高校時代の夏、恩師が転居されので鳥取へ他の先生と訪れたことがある。大学時代の夏休みには先生の家に居候させていただき鳥取砂丘などで盛夏を過ごしたことがある。鳥取全体を廻るというのでなく先生宅近くの砂丘界隈でのんびりと過ごす、名所旧跡を訪ねるでなく、滞在型の夏休みを楽しめた。
今回のドライブで先ずは浜坂を目指した。以前、餘部鉄橋に別れを告げるドライブに出たとき城崎方面から但馬海岸をここまで走ったので今回の海岸を巡るドライブの出発点は浜坂にしたのである。
9号線を走っていて養父の辺りから川が氾濫した跡を見た。この夏但馬地方は集中豪雨の被害で大変だったそうだが、どうも円山川上流の川の堤防が低く感じて気になった。浜坂で昼飯にしたがカニづくしであり、刺身の定食にでもした方がよかったかな、また、加藤文太郎さんの記念館によれる行程にすべきだったと反省している。
居組などを通り出来るだけ海沿いを走るようにして行くと東浜が見えだした。浦富海水浴場まで広々とした海水浴場が続く。浦富で一度泳いだことがあるがあの遠浅の海で楽しんでからもう数十年が経った。
続いて向かったのが網代港。ここから遊覧船で浦富海岸の海岸美を楽しむ。波はかなりありちょっとしたスリルも感じながら色々な岩の景色を観賞したが、どうも海の透明度が味わえなかった。たしかここは透明度が売りだったはずであるが。ここは世界ジオパーク認定を目指しているそうな。日本列島がアジア大陸の一部であった1億年程前の花崗岩が浦富海岸で見られるという。
網代から浦富へと断崖絶壁を歩き、海岸へも下りられる遊歩道がある。ここも歩いた事があり懐かしい。網代港うで干したイカを手で拡げている遊覧船の船長さん(だと思う)があの遊歩道は2年ほど前に掃除したけど気をつけないと遭難するよ、と話しておられたがちょっと大袈裟では?しかし一歩踏み外せばまず命はなかろうという箇所は何カ所かはあったけれど。時間が許せばまた歩きたい道である。舟から見るだけではない浦富海岸を楽しめるルートであろう。
砂丘へと向かう。懐かしい景色が拡がる。もう40年近くも経つがそう大きくは変わっていない。ただ西の方は植物が増えている気がしたがどうなのだろう。大すりばちは健在で、一番急で高そうなルートを上がってみた。昔は駆け上がったが今回は歩いて上がるのがやっとであった。裸足で歩く砂の感触を楽しむ。風紋の写真を一枚だけ載せよう。それと一部小さな崖になっている部分の層の姿も一枚。砂だけならこんな層は出来ないように思うのだが、この辺りは植物が生えているので泥の成分があるからなのかしら。この風紋、我が尊敬して止まない恩師高垣先生が鳥取西高校に勤務されている時クラブ活動でその研究をされたと聞いている。
恩師からは真夜中にこの砂丘の真ん中に立つと自然を感じられて良いよ、と教えられた事、西の千代川河口付近から誰もいない海岸沿いに歩いたこと、朝、海に入り足で蛤を穫ったこと、夕暮れには砂丘の端から海を眺めていると暮れゆくと共に漁り火が見え始め、ビールを飲むグラスに当たる風が出す音に感激したこと、、、あ、そうそう夏の海岸を一人で歩いていたら近くへボールがポトリと落ちてきた。誰かがゴルフの練習をしていたのだが、危ないよ~。いろいろと若かりし頃を思い出さしてくれる場所である。
この後賀露海岸に行くが、河口部分が埋め立てられて港湾として開発されていた。海水浴場も近代的になっていて昔の雰囲気は無し。海に突き出した岩に立つ灯台に昔の姿を見て海岸を後にした。
二日目は湖山池を巻くように走って9号線へ出て境港まで海岸沿いを走るが曇り空で昨日よりは海の表情は冴えない。大山は頂上付近が雲で覆われて全貌が見えないのは残念であった。境港で水木ロードをぶらりと散歩し昼飯を食べた後、大山を目指す。意外と早く大山寺の辺りまで到着した。
途中スキー場の広場を上に上がると弓ヶ浜方面の素晴らしい景色が見下ろる。半袖シャツから出ている腕に当たる空気はひんやりと涼しい。犬を散歩に連れて来られている姿も見かける。大山頂上に登ればもっと日本海の景色を堪能できるのであろう。※※は高いところへ登りたがる、と笑われそうだが、やはり目の前に山が横たわっていたらあの上へ行ったらどんな世界を見ることが出来るのだろうと想像してしまうのは我が性分だけのものなのだろうか。
一の沢、二の沢、三の沢を通る。大山の南面の崩落状況が砂防工事がされている沢から見ることが出来た。遠景なので痛々しいというか荒々しい感じが分かりにくいかも知れないがこの面が崩落箇所である。平らな土地が高い山になり時と共に平地に帰るのも自然なのだろう。大山が全て崩れ落ちてしまうのは何年後かしら。100年後ならいざ知らず、1000年後にはかなり様相が変わっているのではと思う。弥山は見えたが剣が峰はまだ雲を被ったままであった。
標高700msとか900msとか標識が教えてくれる道路を東へと大山の裾野(中腹?)を走る。大山の姿は見事なブナなどの林に遮られて所々の展望箇所でしかその姿を見せてくれない。時々対向車とすれ違うが数は少ない。紅葉の頃も良いだろうなあと思った。
鬼女台休憩所で小休止。ここからの秋の大山を撮った写真があったが、これを見るとまた来てみたいなあと思う。しかし鬼女と書いて何で キメン って読むのだろう?世界陸上で南アの選手の性別判定云々がニュースになっているが、鬼はやはりmenであったのだろうか?なんて駄洒落も出てくるものである。西は大山や烏ケ山。この烏ケ山、かなり急な角度をした小さい富士山の様な姿をしている。東へ眼を向けるとなだらかな姿の蒜山高原が横たわっている。日本は山の上まで木が生えた緑の国なのだとスイスでの景色と対比して考えてしまう。まあ標高の差もあろうがやはり日本は緑の国だ。この中国山地はタタラ製鉄で有名であるがやはりどんどん木が再生産されて始めて出来たことなのであろう。石見銀山、人形峠、タタラ、それと浦富の花崗岩、なかなか興味を懐かせてくれるテーマも盛り沢山だ。
蒜山スカイラインを下って蒜山ICから米子道~中国道~舞鶴道を走って篠山からはすっかり暗くなったデカンショ街道経由で我が家へと帰った。今回は浜坂から境港までの海岸を走ったので、日本海沿岸を走るドライブは、富山湾の氷見から弓ヶ浜の境港までその線が繋がった。洞爺湖・糸魚川・雲仙が世界ジオパークに登録されたそうな。ここ浦富界隈もその登録を目指しているがなる程と頷ける。波が静かなら浦富海岸ではもっと岩に近づけたそうな。その点は残念であるが、あの大山の崩落箇所を見たり、千代川が中国山地の砂を運んで来て大砂丘をつくりあげたり、日本列島がアジア大陸から離れて日本海が出来その水蒸気で豊富な雨を降らせてくれた緑豊かな森をつくりそれがタタラの製鉄を支えた。こういったジオの世界に目を向けさせてくれたの良かったであろうと今回の旅に自己満足している。
今回のドライブで先ずは浜坂を目指した。以前、餘部鉄橋に別れを告げるドライブに出たとき城崎方面から但馬海岸をここまで走ったので今回の海岸を巡るドライブの出発点は浜坂にしたのである。
9号線を走っていて養父の辺りから川が氾濫した跡を見た。この夏但馬地方は集中豪雨の被害で大変だったそうだが、どうも円山川上流の川の堤防が低く感じて気になった。浜坂で昼飯にしたがカニづくしであり、刺身の定食にでもした方がよかったかな、また、加藤文太郎さんの記念館によれる行程にすべきだったと反省している。
居組などを通り出来るだけ海沿いを走るようにして行くと東浜が見えだした。浦富海水浴場まで広々とした海水浴場が続く。浦富で一度泳いだことがあるがあの遠浅の海で楽しんでからもう数十年が経った。
続いて向かったのが網代港。ここから遊覧船で浦富海岸の海岸美を楽しむ。波はかなりありちょっとしたスリルも感じながら色々な岩の景色を観賞したが、どうも海の透明度が味わえなかった。たしかここは透明度が売りだったはずであるが。ここは世界ジオパーク認定を目指しているそうな。日本列島がアジア大陸の一部であった1億年程前の花崗岩が浦富海岸で見られるという。
網代から浦富へと断崖絶壁を歩き、海岸へも下りられる遊歩道がある。ここも歩いた事があり懐かしい。網代港うで干したイカを手で拡げている遊覧船の船長さん(だと思う)があの遊歩道は2年ほど前に掃除したけど気をつけないと遭難するよ、と話しておられたがちょっと大袈裟では?しかし一歩踏み外せばまず命はなかろうという箇所は何カ所かはあったけれど。時間が許せばまた歩きたい道である。舟から見るだけではない浦富海岸を楽しめるルートであろう。
砂丘へと向かう。懐かしい景色が拡がる。もう40年近くも経つがそう大きくは変わっていない。ただ西の方は植物が増えている気がしたがどうなのだろう。大すりばちは健在で、一番急で高そうなルートを上がってみた。昔は駆け上がったが今回は歩いて上がるのがやっとであった。裸足で歩く砂の感触を楽しむ。風紋の写真を一枚だけ載せよう。それと一部小さな崖になっている部分の層の姿も一枚。砂だけならこんな層は出来ないように思うのだが、この辺りは植物が生えているので泥の成分があるからなのかしら。この風紋、我が尊敬して止まない恩師高垣先生が鳥取西高校に勤務されている時クラブ活動でその研究をされたと聞いている。
恩師からは真夜中にこの砂丘の真ん中に立つと自然を感じられて良いよ、と教えられた事、西の千代川河口付近から誰もいない海岸沿いに歩いたこと、朝、海に入り足で蛤を穫ったこと、夕暮れには砂丘の端から海を眺めていると暮れゆくと共に漁り火が見え始め、ビールを飲むグラスに当たる風が出す音に感激したこと、、、あ、そうそう夏の海岸を一人で歩いていたら近くへボールがポトリと落ちてきた。誰かがゴルフの練習をしていたのだが、危ないよ~。いろいろと若かりし頃を思い出さしてくれる場所である。
この後賀露海岸に行くが、河口部分が埋め立てられて港湾として開発されていた。海水浴場も近代的になっていて昔の雰囲気は無し。海に突き出した岩に立つ灯台に昔の姿を見て海岸を後にした。
二日目は湖山池を巻くように走って9号線へ出て境港まで海岸沿いを走るが曇り空で昨日よりは海の表情は冴えない。大山は頂上付近が雲で覆われて全貌が見えないのは残念であった。境港で水木ロードをぶらりと散歩し昼飯を食べた後、大山を目指す。意外と早く大山寺の辺りまで到着した。
途中スキー場の広場を上に上がると弓ヶ浜方面の素晴らしい景色が見下ろる。半袖シャツから出ている腕に当たる空気はひんやりと涼しい。犬を散歩に連れて来られている姿も見かける。大山頂上に登ればもっと日本海の景色を堪能できるのであろう。※※は高いところへ登りたがる、と笑われそうだが、やはり目の前に山が横たわっていたらあの上へ行ったらどんな世界を見ることが出来るのだろうと想像してしまうのは我が性分だけのものなのだろうか。
一の沢、二の沢、三の沢を通る。大山の南面の崩落状況が砂防工事がされている沢から見ることが出来た。遠景なので痛々しいというか荒々しい感じが分かりにくいかも知れないがこの面が崩落箇所である。平らな土地が高い山になり時と共に平地に帰るのも自然なのだろう。大山が全て崩れ落ちてしまうのは何年後かしら。100年後ならいざ知らず、1000年後にはかなり様相が変わっているのではと思う。弥山は見えたが剣が峰はまだ雲を被ったままであった。
標高700msとか900msとか標識が教えてくれる道路を東へと大山の裾野(中腹?)を走る。大山の姿は見事なブナなどの林に遮られて所々の展望箇所でしかその姿を見せてくれない。時々対向車とすれ違うが数は少ない。紅葉の頃も良いだろうなあと思った。
鬼女台休憩所で小休止。ここからの秋の大山を撮った写真があったが、これを見るとまた来てみたいなあと思う。しかし鬼女と書いて何で キメン って読むのだろう?世界陸上で南アの選手の性別判定云々がニュースになっているが、鬼はやはりmenであったのだろうか?なんて駄洒落も出てくるものである。西は大山や烏ケ山。この烏ケ山、かなり急な角度をした小さい富士山の様な姿をしている。東へ眼を向けるとなだらかな姿の蒜山高原が横たわっている。日本は山の上まで木が生えた緑の国なのだとスイスでの景色と対比して考えてしまう。まあ標高の差もあろうがやはり日本は緑の国だ。この中国山地はタタラ製鉄で有名であるがやはりどんどん木が再生産されて始めて出来たことなのであろう。石見銀山、人形峠、タタラ、それと浦富の花崗岩、なかなか興味を懐かせてくれるテーマも盛り沢山だ。
蒜山スカイラインを下って蒜山ICから米子道~中国道~舞鶴道を走って篠山からはすっかり暗くなったデカンショ街道経由で我が家へと帰った。今回は浜坂から境港までの海岸を走ったので、日本海沿岸を走るドライブは、富山湾の氷見から弓ヶ浜の境港までその線が繋がった。洞爺湖・糸魚川・雲仙が世界ジオパークに登録されたそうな。ここ浦富界隈もその登録を目指しているがなる程と頷ける。波が静かなら浦富海岸ではもっと岩に近づけたそうな。その点は残念であるが、あの大山の崩落箇所を見たり、千代川が中国山地の砂を運んで来て大砂丘をつくりあげたり、日本列島がアジア大陸から離れて日本海が出来その水蒸気で豊富な雨を降らせてくれた緑豊かな森をつくりそれがタタラの製鉄を支えた。こういったジオの世界に目を向けさせてくれたの良かったであろうと今回の旅に自己満足している。
鳥取砂丘へは新婚旅行で行きました。当時は山陰山陽一周の、実に慎ましい旅行でした(私に一円の貯金も無かったからです。飲み過ぎでした)。鳥取砂丘へ行った日は1月の末でしたのに、春に様に暖かい陽射しが私達の行く末を祝福してくれたのでした(私が真人間になることを誓ったからです。本当は誓わされたのですが)。
今でも、鮮やかな青い海と薄茶の砂丘のコントラストが目に浮かびます。私は運転が出来ませんので(家内に、ダメ夫と思われているのは知っています)、いつでも自由に走り周ることが叶いません。mfujinoさんの道中記には、いつも慰めて頂いております。
「鳥取砂丘にて」 山本太郎
どこへも通じない道をゆきたい
にんげんのかなしい血の一筋を
歯がみし歩く≪問い≫でありたい
いま銀砂の丘にたち 細き蠟の手をあげ 永遠との距離をはかれば
落日は燃えあがる船のごとく
音楽はたじろぐ僕を 追撃する
ああ 巨きな劇を 朗読するのはだれか
瞑目の衝動をこらえ
沖をみつめて立ちつくせば 雲の瀑布はたちまち僕を うちくだく
どこへも通じない道をゆきたい
にんげんの消えない血の一筋をこころにきざむ≪うた≫でありたい
因幡から伯耆へ一気呵成に駆け抜けて、さぞやお気持ちがよかったことでしょう。千代川や賀露の名前が出て懐かしく思いました。司馬遼太郎の「街道を行く」で、本に出て来た通りに歩いたことがあったからです。かつての美作(ミマサカ)国、津山藩の城下町である津山から国道53号線を北東に、中国山地を越えて、鳥取県智頭町の早野(ワサノ)を訪ね、千代(センダイ)川に沿って北上し、因幡国庁跡を訪ねて鳥取へ入り、その後、「因幡の白兎」の神話で有名な白兎海岸を訪れ、伯耆国の中心であった倉吉へ立ち寄り、さらに海岸を西に米子に入って、美保関の美保神社へと、本の通りの終点でありました。鳥取とはまさしく古い地名で、記紀に書かれてある通り「トトリ」が語源でありましょうか。今でも人工が全国で最も少なく、密やかな県ですが、でも物凄く豊かな感想を持てるのは何故でしょう。
特に「字」を含めて地名に面白いのが多く、一時かなり調べたことがありました。それと言うのも僕は三朝温泉が大好きでありまして、何度か湯治に出掛けていましたのです。そこで偶々知り合ったお方の熱心なお薦めで、数年前になりましょうか、鳥取環境大学で「櫻」のちょっとした講演をしたことがあります。暖流が流れていても豪雪地帯であるこの地方特有の環境と櫻の育成についてでしたか。地味な方々が多かったようですが、とっても熱心だったことをよく覚えています。
休火山の大山が一挙に有名になったのはあの南北朝時代、名和氏が出現してからではないかと「伯耆の鰯売り」の章に書かれてありますネ。北条氏の鎌倉幕府に反抗し、隠岐へ流された後醍醐天皇を名和長年が救い出して挙兵致しました。京への生還に足利尊氏らと一緒になって成功して、結局鎌倉幕府滅亡へと追い込み、『建武の中興』に成功するのですが、足利幕府を開くと、今度は足利尊氏に挑んで敗れてしまったように、名和氏含めてこの地方独特な気質は剛毅な気質だったのでしょうか。伯耆国府のあった倉吉へ行く途中、三徳山三佛寺の投げ込み堂にも行ったことがあります。急峻な崖は若い僕でも閉口しましたが、貴重な体験でした。あの建築の不思議さを今もって感動してあまりあります。
更に天神川右岸の福庭(フクバ)に波波岐神社がありますが、この福庭の波々岐(ハハキ)が伯耆(ホウキ)国の語源になったとか。
いずれにせよ懐かしい地方です。フーテンの寅さんでも「寅次郎の告白」篇で鳥取砂丘が出て参りました。珍しく吉田日出子扮する昔の恋人に迫られるのですが、満男が言った通り、手の届かない人には恋するが、直ぐ届きそうな人には見向きもしないとか。今思い出しても可笑しくなります。その時のキャッチコピーは「恋の悩みならおじさんのキャリアがモノを言う」でしたネ。安倍公房の「砂の女」もここで撮影されたのでしょう。
藤野さまの、前回の北陸ドライブと言い、今回の恩師の足跡を追う西への旅と言い、北前船の文字通り銀座通りとなっておりますですネ。京から京北を経由し、小浜・高浜からそれぞれの地方へ。又その逆も。その証拠に、歌では「おわら」が九州から青森までの各地に脚色をされながら伝わっており、食べ物では「芋棒」のような芋煮が各地にカタチを変えて伝わっております。それら文化の伝播の最も大切な要衝として京北があるのでしょう。
いっぱい書いてしまって御免なさい、つい嬉しかったものですから!失礼致します!
私は大山はまだ登っていません。道草さまは若き頃からあちこち登られているのですが、私は歳を取ってから始めましたもので、、、9月末でもガスっていたのですね。今度登るときの参考にさせていただきます。
賀露や網代は港が立派に開発されていて昔の雰囲気とは随分と変わっていました。やはり漁業で生きる人達にとっての基地ですから十分な機能を備えて欲しいと思います。自分勝手な感傷にふけっていては申し訳ないですね。
奥様と新婚旅行で廻られたコースを辿る旅でも企画しましょうか?アッシー君請け負いますけど、、
養父あたりを走っているとどうも川の堤防が気になりました。極端に言えば堤防がないです。あれではしょっちゅう洪水に悩まされるのではと心配します。大雨の時は決して歩かれないようにご忠告してあげて下さい。
大山寺の辺りまで来ると人の姿が急に増えた感じがしました。今回はパスしましたけど。
道は便利になりましたね。帰りは蒜山ICから丹南篠山口まで休憩を除くと2時間も掛かりません。また無料の鳥取道とかが出来ているようです。京北からは9号線が便利ですが、大阪や京都方面からでしたら高速道の便利さを味わえるようです。ただ私は出来るだけ下の道を走るのが景色などを楽しめて好きです。
鳥取や島根は神話の知識があれば楽しいだろうなあと思います。地名も面白いですね。本文に書きました鬼女台などもあちこち漁ってみようかなと思います。八頭って八岐大蛇と関係があるのでしょう。
司馬さんと同じルートを歩かれたのですか。事前に著作を読んでその跡を辿るだけでも相当な勉強になることでしょう。
今回は地学の面に興味がありました。自然の営みを感じることが出来た様な気がします。帰った後、大山の地図を眺めて楽しんだりしています。
また硯水亭さまご指摘の「道」ですが、やはり山陰や若狭などを訪れますと海の道について考えざるをえません。北前船も浪漫を感じます。山形の芋煮までお教えいただくと更に嬉しくなります。
鯖が若狭から京へ運ばれただけで鯖街道を語る馬鹿さに陥ることなく、物資だけでなく人が交流し文化が影響し合った道を俯瞰しつつ細かい点の資料も集めて街道を考えていきたいと思っています。有難うございました。
>いろいろと若かりし頃を思い出さしてくれる場所を。にんまりされたり、ほろっとされたりして・・・。
砂丘と大山寺、皆生温泉は職場から、真夏の砂丘で観光用の馬車に乗りましたが、歩きにくい砂丘を息も絶え絶えに引っ張っている姿を見て、可哀相でかわいそうで飛び降り、熱い砂を踏んで海が見えるところまで行きました。風紋がすうーと変わっていくのを見ていたような?そのご大山寺まで上がり、夜には皆生温泉のマイ、ピーチで」泳ぎました。女性ばかりの職場でしたから、道草さんにガイドをお願いすれば、また違った素敵な旅だったのに、と40年前のとこを今、後悔しています^^もう一つは、鳴き砂の浜、浜村海岸は長女を連れて初めて海水浴に行った所です。民宿「貝がら荘」で泊まりました。境港の水木ロードは10年ほど前宍道湖から帰りに寄りました。
>奥様と新婚旅行で廻られたコースを辿る旅でも企画しましょうか?アッシー君請け負いますけど、、mfujinoさん、そんなこと言っていいのかしら?丸焦げにされない^^
あの砂丘の馬車、私が行ったときは休んでいましたが、折角砂丘に来たらあの足の指が拡がる感覚を楽しみながら歩いたら良いのに、と思うのですが。今回砂丘へ来て思い出したのですが、朝海に入り足で貝を穫るのをもう一度すれば良かったなと後悔しています。高校時代に始めて訪れてから何回かの夏を鳥取で過ごした色々なことを思い出しました。まあ回想の旅でありました。
そうか、そうですね、丸焦げの恐れありですね。確かにそうだ。う~ん、何か防御策を考えてからにしないと、、、
駱駝は本来は砂漠で棲息する動物で、重い荷物運びも慣れている筈です。鳥取の砂丘なんて、絨毯の上を歩く様なものではないですか。その駱駝がささ舟さんを乗せてへたばったとは、やはり重量制限は守って頂かないと・・・。
私はヒトを丸焦げにする馬力はございませぬ。もはや殻消ですから。
駱駝とささ舟さまにはコメントしますまい。ただささ舟さまが書いておられましたように馬車の話でございまして砂丘には駱駝は見かけませんでしたよ~。
あれで殻消でしたらくわばらくわばら。