今年の3月4日に峠フォーラムに参加しました」と題して書いたのですが、このフォーラムを推進した、里山ねっと・あやべの朝倉聡君が、古道復活なった瓶割峠を歩く催しがあるよ、と知らせてくれました。彼は峠フォーラムを開催したりしてネットワークを築いているのですが、私も、峠や古道というキーワードは温故知新、それぞれの地域の将来を考えるに大切なものと考えています。また、その案内の中に日本最古の煉瓦トンネルも歩くというのがあり、心がぐらぐらと揺らいで6月8日のこの催しに参加しました。
この瓶割峠というのは、篠山と春日を結ぶ生活の峠道のみならず、丹波と丹後方面も結ぶ幹線道でもあり、それは西国巡礼道でもあったそうです。この古道が荒れていたのを上田正三さんの呼びかけに賛同された人達が復活され、記念ウォークが春に予定されていたのですが雨天で流れ、今回の企画になったそうです。
この古道整備は丹波新聞が伝えています。
http://tanba.jp/modules/news/index.php?page=article&storyid=1375
当日は春日IC近くの道の駅丹波おばあちゃんの里で上田さんや大阪京都方面からの参加者とドッキング、車で国領の集合地点へと移動、地元の方達と合流し、30名程で峠道を目指しました。
瓶割峠コース図
国領地区から峠道に入りますが、国領地区元気な地域づくり委員会が案内板を設置されています。
瓶割峠への上り道は人の足で作り上げられたまさに旧道そのものの姿が残っています。
峠道の補修された様子です。
この辺りには、ナガレホトケドジョウ、が棲息しているそうです。谷の水溜まりで、あ、いたいた、と示して貰いましたが私には見えませんでした。仕方なくカメラに残された画像を見せていただきました。
峠道を2/3程上がってくると展望台があります。
更にもうひと頑張りすると大師堂跡に。
この平削地にお堂があったそうです。立派な説明板が立てられてます。この隣りには茶屋もあったという平らな地もあり、かなり下の谷まで水を汲みに行っていたと伝えられる道もありました。
そうこうするうちに瓶割峠に到着。ゆっくり歩き途中の休憩も含んで約1時間の上りでした。
この瓶割峠には西峠と東峠があります。昔からの道が越えたのがこの西峠でその日歩いて登った道で、峠を追入側へは谷の東側を真っ直ぐ下りていたそうです。が、残念ながら現在は峠の下あたりでは、あそこが旧道ですと示して貰いましたが、一部分を残して廃道になってしまっているそうです。
そして明治に入り新道が作られました。峠を下ってすぐに峠道の新道へと合流します。その後は追入側は新道を下ります。明治の新道ということは、車、といっても自動車ではなく荷車が通れる道をつくられたということです。
瓶割峠越・新道
西峠から追入側に下りて、鐘ケ坂トンネルを通り、帰りは同じ道を帰ってきました。そして西峠の少し手前から真っ直ぐ新道を登って帰って来たのですが、西峠の少し手前を旧道を登らずそのまま東へ新道を進むと東峠に到着です。
残念ながらこの東峠の写真がありません。というのは電池切れであります。
東峠から国領への下りは崩壊していてこれまた廃道になってしまっているそうです。その為、東峠から稜線伝いに西峠に戻り、朝登って来た旧道を国領へと下りました。
国領から峠までの旧道は尾根道でここを歩くと、昔から相当の人が往来したであろうという古道の雰囲気そのものです。従って倒木などを除けば多くの人に踏み込まれた旧道が蘇ります。一方、新道は崩壊などがあると遭えなく廃道になってしまうという脆弱さがあるのではないでしょうか。荷車などを通す道は勾配を出来る限り緩やかにしないといけないのでどうしても自然の地形に逆らって作らなければならないからです。
新道が荷車を通す為の道ということは歩いて見ても実感出来ます。帰りに新道を東峠へと登る歩きは傾斜が緩やかで楽に歩けます。それに比べ、歩く為の道は出来るだけ尾根を利用し、傾斜を緩やかにするには九十九折れにしました。
話が前後しますが、追入側に下りた所に頭の部分が欠けた石標があります。
(右)やまみち (左)さいこくみち 寛保二年と読みましたが、江戸中期ですね。
このさいこくみちというのは西国三十三ケ寺の巡礼道ということでしょう。
この峠越えは、圓教寺や清水寺方面と成相寺を結ぶ巡礼道であり、また篠山方面と春日への生活道であったそうで、立ち杭の里で焼かれた一つ16貫の瓶を天秤棒の前後に担いで峠を越えていたそうですが、ある時、瓶を下ろしたときに石に当たって割ってしまったことがこの瓶割峠という名の由来と聞きました。ある時と書きましたが、瓶を割ることが多かった峠かもしれません。
この峠道の修復を発案され実行された、父が国領地区、 母が篠山市大山地区出身の上田正三さん、、という紹介記事も面白いですね。峠を挟んでの婚姻関係というのは昔は多かった様で、あちこちでこの話を聞きます。おそらくご両親は何度も、数え切れない程この峠を越えられたことでしょう。
この峠道の修復作業に、2日間、延べ28人のボランティアの人達が従事されたそうですが、倒木の伐採や崩壊カ所の修復が主だった作業だった思います。更に国領地区の人達により案内板や説明板の設置もされ、歩きやすくなっていました。双方の地区の人達が、昔を語り、未来を語りつつハイキングコースを楽しんで欲しいものです。そこでホトケドジョウ、林の姿や植物を見、また展望で、あそこに黒井城が、などと語り合うのもいいのではないでしょうか。
いろんな事を体感出来た峠越えが楽しめました。
なお、この日は現在は閉鎖されている鐘ケ坂トンネルを歩く事が出来ました。これについては別に書く予定です。
薬師峠の小屋はまだ残ってるかしら、石仏があったはずですね。お地蔵さんや茶店、大師堂など、それに石標等々がある峠は相当の往来があった事が伺えますね。茶呑峠のお地蔵さんは背中まできちんと彫られた立派なものですね。峠越えは両方の町の歴史を考えるにも面白いキーワードを提供してくれますね。