長江文明はすべてにおいて勝っていたが戦争だけが弱かった。
黄河文明には長所がひとつもないが戦争と支配だけは強かった。
中国王朝は北方が南方を支配してきた
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画像引用:https://artworks-inter.net/ebook/?p=2225 銅鐸考 長江文明の兵士の代わり




上海は支配される側、北京は支配する側

上海は中国であって中国ではないという歴史をもち、3000年のほとんどを支配される側として過ごしてきた。

上海は長江の下流にあり古代中国は長江文明と北の黄河文明に別れていて、2つの文明が争ってきました。

中国4大発明とかはすべて南部の長江文明で生まれ、文化でも芸術でも産業でも南の長江が圧倒的に進んでいました

 

比較する黄河文明は遅れた地域で、馬を乗りまして平原を駆け回り、他民族を侵略したり支配することで発展してきた。

その最たるものはジンギスカンの蒙古帝国で、自分は生産活動らしきものをせず、他民族を支配し統治する事で大帝国を築いた。

黄河文明の生き方はこれで戦争と統治、支配、政治に強く、中国のほとんどの帝国は北方から生まれ南方を支配しています。


秦の始皇帝も三国志も清も北方民族で、明は南方だったが都を北京に移して自らが北方支配民族となった。

現代の中華人民共和国も北京が首都で、1912年に成立した中華民国は南京で成立したが、すぐに都を北京に移している。

3000年の歴史の中で上海や南方が大陸の統治者になった事は一度も無く、南方はいつも北方に支配され統治される側でした。


こうのような歴史なので上海人や南方人には中国の覇者となるような気概はなく、ひたすら北方の機嫌を伺うような人ばかりです。

南方と言えば香港では2014年頃から20年まで民主化運動が盛んだったが、ついに誰一人として「独立」とは言いませんでした。

香港を欧州に置いたらかなりの規模の「国」になるが、それでも支配される人々は自分の国を作ろうとは思いません



北京に逆らわない上海人

日本の稲作は長江文明から伝わり、多くの渡来人も長江流域からやってきたと言われているが、秦の始皇帝の紀元前250年頃から黄河に劣勢になって行った。

南方の民族は頭が良くセンスが抜群で商売や生産が得意だったが、まとまりが悪く戦争のような無益な事が苦手だった。

そうした非生産的で無益な事が大好きだったのは黄河文明や北方騎馬民族で、南方の人々が生産した物を奪ったり支配して自分のものにした。


攻める北方に対して南方は劣勢になって逃げだし、日本やインドシナ半島に移住しタイ人や日本人の祖先になったとも言われている。

文字や漢字、数学、稲作などは長江文明で発達し、北方の騎馬民族は彼らを支配し働かせた。

こんな微妙な歴史を持つのが北京、上海、香港で、日本人が考える地域性とはかなり違います。


上海はコロナが流行しロックダウンされ、もう何か月も解除と封鎖を繰り返して、いい加減暴動やクーデターが起きても良い頃です。

だが上海人は騒ぐだけで天安門事件や香港民主化デモのような事もせず、北京に従うだけなのです。

上海人の考えでは、北京と戦うより北京に従って商売で儲ければ良いので、商売に専念しようと思ってます。

北方より優れた文化がありながら、南方からは1人も中国の覇者が出なかったのはこうした南方気質や上海気質が原因だったかも知れません