2017.11/21 (Tue)
今日はともかく寒かった。あまり寒いので、何をする気にもならない。
何をする気にもならないくらいだから、「日記を書こう!」なんて気が起きるわけはない。
というわけで、年金暮らしの独居老人は炬燵に潜り込み、首だけ出してちぢこまっていた。
縮こまっていても何も進展(変化?)は、ない。
何をする気にもならないのだから、何か考える、なんて考えがまとまるわけもない。
それ以前に、「考えようと思うこと」すら思いつかない。妄想すら起きず、ただ、時折眠気に誘われて漂っているクラゲ状態。
それでも食い意地だけは別のようで、妙におやつを食べたくなった。
が、おやつはない。買ってくるしかない。めんどくさい。でも、食べたい。
ついに食い意地が勝った。雨もやんだようだし、と買いに出ることにした。
「じっとしていれば寒いだけだが、歩けば暖かくなる。縮こまっているよりマシだろう。何か思いつくかも」
・・・・とまあ、計算してみた。
三時を回って、リュックを背負って出発。
ここ数日で、銀杏の葉がほとんど落ちてしまった。垂直に伸びた細枝が空を裂いている。あまり穏やかな気分になれない景色だ。穏やかになれないどころか神経質になりそうだ。
それが今日、半分仕方なし(?)に歩いてみると、バイクや車では感じなかったものが見えてきた。落ち着き、いや、華やかさのようなものがある。
考えるまでもなく、その理由は雨に濡れたアスファルトの舗道に散り敷いた銀杏の落ち葉にある。
秋の日射しを透かして輝く銀杏の葉と違って、黒いアスファルトの歩道の路面を覆いつくすように、黄金の葉が重なり、積もっている。空を切り裂く、細く神経質な枝の棘は、散り敷いた落ち葉に苛立ちを消され、すっかり景色に溶け込んでいる。
車で走っている時は、まっすぐ天に伸びる細枝が目に入る。「冬が近い」、と思う。
バイクで走っている時は、銀杏の幹と路面が視界に飛び込んでくる。「景色の中にいる」、と思う。
歩いてみると、細枝を見たり、歩道に張り付いた濡れ落ち葉を見たり、路面の端に吹き寄せられた落ち葉の、時折舞うのを見たりする。
考えてみれば、歩いている時は、季節を見たり、走行情報を得ようとしたり、といった実直さがない。ちゃらんぽらんになっている。
車はフロントガラスに縛られる。枠の中で世界を見ている。
バイクは数十メートル先の路面から目が離せない。転倒しないよう、路面を全ての中心に世界を見ている。
けど、こうやって歩いていると視界の枠もなく、路面に注目することもない。横断歩道がなくとも気ままに立ち止まり、辺りを見渡したりする。
炬燵の中で縮こまって、何もせず、何も考えられず、にいたのが、たかが「おやつを食べたい」という食い意地だけで外に出てみた。そうしたら色々と感じることがあった。
どんな理由からであろうと、とにかく「自らの五感を刺激する」ことが、やっぱり必要なようだ。
様々な情報は五感を用いて収集する。視覚や聴覚に偏った、それも他人の目で、他人の手によってまとめられた情報は、こちらの理解能力の枠を超えているものがほとんどだ。
となると、まずは情報を鵜呑みにせず、自分の現在の理解能力で「自分だったらどう考える」「自分だったらどうする」「自分だったらどう応える」とやってみることって大切だろう。
それをやってみて、必ず出てくる辻褄の合わないことを「考える」。
きっかけは「食い意地から」、だっていいじゃないか。
今日はともかく寒かった。あまり寒いので、何をする気にもならない。
何をする気にもならないくらいだから、「日記を書こう!」なんて気が起きるわけはない。
というわけで、年金暮らしの独居老人は炬燵に潜り込み、首だけ出してちぢこまっていた。
縮こまっていても何も進展(変化?)は、ない。
何をする気にもならないのだから、何か考える、なんて考えがまとまるわけもない。
それ以前に、「考えようと思うこと」すら思いつかない。妄想すら起きず、ただ、時折眠気に誘われて漂っているクラゲ状態。
それでも食い意地だけは別のようで、妙におやつを食べたくなった。
が、おやつはない。買ってくるしかない。めんどくさい。でも、食べたい。
ついに食い意地が勝った。雨もやんだようだし、と買いに出ることにした。
「じっとしていれば寒いだけだが、歩けば暖かくなる。縮こまっているよりマシだろう。何か思いつくかも」
・・・・とまあ、計算してみた。
三時を回って、リュックを背負って出発。
ここ数日で、銀杏の葉がほとんど落ちてしまった。垂直に伸びた細枝が空を裂いている。あまり穏やかな気分になれない景色だ。穏やかになれないどころか神経質になりそうだ。
それが今日、半分仕方なし(?)に歩いてみると、バイクや車では感じなかったものが見えてきた。落ち着き、いや、華やかさのようなものがある。
考えるまでもなく、その理由は雨に濡れたアスファルトの舗道に散り敷いた銀杏の落ち葉にある。
秋の日射しを透かして輝く銀杏の葉と違って、黒いアスファルトの歩道の路面を覆いつくすように、黄金の葉が重なり、積もっている。空を切り裂く、細く神経質な枝の棘は、散り敷いた落ち葉に苛立ちを消され、すっかり景色に溶け込んでいる。
車で走っている時は、まっすぐ天に伸びる細枝が目に入る。「冬が近い」、と思う。
バイクで走っている時は、銀杏の幹と路面が視界に飛び込んでくる。「景色の中にいる」、と思う。
歩いてみると、細枝を見たり、歩道に張り付いた濡れ落ち葉を見たり、路面の端に吹き寄せられた落ち葉の、時折舞うのを見たりする。
考えてみれば、歩いている時は、季節を見たり、走行情報を得ようとしたり、といった実直さがない。ちゃらんぽらんになっている。
車はフロントガラスに縛られる。枠の中で世界を見ている。
バイクは数十メートル先の路面から目が離せない。転倒しないよう、路面を全ての中心に世界を見ている。
けど、こうやって歩いていると視界の枠もなく、路面に注目することもない。横断歩道がなくとも気ままに立ち止まり、辺りを見渡したりする。
炬燵の中で縮こまって、何もせず、何も考えられず、にいたのが、たかが「おやつを食べたい」という食い意地だけで外に出てみた。そうしたら色々と感じることがあった。
どんな理由からであろうと、とにかく「自らの五感を刺激する」ことが、やっぱり必要なようだ。
様々な情報は五感を用いて収集する。視覚や聴覚に偏った、それも他人の目で、他人の手によってまとめられた情報は、こちらの理解能力の枠を超えているものがほとんどだ。
となると、まずは情報を鵜呑みにせず、自分の現在の理解能力で「自分だったらどう考える」「自分だったらどうする」「自分だったらどう応える」とやってみることって大切だろう。
それをやってみて、必ず出てくる辻褄の合わないことを「考える」。
きっかけは「食い意地から」、だっていいじゃないか。