私が生まれて初めて生で見たプロのロックベーシストはバウワウの佐野賢二氏でした。
今回は佐野賢二氏の愛用していたベースの話題を中心に書いて参ります。
キンサンこと佐野賢二氏は島根県松江市出身、バウワウのギタリスト山本恭司氏や俳優の佐野史郎氏とは同郷で学年は一つ下、高校生からの仲です。
バウワウ結成時、ベーシストが未定だった時に丁度キンサンは上京して音楽学校に通っていて、山本恭司氏がコンタクトしてバウワウへ参加する事になりました。
(キンサンの通っていた音楽学校は「ハコバン養成所」のような所で、辞めて松江に帰ろうと思っていた所にバウワウの話が来たそうです)
「吼えろ!バウワウ」裏ジャケット
テレビ初登場
1976年、バウワウのデビュー時に楽器を買って貰える事になった際、本当はジャズベースが欲しかったそうなのですが、バウワウには合わないと言う事でリッケンバッカー#4001を選んだとの事。
低域不足を感じ、フロントピックアップをギブソンのミニハムバッカー(あるいはグレコのコピーモデル?)に交換するなどの改造が施されました。
ぎんざNOW
リッケンバッカーの後に使われるようになったのがヤマハのBB1200、ナチュラルフィニッシュの物です。
これは後に山本恭司氏の手に渡り、フレットレスに改造されソロアルバム(エレクトリックシネマ)で使用されています。
「スーパーライヴ」ジャケット
ヤマハBB1200と同時期に使われていたのがOPBタイプのベースです。
詳細が判るような写真が殆ど残されていないのですが、このジャケットの写真を見る限りボディのエッジが丸くてフェンダーのオリジナルプレシジョンには思えません。
当時、フェルナンデスとグレコからOPBタイプのベースが販売されていたので、そのいずれかではないかと思いますが確証は有りません。
そしてバウワウはポップ路線に向かいます。
クイズドレミファドン
私がバウワウを初めて観たのは1980年、この曲が収録されているアルバム「グロリアスロード」発表の少し前でした。
当時父の友人がNHK-FMの横浜放送局に勤めていまして、その開局10周年記念で山下公園の氷川丸で行われた公開録音ライヴの招待券を頂いたのです。
その時にキンサンが使っていたベースがミュージックマン・スティングレイでした。
バウワウ写真集
ポップ路線にシフトしたバウワウ、アイドルバンドのような写真集まで発売されました!
写真集の1ページ
キンサンの使用していたスティングレイは70年代末の物で、黒ボディにメイプルネックでミラーピックガードと言う勇ましいルックスでした。
バウワウがハードロックに回帰したアルバム「ハードドッグ」の頃まで使われていましたが、後にパーソンズの渡辺貢氏の手に渡っています。
このスティングレイと同時期に愛用していたのがヤマハSB1200Sで、これがキッカケでヤマハとの関係が築かれます。
「エイジアン・ヴォルケイノ」宣材写真
1982年発表のアルバムです、この写真で手にしているのがヤマハとのエンドースで製作された佐野賢二モデルです。
ベースになっているのはSB800Sで、JB的レイアウトになっているピックアップを1つに纏めたハムバッキング1基となっています。
1PUですがコントロールツマミが3つあるあたり、もしかしたらスティングレイのようなアクティヴサーキットになっていたのかも?と想像しています。
ボディには逆Yの字型に金色のキラキラ光るシートが貼られていますが、これは製作時に貼られたのか完成後に貼られたのかは判りません。
不鮮明ですが・・・
82年末にTVKで放映された「ファイティング80's」からスクリーンショットです。
この番組で何回か放映されたバウワウのライヴはDVD「ライヴ帝国」に収められています、現時点で当時のバウワウを収めた唯一の公式動画です。
(実は「日本ロック史映像集」と言うビデオもあったのですが、それは版権上の問題からかDVD化はされていません)
アルバム「ワーニング・フロム・スターダスト」の発表以降に使われるようになったのがヤマハBB-Ⅵsです、当時新発売されたショートスケールBBの廉価版ですね。
これは市販モデルと違いピックアップがリバース配置になっていて、ホワイト(パールホワイト?)の塗装色も市販モデルには無い色でした。
この後、バウワウは斉藤光浩氏が脱退し、元ノイズの人見元基氏と元ムーンダンサーの厚見玲衣氏を迎えてVOWWOW(ヴァウワウ)と改名します。
まあ実際の所は改名と言うよりは全く違う別のバンドに発展し、バウワウ(BOWWOW)はここで解散したと考えるのが適当でしょう。
2011年バウワウ結成35周年記念ライヴ
ヴァウワウになってからしばらくはバウワウのポップ期から愛用しているSB1200Sを手にする事が多かった気がします。
NHK教育テレビで放映された「趣味講座 ベストサウンド」に登場した際もSB1200Sを使用していました。
その後に手にするようになったのがこちら、BB1300です。
BBシリーズ唯一の2ハムバッカーで24フレットと言う仕様で1985年に発売開始、ただ短命モデルですぐカタログ落ちしてしまいました。
佐野賢二氏使用の物はブルーサンバースト、これは市販モデルには無い塗装です。そして何と言っても印象的なのは黄色で描かれたスパーク模様です。
このBB1300佐野賢二モデルは現在山本恭司氏の手元に有ります。
ベースマガジン創刊号
1985年の5月にギターマガジンの別冊として発行されたものです。
当時のヤマハベースのエンドーサー3名
ベースマガジン創刊号の広告です。
渡辺健氏はBB3000フレットレス、桜井哲夫氏はヘッドレスでハイCの5弦カスタムモデル、佐野賢二氏は確証は持てませんが恐らくBB1300でしょう。
当時のヤマハベースのエンドーサー3名ですがそれぞれ全くタイプの違うベーシストです、写真撮影の際に集まってどんなベース談義があったのか(もしかしたら無かったのか)とても興味深い所です。
そう言えば、渡辺健氏もネム音楽院に在籍していて、その際に山本恭司氏からバウワウのベースに推薦されたものの、プロデューサーの「本格的になり過ぎてはいけない」と言う意向から却下されたと言う逸話も有ります。
そしてヴァウワウは1986年に渡英し活動拠点を英国に構えるのですが87年5月に佐野賢二氏は突如脱退し単身帰国、そのまま音楽業界から引退してしまいます。
山本恭司氏によると「バンドでロードに出る生活よりも自宅で猫と暮らす生活を選んだ」との事ですが、他にもウワサ話で耳にしている事も有ったりします。
引退後は再結成バウワウのライヴにゲストとして登場する事が何度かありましたが、今はそれもしていないようです。
なお佐野賢二氏のニックネーム「キンサン」これは「キンさん」ではなく「キンサン」です。
由来は高校時代に佐野姓の人物が複数いて(佐野史郎氏もその一人か)最初に「サノケン」と呼ばれるようになったのが「サンキン」と訛り「キンサン」に変化したとの事。
また、カラパナのベーシストだった佐野健二氏とは読みが一緒である事から混同される事があり、一部では「バウワウのベースが脱退後にカラパナに参加している」と誤解したままの方もいたりします。
キンサンがヴァウワウを脱退した時期と、佐野健二氏がカラパナに加入した時期がほぼ同じだった事も誤解を深めてしまった理由かもしれません。
佐野健二氏によると、海外でファンの方がバウワウのアルバムのジャケット写真を指差し「これは貴方なのか?」と訊かれた事が有るとか(笑)
漢字表記だと「賢」と「健」で違うと言う事が判りますが、アルファベット表記だと区別出来ませんね。
もとい。
生まれて初めて生で観たプロのロックベーシスト、キンサンこと佐野賢二氏は私にとって「卵を割って出て来たヒナ鳥が初めて見た親鳥」です。
多分私のベーシストとしてのスタイルからキンサンの影響を見つける事は難しいかも知れませんが、私にとっては親も同然のベーシストなのです。
今回は佐野賢二氏の愛用していたベースの話題を中心に書いて参ります。
キンサンこと佐野賢二氏は島根県松江市出身、バウワウのギタリスト山本恭司氏や俳優の佐野史郎氏とは同郷で学年は一つ下、高校生からの仲です。
バウワウ結成時、ベーシストが未定だった時に丁度キンサンは上京して音楽学校に通っていて、山本恭司氏がコンタクトしてバウワウへ参加する事になりました。
(キンサンの通っていた音楽学校は「ハコバン養成所」のような所で、辞めて松江に帰ろうと思っていた所にバウワウの話が来たそうです)
「吼えろ!バウワウ」裏ジャケット
テレビ初登場
1976年、バウワウのデビュー時に楽器を買って貰える事になった際、本当はジャズベースが欲しかったそうなのですが、バウワウには合わないと言う事でリッケンバッカー#4001を選んだとの事。
低域不足を感じ、フロントピックアップをギブソンのミニハムバッカー(あるいはグレコのコピーモデル?)に交換するなどの改造が施されました。
ぎんざNOW
リッケンバッカーの後に使われるようになったのがヤマハのBB1200、ナチュラルフィニッシュの物です。
これは後に山本恭司氏の手に渡り、フレットレスに改造されソロアルバム(エレクトリックシネマ)で使用されています。
「スーパーライヴ」ジャケット
ヤマハBB1200と同時期に使われていたのがOPBタイプのベースです。
詳細が判るような写真が殆ど残されていないのですが、このジャケットの写真を見る限りボディのエッジが丸くてフェンダーのオリジナルプレシジョンには思えません。
当時、フェルナンデスとグレコからOPBタイプのベースが販売されていたので、そのいずれかではないかと思いますが確証は有りません。
そしてバウワウはポップ路線に向かいます。
クイズドレミファドン
私がバウワウを初めて観たのは1980年、この曲が収録されているアルバム「グロリアスロード」発表の少し前でした。
当時父の友人がNHK-FMの横浜放送局に勤めていまして、その開局10周年記念で山下公園の氷川丸で行われた公開録音ライヴの招待券を頂いたのです。
その時にキンサンが使っていたベースがミュージックマン・スティングレイでした。
バウワウ写真集
ポップ路線にシフトしたバウワウ、アイドルバンドのような写真集まで発売されました!
写真集の1ページ
キンサンの使用していたスティングレイは70年代末の物で、黒ボディにメイプルネックでミラーピックガードと言う勇ましいルックスでした。
バウワウがハードロックに回帰したアルバム「ハードドッグ」の頃まで使われていましたが、後にパーソンズの渡辺貢氏の手に渡っています。
このスティングレイと同時期に愛用していたのがヤマハSB1200Sで、これがキッカケでヤマハとの関係が築かれます。
「エイジアン・ヴォルケイノ」宣材写真
1982年発表のアルバムです、この写真で手にしているのがヤマハとのエンドースで製作された佐野賢二モデルです。
ベースになっているのはSB800Sで、JB的レイアウトになっているピックアップを1つに纏めたハムバッキング1基となっています。
1PUですがコントロールツマミが3つあるあたり、もしかしたらスティングレイのようなアクティヴサーキットになっていたのかも?と想像しています。
ボディには逆Yの字型に金色のキラキラ光るシートが貼られていますが、これは製作時に貼られたのか完成後に貼られたのかは判りません。
不鮮明ですが・・・
82年末にTVKで放映された「ファイティング80's」からスクリーンショットです。
この番組で何回か放映されたバウワウのライヴはDVD「ライヴ帝国」に収められています、現時点で当時のバウワウを収めた唯一の公式動画です。
(実は「日本ロック史映像集」と言うビデオもあったのですが、それは版権上の問題からかDVD化はされていません)
アルバム「ワーニング・フロム・スターダスト」の発表以降に使われるようになったのがヤマハBB-Ⅵsです、当時新発売されたショートスケールBBの廉価版ですね。
これは市販モデルと違いピックアップがリバース配置になっていて、ホワイト(パールホワイト?)の塗装色も市販モデルには無い色でした。
この後、バウワウは斉藤光浩氏が脱退し、元ノイズの人見元基氏と元ムーンダンサーの厚見玲衣氏を迎えてVOWWOW(ヴァウワウ)と改名します。
まあ実際の所は改名と言うよりは全く違う別のバンドに発展し、バウワウ(BOWWOW)はここで解散したと考えるのが適当でしょう。
2011年バウワウ結成35周年記念ライヴ
ヴァウワウになってからしばらくはバウワウのポップ期から愛用しているSB1200Sを手にする事が多かった気がします。
NHK教育テレビで放映された「趣味講座 ベストサウンド」に登場した際もSB1200Sを使用していました。
その後に手にするようになったのがこちら、BB1300です。
BBシリーズ唯一の2ハムバッカーで24フレットと言う仕様で1985年に発売開始、ただ短命モデルですぐカタログ落ちしてしまいました。
佐野賢二氏使用の物はブルーサンバースト、これは市販モデルには無い塗装です。そして何と言っても印象的なのは黄色で描かれたスパーク模様です。
このBB1300佐野賢二モデルは現在山本恭司氏の手元に有ります。
ベースマガジン創刊号
1985年の5月にギターマガジンの別冊として発行されたものです。
当時のヤマハベースのエンドーサー3名
ベースマガジン創刊号の広告です。
渡辺健氏はBB3000フレットレス、桜井哲夫氏はヘッドレスでハイCの5弦カスタムモデル、佐野賢二氏は確証は持てませんが恐らくBB1300でしょう。
当時のヤマハベースのエンドーサー3名ですがそれぞれ全くタイプの違うベーシストです、写真撮影の際に集まってどんなベース談義があったのか(もしかしたら無かったのか)とても興味深い所です。
そう言えば、渡辺健氏もネム音楽院に在籍していて、その際に山本恭司氏からバウワウのベースに推薦されたものの、プロデューサーの「本格的になり過ぎてはいけない」と言う意向から却下されたと言う逸話も有ります。
そしてヴァウワウは1986年に渡英し活動拠点を英国に構えるのですが87年5月に佐野賢二氏は突如脱退し単身帰国、そのまま音楽業界から引退してしまいます。
山本恭司氏によると「バンドでロードに出る生活よりも自宅で猫と暮らす生活を選んだ」との事ですが、他にもウワサ話で耳にしている事も有ったりします。
引退後は再結成バウワウのライヴにゲストとして登場する事が何度かありましたが、今はそれもしていないようです。
なお佐野賢二氏のニックネーム「キンサン」これは「キンさん」ではなく「キンサン」です。
由来は高校時代に佐野姓の人物が複数いて(佐野史郎氏もその一人か)最初に「サノケン」と呼ばれるようになったのが「サンキン」と訛り「キンサン」に変化したとの事。
また、カラパナのベーシストだった佐野健二氏とは読みが一緒である事から混同される事があり、一部では「バウワウのベースが脱退後にカラパナに参加している」と誤解したままの方もいたりします。
キンサンがヴァウワウを脱退した時期と、佐野健二氏がカラパナに加入した時期がほぼ同じだった事も誤解を深めてしまった理由かもしれません。
佐野健二氏によると、海外でファンの方がバウワウのアルバムのジャケット写真を指差し「これは貴方なのか?」と訊かれた事が有るとか(笑)
漢字表記だと「賢」と「健」で違うと言う事が判りますが、アルファベット表記だと区別出来ませんね。
もとい。
生まれて初めて生で観たプロのロックベーシスト、キンサンこと佐野賢二氏は私にとって「卵を割って出て来たヒナ鳥が初めて見た親鳥」です。
多分私のベーシストとしてのスタイルからキンサンの影響を見つける事は難しいかも知れませんが、私にとっては親も同然のベーシストなのです。
音楽系サイトでも両者を混同していて「バウワウ/ヴァウワウの音楽性との不一致で脱退しカラパナに加入」と書かれていたりした程です(汗)
山本恭司氏と佐野史郎氏が松江南高校で、佐野賢二氏が松江工業高校だったんですよね。
山本恭司氏のソロライヴと言えば、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に合わせたイメージのライヴもされているとか。
あと、セカンドソロアルバム「エレクトリックシネマ」に収録された「YOMEGASHIMA」と言うE-BOWを使った短いギターソロ曲がありまして。
私はこの曲の由来を全く知らず「何と物悲しい曲か」と思っていたのですが、嫁ヶ島は松江の宍道湖の島で、その伝承を知って初めて腑に落ちたと言う事がありました。
以前の私のバンドのドラマーが山本恭司氏と高校の同級生という事で、こちらで時々山本氏のソロライブが行われていますが、何十年経ってもルックスはお変わりないです。
この記事はshinmeiさんのブログのエントリーから生まれた記事です!
キンサンが音楽から離れてしまったのは残念ですが、キンサンのおかげでベースを弾き続けている者がここにいる事を伝えたいです。