元来、小林訓導は一時的の単なる試験役として翁島小学校に派遣されたので、其校の生徒の卒業後の問題などには、なんらの責任もない人であった。
そして又考えられることはこの日、この時もし小林訓導以外の試験役が派遣されたとしたならば、いかであったろうかということである。恐らくは後年の野口英世は現れなかったのではあるまいか。シカのあの奮闘と、あの信仰の越し方とを知る人にとって、これが単なる偶然の巡り合わせとのみ見逃せることであろうか。
今こそ中田観世音はシカの熱願に答え小林訓導の姿を通してその大慈悲の現身を示されたのであるまいか。昨年の十二月、筆者は降りしきる雪の中を猪苗代の町に小林栄氏を訪ねて、清作の生い立ちについて詳しく聞き得たのであるが、筆者が当時の小林氏の気持ちを無遠慮に質すと、氏は微笑しながら、
「いや、ただ何となく、このままでは済まされないと思っただけですよ」
と非常に謙遜しながら語られた。併し同氏がやはり観音の信仰をもたれ、然も今日齢古希を過ぎて、なほかしゃく、その創立にかかる日進館という補修学校に二十有余年の長き年月を、無報酬で奉仕していられることを考え合わせれば、「ただ、なんとなき」気持ちであったとは信じられない。こうした氏の若かりし頃の胸の中には必ずや教育者としての真の使命に生き抜こうという：
火のごとき信念が燃えていたことであろう。そしてこの尊き信念は観世音の霊感に導かれて、後に世界的医学者を創り出す大きな因縁を結ばれたであろうことを筆者は信じて疑わない。当時、氏が清作の入学を記念して、校庭の一隅に植えられた親指大の柳の樹が今は見上ぐるばかりの大木になって、折柄の吹雪に吹きさらされながら、大きな根をがっしりと大地の中に下ろしていた。
さながらに永久に氏の功績を物語るかのように！それからの（清作は後に改名して）英世は、その終世の間、小林氏の援助と指導とを受けかく言えばとて、小林氏一人の力のみで清作があれだけの偉業を成し遂げたというのではない。血脇守之助氏などは有力な恩人の一人である。ついに小林氏夫妻を父上母上と呼び三城潟の実母シカを城母と呼ぶようにさえなった。
シカの願いはついに許された。清作は二十二歳で医師となり、二十五歳アメリカに渡って、ロックフェラー医学研究所に入り、梅毒スピロヘータの発見を始め、数種の病原体を発見して、これがよぼうや治療上に不滅の功績を遺すに至った。吾が国からは医学博士、理学博士の学位を授けらるるの光栄に浴した大正四年の春、英世は四十年歳となり、渡米以来十六年の歳月が過ぎていた。そのとき、故郷、猪苗代の幼な友達から一封の手紙が到着し、その中に懐かしい母親シカの写真が封入してあった。十六年の間、相見ることの出来なかった母親の姿のおお、何と言う衰え方であろう。ぢっと見つめていた英世の目には熱い涙が溢れた。そうだ、今にして母を訪ねないでは或いはその生前に相会うことは出来ぬかもしれない。
こう思ひ定めた英世は万事を投げ打って帰朝の途についたのであった。祖国日本は朝野を挙げて、この世界的医学者野口英世博士の帰朝を歓迎した。わけても故郷猪苗代の人々は、村をこぞって熱狂した。中にはあの手ん棒の清作がと驚異の眼を瞠るものも少なくはなかった。ああ、この日この時、シカの喜びはどんなであったろうか。己一人の力で養い通すと覚悟したあの清作が世界に名をうたはれる偉人となって、今、わが前に座っているではないか夢かとばかり握り交わす母と子の手に伝わるものはせきあえぬ感恩の涙であった。こうした中にもシカには一つの心配があった。それはこの大きな喜びを見るにつけても、日ごろ念じ暮らした中田観世音に二人揃ってお礼参りがしたいのであるが、長年外国で暮らした英世が果たして一緒に行ってくれる行ってくれるであろうかということであった。このことを知った英世はただちに歓迎の予定をさし繰って進んで参詣に行くことにした。丁重な供え物を捧げて心からなる感恩の涙と共に伏し拝むシカと英世と。ああ清く ああ美しき母と子の姿がどこにあろうか。仰ぎ見る清三の慈現は心なしか優しく二人に笑みかけて居るかに見られるのであった。
終わり。
とりあえずこれで終わりですが、野口英世の母シカは字すら書けないところから産婆さんの資格を取って、村の妊婦さんを助け、多くの赤ちゃんをとりだしたという。
成功する人はたくさんの人に見出され愛されていく人です。そのことにも感謝ができる人です。逆境にくじけずに向かっていく人です。
