史跡ハンター 臥龍

 ★戦国・幕末&中国に関する史跡を中心に紹介しています★

 ご意見・ご感想・ご質問など、気軽にメッセージください!

GW史跡ハント~武蔵・上野国

2017年04月30日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
4月30日(日)
さぁ、初のゴールデン・ウイークを使った史跡ハントに出発だよー

前日(29日)は家を18:00に出て、歩いてJR横須賀駅に行きました。

また少し時間があったんでヴェルニー公園に寄ってみました…今日は「いずも」が戻って来てたね。
 
「陸奥の主砲」です。

そして18:42「横須賀」発のJR横須賀線に乗り、18:52「逗子」で下車…それから19:05発の湘南新宿ラインに乗り換えるんだけど、乗り換えで案内されたホームの掲示板に19:05発が無いじゃん。
駅構内のアナウンスによると遅れにより出発ホームが変わります…だってさ。
で、5分遅れで発車したんだけど…また途中で踏み切りのトラブル?で列車が一時止まってしまい、目的地の「池袋」に着いたのは予定よか15分遅い20:30ごろだったよ。
それから20:40発の東武東上線に乗り換えて、21:12「川越市」で降りました。
川越には上の妹一家が住んでるんだけど…今回着いた時間も遅いし翌朝も早いんでさ、川越に行くことは言ったけど泊まりには行かなかったよ。
まぁ俺の旅は忙しいのでね…また機会があればゆっくり寄らせてもらいます。
…というワケで川越ではネットカフェに泊まるんだけど…「本川越」を越えたショッピングストリート?にあるんだわ。

まず近くに「天下一品」を見つけたんで、やっと夕飯です…何年ぶりだろ?天一食べたの。
それからコンビニで買い物してネットカフェにチェックインしたんだけど…この辺りで「街コン」でもあったんか?それともいつもこんなに騒がしいの?
若者がいっぱいいたよ…あれだけの集団がいると恐怖を感じるわ。
ネットカフェは最初あんま客がいなくて静かだったなぁ、だんだん込んできたみたいだけどね。
ぜも狭い店でさ…フラットマットの部屋も小さくて寝づらかったわ…って、本来ネットカフェは寝るための場じゃないんだよ。
前にも「いびき」がうるさい客がいて注意されてたよ…周りの迷惑になるって。

4月30日(日)
①武蔵国~川越・東松山・熊谷編
今日は6:00チェックアウトしたんで5:00にアラームをセットしておいたんだけど…正味1~2時間しか眠れてなかったわ。

なんか今「自遊空間」ではエヴァのキャンペーン?やってたよ。
7:41「川越市」発の東武東上線に乗るんだけど「氷川神社」に行ってみようと思い、6:00にチェックアウトしたんだけどさ。

まず「川越八幡宮」に行ってみました。

もうさぁ、今って神社はやたら“縁結び”をウリにしてない?

コレは境内にあった「民部稲荷神社」です…足腰健康にご利益があるそうで、箱根駅伝出場選手などに人気があるんだって。
「まんが日本昔ばなし」でも紹介された伝説があって…コレは侍に化けて、八王子に住みついていた老狐の伝説です。
この老狐は民部と名乗り、話し相手欲しさに寺の小僧と仲良くなっていましたが、そのことが和尚に知れ、不審に思った和尚が寺に招いて宴を催しました。
民部狐は家来を連れて宴に臨みましたが、和尚と意気投合し…家来と小僧とで相撲を取らせて楽しんでいました。
翌朝、寺の境内に狐の毛が散らばっていたことから、正体を悟られてしまい…和尚が昨夜の礼に伺うと、民部狐は正体を悟られたことを知り、川越の山中に身を隠すことを告げ、打ち身手当ての術を教えて去って行ったという話です。

コレは拝殿です。

「あ?あんだって?」じゃなく、「ぐち聞きさま」といい…「聖徳太子」だそうです。

1030年(長元3年)甲斐守「源頼信」により創建されました…源頼信が「平忠常の乱」平定の祈願をココで行い、戦勝に感謝し創祀したモノなので、けっこう歴史あるんだね。

俺、また裏から入ってたんだな…


続いて「仙波 氷川神社」に行きました…

あれ?俺が知ってる「氷川神社」と違うじゃんか…地図アプリで見ると川越駅方面にある方か?と行ってみることに。

途中にあった「菅原神社」です…言わずと知れた“学問の神”だよ。

6:45ごろ川越駅に着きました。

駅を越えて歩き続け…「雀ノ森 氷川神社」に着きました。

境内にあった「稲荷神社」と「榛名神社」です…他に「浅間神社」もあります。

あらら…ココも俺が知る「氷川神社」じゃないじゃんよ…
もうネットで「氷川神社」を調べてみると方角的には「時の鐘」の方なんじゃん…そういや前に川越に住む上の妹一家と車で「氷川神社」前を通って「蔵造りの町並み」を観に行ったんだったなぁ。
…ってことは川越市駅の方かぁ…とりあえず、「川越」から1駅だけ東武東上線に乗り「川越市」で降りました。
もう30分しか無かったんで、「時の鐘」にすら辿り着く前に引き返したわ…また川越市駅に戻る時間を考えたら限界だったのでね。

せっかく1駅だけ乗って降りたんで「熊野神社」(右)だけ行きました。

ココにも「銭洗弁天」があったんだね。

「熊野神社」だから八咫烏のマークがあるよ。

川越市駅に戻って来たけど…女子高生が多いなぁ、今日って日曜なのに…

そして7:41「川越市」発の東武東上線に乗って8:00すぎ「東松山」で降りました。

まずは西口から出て…

歩いてスグの「箭弓稲荷神社」に行きました…この近くには松山女子高があるみたいね、日曜なのに女子高生いっぱいおったわ。

ツートンカラーの鳥居だね。

コレは「拝殿」で…天保6年(1835年)に造営されたものです。

「拝殿」裏の「本殿」です。

「本殿」には「龍」や「獏」…

「仙人の烏鷺」や「二龍」といった彫刻があります。

コレは「神楽殿」で…巫女舞などの御神楽の奉納を始め、様々な神賑行事を行います。

コレは「元宮」です。

社務所(参集殿)で売ってた御守りや絵馬なんだけど…「何で野球なの?」って思ったら、ココが「箭弓(やきゅう)稲荷神社」だからなんだね。

「参集殿」には巨大な御朱印スタンプがあったよ。

写真右は「記念館」で…今上天皇ご降誕記念として建てられたもので、舞台のある百畳敷きの大広間です。

8:25ごろ、東松山駅の東口に出て…3番乗場から8:35発の川越観光バスに乗りました。

そして8:45ごろ「百穴入口」で下車しました。

川沿いに菜の花がキレイに咲いていたよ。

この辺りは「武蔵松山城跡」なんだね…初めて知ったけど、帰ってから調べたら「北条氏康」や「上杉謙信」が奪い合った城だったんだよ。

コレは「岩室観音」です…奥まで行けそうだったけど、俺の脚ではキツそうなので行かなかったわ。

建物の中にあったのは地蔵ばかりだね。

この道を左に行くと「吉見百穴」で、右側が城跡になるのかな?

8:50ごろ「吉見百穴」に着きました。(入場¥300)

コレは売店です。

大きな穴は軍需工場跡の入口です。

構内の巨大な洞窟は昭和20年ごろに地下軍需工場用として左右約500mに亘り掘られたもので、一部を観ることができます。

中央通路を上がって見晴台まで行けます…俺は途中までしか上らなかったけどさ。

一部の横穴には「ヒカリゴケ」が生息しているよ。

写真右は「吉見町埋蔵文化財センター」です。

「吉見百穴」は今から約1300年前の古墳時代終末期の横穴墓群です。

現在まで219個の穴が確認されているそうです。

また「百穴入口(バス停)」に戻り…8:22発のバスで東松山駅(東口)に戻りました。
今度は2番乗場から9:40発のバスに乗り…

10:15ごろ「熊谷(駅)」で降りました…ココが暑くて有名な「熊谷」だね、絶対7、8月には来たくないな。
何で東松山熊谷間を列車じゃなく、バスで移動したのか?というと…

ご覧のように直線だと近いのに、列車だと回って行かないといけないんで…バスが便利だよ。

駅前には「熊谷直実」の像があるよ…元は平家に仕えていましたが「石橋山の戦い」を契機として「源頼朝」に臣従し御家人となりますが、後に出家しました。
「熊谷直実」といえば…「一ノ谷の戦い」で波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みます。
…その若武者を馬から落として首を取ろうとすると、ちょうど我が子ぐらいの齢でした。
直実は一瞬この若武者を逃がそうとしましたが、背後に味方の手勢が迫る中「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったのです。
その後、首実検をするとこの公達は「平清盛」の甥「平敦盛」と判明、齢17でした…討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものでした。
これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったといいます。
熊谷駅から10:32発の朝日バスに乗りました…ホントは10:53発のバスに乗る予定だったんだけどさぁ、熊谷に着いたのが10分くらい早くてね。
25分以上待つなら2つ手前で降りなきゃならないけど…早く目的地に着いた方がイイだろうと10:32発のバスに乗ったんだわ。

11:00ごろ「妻沼下町」で下車しました…少し歩いたら「坂田医院旧診療所」がありました。
テレビドラマ「南極大陸」や映画「ゲゲゲの女房」など数多くのドラマや映画のロケ地として使われているそうな。

11:10「妻沼聖天山」に着きました。

コレは「子育地蔵尊」です。

コレは「貴惣門」です。

参道を進むと…

武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠としていた「斎藤実盛」の像があります…右手に筆、左手に鏡を持っているのは、実盛公が老兵と悟られないように髪を墨で黒く染めて出陣したという史実にもとづいています。
武蔵国は、相模国を本拠とする「源義朝」と、上野国に進出してきたその弟「源義賢」という両勢力の緩衝地帯でした。
実盛は初め義朝に従っていましたが、やがて義賢の幕下に伺候するようになり…こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子「源義平」は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。(大蔵合戦)
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻りますが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児「駒王丸」を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けました…この駒王丸こそが後の旭将軍「木曾(源)義仲」です。
保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦しますが、義朝が滅亡した後は関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されます。
そのため、治承4年(1180年)に義朝の子「源頼朝」が挙兵しても平氏方にとどまり、「平維盛」の後見役として頼朝追討に出陣します。
平氏軍は「富士川の戦い」において頼朝に大敗を喫しますが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるといいます。
寿永2年(1183年)再び「平維盛」らと「木曾義仲」追討のため北陸に出陣しますが、加賀国の「篠原の戦い」で敗北…味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将「手塚光盛」によって討ち取られました。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最期こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪を黒く染めていました。
そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分かりませんでしたが、そのことを「樋口兼光」から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認されました。
かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだといいます。

コレは「中門」です…江戸時代初期の災火の際、唯一焼けずに残っていた聖天山最古の建造物です。

コレは「仁王門」です…1658年(万治元年)の創立と伝えられていますが、明治24年台風によって倒壊したので、明治27年に再建されました。

門の左右に配置された仁王(金剛力士)像は、向かって左側が口を結んだ「ウン」形、右側が口を開けた「ア」形です。

コレは「拝殿」ですね。

妻沼聖天山の本殿である「歓喜院聖天堂」は国宝です…拝観料¥700らしいです。(入らず)

写真左は「大師堂」です…弘法大師を祀り、関東88ヶ所霊場第88番結願所・幡羅88ヶ所第13番の札所となっています。

他にも境内には稲荷大明神や鐘楼、

夫婦の木や…

「軍茶利の瀧」がありました。

コレは何だっけ?

コレは「平和の塔」です。

11:30ごろ「妻沼聖天山」を出ました。

沿道の土産屋や食事処です。

11:49「妻沼聖天前」からバスに乗るんだけど、まだ10分くらいあったんで…近くの「大我井神社」に行ってみました。
鳥居をくぐると左右に「門神」があり、「唐門」(写真右)があります。

左手に「富士浅間大神(富士塚)」があり、正面に「拝殿」があります。
社伝によると景行天皇40年「日本武尊」東征のおり、稲置を建てて神の璽に矛楯立てたといわれる霊場であるらしい…と、ココにも「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」来てるの?

②上野国~太田・金山城跡編

ちょっと遅れて来たバスに乗り、12:20ごろ「太田(駅)」に着きました…太田市って群馬県なんだね。

北口側に出ると…「新田義貞」と「脇屋義助」の銅像がありました。

義貞の育った上野国新田荘が現在の群馬県太田市周辺で…「脇屋義助」は弟です。
「新田義貞」は後醍醐天皇の挙兵に応じて生品神社で挙兵し、上野国府、小手指原、分倍河原の合戦に勝利…鎌倉幕府を滅ぼします。
そして後醍醐天皇による新政が始まりますが、論功行賞をめぐって武家の不満がたまり、「足利尊氏」は天皇と袂を分かちます。
しかし義貞は「楠正成」とともに後醍醐天皇に忠節を尽くし、尊氏と戦います…一時は九州まで撃退するものの、勢力を回復した尊氏に追いつめられ、「湊川の戦い」で楠正成は自刃、義貞は京へ敗走し、後醍醐天皇は都から追放され、吉野へ逃れて南朝を開きます。
義貞は後醍醐天皇の再起の希望を担って皇太子「恒良親王」と「尊良親王」を奉じて越前国敦賀へ下向します。
しかし義貞はこの地の戦闘で乗馬もろとも転倒し、泥田に足をとられた兜の目庇の下に矢が刺さり戦死…義貞は最期の気力を振り絞り、自らの首を泥田の中に掻き落としたと云われています、享年38歳。
ココは「新田義貞」の出生地か…さっきから「熊谷直実」や「斎藤実盛」など源平や鎌倉末期の武将がよく登場するなぁ。
これから向かうトコは今回の史跡ハントで最も難所なんだよ…徒歩で片道約4.2Km、後半は山登りだかんね。
駅のロッカーに荷物を預けたいと思ったけど¥400だよ…コレならジュース3本買えちゃうじゃん。
もっと観光客に優しくして欲しいよな…例え¥500でも帰るとき返金されるとかさぁ、だから預けず出発よ。

太田行政センターの前庭に「太田宿本陣跡地」碑がありました。

最初の目的地「大光院」までだって2Kmあんだからね…

12:45ごろ「大光院」に着いたよ…コレは「本堂」と「臥龍の松」です。

コレは「開山堂」です。

コレは「手水舎」と「鐘楼堂(慈愛の鐘)」です。

コレは「吉祥門」です。
「大光院」は慶長18年(1613年)春「徳川家康」によって一族の繁栄と始祖「新田義重」を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた「呑龍上人」が迎えられました。
「呑龍」は当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から“子育て呑龍”と慕われました。
中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機の愛称「呑龍」は同寺院の通称から名づけられたものです。

それから「金龍寺」に行ってみました。

寺伝によると、寺名は新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」にちなんだものです。

「新田義貞公墓入口」だって~

「新田義貞公供養塔」は五輪塔の奥、最上段にあります。

由良氏五輪塔は9基あり「横瀬国繁」から「由良成繁」に至る歴代の金山城主とその一族を弔うために造立されたものと考えられています。

境内の仏像?や地蔵たち。

この石碑には「左中将新田公誠忠碑」と彫られていました。

13:10ごろ「金龍寺」を出て、さらに歩き続けます。

13:20ごろ「史跡金山城跡ガイダンス施設」に着きました…って、すげぇモダンな建物だなぁ。

13:25ごろ…ココから登山スタートです。

途中で寺院に寄ったりしてたけど、もう駅から歩いて来て1時間以上経ってるね。

登山中は何ヶ所か一般道を越えて行きます。

コレは「南木戸残存石垣」です。

この石段を上がると鳥居が見えてきたよ。

コレは「金山の大ケヤキ」です…推定樹齢800年だって。

235.8mの山頂には「新田神社」がありました。

「御嶽神社」と「新田神社」の拝殿です。

「新田神社」は新田義貞公を祀る新田氏ゆかりの神社です。

新田金山城址本丸跡に鎮座しています。

写真右は皇族の方々の「御腰掛石」です…「新田義貞」や「楠正成」は天皇に最後まで忠節を尽くした忠臣ということで、明治以降は特にクローズアップされたみたいです。

コレは「日ノ池」です。

1469年(文明元年)新田一族であった「岩松家純」によって築城され、以降1528年(享禄元年)に「由良成繁・国繁」親子、1584年(天正12年)には北条氏と主は変わりましたが「上杉謙信」の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされています。

石垣改修の露出展示です。

1590年(天正18年)「豊臣秀吉」の小田原征伐の際、攻撃を受けて落城…こののち廃城となりました。

南曲輪には中島飛行機の創設者である「中島知久平」の胸像が建てられています…中島知久平は横須賀海軍工廠造兵部員として飛行機開発を担当していましたが、国産機開発にあたって官営ではなく民営の航空機メーカーが必須と思料、その信念により海軍軍人としての道を辞して出生地に設立したのが中島飛行機です。

100名城とか、それ以外を含めてもけっこう攻略難易度の高い城(跡)だわ…駅から交通手段が無くて遠い、せめて駅の観光案内所にレンタサイクル置いてくれよ…

この休憩所に日本100名城のスタンプがあるよ…ちなみに17番です。
それから同じルートを下り、14:20ごろ「史跡金山城跡ガイダンス施設」に戻って来たんで…約1時間で登下山したんだね。

はぁ…またこれから駅まで歩くのかぁ、帰りは左側の一本奥の道を歩いてみたよ。

太田市のマンホールです。

コレは太田駅傍にある「太田市美術館・図書館」です。
当初は15:38「太田」発の東武伊勢崎線に乗る予定だったけど、15:00くらいに駅に着いてたんで15:21発に乗れました。
さて次は栃木県足利市に行きますが…文字数の制限により、次頁に続きます。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« JR東日本・駅からハイキン... | トップ | GW史跡ハント~下野国 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本武尊・源平・戦国史跡めぐり」カテゴリの最新記事