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私という世界でたった一つの物語

野口英世とその母 その5

2011-08-01 | 写・画・絵・詩・物語

清作は七歳になって、来年の四月には小学校に入学せねばならぬときが近づいた。

片輪になって、農業の出来なくなった清作は、いかにしても学問で身を立てさせるより他に道はないと、シカはことのほか、この入学のことを大切に考えていた。しかも現状のままでは、どんなに働き通しても入学の費用を稼ぎ蓄える余裕がないことをシカは何よりも悲しく考えていた。

なんとか他に適当な仕事はないものかと考えあぐねた末に、ふと思いついたことは滝沢峠の荷運びであった。三城潟から約六キロ(一里半)ばかり西の方、戸の口というところから会津若松に通じる二十五キロ(約六里)ほどの峠道は冬の間は雪に埋もれて、馬が通わなくなるので、常平という力の強い人夫(にんぷ)が荷物を担いで行き、平常の二倍の賃金をもらうことになっていた。

男にさえ困難なこの荒仕事をシカは女の身ながら、清作のために引き受けたいと考えたのであった。シカの平常を知っている常平は快く仕事を分けてくれた。シカは喜んでこの荒仕事を始めた。冬の訪れの早いこの猪苗代湖畔、わけても雪の深いこの峠道をシカは重い荷物を背負いながら、一心一向に突き進んで行った。

この親心、この母の愛しみが幼ないとは言え、物心のつき始めた清作の胸に映らぬはずはない。日暮れが近づくと清作は磐梯颪吹きすさぶ六キロの湖畔の道を唯一人、戸の口まで母を迎えに行くのであった。疲れた足に降り積む雪を踏みしめ踏みしめ帰ってくる母を見上げて

「母ちゃん、くたびれたろ・・・俺が大きくなったら偉くなって孝行するぞ!」

と優しく言い寄る清作の冷たい手をシカは溢れ湧く涙と共にしっかりと握って夕闇の中を家路へと急ぐのであった。ああ、この母とこの子の姿よ!まとえる衣こそ貧しけれ、しっかりと握り合わされた二人の手こそ冷たけれ、そこには何物にもくだかれることなき母の愛と、少年の孝心とが白熱の焔のように燃え盛っているのであった。

シカが念ずる中田観音は、必ずやその慈眼を大きく見開いてこの二人の姿を楽しく温かく包んで居られたことであろう。シカの涙ぐましい奮闘と付近の人の同情で、清作は無事に翁島小学校に入学した。学問第一に考えたシカは清作には少しも家事の手伝いをさせずひたすらに勉強を続けさせた。相変わらず「手ん棒、手ん棒」と嘲けられながらも、清作の成績はぐんぐん伸びて行った。

そして四ヵ年の尋常科を優等で卒業した後に温習科に進んだ時には学校全体の生長を命ぜられて、教師の代理をするまでになった。やがて、温習科一ヵ年を終わって卒業試験には上級の高等小学校から訓導が来て行うことになっていた。そしてこの時、派遣されて来たのが、猪苗代高等小学校の首席訓導小林栄氏であった。

若い小柄な小林訓導は一人一人手際よく試験を進めていった。順番がきて清作が小林訓導の前にたった貧しい身なりはしているが、その光を帯びた眼、引き締まった口はまず小林訓導を動かすに十分なものがあった様である。諮問が始まった。清作は明瞭りした言葉で淀みなく答えて行った。教師の代理を勤めたほどの清作の解答はいたく小林訓導を驚かせたのであるが、それにしても、清作が始終左の手を後ろの方に隠そうとする様子が気になってならなかった。

「君は左の手をどうかしているのか?」

と優しく聞かれた清作は痛い所を突かれたように、ふっと涙ぐんで三歳の時の大火傷の話をした。

「左様であったか。で、君はこの後、どうする心つもりか?」

清作は打ち沈みながら、家庭の事情、母の心配をつまびらかに打ち明けずにおられぬほど、小林訓導の言葉は温情に溢れていた。

「よく分かった。それではニ三日の後に、お母さんと一緒に猪苗代町の私の家に来るがよい。そしてお母さんの気持ちも詳しく聞いて見て、何とか相談をしよう」

訓導はこういって、やさしく清作に笑みかけた。清作はなにかしら伏し拝みたいような気持ちに全身を震わせながら、いそいそとひきさがるのであった。かくて小林訓導は清作の学才と人物とを惜しむのあまり、シカとも懇談の上、自ら大きな犠牲を払いつつ当時、貧農の子弟には身分不相応といわれた猪苗代高等小学校に入学せしめたのであった。そしてこれが後年の世界的医学者野口英世博士を生み出す第一歩となったのである。


つづく

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