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人の中にはすべてがある。求めよ、されば与えられん
ブログには気づきがある。
私という世界でたった一つの物語

霊的なこと、スピリチュアルを批判する人

2013-07-12 | 日記


世の中には宗教が大嫌いな人もいる。

霊という見えない存在を怖れ嫌う人もいる。関わらない無視をする人もいるだろう。


スピリチャルを鼻で笑い、それを信じる人を馬鹿にする。


相談にスピリチャルや霊のことを言おうものならば怒りが込み上げてくる人


占いを馬鹿にしている人。占いは女のやることだと思っている男

ただし、男でも自己啓発などははまりやすい。


宗教に自己啓発も催眠術も「思い込み」を変えること、信念を強化することに利用される。


男は単純なので精神の深いところを考えることはしない。


結局細かいことはどーでもいいと考えている人が多いような気がする。


いろんな宗教を見てきて思うのは宗教には宗教のやり方があるということだ。


もちろんそこには「洗脳」がついて回ることになるかもしれない。


ただし、意識を持っていることや判断できるレベルの洗脳の場合は洗脳とは言わないとも思う。

催眠術師に催眠術をかけられているような「安心とまどろみ」の状態


薬物に浸っているような「刺激と興奮の境目」


精神の均衡を保つために必要な人もいるということだ。


そこには冷静な判断が必要になってくる。


統合失調症やうつ病になった場合、精神疾患をどのように克服するのか?


肉体の病気になったら医者にかかればいいわけだ。では精神の場合は同じように精神科医にもらう薬物とカウンセリングを受ければいい。


しかし、それで本当に物事が解決するのだろうか?


私は薬物依存になるだけなので、自力でその方法を見つけるのがいいと思う。


ただし、重い病気になった場合、「いのちがけ」で治療を行わなければならないのであります。


冒険の旅に出たものも危険を冒す必要を理解して旅に出るのだ。


知らないことを理解するためにはリスクがかかる。


それはどのことでも同じことだ。危険だ、危険だと非難してばかりでは意味がない。


霊的なものも同じで見えないから否定するというよりも不可思議なことを理解しようとしないことが人生を貧相にしているような気がする。


本当に真実を理解したいならばあえて「みえないもの」を理解する心が必要だ。


繊細さというものは重要なものですが、鈍感さを続けている限り高度な力を使いこなすことはできない。


昨日、掲示板で悩みに対し回答を書いたところ。逆切れされました。スピリチュアルで説明すれば読んでくれただけでも、霊線として相手に繋がるので物事の解決が早まる効果がある。とするならば読んでくれたことだけでも感謝できるはずなのではないのか?

都合よく物事の解決を利用する。感謝のない自分のことしか考えていない典型の人間をまた発見してしまった。


別にかまいません。現代においてもいまだ「医者」がすべての病気を治してくれると信じてる。


医者が神だと思い込んでる人が多数いる。

自分の努力も必要です。薬物や手術で治るものはすべてではない。


未だに薬物治療で心も体も病気が消えてなくなると思い込んでる人がいる。魔法のように。

薬物という魔法に引っかかってる人は宗教の秘術に引っかかっている人と同じだ。
そんな人が宗教を否定するのは冒涜である。(正しいものに限るが)


すべての善悪の判断基準は「道徳と理性と良心」である。
宗教行為が医者のような変わりはできないだろう。しかし、知恵を授け人の心を安らかにする効果はある。それが武器になっていけば人生を前進する勇気に変えられることもあるのだ。


宗教の怖いところは「洗脳」ですが、悪徳なところは道徳と真逆なことを教えたり、社会と共生せず相反する意見を持っていたりする。自然を汚すようなことをするかもしれない。自分たちが得をすればなんでもありという依存しやすい強力な欲を使う。

例えば麻薬、ギャンブル、セックス、乱交、依存、金銭いろんな手を使って苦しめ、依存させるだろう。


「救う」と思い込んでいることが「巣食う」ことになっている場合もある。


洗脳ではそのようにとんでもない刷り込みがある。



いったん、重い病気になってしまったら医者は手出しできません。


スピリチュアルならば死に近づく末期でさえも安心を提供することができる。
「安らかに」ということが重要だ。



霊的なことを言いだすと怒りが出てくるときには気を付けた方がいい。
無意識の否定である。


霊的なことに拒否反応を起こす人は「認める」ことでマイナスとなることが多い。
認められないぐらいの何かがあるということだ。


そういう人は認めない方がいいのかもしれない。
晩年に際しては認めておいた方が楽になる。


実は「そんなものはない!」と言っていた方が都合がいいことはある。
「そんなの関係ねえ!」のあの芸に近い。


しかし、いつまでも知らぬ、存ぜぬでは成長はない。


パワースポットがブームである昨今においてはスピリチュアル否定派の人は行かないだろうけれども、お正月の参拝だけはどんな人でもするところがおかしな話だ。


霊は信じないけれども神は信じるのか。


まあ、ただの通例行事であり、みんながやっているからやっているだけだと思ってるかもしれないが、それだけじゃない。本当は行くと心地よい気分になることを楽しんでいるのだ。


苦しい時の神頼み程度の信仰心なんていらないだろうと思う。



国のような存在がメディアを使って霊的なことの真実をひろめなければ分からない人は多い。目覚めてしまうことを怖れているだろうからしないと思うが。


賢い人は医療技術とスピリチュアルを融合して治療に専念する。代替え医療の素晴らしいところはそういうところだ。


死んだら何もない世界だと思っているような人はほんとに何もない世界に行くのではないだろうか?


自分の信じてる世界があらわれるわけだから


スピリチュアル否定派を肯定派に変えようなどとは決して思わない。時間の無駄だし、相手もそんなことをされるのは嫌だろう。


人によって真実は違う。


私はスピリチュアル肯定派


それで何度も助けられてきた。


うまく使いこなせば才能開発や能力開発ができる。


悪しきものが使えばとんでもないパワーが秘められていることもあるだろう。


これを知らない無知な人はもったいないことをしている。



何度も言うが「リスクを冒さないで楽にできるものなんて何もない」


ただし全うに普通に自分の知識・経験に頼る生き方が無駄というわけではない。


一つずつ積み上げたものは真実だ。


スピリチュアルには「悪」もあるわけだし、見抜くことは難しいし悪魔に利用されてしまうことも大いにあることだろう。


手に負えません。後の祭りですという罠にかかっている場合もあろうと思う。
怪しいものには手を出すな。痛い目を見るぞということで詐欺など甘いことを言って騙すトラブルを受けるようなものかもしれない。


だから最初から余計なものは入れないようにしていくことの方がよっぽど賢い選択ともいえる。


最初から「なにもない」状態のまま自分の力だけで淡々と生き抜くことは素晴らしいことだ。


スピリチュアルの世界でもそういう何も余計なものをつけていない人を「素直」なる人として絶賛する。


最終的には誰もが通る道であって、信じる人も信じない人も通っている道だ。

通ってきた道かもしれない。


正邪善悪合わせ持つ人間には知恵がある。魅力がある。正善の道だけに進む人。邪悪なるものだけに進む人。正邪善悪混合の道を歩む人さまざまである。それぞれが自分のペースで道を進むだけだ。


神はすべてを知っている。見ているわけだ。だからといって神の意図に従う必要はない。自分の意志と選択を重んじているだろうから。命令されることもないし、命令されても従う必要もない。自分が正しいと思う道を進めば尊重される。自然と開かれる。



理解するのはいつであれ「待っていることは間違いないと思う」



何を待っているのかはよくわからない。ただ待ち続けているのは確かだ。











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