葬儀、初七日、四十九日、納骨。
10時から始まった「葬儀」は、30分ほどで終わった。
以降、それぞれ短時間の休憩をはさんで11時半過ぎ(12時前?)までに全ての法事を済ませてしまった。
「偉い」(と言うべきかどうか迷うのだけれど)のは、それぞれの法事で導師たる旦那寺の住職が、その都度法事に合わせた僧衣に着替えることだ。
ちゃんとそう決まっているからそういう風にしているのだとは思うのだが、前日、当日、七日目、四十九日目、納骨日、と特別な豪華(?)な衣装から段々に日常生活に於いての心持ちに変わっていくことを、このそれぞれの僧衣が雄弁に物語っている。
これなら誰にだって心の持ちようが肌で感じ取れるように思う。
そういえば、或る藩の菩提寺の高僧(確か禅宗であったと思う)が城に参るときはいつも墨染の粗末な衣を着ていたので、上位の藩士が苦言を呈したところ特に反論することもなく下城した。それが前藩主の法要に呼ばれた時はとても立派な衣装で登城したので、件の藩士が今度は嫁入り衣装のように立派だ、と揶揄ったところ、持っていた扇子で藩士の額を一打ち、「お前さんのような立派な子を産まねばならんでな」と言ったとか。
「人を見た眼で判断するな」は、常に謙虚であれという自戒のための言葉であって、裏を返せば「自身が見た目で判断されても全く問題ない、表裏共に高潔な生き方を目指す」ということだろう。
それぞれの法事によって僧衣を替える。本来なら二月も三月も掛けて心持ちを切り替えていくはずのところを、今は参会者の都合に合わせて僅か一、二日で全部やってしまう。それでも、心の持ちようの変化を教えるためにこうやってその都度僧衣を替える。
これ、何よりも大事なことかもしれない。
仏教も神道も同じだ。「威儀を正す」とか「形(容)を改めて・・」というのは、信徒や参拝者にも「心掛け」を再確認させるために大事なことだ、と思う。
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