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上岡龍太郎が話術を真似した物理学者、日本の巨星がまた一人逝く

コメントする力もありませんので 全文引用します

 

上岡龍太郎が話術を真似した物理学者、日本の巨星がまた一人逝く 本物らしからぬ本当の本物、小林俊一先生をお送りする | JBpress (ジェイビープレス)

20世紀上方の辛口お笑い芸人、上岡龍太郎氏がその話芸を真似した中学生時代の先輩がいます。

 上岡さんは本名を小林龍太郎といいますが、その先輩も「小林さん」と言いました。

 同じ「小林」ですが「横山パンチ」とはちょっと芸風が違った。

 こちらの先輩は大阪大学、同大学院博士課程、助手から、東京大学講師、助教授、教授、理学部長、東京大学副学長を経て、理化学研究所理事長まで務められた、日本学術界の泰斗でした。

 編集部が準備してくれた冒頭の写真、安田講堂の左後ろで、やたらじゃまな「理学部一号館」を建てたのも、副学長時代の小林先生だったようです。なぜそんな内情を聞いているかというと・・・。

 小林俊一先生、私には物理学科時代からの指導教官に当たられます。一つ、小林先生らしいエピソードをご紹介しましょう。

 あれは私が大学院1年生の夏、「低温センター」屋上で開かれたビアパーティで、当時TBS系列でオンエアされていたテレビ番組「クイズ100人に聞きました」から、大学院での指導教官・大塚洋一先生に送られてきたアンケートが回覧されていました。

 大塚先生も小林先生の教え子に当たります。

「東大の先生100人に聞きました 『アタマのいい人ってどんな人?』」

 この質問に、当時「低温センター長」だった小林先生は開口一番、「アタマのエエやつ? そりゃ、悪い奴っちゃ!」とバッサリ一刀両断。

 こういう鮮やかな「地アタマの良さ」にも惹かれて、私は小林研究室グループを志望したのでした。

 その小林俊一先生が2月にお亡くなりになっていたことを、亡くなられてちょうど1か月後に知らされました。

 ご家族だけですべて済まされてから、研究室のメンバーに通知があったとのことでしたが、あまりの驚きに言葉がありません。

 私が学生時代、昼休み毎日1キロプールで泳いでいたのは小林先生の真似でした。

 大学4年、研究室配属されると、あけっぱなしの教授室には海パンが干されており、机の上は資料の山のほか、エレクトロニクスの部品なども目につきました。

 良くも悪しくもこの風景は、今現在の私の教授室に繋がっています。

 先生のお父上、小林稔先生(京都大学基礎物理学研究所名誉教授)も92歳のご長寿でしたから、80代でのご急逝は全く予想もしないことで、今も全く実感がありません。

 年度末から新年度にかけて「学術行政とはいかにあるべきか?」といった話題が立て続けに出、その都度、小林先生のお話を繰り返したので、今回はそれをご紹介したいと思います。

本物らしからぬ」本物中の本物

 私が初めてお見かけした小林先生はまだ40代でした。

 教養学部4学期「物理実験学」の講義は、ハヤクチの関西弁、作業員のような服装で体格の良い肩を怒らせノシノシと歩かれ、およそ「東大教授」らしくも「物理学者」ぽくもありませんでした。

 しかし、実のところ小林先生ほどのサラブレッドは、この日本にはなかなかおられません。

 湯川秀樹さんと中間子の初期の仕事からご一緒されたお父上、小林稔先生は日本物理学会会長も務められ、御幼少のみぎりから大変に恵まれた環境でお育ちになったものと理解しています。

 でも、大学は「オヤジのいる京大には行かない」と大阪大学に進まれ、「サンドウィッチマン」伊達みきおの伯父さんとしてメディアに紹介されたこともある伊達宗行教授の研究室で学ばれました。

 小林先生の物理のご業績を紹介するような資格も力量も、私には全くありませんので、下手なことを書くと諸先輩方に怒られてしまうと思います。以下はあくまでお話として記すものです。

 小林先生が19歳のとき、「超伝導」現象を精緻に記述する「BCS理論」 (バーディーン+クーパー+シュリーファー理論)が発表されました。

 この理論の成立には、日本の物理学、中嶋貞雄先生の先駆的なご業績、そして小林稔先生が尽力された1954年の国際理論物理会議が深く関わっていますが、別論としましょう。

 次いで1962年、この画期的な新理論を検証するのに「極端に小さな金属」つまり「金属微粒子」の超伝導性を調べることで、本質的な知見が得られる理論的予言を久保亮五教授が提出。

「久保効果」と総称されるこの仕事を「世界のナノテクノロジーの源流」と評価する原稿がありましたのでリンクしておきます。

 原子が1万個程度集まって構成された金属微粒子は、巨視的なメタルの結晶が示すのとは大きく異なる物性を示します。

 このとき、小林俊一先生は修士1年の学生でしたが、新しい理論の動向にアンテナを張り、最先端のモデルの実験的検証に取り組まれました。

 10年ほどの短い期間、核磁気共鳴吸収法などによる精緻な測定によって久保効果の実験的検証に成功されました(例えばこの業績のように)。

 1970年代以降、LSI製造のためサブミクロン加工から、量子ドットなどナノテクノロジーの超微細加工技術が確立されていきました。

 そうした時期時期の進んだ技術も取り入れながら、金属微粒子の研究は小林・大塚研のお家芸であり続け、私自身も接触測定による金属微粒子の電子分光を学び、実験に携わらせていただきました。

 今、私の研究室が音楽の問題をスペクトルの線幅などから扱うのは、すべてこの「金属微粒子」などメゾスコピック系、久保効果の発想を、平易で古典的な音波に置き換えて書き下ろしたものです。

 確かに、私が手を動かしましたが、大本は勝本信吾、小森文夫、小林俊一、久保亮五といった方々の凝縮系物性物理の議論の焼き直しでしかありません。

 ただ、そこに、ゲオルグ・フォン・ベケシーがノーベル賞受賞直後に報告し、そのままほったらかしになっていた「エッジ聴」の認知と連立したので、新しい議論がいくらでも出てきます。

 この作戦そのものが、小林研で学んだものにほかなりません。

 イレブンナインなど、高価で高純度のハイクオリティが追求されるなか、限られた予算で「極端に汚れた金属」「サンプルサイズより揺らぎの方が大きくなる資料」など、関西弁で言うなら「いちびり」な状況を設定することで、物事の本質をしっかり定量的に評価できること。

 2025年時点の全世界がいまだ、およそ全く理解していない、なぜピアノの調律で24すべての長短調を弾き分けられるのかの解明も、小林先生による電子の「非線形引き込み」の議論を音波に転用することで、メカニズムを明らかにしたものです。

 本質的な仕事は、他の分野にも様々な応用が利く典型だと思います。
真の学術行政とは


真の学術行政とは

 小林先生はその後、物理学教室主任、理学部長から、東京大学副学長を経て、有馬朗人氏が文部科学大臣に就任する玉突きで、理化学研究所の理事長に就任されました。

 当時の理研は、元来は和田昭允先生の指導と思いますが「伊藤正男脳研」が準備されていました。甘利俊一先生もここに参加され、原資の捻出が問題になっていたようです。

 伝説化している「小林理事長」による「全研究室面接」を、スキット風に再現してみます。

小林先生:予算のここにある、R123、350万円って、何の装置ですか?

研究所員:ラマン分光計です。

小林先生:あ、そ、じゃ、そこのホワイトボードでラマンの原理から説明してもらえますか? 式も書いてね。

研究所員:・・・・・(絶句、フリーズ)。

小林先生:要りませんね。ハイ、次・・・。

 現実にこういうやりとりがあったわけではありませんが、大まかにはこんなことで、理解の浅い研究者が高価な装置だけ買ってくるようなことを、一切認めなかった。

 このため、理研の出入り業者は売上げが激減したと思います。

 戦後ベビーブーマの受け入れで「講座倍増」があった学園紛争期を彷彿させる、こうした質実剛健が、研究の綱紀粛正に強烈な影響を及ぼしたのは間違いありません。

 同時に、その反動があったのかもしれません。小林先生が退任された後後の理研で発生したのが、例の「STAP細胞詐欺」問題でした。

 さて、この小林理化学研究所理事長による「全研究室面接」は、鬼の伝説ばかりが伝えられますが、指導していただいた学生としてはもう一つ、指摘すべきことがあると思っています。

 それは、小林先生が間違いなく、理研全研究室の研究を一通り予習して、この面接に当たっておられただろうことです。

 冒頭に記したように、小林先生のお父さん、小林稔先生は、日本物理学会会長など以前に湯川さんのノーベル賞賞金で京大基礎物理学研究所を創設、プロボストとして尽力されました。

 1953年からは「国際理論物理学会議」の組織と運営に当たられました。

 ここでは縦割りのジャンルで分かれやすい「素粒子」「物性」などの諸分野を一望のもとに俯瞰、「物理」全体を腹に収めたスケールの大きな議論が展開され、量子電磁力学などの基礎的な考え方が、領域の垣根を越えて共有、議論されました。

 その結果、朝永振一郎先生の「繰り込み」の議論を物性の超伝導に応用する議論を中島貞雄先生(の代理の早川幸男先生)が発表したようですが、これを聞いたジョン・バーディーンがコピーを求め、3年後、超伝導現象の理論的解明に先鞭をつけるBCS理論が発表されました。

 すると今度は、物性側のBCSに興味を持った南部陽一郎先生が素粒子理論に再度これを転用、「自発的対称性のやぶれ」などの議論から今日の素粒子高エネルギー物理の「標準理論」構築に、決定的な貢献をされた。

 こういう、人類の叡智としての「物理」物理現象とそれに対する理論、実験のアプローチ全体を腹に収めつつ、責任下にあるすべての研究室のテーマと成果を丹念にチェック、理解し、所内協力を具体的に奨励、指導出来る力。

 これこそが、大学や研究所で「長」の字がつく人間に「最低限」求められる必要条件なのです。

 さて今現在、各地の大学で学長など務める諸兄姉、これをきちんとやっておられますでしょうか?

 小林俊一先生はその意味で、真の学術行政を徹底されました。


本物の学究が払底しつつある

 その背景には、お父上の小林稔先生長年の無言無銘の努力をご覧になってこられたからではないか・・・と、できの悪い教え子の一学生として、そんなことを思うのです。

 というのも、全く同じことを、戦後AT&Tベル研究所で所長だったジョン・ピアース先生、同研究所でデジタル通信の基礎技術を確立された猪瀬 博先生から伺ったことがあるからです。

 猪瀬先生が米国で研究された1940年代末~50年代初め、ベル研にはバーディーン、クロード・シャノン、ハリー・ナイキストといった伝説みたいな人たちが同僚として勤務され、その研究の詳細をトップだったピアース先生はすべて理解するよう努めた。

 それで米軍の「電探」レーダー技術の「システム・インテグレーション」が可能になった。

 全く同じように、エンリコ・フェルミやロバート・オッペンハイマーが、プロジェクト内のすべての研究ユニットのアウトプットに精通して、初めて広島・長崎に投下された原爆、米国の核開発も可能になった現実がありました。

 定年直前の59歳で東大工学部長に就任された猪瀬博先生は、300からあるすべての研究室との面接が大変で・・・とリアルタイムで教えてくださりました。

 私は一学生に過ぎませんでしたが、大変印象深く記銘しています。

 今、そういう「まともなプロボスト」の仕事に、全国の工学部長諸兄姉は精励しているでしょうか? 

 まごうことなく、王道の「学術行政」を、小林俊一先生は貫かれました。

 私などは落伍組で、およそ物理の小林研に言及する資格もないと思っています。

 しかし、より大きな「物理現象」「人智としての物理というもの」全体を腹に収められ、さらに理研理事長として伊藤正男脳研のミッションとして「パーキンソン病の克服」を掲げられたのが直接の機縁で、昨年私のラボで博士の学位を取った李珍咏さんのテーマも、機能性高分子を用いた聴覚AR刺激による、パーキンソン病リハビリテーションシステムの開発になった程度には、直接、恩恵を頂戴しています。

「仰げば尊し」などと言いますが、実際の学生は、およそそんなことを考えていないのが大半と思います。

 しかし、先生のご訃報の後、手書きの講義資料など見返してみると、「小林流の学風」はいよいよもって鮮やかで、学生時代の私は何も理解していなかったことを愧じるばかりです。

 私が途中でやめてしまったテーマの理論を書いたサー・アンソニー・レゲットも2003年にノーベル物理学賞を受けています。

 私はその頃、すでに別の畑で助教授になっていましたが、本当に恥ずかしく、顔向けができないと深く反省せざるを得ませんでした。

 近年、こうした「本当に本物の学究」が払底しつつある、今の日本の学術界を深く憂えざるを得ません。

 小林先生がおられない実感は全くありませんが、先生に恥じない内外の学術界であるべきことを、ことさらに強く感じています。

 ご冥福を祈るという実感が湧かず、小林俊一先生ならどう考え、どう行動されたかと自問して、その実行に務めるしかありません。

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