上空を飛行する戦闘機を陸上自衛隊は空自機だと思っていた
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引用:http://pbs.twimg.com/media/CdEF9_IVAAAIiDo.jpg



ベレンコ中尉亡命事件

1976年9月6日にソ連極東基地の最新鋭戦闘機ミグ25が、レーダーに探知されず函館空港に着陸し、操縦士が亡命する事件が発生しました。

日本の国防を根底から揺るがし、政治家や官僚の無責任ぶりが白日の下に晒されたが、現在もあまり変わっていない。

2016年7月に南スーダンで土木作業に従事していた国連PKO自衛隊派遣部隊が、反政府軍と戦闘になった疑いが出ている。

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防衛省は日報を隠して戦闘はなかった事にし、安倍首相や稲田防衛省は知らなかった事にして口をぬぐっている。

1976年のベレンコ中尉亡命事件での政府の対応と、2016年の政府の対応がほとんど同じである事に、驚愕せざるをえない。

40年の時を経ても防衛省や日本政府は何も変わらなかったのではないか、という疑念が沸いてきます。


1976年9月6日午後1時すぎ、自衛隊レーダーが国籍不明機を捕らえ、航空自衛隊のF-4EJが1時20分千歳基地からスクランブル発進した。

ソ連機であることは全員が知っていたが、今以上に非武装中立の建前が重視され、「ソ連軍機が侵入」などとは絶対に発表しなかった。

F-4EJにはルックダウン能力が乏しく、地上すれすれを飛行する航空機は地表のレーダー反射と区別できずすぐに見失った。


数分後に見慣れない航空機が函館上空を飛行し、1時58分函館空港に強行着陸した。

函館空港に近い函館駐屯地の陸上自衛隊では上空を飛ぶ戦闘機を目撃したが、赤い点が見えたので日の丸だと思い込み、ソ連の赤い星とは気づかなかった。

最初にソ連戦闘機と気づいたのは空港職員で、着陸のため管制塔上空を飛行する戦闘機の翼に赤い星が描いてあるのを視認した。



自衛隊嫌いの三木首相

2人の空港職員の1人は航空自衛隊に通報し、もう一人の職員が運輸省に通報した。

強行着陸から8分後に千歳基地のF-4EJが函館空港上空を飛行し写真を撮ったが、着陸せず去っていった。

空港の職員が戦闘機に近づいたところ、ピストルを威嚇射撃したので、空港は警察に通報し警官隊が機体を包囲した。


MIG25の操縦士ベレンコ中尉は自分を包囲したのが軍隊ではなく警官だったのに安心し、素直にパトカーに乗り込んだと言われている。

最初に機体を確保しベレンコ中尉を確保したのが警察だった事が、この事件の行方を決定的にした。

つまり防衛庁や自衛隊ではなく、この事件は「外国の飛行機が函館空港に着陸した事件」として処理される事になった。


警察はベレンコ中尉がアメリカに亡命目的で着陸したのを知り、警察署ではなくホテルに宿泊させ、簡単な事情聴取を行った。

時の総理大臣三木武夫は田中角栄や福田赳夫と政争の最中で、こんな事件に関わりあうのは真っ平だと思っていた。

それに三木首相は1945年当時、「日本が戦争に負けたのを知り、心から嬉しかった」と公言するような日本軍や自衛隊嫌いだった。


憲法上存在しない自衛隊が「面倒を起こす」のを毛嫌いし、亡命希望者なのを知ると、警察と外務省が処理するよう指示した。

ベレンコ中尉は3日後の9月6日に追い払うようにアメリカに出国し、警察は事件は解決したとしてMIG25を航空自衛隊に引き渡した。

ところが本当のミグ25事件はここから発生し拡大したのです。


函館空港の草地に着陸したミグ25
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https://livedoor.blogimg.jp/jr6jzz/imgs/3/2/32941c78.jpg


MIG25は誰のもの?

MIG25は当時の西側の最新鋭戦闘機F-4ファントムより遥かに高性能で、実際に航空自衛隊のF-4EJが一度はレーダーで捕らえながら振り切っていた。

ベレンコ中尉はアメリカで亡命を受け入れてもらうための手土産にMIG25を持参し、今やその機体は航空自衛隊が確保している。

最大の獲物はベレンコ中尉ではなくMIG25であり、アメリカは引渡しを要求し、ソ連は機体の返還を要求した。


当然日本もこの最強の戦闘機を調査して自国の防衛に生かすべきだが、述べたように三木首相は防衛力など無い方が良いとすら考えていた。

ここでアメリカからもたらされた情報が、「ソ連軍が機体の強行奪還を計画している」というもので、自衛隊はソ連軍奇襲かと大騒動になった。

実はこの情報はアメリカがMIG25を手に入れるために、日本に吹き込んだ「ニセ情報」で奪還計画など存在しなかったと言われている。


だが当時の自衛隊にはそれを知るすべがなく、北海道函館をソ連軍が襲撃するものと想定し、ただちに防衛体制に入った。

現在でもそうだが自衛隊は防衛省の命令がなくては出動できず、それには防衛大臣の命令が必要で、それには総理大臣の出動命令が必要なのでした。

そして総理大臣が防衛出動命令を出すには、専守防衛の国是から、まずソ連軍に攻撃してもらわなくてはならない。


ほとんど落語の世界だが、現在もこの制度はほとんど変わっておらず、1976年当時は今より厳格に守られていました。

三木首相は自衛隊に出動命令を出さず、訓練などの名目で陸上自衛隊は函館空港周辺に展開した。

命令がないので陸自と空自はバラバラに対処したが、航空自衛隊機をソ連軍機と誤認して、あやうく高射砲で撃墜しそうになったと言われている。


現在の函館駐屯地
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引用:函館イベント情報局http://i0.wp.com/hakodate-event.com/wp-content/uploads/2015/09/65soritsu11.jpg?w=640



ソ連軍襲撃に特攻命令

出動した函館駐屯地の陸上自衛隊28普通科連隊は命令も指示も情報もなく、いつソ連軍が襲い掛かっても良いように待機した。

総理の命令がないので一切の行動は秘密裏に行われ、函館市民や政治家などにも知らされなかった。

命令がないので連隊は勝手に戦闘を行うものとされ、戦闘は個人の判断にゆだねられる事になった。


連隊長は隊員に対して、「もし戦闘になったら特攻精神で戦って欲しい」と指示したと言われている。

総理も防衛大臣も防衛官僚もみな、後で責任を取らされるのを嫌がり、知らないふりをして部下に丸投げした。

上から順々に責任を放棄していき、最終的に函館駐屯地第28普通科連隊が、特攻作戦でソ連軍と戦う事になった。


ソ連軍はまず航空機で空襲した上で、特殊部隊を上陸させて機体の破壊を狙うと想定され、熟練したゲリラ部隊だと考えられた。

戦後陸上自衛隊には実戦経験がないので、非常に悲惨な戦闘になると考えられた。

それでも28普通科連隊の隊員が特攻作戦を承知したのは、全員が函館や北海道の出身者だったので、郷土を守る意欲が高かったからと考えられている。


結局ソ連軍襲撃はアメリカの嘘であり、日米共同で機体を調査した後11月15日にソ連に返還された。

三木首相は「三木おろし」への対処で忙しく、最後までこの事件には無関心で機体返還後の12月24日に退陣した。

この事件でF-4EJは役立たずとして国民の間でも悪評がたち、F15Jが導入されるきっかけになった。