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ただの日記

「当時の風を感じたような気がした」 (「朝鮮總督府官吏 最後の証言」を読んで)

2020年05月17日 | 心の持ち様
2014.09/02 (Tue)

 桜の花出版編集部 
  シリーズ日本の誇り10

        「朝鮮總督府官吏 最後の証言」

 という本を手に入れました。
 8月15日初版発行となっていますから、既に読まれた方もあるかもしれませんね。
 
 この本、何と御年99歳になられる西川清という方が口述、資料提供などされて、成った本なんだそうです。
 驚くべきはその記憶力。そして、明晰な頭脳です。
 西川氏御自身が仰っているように、朝鮮總督府官吏として、当時のことを文字通りの生証人として語ることができるのは、現在は氏唯一人でしょう。

 和歌山に生まれ、林業学校を卒業後、朝鮮總督府に奉職、地方官吏養成所の第一期生となって29歳では早くも江原道属原州郡内務課長になるという、大変優秀な人物のようです。つい「だった」、と書いてしまいそうですが、先に書いた通り、元気に過ごしておられるということです。

 この日記の標題なんですが、私はどうも不勉強の故でしょうか、それとも創造力が欠けているのか、どうしても日韓併合以後、日本の敗戦に至るまでの朝鮮について、イメージすることができなかったんです。それで、こんな風にしました。

 日本が明治以降に朝鮮に様々な形で係わっていく、その過程で、朝鮮の生活は劇的に変わったと言われています。
 あの、多くの写真に見られる、葺いただけで軒の切り揃えて形を整えることもされてない藁屋根の家々。そんな家が身勝手に建てられている、貧窮に喘いでいるような何とも悲惨な朝鮮の景色。白黒の写真でもはっきりとわかる薄汚れた白かった筈の服。そして人々の絶望的な相貌。
 それが併合時期を中心に激変していく理由が分からなかった。

 勿論、日本の様々な働きかけでそうなっていったんだ、ということは理解はできるんですよ。学校のこととか、耕地整備、産業の振興、とか。
 手を着けなかったことはないんじゃないかと思うくらい、何でもかんでも、それこそ日本以上に呆れるくらいな速さで変えていったのは、数枚の写真を見ただけでも分かります。
 でも、司馬遼太郎が言うように、損得、後先考えずに、西欧の列強諸国に認められたい、賞讃されたいという子供じみた思いから全力投球したというような、そんな単純なものだったんだろうか、日本はそこまでの計算もできない愚かな国だったんだろうか、とずっと思っていました。

 それが以前に自分が書いた日記を偶然に読み、
 「民俗学は一般庶民の日常の中に、その国の文化、国民の本質がある、とする学問」
 と書いていたのを思い出し、
 「そうか!この人の口述通り、その日常を見れば、朝鮮人日本人双方の変化の様子が分かるんじゃないか」
 と思い始めました。

 そうすると、朝鮮の生活だけでなく、私の父が戦争に行っていた時に撮ってもらった写真、手に入れた写真等からも、これまでに感じられなかった「空気」、「風」のようなものを不意に感じるような気がしました。
 何だか写真の枠の陰になっている部分も、覗きこんだら見えるような錯覚です。立体写真に慣れて一枚の写真から立体を感じるようになった時の感覚です。
 「司馬遼太郎のいう『子供じみた思い』というのは違う。これこそが当時の日本人の『雄飛』の気持ちだ」

 今回の日記は書評でも、本の紹介でもありませんから、詳しいことは書きません。
 ただ、私がこんなことを思うようになるに至った部分を少し転載してみようと思います。

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    「朝鮮人との付き合い」より
 P72~             (略)
 道庁内で、天皇陛下の御真影が飾ってあるということはありませんでした。もし天皇陛下の御写真を飾るとしたら、奉安殿があるはずですが、道庁にはありませんでした。
 皇民化政策と言われますが、国旗掲揚や国歌斉唱もありませんでした。皇民化政策について勘違いしている方が多いのです。日本人も朝鮮人も皇民だったということです。皇民化とは日本と朝鮮の格差や差別を無くす為のものだったと思います。
 
 道庁に就職するような朝鮮人はいわゆるインテリで、今更一から何かを教えたり、個々に強制することはありません。役所は学校ではなく職場ですから、まずそんな当たり前のことを毎日はやりません。朝鮮の十三しかない道庁の江原道庁ですらそうでしたので、戦前といってもそんな息苦しいことではないのです。
 こういう話は今の人は意外に思うかもしれません。私は戦前・戦中の朝鮮で国旗掲揚とか君が代など歌ったとか、殆ど覚えていません。これが道庁での体験であったことは重要です。
 国というか、總督府の公的機関である道庁なら、それがあっても当然だと思うかもしれません。しかし、軍国主義とかイメージで語ることは簡単ですが、実態はそんなことを私は体験していないし、印象にすら残っていないのです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「内鮮一体」と差別
 P74~             (略)
 過去のことは水に流せとは言わないけれど、日本人も朝鮮人も一体だからということで、總督府が新しい方針を打ち出して、朝鮮人も次々と日本人と同じ権利を持つことができました。
 内鮮一体ということは過去には差別があったということでもあります。それを否定するつもりはありません。しかし、これを日本人は無くそう、朝鮮人も同じ権利にしようと努力していたのです。この努力を日本人は懸命にしていた事実を知ってほしいと思います。
 しかし、私は内心思いました。内鮮一体ならば、朝鮮人も徴兵の義務があってもいいじゃないか。なぜ、徴兵がないのか不思議だなと思いました。

                                    「第二章 朝鮮人の仲間達」より
                       転載了
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 「日本人も朝鮮人も皇民だったということです」
 これは「皇学=国学」、「皇典=古典籍」、「皇国=我が国」のように、「皇民=国民」と考えるべきと思います。
 「皇民化政策」と言えば、「天皇の民にする政策」と思いがちですが、「一国民化政策」と考えるのが妥当な線でしょう。


 「内鮮一体ならば、朝鮮人も徴兵の義務があってもいいじゃないか。」
 差別を無くそう、同じ権利を持とう、と色々な権利を手に入れるようにしていった。ならば何故、徴兵の義務がないのだ?
 素朴な疑問です。簡単に言えば「ズルいなぁ」の一言でしょう。こんな素朴な疑問が出てくるくらい、この頃になると日本人の持つ権利に肉薄するほどになっていた、ということですよね。
 だからこそ、「この努力を日本人は懸命にしていた事実を知ってほしいと思います」という言葉が出てくるのだと思います。
 徴兵はなかった、というこの文章を見れば、慰安婦を強制連行した、などと言うのがとんでもない大法螺だ、ということが納得できます。

 慰安婦に関しては別の項でこんな風に書かれています。
 ~こうした總督府の組織、命令系統を理解した上で、いわゆる慰安婦連行について説明します。創氏改名や徴用など總督府が行った政策と慰安婦連行など次元の違う話を一緒にしてはいけません。慰安婦連行を行政機関が命令させたということは、絶対にありません、不可能なことです。~


 一旦、ここで切ります。
 次回は同書の中にある「コラム」を転載します。
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