお寺の後、秩父市街へと向かいます。

ナビのルート案内で、林道を通ったせいか、
やたらと通行止めが多く、霧も濃くなり、難儀しました。
(運転は夫担当、わたしは怖くて縮こまっていただけ・・・)


本日も、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。


★参考
📖埼玉県立嵐山史跡の博物館編集・発行『菅谷館の主 畠山重忠』
  同『秩父氏の歴史』(嵐山史跡の博物館ガイドブック1、3)
📖パンフ 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会
  「鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡マップ」
📖パンフ ときがわ町役場「観光ガイド ときがわ」

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