速度計は30ちょっとを指している。50キロほどなんだろうけど、異常に遅く感じる。吹け上がりがぎこちないからだろう。まだ、本調子ではないみたいだ。
ツーリングに出ると、それが一週間以上の場合も、日帰りの場合も、いつもその日のうちに日記をつけるようにして来た。
今回もそうする筈のところ、齢のせいか、遂に眠気に負けてしまった。
まあ、先日同じコースを辿ったからなあ、という気持ちは少なからず障壁になっている。
けれど、日記をつけなかった大きな理由は
「ツーリング日記なんか書いたって、しょうがないだろ?」
という気持ちが、最近、段々に強くなって来ていることだ。
「百聞は一見に如かず」、だ。
ツーリングの楽しさをここにいくら苦心して書いたって、バイクに乗らない人がそれを見て楽しさなんて分かるはずもない。
勿論、私の文章表現能力が超一級品なら、その楽しさを脳裏に思い浮かべることができるかもしれない。
けどそれだって、ハンドルを握った(バイクの、ですよ)ことのある人と、そうでない人では、共感の度合いが天と地ほども違うだろう。
反対に、相当に乗ってる人からすれば、
「何ともまあ、ありきたりな、凡庸なツーリング記録だなぁ。読むだけ時間の無駄だったよなぁ」
となるだろう。
いっそ行程だけ書けば数行で済む。それなら、バイク乗りにだって参考になるかもしれない。どこで何を食べたとか、どこの入場料はいくらだったとか。
また、乗る楽しさだけ書けば、乗ってない人も、一度くらいは読んでみようかな、という気になるかもしれない。
帰り道でふと思った。先日に書いた「風の中に居る」ということ。
バイクに乗って走っている。時速50~60キロの風の中にいる。
今、確かに移動している、と感じ続けている。
歩いている時はどうだろう。時速50~60キロの風の中を歩く時、一体何を考えるのだろう。
大概の人は、歩くのに一所懸命で、考える余裕なんかなく、風が強いな、としか思わないんじゃなかろうか。
そんな風の中で、散歩気分、なんて人は滅多にないだろう。
バイクの時速50~60キロの風の中、歩かないんだから歩くのに一所懸命になる必要はない。
「帰り道で思った」と言うより、「感じた」と言うべきかも知れない。
歩いてはいないけど、それに、走ってるのはバイクだけれど、乗ってるんだから、散歩している時みたいに考えながら、というわけにはいかない。
走りながら考えることはできない。
当然、「思い」は浮かんでいるだけで、堂々巡りすらできない。
それを帰ってから思い出していた。
物事を「考える」とは言うけれど、実際のところ、本当に普段色々なことを考えて生きているのだろうか。
そんなつもりでいるだけで、現実には「常識」とか、「世間体」とか、「浮世の義理」とかいうものに、知らず、縛られ、それを「考えている」、と「ぼんやり思っている」だけではないだろうか。
でなければ、毎日流れるニュースや、政治の動向にこんなに振り回されることはなかろう。
却って意識的に(或いは無意識に)「考える」ことをやめてしまっている時の方が、本当は「考えている」ことにならないか。
坐禅なんかそうかもしれない。念仏や題目を唱えることも。
稽古事等に、無心に取り組んでいる時、ひたすら「それ」、に取り組んでいる時には、「考える」ことはできず、常識や世間体や浮世の義理に縛られて「考える真似事」をしている暇はない。
しかし、その稽古事等に懸命に取り組んでいるうちに身につく考え方で、筋の通った考えができ、考えが深まる。
「そのこと」に関する僅かな約束事の中で、最善の形、行動、考え方を提示されそれを倣うしかないからだ。
ツーリング中の「走る」ということは、その境目のところに居るような気がする。
勿論、そこで、「考えられないから」といって、無心になって、題目、念仏、坐禅となってしまうと、当然、「即刻、あの世行き」なんだけれど・・・。
あっ!ツーリングのこと、書くの忘れてた!!
ツーリングに出ると、それが一週間以上の場合も、日帰りの場合も、いつもその日のうちに日記をつけるようにして来た。
今回もそうする筈のところ、齢のせいか、遂に眠気に負けてしまった。
まあ、先日同じコースを辿ったからなあ、という気持ちは少なからず障壁になっている。
けれど、日記をつけなかった大きな理由は
「ツーリング日記なんか書いたって、しょうがないだろ?」
という気持ちが、最近、段々に強くなって来ていることだ。
「百聞は一見に如かず」、だ。
ツーリングの楽しさをここにいくら苦心して書いたって、バイクに乗らない人がそれを見て楽しさなんて分かるはずもない。
勿論、私の文章表現能力が超一級品なら、その楽しさを脳裏に思い浮かべることができるかもしれない。
けどそれだって、ハンドルを握った(バイクの、ですよ)ことのある人と、そうでない人では、共感の度合いが天と地ほども違うだろう。
反対に、相当に乗ってる人からすれば、
「何ともまあ、ありきたりな、凡庸なツーリング記録だなぁ。読むだけ時間の無駄だったよなぁ」
となるだろう。
いっそ行程だけ書けば数行で済む。それなら、バイク乗りにだって参考になるかもしれない。どこで何を食べたとか、どこの入場料はいくらだったとか。
また、乗る楽しさだけ書けば、乗ってない人も、一度くらいは読んでみようかな、という気になるかもしれない。
帰り道でふと思った。先日に書いた「風の中に居る」ということ。
バイクに乗って走っている。時速50~60キロの風の中にいる。
今、確かに移動している、と感じ続けている。
歩いている時はどうだろう。時速50~60キロの風の中を歩く時、一体何を考えるのだろう。
大概の人は、歩くのに一所懸命で、考える余裕なんかなく、風が強いな、としか思わないんじゃなかろうか。
そんな風の中で、散歩気分、なんて人は滅多にないだろう。
バイクの時速50~60キロの風の中、歩かないんだから歩くのに一所懸命になる必要はない。
「帰り道で思った」と言うより、「感じた」と言うべきかも知れない。
歩いてはいないけど、それに、走ってるのはバイクだけれど、乗ってるんだから、散歩している時みたいに考えながら、というわけにはいかない。
走りながら考えることはできない。
当然、「思い」は浮かんでいるだけで、堂々巡りすらできない。
それを帰ってから思い出していた。
物事を「考える」とは言うけれど、実際のところ、本当に普段色々なことを考えて生きているのだろうか。
そんなつもりでいるだけで、現実には「常識」とか、「世間体」とか、「浮世の義理」とかいうものに、知らず、縛られ、それを「考えている」、と「ぼんやり思っている」だけではないだろうか。
でなければ、毎日流れるニュースや、政治の動向にこんなに振り回されることはなかろう。
却って意識的に(或いは無意識に)「考える」ことをやめてしまっている時の方が、本当は「考えている」ことにならないか。
坐禅なんかそうかもしれない。念仏や題目を唱えることも。
稽古事等に、無心に取り組んでいる時、ひたすら「それ」、に取り組んでいる時には、「考える」ことはできず、常識や世間体や浮世の義理に縛られて「考える真似事」をしている暇はない。
しかし、その稽古事等に懸命に取り組んでいるうちに身につく考え方で、筋の通った考えができ、考えが深まる。
「そのこと」に関する僅かな約束事の中で、最善の形、行動、考え方を提示されそれを倣うしかないからだ。
ツーリング中の「走る」ということは、その境目のところに居るような気がする。
勿論、そこで、「考えられないから」といって、無心になって、題目、念仏、坐禅となってしまうと、当然、「即刻、あの世行き」なんだけれど・・・。
あっ!ツーリングのこと、書くの忘れてた!!
2012.05/10
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