そうだったんだ
古関裕而が「史上最悪の作戦」のビルマで体験した恐怖|今週の「エール」豆知識
「エール」第17週では、いったんは召集令状が届いた古山裕一(窪田正孝)だったが、作曲活動での戦争への貢献が認められ、召集解除となる。だが、古山が戦地に行くことを免れたわけではなかった。慰問要員に選ばれたのである。10月12日からの第18週で、古山は激戦地ビルマ(現ミヤンマー)を訪れることになる。
古山のモデル・古関裕而が特別報道班員としてビルマに派遣されたのは終戦前年の1944年4月。現地では、同年1月からインパール作戦が始まっていた。参加した日本兵の大半が命を落とし、のちに「史上最悪の作戦」とも言われた。
戦況は悪化の一途をたどっていたが、古関にはまったく伝えられていなかった。逆に、作戦はまもなく完遂するから、急いで現地に行くようにと、せかされたのである。古関は自伝「鐘よ鳴り響け」の中で「私は行きたくなかった」と明かしている。福島の母が病床にあるため、辞退したいと申し出たのだ。しかし、軍部はそれを許さなかった。軍部側は母の病状をすでに調べていて、それほど重態でもなさそうだと、外堀を埋めてしまった。古関はビルマ行きを承知するしかなかった。
特別報道班員に選ばれたのは古関のほかに、文学界から作家の火野葦平、美術界から洋画家の向井潤吉。火野はすでに日中戦争に応召していて、その体験をもとに小説「麦と兵隊」を発表。ベストセラー作家になっていた。その火野ですら戦地の惨状をまったく知らず、今からだとインパールは陥落して入城は間に合わないかもしれないと聞かされていたのである。
ところが、ビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)に到着すると、特別報道班員たちの楽観ムードはすぐに吹き飛ぶ。参謀からインパール陥落はまだまだだと聞かされ、そこで初めて日本軍の苦戦を知る。
火野と向井は一足先に現地入りして、古関は陥落後にあとを追いかけることになった。出発する際、火野は古関に「ビルマ派遣軍の歌」の歌詞原稿を託した。ちょうどそのころ、ラングーンではペストが発生。恐怖におびえながらも、古関はなんとか曲を書き上げた。
■ペストにおびえながら曲を書き上げた古関
一方、前線に近づいた火野らはそのありさまを見聞きして愕然とする。制空権をとっくに失っていた日本軍は食料の調達すらままならず、餓死者が続出していたのだ。火野が残した手帳には「前線にダイナマイトを100キロ送ると50キロしかないと報告がくる。兵隊が食うのである」とある。ダイナマイトの原料のニトログリセリンは口に含むと甘い味がするのだ。火野はこうも記している。
「牟田口閣下は毎日粥を二度食っては毎日釣りをしている」
牟田口閣下とはインパール作戦を指揮した牟田口廉也陸軍中将。ひもじさで次々に倒れていく兵隊たちを横目に、自身はしっかり食事をとっていた。
戦後、火野は戦犯作家として激しく攻撃を受け、公職追放処分も受けている。それが原因というわけではないが、1960年53歳の誕生日の前日、自ら命を絶っている。
火野と違って、古関が戦犯としてヤリ玉に挙げられることはほとんどなかった。しかし、自分の曲で鼓舞された若者たちを戦地に向かわせたという思いは消えず、自責の念にいつまでも苦しめられたのである。
1回目の戦地訪問について↓
<朝ドラ「エール」と史実>「あの兵隊には妻子がいる…」古関裕而は何を考えて「暁に祈る」を作曲したか(辻田真佐憲) - Yahoo!ニュース
「今度は俺のことを思って書いてみてくれないか」。朝ドラ「エール」はまさかの展開。福島三羽烏の恩師・藤堂先生が出征することになったのです。これを受けて、ついに大ヒット軍歌「暁に祈る」は完成に向かいます。
では、実際の「暁に祈る」は、どのような背景で作られたのでしょうか。
■太平洋戦争まで売れ続けるロングセラー
前回触れたように、「暁に祈る」は、1940年、松竹映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』の主題歌として作られました。
この映画は、その名のとおり、軍馬の宣伝を目的としており、陸軍省馬政課が関与していました。そのため、同課の出水謙一少佐によってあれこれダメ出しされ、野村俊夫は何度も歌詞を書き直すハメになったのです。「『ああ』とため息が出たので、それを冒頭に持ってきた」という野村の(冗談めかした)回想は、よく知られています。
こうして完成した「暁に祈る」のレコードは、伊藤久男によって吹き込みされ、3月25日に臨時発売されました。映画は泣かず飛ばずでしたが、主題歌は大ヒット。その後も、新譜を押しのけて売れ続け、レコードの製造数が激減した太平洋戦争の後半、1943年8月から1944年8月の間にも、4万1000枚が販売されたと記録されています。
「暁に祈る」がここまで広く歌われたのは、歌詞に軍馬がほとんど出てこなかったことも大きかったでしょう。歩兵にも、工兵にも、また海軍の軍人にも広く歌われたからこそ、大ヒットとなったわけです。とくに秀逸とされる2番の歌詞を引いておきます。
■「城壁に一人立つ歩哨の胸の内はどんなだろうか? と考えながら曲をつくった」
では、古関はどのような気持ちでこの「暁に祈る」を作曲したのでしょうか。古関も出演したテレビ番組の、こんな記録が残っています。
ここにあるように、古関は1938年の秋、作詞家の西条八十らとともに華中(中支)の前線を訪問しました。それは、プロパガンダの一環でした。日本政府は、さまざまな文化人たちに、実施中の漢口作戦を記録・発表させることで戦意高揚につなげようとしたのです。古関の属する「レコード部隊」は、上海に上陸後、南京に鉄路で渡り、そこから長江を遡行して、最前線の九江まで赴きました。
この従軍体験はさまざまなエピソードを生みました。「レコード部隊」一行が、中国軍の襲撃に遭いかけて、真剣に自害を考えたのもそのひとつ。そのときのことを、古関は「この名山、廬山の麓で死ぬのも天命かと諦めたが、瞼のうらをかすめる映像、妻や娘の顔、父母の姿が浮かんでは消え、また次々に浮かび、やがては涙で霞んでくるのだった」と自伝で振り返っています。
■「なんと古関氏は泣いておられるのだ」
また、「露営の歌」の作曲者として前線の軍人たちにサプライズで紹介されたときのエピソードも見逃せません。一部、現在では不適当な表現もありますが、そのまま引用します。
このように「暁に祈る」の背景には、古関の前線体験がありました(したがって、先生の出征云々はすべて架空です)。「露営の歌」も、満洲旅行が大きな影響を及ぼしていますから、古関の大ヒット軍歌には、いつも現地取材がともなっていたといえるでしょう。
古関の年齢も大きかったと思います。彼は、終戦時で36歳と、かなり若い作曲家でした。そのため、前線慰問などの機会も多かったのです。公式の発表によれば、「エール」でも今後、慰問の話が出てくるとか。主人公・裕一たちの音楽活動にどのように関係してくるのか、展開を楽しみに待ちたいと思います。
2回目の戦地訪問について↓
<朝ドラ「エール」と史実>本当は母の病気で辞退を申し出ていた? それでも古関裕而は3度も戦地へ行った(辻田真佐憲) - Yahoo!ニュース
朝ドラ「エール」の戦時下篇も、ついに3週目を終えました。主人公の裕一は、来週回より、慰問のため戦地に旅立ちます。
これは予想されていたとおりです。というのも、モデルとなった古関裕而も戦地に赴いているからです。しかも、3回も。1回目は、1938年9・10月、華中へ。2回目は、1942年10月から翌年1月まで、おもに東南アジアへ。そして3回目は、1944年4月から9月ごろまで、ビルマへ――。
ドラマでは、時期から考えて、3回目のビルマ訪問が元ネタになるものと考えられます。出発するころ、古関の母が体調を崩していたのも、このときのことです(ただし、史実の古関は、それを理由に戦地訪問を辞退しています。ところが、軍から「貴下に万一のことがあった場合は靖国神社にお祭りいたします。ご母堂さまもそれほどご重態でもなさそうですし……」と言われて、断りきれませんでした)。
そこで、3回目の具体的な話は来週するとして(ネタバレになるリスクがあるので)、ここではおもに2回目の戦地訪問について紹介したいと思います。これも見逃せないエピソードの宝庫です。
■接収したフィルムに「びっくりしましたよ」
1回目の戦地訪問は、すでに言及しました。古関は、「レコード部隊」の一員となり、西条八十たちとともに、上海、南京、九江などを訪問。現地で兵隊たちに「露営の歌」作曲者として紹介され、歓声が起こることもありました。「暁に祈る」の作曲は、このときの経験が生かされたといいます。
では、2回目はどうだったのでしょうか。これは、日本放送協会(現・NHK)の南方慰問団に加わったものでした。古関は、総勢30名余の歌手や演芸関係者とともに、台湾、仏印、シンガポール、ビルマ、中国雲南省、マレーなどを周り、現地の兵隊たちを慰安したのです。1942年10月から翌年1月までという期間をみてもわかるとおり、これは古関が参加したなかでもっとも大規模な戦地訪問でした。
もっとも、このころ日本の戦況は悪くなかったので、その回想は全体としてかなり牧歌的でした。たとえば、シンガポールでは、占領時に接収したディズニー映画『ファンタジア』を見て、びっくりしたといいます。
それもそのはず、『ファンタジア』では、かつて古関が憧れたストラヴィンスキーやムソルグスキーの音楽が使われていたからです。しかもアニメはフルカラー。手塚治虫のように、「こんな技術がある国に勝てるわけない」と心密かに思ったかもしれません。
■「ふと見ると傍らに筆太に「みどり温泉」と書いてあった」
その後、慰問団は海路でビルマに送られます。ここは最前線なので、苦労も多かったようです。慰問団は二手に分けられ、古関たちは、おもにビルマ東部へ。マンダレーから、メイミョー、ラシオ、センウイ、クッカイまで、主要な地点をくまなく回らされました。
そこからさらに国境の町ワンチンを越えて、中国雲南省に入り、一行は拉孟まで到達しました。いわゆる「援蒋ルート」(重慶の蒋介石政権への物資支援ルート)をたどったかたちです。雲南省は本当に奥地も奥地。そのため、娯楽に飢えていた兵隊たちは、この慰問団を大歓迎したといいます。
その帰路、古関たちは温泉にも入っています。ラシオ近くのナムオンです。日本兵たちは、これを「みどり温泉」と名付けていました。
なお、古関は自伝で雲南省への往路で温泉に入ったと書いていますが、新発見の「日本放送協会派遣皇軍慰問演芸団」上下巻(福島市古関裕而記念館所蔵)など、さまざまな資料を突き合わせると、これは復路のできごとだったようです(このあたりの詳細は、拙著『古関裕而の昭和史』160ページ以下をご参照ください)。
■「南シャン州のタウンギーで牟田口閣下に会いました」
古関たちはビルマで、あの牟田口廉也にも会っています。大量の餓死者を出した、悪名高いインパール作戦の責任者です。もっとも、当時は同作戦前。牟田口は第18師団長で、盧溝橋事件やシンガポール攻略戦に加わった猛将として知られていました。
場所は、ビルマ中部のタウンギーでした。牟田口は、慰問団を歓迎するため、牛1頭を使ってすき焼きを振る舞ってくれたといいます。そして山盛りの牛肉を前に、「どうだ、いいロースが出来てるだろう」と得意満面。食肉牛の育て方について一席弁じたといいます。
古関も、牟田口との出会いについて、のちに手紙でこのように書いています。
1942年の慰問は省略されてしまったので、残念ながら、牟田口は朝ドラ登場の機会を失ってしまったようです。
それはともかく、1942年の慰問は、楽しい思い出も多かったのです。ところが、1944年のビルマ行は、まさに悲惨なインパール作戦の真っ最中。「エール」でも、かなり重苦しい展開になるのではないかと思います。こちらの詳細については、また来週ご紹介することにしましょう。