goo blog サービス終了のお知らせ 

CubとSRと

ただの日記

「食い意地から」だって、いいじゃないか。

2020年07月06日 | 日々の暮らし
2017.11/21 (Tue)

 今日はともかく寒かった。あまり寒いので、何をする気にもならない。
 何をする気にもならないくらいだから、「日記を書こう!」なんて気が起きるわけはない。

 というわけで、年金暮らしの独居老人は炬燵に潜り込み、首だけ出してちぢこまっていた。
 縮こまっていても何も進展(変化?)は、ない。
 何をする気にもならないのだから、何か考える、なんて考えがまとまるわけもない。
 それ以前に、「考えようと思うこと」すら思いつかない。妄想すら起きず、ただ、時折眠気に誘われて漂っているクラゲ状態。

 それでも食い意地だけは別のようで、妙におやつを食べたくなった。
 が、おやつはない。買ってくるしかない。めんどくさい。でも、食べたい。
 
 ついに食い意地が勝った。雨もやんだようだし、と買いに出ることにした。
 「じっとしていれば寒いだけだが、歩けば暖かくなる。縮こまっているよりマシだろう。何か思いつくかも」
 ・・・・とまあ、計算してみた。

 三時を回って、リュックを背負って出発。
 ここ数日で、銀杏の葉がほとんど落ちてしまった。垂直に伸びた細枝が空を裂いている。あまり穏やかな気分になれない景色だ。穏やかになれないどころか神経質になりそうだ。

 それが今日、半分仕方なし(?)に歩いてみると、バイクや車では感じなかったものが見えてきた。落ち着き、いや、華やかさのようなものがある。
 考えるまでもなく、その理由は雨に濡れたアスファルトの舗道に散り敷いた銀杏の落ち葉にある。
 
 秋の日射しを透かして輝く銀杏の葉と違って、黒いアスファルトの歩道の路面を覆いつくすように、黄金の葉が重なり、積もっている。空を切り裂く、細く神経質な枝の棘は、散り敷いた落ち葉に苛立ちを消され、すっかり景色に溶け込んでいる。

 車で走っている時は、まっすぐ天に伸びる細枝が目に入る。「冬が近い」、と思う。
 バイクで走っている時は、銀杏の幹と路面が視界に飛び込んでくる。「景色の中にいる」、と思う。
 歩いてみると、細枝を見たり、歩道に張り付いた濡れ落ち葉を見たり、路面の端に吹き寄せられた落ち葉の、時折舞うのを見たりする。
 考えてみれば、歩いている時は、季節を見たり、走行情報を得ようとしたり、といった実直さがない。ちゃらんぽらんになっている。

 車はフロントガラスに縛られる。枠の中で世界を見ている。
 バイクは数十メートル先の路面から目が離せない。転倒しないよう、路面を全ての中心に世界を見ている。
 けど、こうやって歩いていると視界の枠もなく、路面に注目することもない。横断歩道がなくとも気ままに立ち止まり、辺りを見渡したりする。

 炬燵の中で縮こまって、何もせず、何も考えられず、にいたのが、たかが「おやつを食べたい」という食い意地だけで外に出てみた。そうしたら色々と感じることがあった。
 どんな理由からであろうと、とにかく「自らの五感を刺激する」ことが、やっぱり必要なようだ。

 様々な情報は五感を用いて収集する。視覚や聴覚に偏った、それも他人の目で、他人の手によってまとめられた情報は、こちらの理解能力の枠を超えているものがほとんどだ。
 となると、まずは情報を鵜呑みにせず、自分の現在の理解能力で「自分だったらどう考える」「自分だったらどうする」「自分だったらどう応える」とやってみることって大切だろう。
 
 それをやってみて、必ず出てくる辻褄の合わないことを「考える」。 
 きっかけは「食い意地から」、だっていいじゃないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディアとの戦いはまだまだ続く

2020年07月06日 | 心の持ち様
2017.11/02 (Thu)

 「トランプ大統領見誤ってはならない」

           加瀬英明

 トランプ大統領のアメリカを見誤ってはならない

 私はこのままゆけば、トランプ大統領が2020年に再選される可能性が、高 いと思う。 
 日本ではトランプ大統領のもとで、アメリカが解体しかねないとか、弾劾 されてじきに罷免されようという議論が、さかんだ。
 今日のアメリカにつ いてまったく無知な見方が、大手を振って罷り通っている。
 アメリカで国を2つに割って、壮絶なカルチャー・ウォア――文化戦争と訳 すべき戦いが繰り広げられている。毛沢東のもとで行われた「文化大革 命」に匹敵するものだといえよう。
 大混乱だ。伝統的なアメリカを融解させようとする、ニューヨーク、カリ フォルニア州を中心とする急進(リベラル)勢力と、「ミドル・アメリカ」 と呼ばれるアメリカ中西部諸州を中心とする旧守勢力が戦っている。


 ヒラリー・クリントン支持は何か

 急進(リベラル)勢力は昨年の大統領選挙でヒラリー・クリントン候補をあ げて支持した、知的エリートに従う市民層、大手新聞・テレビ、グローバ リゼーションを追求する大企業などだが、“台風の目”は、LBGTQや、 男女差、人種、不法移民などに対する、いっさいの差別を排除し、自己主 張を何よりも尊ぶ「アイデンティティー・ポリティクス」である。
 LBGTはレズビアン、バイセクシュアル、ゲイ、トランスセクシュアル の頭文字で、日本でも知られているが、“Q”はqueer(クイアー)で、 LBGTの総称でもあったが、このあいだまでは変態、変人を意味する罵 り言葉だった。ところが、いまでは真当な言葉とされている。
 「私はクイアーだ(アイム・クイアー)」と胸を張って、いえるようになっ ている。もし、そういわれたら、敬意をこめた表情をして、頷かねばなら ない。
 ニューヨークや、カリフォルニア州などの幼稚園や小学校では、入園、入 校する児童に「男の子として扱われたいの、女の子として扱われたいの」 と、たずねなければならない。

 昨秋、『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面に「ミスター、ミセス、ミス は性差別に当たるから、Mxと呼ばなければならない」という、大きな記 事が載った。
 私はその直後に、アメリカ大使館の女性の公使と夕食会で同席した時に、 「Mxはどう発音するんですか」と質したところ、そんなことも知らない のかという、冷い眼差しをして、「ミックス」と教えてくれた。
 1960年代から「チェアマン」(議長)「マンカインド」(人類)は女性差 別だから、「チェアパーソン」「ヒューマンカインド」と言い替える“言 葉狩り”が始まったが、民主党のオバマ政権のもとで、いっそう酷くなった。


 トイレの男女別を無くした

 オバマ大統領は政権最後の年に、「自分が信じる性別に従って」、男女の トイレのいずれを使ってもよいという、大統領令を発した。大統領令は法 律だが、さすがにいくつかの州が憲法違反として、連邦最高裁に提訴した。
 私が昨年ワシントンを訪れた時に、レストランの中に、トイレの男女別の 表示を撤去した店があった。もっとも、今年6月に戻ったところ、トラン プ政権のもとで男女の別が再び取りつけられていた。
 進歩(リベラル)勢力は、自分たちが「正常(セイン)」で、「ミドル・アメ リカ」の州民をはじめとする旧守勢力が「未開(バックワード)」だとか、 「知的発達障害(リターテッド)」を患っているとみて、蔑(さげす)んでいる。

 LBGTQの権利を主張する運動は、かなり前から始まっていた。アメリ カのネットで「セックス・アンド・ジェンダー」を取り出すと、性別が LBGTだけではなく、さらに63に細分化されることが分かる。
 「ジェンダー」は日本語にないが、「文化・社会的な役割としての性」を 意味している。長いリストを読んでゆくと、肉体的特徴から性の嗜好まで 分かれ、それぞれ尊重しなければならない。
 SNSも自己主張に充ちているために、人々の細分化をいっそう促している。

 8月に首都ワシントンの隣のバージニア州シャーロットビルで、州当局の 決定に従って、南北戦争の南部の英雄ロバート・リー将軍の銅像を撤去し ようとしたところ、撤去に反対する旧守派市民と、急進派(リベラル)市民 が衝突する騒ぎになった。反対派に白人至上主義のKKK(クークラクス クラン)や、ナチスの鉤十字旗(スワスチカ)を掲げた者がいた。


 「アンティファ」と称する過激派

 トランプ大統領が双方の暴力行為を非難したところ、アメリカの大手新 聞・テレビが「白人至上主義者」を擁護したといって、こき下ろしたが、 公正を欠いていた。
 急進派(リベラル)のなかに「アンティファ」(アンチ・ファシストの略) と称する、黒い覆面に黒装束の過激派がいて、投石や暴行を働いた。アン ティファは大統領選挙中も、トランプ大統領就任式に当たっても、映像に 登場していた。
 南部諸州では、南部連合旗の掲揚を禁じ、銅像の撤去、公共の場所、施設 名を変えることが進んでいるが、南部だけに限られない。
 ニューヨーク・マンハッタンのセントラル公園(パーク)に建つ、クリスト ファ・コロンブス像の撤去を求める運動や、全米で10月第2週の月曜日が 「コロンブス・デイ」として祝日とされてきたが、「コロンブスがアメリ カを発見した」というのは、白人至上主義だとして廃止するところが、相 次いでいる。

 名門プリンストン大学では、第1次大戦時のウィルソン大統領が白人至上 主義者だったといって、ウィルソン研究所(センター)を改名しようという 運動が進んでいる。このような例は、枚挙に遑(いとま)がない。
 ワシントン大統領も、『独立宣言』を起草した、3代目大統領のジェ ファーソンも、アメリカの「建国の父(ファウンディング・ファーザー ズ)」のほぼ全員が奴隷所有主だったことから、首都の名からすべて改め なければならなくなってしまう。このまま「歴史浄化(ピューリフィケー ション・オブ・ヒストリー)」が進めば、アメリカが解体してしまおう。
 もっとも、アメリカのどの世論調査をとっても、歴史上の人物の銅像を撤 去したり、街路、公園、施設、市町村などの名を変えるのに対する反対 が、半数を超えている。アメリカの建国そのものを、否定するものだ。
 私は1950年代にアメリカで学んだが、アメリカ人はジョークを好む“笑い の民”だったのに、このところ「アイデンティティー・ポリティクス」が 暴威を振っているために、何であれ、笑いの対象にできなくなったため に、笑いが失われるようになっている。


 自由競争が建国の精神だ

 この脇で、民主党は新しいリーダーも、理念も打ち出せず、2020年の 大 統領選挙をどのように戦えるのか、見当がつかない。
 民主党ではクリントン候補を脅した、サンダース上院議員によって代表さ れる、貧富の格差をなくそうと訴える社会主義が、力を持つようになって いる。経済的平等を求めることは羨望から発しており、建国の精神である 自由競争に基く市場経済を、否定するものだ。
 トランプ大統領は連邦議会と衝突しているが、旧守派の国民は議会を共和 党の幹部議員を含めて、リベラルだとみて喝采している。
 たしかに、トランプ大統領は口が軽く、衝動的であるために、自分自身が 最大の敵となっている。それでも、アメリカの伝統社会の守護神となって いる。


 本年6月、62%が中流階級以上だと回答

 アメリカでは、トランプ政権発足後、自分を中流階級としてみる者が急増 している。
 レーマン・ショック前の2006年のギァロップ調査では、国民の60%が中流 かそれ以上と答え、38%が労働者階級とみていたのに対して、2015年には 51%が中流以上、48%が労働者階級と答えていた。
 今年6月には、62%が中流以上だと答えている。トランプ政権のもとで経 済の行方を楽観する者が増えている。
 リベラル派市民のなかに経済が上向いていると感じている者が多いもの の、「未開明な」トランプを評価することが、絶対的なタブーとなってい るために、トランプに対する支持に結びつかない。

 民主党と急進派(リベラル)は、自ら墓穴を掘っている。


 ~わたなべりやうじらうのメイ ルマガジン「頂門の一針」4503号より~
           2017(平成29)年11月1日(水)

 ~~~~~~~~~~~~

 情報に疎い人のことを「情弱」と呼ぶのが当たり前のようになってきてますけど、勿論これは「(ネットで流れている)本当の情報を知らない人」という意味でつかわれる言い回しです。
 ただ、この「本当の情報」というのも、実は何だか怪しいんじゃないかな、ということを何度か書いてきました。
 理由は二つ。
 一つ目はネットに流れる情報の大半はマスメディアが流したもの、そのままであるということ。でも、そこに書き込まれたコメントと比較読みができるから、その都度、色々な物の見方のヒントを提示されることになる。
 そのため、何となく自分で考えた、或いは何かに気づいたような気がして、知らず、他人の考えをただ受け入れてしまっている。これ、「情報を入手した」、とホントに言えるのか。考えた、気づいた「つもり」だけで、ただ乗せられているのではないか。
 二つ目は半分は自分に言い聞かせていることなんだけど、「己の(現在の)理解能力の範囲内でしか理解できない」ということ。
 分かっている「つもり」、だけで、実は幼稚園児程度にしか分かってないんじゃないか。そんなに酷くなくとも中学生程度にも分かってない、ということはないんだろうか。

 「ネットは玉石混交」と言われるし、現実、そうなんだけど、実はそれはネット情報だけでなく、それを得よう、得て考えよう、と思っている我々の頭もそうなんじゃないでしょうか。「玉石混交」なんだけれども、「混交」ではなく「混濁」しているようにしか見えていなくて。
 それを「何となく自分で考えた、或いは何かに気づいたような気」でいるだけで。
 トランプ大統領批判然り、安倍総理批判然り。
 で、判断の責任だけは我々が負わされる(或いはしわ寄せを受ける)わけです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改革保守?言わずとも保守は改革をするものだ。

2020年07月06日 | 心の持ち様
2017.10/22 (Sun)

 「保守」に「改革」という言葉をつけた時点で、言ってる「保守」がぼんやりしたものになります。
 「今」を淡々と「生きる」。
 それを「肯定的に生きること」、と得心すれば、意図的に「ただ丁寧に丁寧に生きる」ことが「保守」、ということでしょう?

 丁寧に対応していれば、直すところは自然に直す。或いは「直そう」とする。
 というより、「直る」。
 批判色を帯びた「改革」ではないでしょう?

 「改革保守」というのは、「保守」という本体を「改革」する、ということだから、「糺す」という批判的な行動をとるよ、ということです。

 「保守」とは「今」を誠実に生きること。
 誠実に生きようとすれば自然に「あやふやな、ぼんやりした」部分が鮮やかに見えるようになり、「直せる」ようになります。何もわざわざ「改革」なんて付けずとも良い。

 具体的に言えば、有名な利休の柄杓の話なんかそうじゃないでしょうか。
 茶席に招かれた客が利休の点前を見ている。
 利休が茶釜から湯を採る時の姿が実に美しい。
 「流石に一流の茶人、見事なものだけれど、何故あんなに美しいんだろう」
 と思って、子細にその姿を点検してみた。
 よくよく見ると、一つ、普通と違っているものがある。柄杓の長さが通常のものより短い。

 「なるほど、そこが工夫だったのか」
 と大発見した気になって、帰宅するや早速自分の柄杓を短く切ってみた。
 それで自分もやってみたのだが、どうもうまくいかない。
 「おかしいな、何が間違っているんだろう」
 それで、そのことを利休に聞くと、
 「私はご覧の通り大柄ですから、通常の柄杓は柄が少しばかり長いのです。それで切り詰めました。」

 実に簡単な「身の丈に合ったものを」という話です。
 大柄な利休が通常の長さの柄杓で湯を汲めば、身体を反らせるか、腕を縮めるか、するしかない。どちらも容(かたち)が悪くなる。
 それではその景色を見た客も居心地が悪くなる。だから柄を切り詰めた。
 ところが一般的な体格の客が、それを真似て柄を切り詰めたら・・・?
 間違いなく前屈みになるか、腕を伸ばし気味にしなければ湯を汲めない。
 彼が亭主となって茶をたてようとすると、その時の客は、やはりどうも居心地が・・・、ということです。

 「一期一会」、ということで丁寧に丁寧に淡々と客をもてなす。
 これは決して「阿(おもね)る」ということではありません。自分の一番美しいところ(真心)を見てもらおうというだけのことです。これこそが「保守」、でしょう。

 で、三年前の日記なんですが。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「夕刻の備忘録」氏がいつも書かれていたことでした。
 保守とは、当たり前のことを淡々と、やることなのだ。
 淡々と誠実に取り組む毎日こそが大事なのだ。
 そこには不都合を社会のせいにする卑怯さはない。

 当たり前のことを当たり前に取り組む。そして一切手抜きはしない。
 お座なり、なおざりには決してしない。
 だからこそ工夫すべきことが見つかり、それを改善しようとすることになる。
 つまり保守であればあるほど、改革は進む、向上し続ける。

 逆に革命を、革新を標榜するものは、不都合を社会のせいにし、工夫すべき、改善すべきことを見つけようとせず、まず破壊、破棄を目指す。
 革新を望む者ほど、社会の恩恵を受けながら、社会を否定し、実行の伴わない革新を夢見る。

 その人の歴史を見れば、その人の考え方、在り方が分かるのだから、大まかな「彼の来し方」を見ればいいのではないか、と以前、書きました。
 「事実を見ることで事実を考える」
 のではありません。
 「事実を見ることで真実を読み取る」
 のです。
 その「真実」は、読み取る人の品性、精神、境地によって、無限にあります。

 では、社会に在って、社会の一員である我々は、「真実」をどのように読み取るか。
 品性も精神も境地も様々な我々だけれど、ただ一つ共通していることは、みんな「国」という社会に属しているということです。
 だったら、国を根っこにして考えるのが当然だし、それ抜きにして考えることなど、意味のないことだと言えるんじゃないでしょうか。つまり「世界市民」等笑止、ということです。国が初め、です。
 主権がある、選挙権がある云々のことではありません。


 ~ 2014年7月5日の日記 「保守であればあるほど改革は進む」 より~ 


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み比べてみる

2020年07月06日 | 心の持ち様
2017.10/21 (Sat)

 明日はいよいよ衆院選挙です。
 で、これまでの日記を見直してみました。

 当たり前のことですが、傾向や雰囲気は変わっても、選挙の目的自体は変わるものではありません。
 だから勝った負けた、よりも新しく成った政権が何をしようとしているのか、その所信を見るということは大事なことで、だからこそ、今回の国会開会冒頭解散で野党が「所信表明演説もしなかった!」と文句を言うのは至極当然なこと。
 (勿論、形式的には、ということで、現実、今回所信表明演説をしたって、野党はそれを聞く気なんて初めからなかったことは言うまでもありません)

 しかし、要はその中身ですね、言うまでもないけど。
 そして、立派な所信表明演説をしたからと言って、それが実現できるとは限らないけれど、所信表明演説以上のことができるわけではないことも、これまた、事実。
 何故って、国民の付託を得て政事を実行するんですから、勝手にそれ以上のこと(国民の望む以上のこと)をしちゃならないんです、民主主義では。
 それ以上のことをしようとする場合は、「国民に信を問」わねばならない。それで、衆院を解散して選挙を行う。
 そうやって改めて信を問うて新しく国会を召集し、新しい政事を実行する。


 麻生総理の所信表明演説と、あの民主党政権になった最初の、鳩山総理の所信表明演説をそれぞれ冒頭と一部を転載します。
 ここで、双方の志の高さを見比べるのも、明日の投票の参考になるかもしれません。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2008/09/29housin.html

第170回国会における麻生内閣総理大臣
所信表明演説
平成20年9月29日

(就任に当たって)
 わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽をいただき、第九二代内閣総理大臣に就任いたしました。
 わたしの前に、五八人の総理が列しておいでです。一一八年になんなんとする、憲政の大河があります。新総理の任命を、憲法上の手続にのっとって続けてきた、統治の伝統があり、日本人の、苦難と幸福、哀しみと喜び、あたかもあざなえる縄の如き、連綿たる集積があるのであります。
 その末端に連なる今この時、わたしは、担わんとする責任の重さに、うたた厳粛たらざるを得ません。
 この言葉よ、届けと念じます。ともすれば、元気を失いがちなお年寄り、若者、いや全国民の皆さん方のもとに。
 申し上げます。日本は、強くあらねばなりません。強い日本とは、難局に臨んで動じず、むしろこれを好機として、一層の飛躍を成し遂げる国であります。
 日本は、明るくなければなりません。幕末、我が国を訪れた外国人という外国人が、驚嘆とともに書きつけた記録の数々を通じて、わたしども日本人とは、決して豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、微笑む国民だったことを知っています。この性質は、今に脈々受け継がれているはずであります。蘇らせなくてはなりません。
 日本国と日本国民の行く末に、平和と安全を。人々の暮らしに、落ち着きと希望を。そして子どもたちの未来に、夢を。わたしは、これらをもたらし、盤石のものとすることに本務があると深く肝に銘じ、内閣総理大臣の職務に、一身をなげうって邁進する所存であります。
 わたしは、悲観しません。
 わたしは、日本と日本人の底力に、一点の疑問も抱いたことがありません。時代は、内外の政治と経済において、その変化に奔流の勢いを呈するが如くであります。しかし、わたしは、変化を乗り切って大きく脱皮する日本人の力を、どこまでも信じて疑いません。そしてわたしは、決して逃げません。
 わたしは、自由民主党と公明党の連立政権の基盤に立ち、責任と実行力ある政治を行うことを、国民の皆様にお誓いします。
     (中略)
民主党に伺います。
 今後日本の外交は、日米同盟から国連に軸足を移すといった発言が、民主党の幹部諸氏から聞こえてまいります。わたしは、日本国と日本国民の安寧にとって、日米同盟は、今日いささかもその重要性を失わないと考えます。事が国家・世界の安全保障に関わる場合、現在の国連は、少数国の方針で左右され得るなど、国運をそのままゆだね得る状況ではありません。
 日米同盟と、国連と。両者をどう優先劣後させようとしているか。民主党には、日本国民と世界に対し、明確にする責任があると存じます。論拠と共に伺いたいと存じます。
 第二に伺います。海上自衛隊によるインド洋での補給支援活動を、わたしは、我が国が、我が国の国益をかけ、我が国自身のためにしてきたものと考えてきました。テロとの闘いは、まだ到底出口が見えてまいりません。尊い犠牲を出しながら、幾多の国々はアフガニスタンへの関わりを、むしろ増やそうとしております。この時に当たって、国際社会の一員たる日本が、活動から手を引く選択はあり得ません。
 民主党は、それでもいいと考えるのでしょうか。見解を問うものであります。
     (後略)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/26sy...

第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

平成21年10月26日

一 はじめに

 あの暑い夏の総選挙の日から、すでに二か月が経とうとしています。また、私が内閣総理大臣の指名を受け、民主党、社会民主党、国民新党の三党連立政策合意の下に、新たな内閣を発足させてから、四十日が経とうとしています。

 総選挙において、国民の皆さまは政権交代を選択されました。これは日本に民主主義が定着してから、実質的に初めてのことです。
 長年続いた政治家と官僚のもたれ合いの関係、しがらみや既得権益によって機能しなくなった政治、年金や医療への心配、そして将来への不安など、「今の日本の政治をなんとかしてくれないと困る」という国民の声が、この政権交代をもたらしたのだと私は認識しております。その意味において、あの夏の総選挙の勝利者は国民一人ひとりです。その、一人ひとりの強い意思と熱い期待に応えるべく、私たちは「今こそ日本の歴史を変える」との意気込みで、国政の変革に取り組んでまいります。

 この間、私たちは、新しい政権づくり、新しい政治の枠組みづくりに必死に取り組んでまいりました。その過程において、国民の皆さまの変革への期待を感ずる一方、「本当に変革なんてできるのだろうか」という疑いや、「政治なんて変わらない」「政治が変わっても、自分たちの生活は変わらない」というあきらめの感情が、いまだ強く国民の中にあることを痛感させられました。
 ここまでの政治不信、国民の間に広がるあきらめの感情の責任は、必ずしも従来の与党だけにあったとは思っておりません。野党であった私たち自身も、自らの責任を自覚しながら問題の解決に取り組まなければならないと考えております。

 ここに集まられた議員の皆さん。
 私たちが全力を振り絞ってお互いに闘ったあの暑い夏の日々を思い出してください。皆さんが、全国の町や村、街頭や路地裏、山や海、学校や病院で、国民の皆さまから直接聞いた声を思い出してください。
 議員の皆さん、皆さんが受け止めた、国民一人ひとりの願いを、互いにかみしめ、しっかりと、一緒に、実現していこうではありませんか。政党や政治家のためではなく、選挙のためでももちろんなく、真に国民のためになる議論を、力の限り、この国会でぶつけ合っていこうではありませんか。
 変革の本番はまさにこれからです。今日を、その新たな出発の日としようではありませんか。
        (中略)

 地震列島、災害列島といわれる日本列島に私たちは暮らしています。大きな自然災害が日本を見舞うときのために万全の備えをするのが政治の第一の役割であります。
 また、同時に、その際、世界中の人々が、特にアジア近隣諸国の人々が、日本をなんとか救おう、日本に暮らす人々を助けよう、日本の文化を守ろうと、友愛の精神を持って日本に駆けつけてくれるような、そんな魅力にあふれる、諸国民から愛され、信頼される日本をつくりたい。これは私の偽らざる思いであります。

 日本は、百四十年前、明治維新という一大変革を成し遂げた国であります。現在、鳩山内閣が取り組んでいることは、言わば、「無血の平成維新」です。今日の維新は、官僚依存から、国民への大政奉還であり、中央集権から地域・現場主権へ、島国から開かれた海洋国家への、国のかたちの変革の試みです。

 新しい国づくりは、誰かに与えられるものではありません。現在の日本は、黒船という外圧もなければ、敗戦による焼け野原が眼前に広がるわけでもありません。そのような中で、変革を断行することは、先人の苦労に勝るとも劣らない大きな挑戦であります。
 つまずくこともあるでしょう。頭を打つこともあるやもしれません。しかし、後世の歴史家から「二十一世紀の最初の十年が過ぎようとしていたあの時期に、三十年後、五十年後の日本を見据えた改革が断行された」と評価されるような、強く大きな志を持った政権を目指したいと思っています。
      (後略)

 ~~~~~~~~~~~~~
 こころざし、それから具体的な方策について見比べてみれば一目瞭然かと思いますが・・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする