2月16日(金)
日付が変われば。遅くとも午前2時には雨はすっかり上がる。
・・・ということだった。
5時に起きて外を見たら、なるほど空には千切れ雲が少し浮かんでいるだけで、夜空には透き通った闇が広がっている。二階の窓から見える神戸の街もジオラマみたいな光の中にある。
しょうがない。着替えて散歩に出ることにしよう。
血圧を測ったりストレッチをしたりして、出る準備をする。
今朝は、あの微かな眩暈はすっかり影を潜めている。(結局いつもの通り二日間で消えた)
玄関を出て、「あれっ?」と思った。
空が見えない。
いつの間にかすっかり薄雲に覆われている。三十分前後経っていただろうか。
一歩踏み出す。ヤッケに小さな雨粒の当たる音が聞こえた。
また玄関で引き返すパターンか?
門扉まで数歩、ゆっくり進む。小さな雨粒の当たり方には、そのわずか数歩の間にも波がある。
この分なら強くなることはなさそうだ、と判断し、そのまま散歩に出ることにした。
結局、帰って来るまでに雨粒の当たる音がしたのは、門扉を開けるまでの数歩の間だけだった。
以降、先述した通り雨の降ることはなかった。しかし窓の結露が完全に消えたのは昼を過ぎてからだった。寒い一日だったということだ。
そんなだから出て出られないことはなかったのだが、「ここまで冷え込む中、用事もないのに」と、出るのは止めた。
明日、明後日と一気に温かくなるらしいので、二日続けて出ようか。
「出歩く」こと自体よりも「出歩く前の準備」を、色々想像している方が楽しい、と感じるようになったのは、やっぱり歳を取ったからなのだろう。
それでも出歩くこと自体は相変わらず楽しいままなのだから、「準備も楽しい」と思うようになったのは、出歩くことを二倍楽しめるようになったということでもある。
勿論、バイクに乗り始めた頃は準備だって楽しかった。けれど実際に出歩くことの方が気になって「心、ここに在らず」状態。準備に手がつかなかったし、期待で前の晩はなかなか眠れなかった。
そわそわして準備(物心両面)の楽しさをじっくり味わってなかったのじゃないか、と今にして思う。
やっぱりこれも「年の功」?いやいや「老人力」、か。