関東軍は1945年8月9日にソ連が攻撃を開始すると、防衛地域を放棄して、いの一番に逃げ出したのでした。しかもソ連の攻撃や、もうすぐソ連地上軍がやってくるのを住民には隠し、「絶対に安心だからここから動くな」とまで指示していました。
関東軍が防衛していた満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。しかも軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。
軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。
その次に8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15になってからでした。
日本の降伏を知ると同時に中華民国軍とソ連軍、暴徒化した中国人が日本人に襲いかかり、帰国できずに悲惨な目に遭って満州でなくなった人も多かった。
朝鮮半島は38度線で分断されたが、これは関東軍がソ連参戦と同時に38度線まで撤退したためで、このために裏取引までしていたようです。
北朝鮮に残された日本人
関東軍はアメリカには米軍に早く来るよう促し、ソ連にはソ連軍に朝鮮を明け渡すかのように、仄めかしていました。
ソ連は8月10日から米軍の朝鮮上陸までの15日間、のらりくらりと立ち回る関東軍への攻撃をためらい、8月25日に米軍がソウルに上陸しました。この15日間の関東軍の行動によって、韓国はソ連占領を免れ、現在の民主国家に発展していきました。
関東軍がこうした行動を取ったのは韓国人のためではなく、満州の日本人を躊躇無く見捨てたのを見れば、日本人の為でもありませんでした。釜山から日本への海上航路は米軍艦と空襲によって途絶しており、関東軍が帰国するには朝鮮南部をソ連から防衛する必要があったからでした。朝鮮北部と満州在住の日本人に避難指示が出たのは8月15日以降で、しかも鉄道は軍が独占していて、指定された列車にしか乗れませんでした。
軍属、軍人の家族が優先され、次が婦女子と子供、その後は鉄道が機能しなくなり、取り残されてしまいました。
朝鮮北部の日本人は線路に沿って歩けば38度線を越えれるので歩いたが、途中で大半がソ連軍につかまって捕虜になった。捕虜を拘束しておくと食料が必要になったので、ソ連軍は面倒になり、翌年までに歩いて南側に行くように指示して解放された人が多かった。だが食料や医療品をくれた訳ではないので、38度線を越えるまでに倒れてなくなった人が多かった。
終戦後も数ヶ月間は朝鮮南部に関東軍が駐留していたので、38度線さえ越えれば復員船で釜山から帰国できた。
朝鮮北部からの日本人の脱走を助けたのは朝鮮人たちで、日本人を襲う朝鮮人が居た一方で、食料を分けたり匿った人も居ました。
朝鮮北部は南部に比べて日本人が少なく、日本に敵意を抱いていた人間も多かったと言われている。それでも満州の中国人やソ連兵に比べると、朝鮮人に捕まったほうがましだった。
全ての朝鮮人や韓国人が日本人を憎むようになるのは、北と南の政府が反日教育を行った後のことです。
氏名が分かっただけで未帰還者31万人だから、総数は遥かに多かったかも知れない
引用:http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0901Yomiuri37.jpg
満州に残された日本人
満州に取り残された日本人はもっと過酷で、日本から遠い上に歩いて日本軍支配地域へ行く事はできなかった。しかも米軍は日本本土と朝鮮南部を占領したが、満州や中国本土に進駐しなかったので、米軍の保護下に入ることもできなかった。
「我が皇軍に撤退なし」と言っていた関東軍は一番先に逃げ出してしまい、満州は完全な無法地帯になりました。
満州には100万人以上の日本人が取り残されたと推測され、翌1946年5月まで誰も関心を持たず放置された。後に判明した事実によると、大本営は関東軍に「本土は食糧不足だから日本人は帰国させるな」という命令を出していたようです。
米軍は1946年5月から軍用船舶で日本人の輸送を始めたが、これは保護のためではなく、「日本人が中国で暴動などをしないように」との配慮だった。
つまりアメリカは日本人が現地で全滅せず生きていたので、中国から除去したかったのだった。
引揚者は米軍によって犯罪者のように輸送されたのだが、帰国できなかった人が何人居たのか、現在も分かっていない。ただ差し引きすると30万人以上が満州で行方不明になっていて、残された日本人の4人に1人は現地でなくなったようです。
つまり中華民国(台湾政府)とソ連は無抵抗な30万人の満州の日本人を犠牲にしたと推測できる。
最後の皇軍
一方の日本陸軍関東軍だが、その最後は非常に情けないものだったとされている。
優秀な兵士や優秀な部隊は太平洋の戦場に引き抜かれて米軍と戦い、関東軍は戦意のない劣等な兵士や新参兵、高齢者(40代)だけになっていました。
脱走者が続出し、我先に帰国しようとし、避難民に紛れ込んで38度線を目指した。
避難民に「荷物を持ってあげましょう」と言って、僅かな食料や金品を持ち逃げする脱走兵が数多く目撃されていました。さらに避難民の家族が兵隊に出ていると知ると、「XXXX殿は亡くなられました」と嘘の報告をします。
当時家族の戦死をしらせてくれた人には、どんなに困窮していてもお礼をするのが礼儀であり、脱走兵は僅かな食料目当てに誰にでも「ご家族はなくなられました」と言いふらしていました。
戦場を放棄して敵前逃亡したうえに、保護するべき住民を見捨てて逃走し、最後は避難民からわずかな食料を騙し取った。
これが置き去りにされた日本人が最後に目撃した日本陸軍の姿であり、この悪評はたちどころに本土の日本人にも広まりました。だから東条英機や日本陸軍将校が裁判にかけられても、反対する日本人があまり居なかったのです。
話題提供します 真偽の詮索はご自分でという 無責任サイト
(旧 これは 見とこ知っとこ メモ)
あとはおまかせ
日本陸軍が終戦後に毛嫌いされた理由
関東軍は戦意のない劣等な兵士や新参兵、高齢者(40代)だけになっていた
これも また わかりやすい解説 必読!
1945年8月のころは こうだったであり 以前の統制がとれていた時のことではないのに留意する必用あり
たぶん 今年のNHK特集(8月14日 NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」)が ここをついてきて 「東京の大本営が、天皇の名で「即時戦闘行動を停止すべし」と命令を出していたにもかかわらず、札幌の第5方面軍が樺太第88師団に対して、「樺太を死守せよ」という命令を出していたという」云々も 似たような状況下に あったのかも
8月15日を境に 日本がかわったのでは なく
少なくともその前から 崩壊し そのまま現在はつづいている
顕著な例が NHK 占領軍の手下となり 国民を欺き続け 次は チャイナ コリアの代弁者となり 正義の見方つら
ともかく NHKは 全国民から 金巻き上げ 悪意ある放送する 即解体すべし
トトメス5世
日本陸軍が終戦後に毛嫌いされた理由
関東軍は100万人以上の満州日本人に、ソ連との開戦も知らせず避難指示も出さず、見捨てて逃走した。
関東軍の敵前逃亡
現代では旧日本陸軍は悪の象徴とされていて、悪い事はなんでも全て日本陸軍のせいになっている。このような思想が広まったのは戦後GHQによる統制と、世界的な宣伝の為だが、他にも理由があった。
朝鮮と満州で日本陸軍関東軍は、永遠に日本人から恨みを買うような行為を、終戦前の最後の5日間で行っていました。それは731部隊でも南京事件でも慰安婦でもなく、それらは実際にはやっていないばかりでなく、日本人には関係が無い。
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