歩いて峠越えをする対局にあるのがトンネルであります。歩きの時代は如何に低い鞍部を探して歩きを少なくしかも水などで崩れない安定したルートを作るか叡智を絞られたのが古人とすれば、技術が発達した現在は、え~い山を繰り抜いてしまえというところですね。しかし現在の技術に至る迄は、これはこれで色々なステップを踏んで苦労してこられたことでしょう。九州の青の洞門の話を思い出すまでのなく昔は大変なことだったことは想像に難くはありません。
瓶割峠を追入側に降りて、明治時代の、昭和時代の、そして平成の時代に作られた3本のトンネルがある、兵庫県篠山市と丹波市を結ぶ鐘ヶ坂トンネルの、明治トンネルと昭和トむンネルを歩くことが出来ました。今は平成トンネルが通っていますので、二つのトンネルは当然閉鎖されていますので、この機会を逃せばこれら二つのトンネルを歩くことは叶わないと、瓶割峠越えの企画に飛びついたのであります。
ここで6月24日に瓶割峠越えの説明に使ったルート地図に再登場してもらいます。
瓶割峠を追入側に下って道なりに少し歩くと昭和トンネルの入口に出ます。
ここで柏原町のガイドさんが二人待っていてくれました。挨拶をした後、瓶割峠から来た道を左に分岐する坂道を、防鹿ネットの門を開けてもらって進みます。
明治トンネルへ向かう
明治トンネルへの道
丁度バス一台が通れる位の幅の地道を600m程登ると古いトンネルがぽっかりと口を開けていました。トンネルの少し手前で道は急に広くなります。対面通行が出来なかったのでここで対向車が行き過ぎるのを待機したのでしょうか。
明治トンネル篠山側口。いかにも古い雰囲気ですね。明治16年に日本で5番目に開通したそうで煉瓦作りのものでは日本最古だそうです。
トンネル内部は真っ暗で、出口の明るさを頼りに歩きました。コウモリが不意の来客でびっくりして飛んでいました。お邪魔しました。
明治トンネルの壁。まさにレンガ造りですね。
木のゲート
白く流れて写っているのは私と一緒に歩いていた誰かの霊も外に出た様子です(^o-)
明治トンネル・柏原側
ネットを見ていると以前はこの手前が土砂崩れで道を塞いでいた様です。
明治トンネル・顕彰碑・柏原側
漢文でぎっしりと書かれています。
鐘ケ坂隧道の説明板です。
寄付顕彰板・柏原側
寄付金額は一番ではないのですが、こちらでも昔の殿様、織田さんがトップに載っています。篠山側も同じ様に青山さんの名前がトップに出てました。面白いのは総工費4万円余、その約半額が寄付金で賄われた、という事は約2万円、柏原側の寄付金総額が14,961円ということは、柏原側がその3/4を占めていることになりますね。恩恵を受けるのが大きい方が思い入れは大きいということでしょう。
地蔵さんと石碑
右が生野銀山からの吟の安全な運搬を祈る行者像、で真ん中が一般的な往来の安全を祈願したもので、いずれも旧道にあったものがここに移されたそうです。石仏探訪というサイトに詳しい訪問記があります。遊歩道として整備される前のトンネル付近の写真も載っています。
http://www42.tok2.com/home/yamaaso/tanbou/kanegasaka.html
昔の車道は今は遊歩道として整備されています。
篠山側に比べると柏原側はここからかなり下らなければならず、昔はくねくねと車が登ってきていたのですが、今は案内板も整備された遊歩道になっています。谷側には卯の花がきれいに咲き誇っていましたし、沿道には桜がたくさん植えられています。道からはみ出すように小さな展望台が作られていますが、周囲の木が大きくなってしまい今は展望はありません。
この道を下りて行くとヘヤピンカーブになっていますが、この大曲のところで昔の峠道を少し案内してもらいました。
。
旧峠は地形図を見ると、今の平成トンネルの真上辺りにあったと推測しますがどうなのでしょう。今は俄然この峠越えもあるきたくなっていますので、詳しい情報を集めないとと思っています。旧峠道はここを少し入ったところを通っていました。この峠道を生野銀山で採れた銀が大阪へと運ばれたとか。まさに昔の幹線道で、三間道だったそうでかなり相当広い道だったようですが、ほんまかいなという気がしないでもない。柏原側は時々整備をされているので今も歩けるとおっしゃってましたが、その先はどうなのでしょう。ここから左へ取ると鐘ヶ坂峠、右へは金山城跡や鬼の架け橋への登山ルートになっているとのことですが、金山のすぐ傍を通って銀が運ばれたというのも面白い。
遊歩道をしばし下ると昭和トンネル・柏原側の入口に出ます。ここまで舗装道が来ていますが少し手前でポールでブロックされ、また入口は金網で全面が塞がれています。
更に少し下りると鐘ヶ坂公園があり、ここで昼飯となりました。昼食後ここへ戻り、この昭和トンネルを通りましたが、こちらは幅も広くゆったりと歩けました。明治トンネル・昭和トンネルの両方を歩いて通った後、再び瓶割峠を越えて出発地点に帰りました。
この公園への国道からの入口の方へ行くと、鬼の架け橋が見えるスポットがあります。ピンぼけになっていますが感じは掴んでいただけるでしょう。
光秀が黒井城を攻めるのに使ったといわれる金山城はこのすぐ近くのようで、ここからの黒井城一望できるそうですし、鬼の架け橋等、奇岩の風景も見てみたいし、こりゃ一度行かにゃなるめえと思っています。
この柏原町は昔の丹波の国では今の日本でいえば篠山が東京、柏原が大阪、という位置づけの例えが出来るのではないかと思っています。木の根橋などの写真を見られた方も多いのではないでしょうか。私は今年、竹田城を目指した時に雪の中この町を歩きましたがなかなかいい町でした。柏原町には16人だったかのボランティアガイドさんがいるがあちこちの案内で忙しく二人しか来れなかったと仰っていました。
先日の京街道歩きで旧山科駅跡を見たことを書きましたが、初期の東海道線のルートは京都駅から南下し、今の名神高速のルートを峠を避けながら山科へと走っていました。ここ丹波の交通ですが、福知山線は篠山口を過ぎてからは西へと向かいこの鐘ヶ坂を避けるように走っていますね。現在の土木技術なら別のルートになることでしょうし、実際舞鶴道は瓶割峠の少し東の山を貫通して走っています。
ここ鐘ヶ坂トンネルは、最古のレンガ造り明治トンネル、昭和トンネル、そして現在の平成トンネルと、3つものトンネルがほぼ一箇所に集まっていて、交通の歴史を味わえる珍しいところではないでしょうか。瓶割峠越えとセットにした企画をしていただいた上田さんなどに改めて感謝しています。
瓶割峠を追入側に降りて、明治時代の、昭和時代の、そして平成の時代に作られた3本のトンネルがある、兵庫県篠山市と丹波市を結ぶ鐘ヶ坂トンネルの、明治トンネルと昭和トむンネルを歩くことが出来ました。今は平成トンネルが通っていますので、二つのトンネルは当然閉鎖されていますので、この機会を逃せばこれら二つのトンネルを歩くことは叶わないと、瓶割峠越えの企画に飛びついたのであります。
ここで6月24日に瓶割峠越えの説明に使ったルート地図に再登場してもらいます。
瓶割峠を追入側に下って道なりに少し歩くと昭和トンネルの入口に出ます。
ここで柏原町のガイドさんが二人待っていてくれました。挨拶をした後、瓶割峠から来た道を左に分岐する坂道を、防鹿ネットの門を開けてもらって進みます。
明治トンネルへ向かう
明治トンネルへの道
丁度バス一台が通れる位の幅の地道を600m程登ると古いトンネルがぽっかりと口を開けていました。トンネルの少し手前で道は急に広くなります。対面通行が出来なかったのでここで対向車が行き過ぎるのを待機したのでしょうか。
明治トンネル篠山側口。いかにも古い雰囲気ですね。明治16年に日本で5番目に開通したそうで煉瓦作りのものでは日本最古だそうです。
トンネル内部は真っ暗で、出口の明るさを頼りに歩きました。コウモリが不意の来客でびっくりして飛んでいました。お邪魔しました。
明治トンネルの壁。まさにレンガ造りですね。
木のゲート
白く流れて写っているのは私と一緒に歩いていた誰かの霊も外に出た様子です(^o-)
明治トンネル・柏原側
ネットを見ていると以前はこの手前が土砂崩れで道を塞いでいた様です。
明治トンネル・顕彰碑・柏原側
漢文でぎっしりと書かれています。
鐘ケ坂隧道の説明板です。
寄付顕彰板・柏原側
寄付金額は一番ではないのですが、こちらでも昔の殿様、織田さんがトップに載っています。篠山側も同じ様に青山さんの名前がトップに出てました。面白いのは総工費4万円余、その約半額が寄付金で賄われた、という事は約2万円、柏原側の寄付金総額が14,961円ということは、柏原側がその3/4を占めていることになりますね。恩恵を受けるのが大きい方が思い入れは大きいということでしょう。
地蔵さんと石碑
右が生野銀山からの吟の安全な運搬を祈る行者像、で真ん中が一般的な往来の安全を祈願したもので、いずれも旧道にあったものがここに移されたそうです。石仏探訪というサイトに詳しい訪問記があります。遊歩道として整備される前のトンネル付近の写真も載っています。
http://www42.tok2.com/home/yamaaso/tanbou/kanegasaka.html
昔の車道は今は遊歩道として整備されています。
篠山側に比べると柏原側はここからかなり下らなければならず、昔はくねくねと車が登ってきていたのですが、今は案内板も整備された遊歩道になっています。谷側には卯の花がきれいに咲き誇っていましたし、沿道には桜がたくさん植えられています。道からはみ出すように小さな展望台が作られていますが、周囲の木が大きくなってしまい今は展望はありません。
この道を下りて行くとヘヤピンカーブになっていますが、この大曲のところで昔の峠道を少し案内してもらいました。
。
旧峠は地形図を見ると、今の平成トンネルの真上辺りにあったと推測しますがどうなのでしょう。今は俄然この峠越えもあるきたくなっていますので、詳しい情報を集めないとと思っています。旧峠道はここを少し入ったところを通っていました。この峠道を生野銀山で採れた銀が大阪へと運ばれたとか。まさに昔の幹線道で、三間道だったそうでかなり相当広い道だったようですが、ほんまかいなという気がしないでもない。柏原側は時々整備をされているので今も歩けるとおっしゃってましたが、その先はどうなのでしょう。ここから左へ取ると鐘ヶ坂峠、右へは金山城跡や鬼の架け橋への登山ルートになっているとのことですが、金山のすぐ傍を通って銀が運ばれたというのも面白い。
遊歩道をしばし下ると昭和トンネル・柏原側の入口に出ます。ここまで舗装道が来ていますが少し手前でポールでブロックされ、また入口は金網で全面が塞がれています。
更に少し下りると鐘ヶ坂公園があり、ここで昼飯となりました。昼食後ここへ戻り、この昭和トンネルを通りましたが、こちらは幅も広くゆったりと歩けました。明治トンネル・昭和トンネルの両方を歩いて通った後、再び瓶割峠を越えて出発地点に帰りました。
この公園への国道からの入口の方へ行くと、鬼の架け橋が見えるスポットがあります。ピンぼけになっていますが感じは掴んでいただけるでしょう。
光秀が黒井城を攻めるのに使ったといわれる金山城はこのすぐ近くのようで、ここからの黒井城一望できるそうですし、鬼の架け橋等、奇岩の風景も見てみたいし、こりゃ一度行かにゃなるめえと思っています。
この柏原町は昔の丹波の国では今の日本でいえば篠山が東京、柏原が大阪、という位置づけの例えが出来るのではないかと思っています。木の根橋などの写真を見られた方も多いのではないでしょうか。私は今年、竹田城を目指した時に雪の中この町を歩きましたがなかなかいい町でした。柏原町には16人だったかのボランティアガイドさんがいるがあちこちの案内で忙しく二人しか来れなかったと仰っていました。
先日の京街道歩きで旧山科駅跡を見たことを書きましたが、初期の東海道線のルートは京都駅から南下し、今の名神高速のルートを峠を避けながら山科へと走っていました。ここ丹波の交通ですが、福知山線は篠山口を過ぎてからは西へと向かいこの鐘ヶ坂を避けるように走っていますね。現在の土木技術なら別のルートになることでしょうし、実際舞鶴道は瓶割峠の少し東の山を貫通して走っています。
ここ鐘ヶ坂トンネルは、最古のレンガ造り明治トンネル、昭和トンネル、そして現在の平成トンネルと、3つものトンネルがほぼ一箇所に集まっていて、交通の歴史を味わえる珍しいところではないでしょうか。瓶割峠越えとセットにした企画をしていただいた上田さんなどに改めて感謝しています。
柏原と京北は近いのですか? どうしてもまだ地理が頭に入っていなくて。 あの広い京北から柏原まで移動するのも大変そうだし、電車の便も悪いし、と考えると行動を起こすのが大変でしょうに、よくお出掛けになりますね。 感心しております。
チョット歩いてみたい衝動に駆られておりますが、誰でもが行けるようではありませんので、ラッキーな方達だったのですね。
普段は経て指されているトンネル(隧道と言ってもいいかも)を歩く機会などは滅多にありません。うらやましいです。しかもオカルトも絡む(笑)。鬼の架け橋などいろいろと面白いものもあるのですね。
この鐘ヶ坂越えを教示していただいたおかげで、光秀の丹波侵攻に抵抗した波多野氏と赤井氏の根拠地がそう離れてはいなかったのだと何となく土地勘というかそういうものが頭の中に染み込んできたような気がします。それだけに八上城の落城は春日側にとっても大打撃だったでしょうね。
そうですね、ネットワークというのは類は類を持って集まって形成されていくようですね。まあ情報は発信していたら、興味ある方からも連絡が入りお互いに情報交換やら意見交換が出来て楽しいものです。昨日はT師匠に書いて頂いた記事を掲載する為に写真を撮りに行くと言ったら師匠が鎌倉街道さんを案内されたのに近いルートを一緒に歩いて頂きそれはそれはいっぱいお教えをいただきました。締めは美味しい蕎麦屋でありました^o^師匠はgive & give の人ですが、きっとその情けに報いようといっぱい情報が入ってくるのではないでしょうか。
鐘ケ坂にはT師匠も誘ったのですが、先約があったそうでご一緒出来なかったので、今度機会があれば歩いて越えた鐘ケ坂峠の道を歩きませんかと持ちかけたら興味有りとのこと、トンネルの中こそ歩けませんが、この古いトンネルを見て(通れませんが)、旧道で峠を越える歩き、というのを企画します。鎌倉街道さんはご興味在りますか?
光秀が黒井城を攻めた時に波多野氏が裏切り大敗を期したそうですが、その後八上城を落とし、黒井城も落としたという流れだと思いますが、丹波の三大名城、八木城、八上城、黒井城ってお互い近隣だったのですね。まあ同じ丹波ですから当たり前といえば当たり前ではありますが。黒井城の赤井氏はかの竹田城攻めに出向いていて引き返したとか、お互いに庭の中でせめぎ合いをしていた様ですね。若狭の逸見氏も丹波の川勝氏との交流もあったとのことですし、戦国時代のこうした勢力図を年ごとにその勢力圏を地図に落とし込むのも面白いかなあ、とも思っています。
金山城跡やら鬼の架け橋も見てみたいですね。それと師匠には高浜の砲台跡も提案しています。若狭との関係を考えるとき、国吉城にも興味を持っています。
京ゼミの催しになるわけですね。 片道6時間ほどかかります。 考え中、考え中、、、
京都へ引っ越さないと遊んでいただけませんね。 でも、京都の暑さ、寒さは私には大敵で、やはり現在地が一番ですし、、、
京都は住むよりも訪れる地ですよね。海や山が近くの自然に囲まれた地で住み、都会へはちょっと走れば行ける、やはり現在地が一番ですよね。私は赤ちょうちんが無いことを覗けばということではありますが(^_・)
今が一番若い時です、っていい~言葉ですね。
赤ちょうちんは、私の生活範囲では気が付きませんでしたが、今でも下がっているのでしょうか? 若いころ目にしてもそのような所にあまり出入りしてなかったものですから、何しろお酒が駄目でしたので、チョコレートパフェとかバナナパフェばかりに目が行ってました。
今年は明日から7月なのですが、当地は朝晩涼しいのです。今はまだ梅雨の季節だと思うのですが、ジメジメした日は少ないように感じております。
そうですね、二人で予定を調整するならまあそう面倒ではないのですが、これが3人以上になると手間が掛かる度合いは飛躍的に高まりますね。わたしは行事に参加されている人の行動を見ていると、自らオーガナイズした経験のある人かどうかが分かる様になりました。また人を使ってリーダー的な仕事をしてきた人かもわかります。いろいろ企画されている鎌倉街道さんもそう思われることが多いのではと思います。
え~とね、赤ちょうちん、と書いたのは、一杯呑み屋の代名詞として使いました(^_・)当地にも呑める店はあるのですが、要は足の問題です。田舎は車社会で、ちょっと帰り道に一杯という風に行かないのが唯一の不満であります。