北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

「21くろやま塾」10周年記念事業・高野澄氏の講演会など

2007-02-27 01:03:55 | 話題
1月6日に、 「オイッチ ニ の サン」の作者、高野 澄氏がゼミナールハウスで、
2月7日に、 【京北の文化遺産】発見された山国隊などのフィルムが2月24日にゼミナールハウスで公開される、、
と題して書いていましたが、その;

「21くろやま塾」発足10周年記念に行われた、作家、高野澄氏の講演会を聞きに、最近発見された山国隊などの古い映画や展示された山国隊や牧野省三関連の写真などを見に、2月24日、京都府立ゼミナールハウスへ行きました.

資料は写真の展示.山国隊の岐阜での血判状・軍楽隊の写真・牧野省三の写真、それにくろやま塾の活動風景などが展示されていました.

映画は、古い無声映画と最近河原林成史さん宅で発見された山国祭の映画が写されました.山国祭に参加の山国隊の軍楽隊の行列や御輿、奉納相撲の風景です.昭和8年頃の作品とのことですが、この頃の山国祭の時の田圃はまだ刈り取られることなく稲穂が一面に.またあの立派な御輿ですが、それを担ぐ棒の長さが短い.ナレーターは「当時は力持ちが多く少ない人数で担げたのでしょう、、、」といっていましたが、まさに同じ感想でした.奉納相撲の画面が出て来ましたが、皆さん立派な体をしていました.まあ選ばれた人が出場しているから当然といえばそれまでですが、あの筋肉の張りは力仕事で鍛えた姿そのものであり、贅肉はなし、なかなか見事なものでありました.

続いて、京都新聞に連載の小説「オイッチ ニ の サン」の作者、高野 澄氏の、約1時間半の、山国隊と牧野省三についての講演.

高野氏は牧野省三に関わり始めて20年とのこと.牧野省三のことをライフワークにされているそうな.講演内容は山国隊関連と牧野省三関連が半分ずつであった.しかしこれはお互いに繋がっているので明確には分けられない.話の内容は小説を読んでいて大体想像出来たがまあ予想通りであった.

興味を抱いた話や、おや?と思った点などは;

高野氏の興味は牧野省三を出発点にしているので、山国隊については新らしい話はなかったと思う.ただ歴史小説家であり、京都検定や京都の案内の著作も多く、歴史知識もそれなりにあり、その広い知識から山国隊を眺められた話は参考になった.

講演終了後の質疑応答で、山国隊出現の背景についての質問に、そのインセンティブの一つに「官位の授与」を挙げられたて答えておられたが、おや?と思った.
隊を結成して戦えば官位を授与するという誘い水が一つの要素であったと答えられていが、隊結成以前に、水口市之進・鳥居五兵衛・河原林安左兵衛門・藤野斎の4名主はそれぞれ、備前守・河内守・大和守・近江守を運動の末獲得している.

もう一つ、宮さん、宮さん、の軍歌を「品川弥二郎」が作曲した、と説明されいたが、これは歌詞を品川弥二郎が作詞、これを一力亭の芸者で三味線の名手、おゆう、が即席に作曲したものであろうとのことです.(水口民次郎著「丹波山國隊史」p938)

牧野省三の母親、牧野弥奈の浄瑠璃師としての活躍の場は千本通りであったが、新京極が開発されだんだんその勢いに押されていった、
千本三条下がる、に材木屋さんが多い、大堰川を下った木材は嵐山の梅津からここへ運ばれた、
千本通りはもともと大内裏があり通りがあった所ではなかったが宮廷には財力がなくだんだん荒廃していき、この千本という名前は墓場たる船岡山へ通ずる道に塔婆が千本も建てられていたからその名がついた、(これはちょっと調べてみたいことですね(^.^))
牧野省三がつくりたかったのは、英雄の話の映画でなく、主役がいっぱいでてくる作品であったり、
彼がつくった「本能寺の変」(光秀の姿が牧野自身であったはずとのこと)の撮影を行ったのは光秀の重臣斉藤利三の墓がある真如堂であった話、

などの話には興味を抱きました.

なお、牧野弥奈と藤野斎さんの墓が御室の住吉山の霊園に一緒にあることは初めて知りました.この講演会に斎さんの子孫たる清臣ちゃん・公平ちゃんも出席していましたがどの様に聞いたのでしょうか?まあ、斎さんは地元の三明院裏の藤野家の墓に眠っておられ、住吉山霊園の墓はおそらく牧野省三がたてたものでしょう.一度訪れてみたい気がします.

講演者の関心の中心は牧野省三にあり、そのルーツたる山国も知らなければ、と勉強されたのでしょうが、ここ地元で話をするには山国にスポットをあてた話をせざるをえなかった高野さんの苦労が分からないでもない( ^_')

わが故郷と京は、筏で下る大堰川から、また長坂口への山国街道から、千本通りへ通じていて、この山の道と水の道、いろいろな話題が横たわっていそうです.海のシルクロードならぬ川のウッドロード・鯖街道ならぬ鮎街道、な~んて切り口でいろいろ勉強が出来そうです.

ちょっと余談になりますが、今、「西の鯖街道」のキャンペーンが始まっています.これでも京北が話題になりそう.これはこれで非常に面白いテーマであります.

とりとめもない感想でございました.


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2 コメント

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山国隊 (道草)
2007-03-02 10:44:20
講演会はそれなりに成果があったようですね。私は山国隊には馴染みが無くて、傍観するしか能がありませんが中々興味のある話だと思います。
宇津村の中地が筏の中継所だったとのことですが、恐らく細見秀一家の近くではないでしょうか(小学校の下に当たります)。村道を脇へ入った所に彼の家とその横にもう1軒住居(細見万さん)があって、すぐ近くが大堰川でした。そこから栃本の向かい(北の外れ)へ幅30センチ位の細い木橋が架かっていました。これは通行の正規の橋ではなく、農作業などの近道だったと思います。その辺りの川は浅瀬でしたが水流は穏かで、筏を繋留するのにも向いていたのではないかと思います。細見家の3軒隣に「しみせ」(岡本信太郎商店)と呼ぶ万屋(よろずや)があって、菓子類も売っていました。当時の宇津村の中心地の一角です。既に廃業になってどのくらい経ちますか。
宇津村は鯖街道からは外れていますが、それでも行商のおばさんが塩鯖・干鰈・丸干鰯・へしこ(鯷漬=ひしこ)などを売りに来ていました。
話は横道へ逸れますが、川本邵さんなら青年団の応援歌など知っておられるのではないでしょうか。
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山国隊・筏などなど (mfujino)
2007-03-02 16:29:07
山国隊は「手弁当」で出征しました.この為多大の借金が残りました.高野氏がこの講演で藤野斎氏が出征中も故郷に帰ってからもこの戦費について苦労された話をされていました.氏は草木正苗氏の質問に答えて、山国隊の戦費捻出のキーワードは、<千本三条下ルにあり>、と述べられていました.千本三条とは材木問屋の街、即ち林業がこの戦費を支えたということだと思います.数億円という金額だった聞いています.千本三条へは、山国郷から切り出された木材が筏で大堰川を下り、嵐山の梅津経由、西高瀬川で運ばれたそうです.この筏についてはまた後日書きたいというか、ここ京北を考えるには欠かせないテーマです.

平成4年の「京北町の文化財」第28号に、「筏師さんを囲んで」と題する座談会の記事があります.そこに周山の栗山紀夫さんの話に;
>昼すぎに上世木につきますので弁当をくって昼寝して、貞塔峠を越え中地の
>「信店(しんみせ)」今の岡信さんで一息し饅頭やせんべいをかってもらいた
>べるのが一番の楽しみでした(当時15~6歳)
というのが書いてあります.
同じ記事に山国は大野の田中藤三郎さんの話の中に;
>こうして大戸、灰野口、祖父谷口、六ヶ等の大川まで出すわけです.そして
>11月頃から下流へ流していきます.大川筋には「回漕店」があって、筏の
>輸送をとりしきっていました.花脊、黒田、下、魚ケ淵、中地、下宇津、
>世木、、、、等々ありまして、、
とあります.回漕店のあるところには当然「浜」もあったのでしょうね.
信店は、細見秀一さんに聞いてみましたが宇津小学校の下に20年にはならないけれど10年以上
前に廃業されたとのことです.信太郎さん、信さん、信やん、の店で信店・しんみせという呼び方なのでしょうね.細見秀一さんも「しみせ」といっていた、とのことです.

私も「へしこ」の行商のおばさんの記憶はあります.長じて大阪の割烹料理屋さんで富山の「こんかいわし」を食し懐かしくなったものでした.この春には舞鶴で美味しい鯖のへしこを買い酒の肴として楽しみました.余談になりますが、フグの卵巣の糠漬け、これはへしこに近い味であります.

そっか、川本劭さんに今度お遇いしたら応援歌のことなどいろいろ尋ねてみます.以前宇津に残る貞任伝説の切畑の位置や石標のことなどを教えて貰いました.

1950年に着工し1951竣工した世木ダム完成と共にこの大堰川の筏はその歴史を閉じました.道草さんの少年時代に見られた筏師さんの姿はその最終期の頃なのですね.
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