以前当ブログで、僕は今回の対コロナワクチンを接種しないと言った。
その理由を簡単に書いておきたい。
僕はワクチン否定派ではない。社会的には有効であると考えている。どういう意味かというと、結果的に助かる人が多いということである。しかしながら、自然に反する行為であるから、何か問題が生じるだろう。それは人間には気づかないということもあるに違いない。
ワクチンへの期待が高まっているが、同時に問題があることも指摘されている。それは目に見える、つまり人間が気づく程度の問題である。ここで問題点を指摘することは、控えておこう。
僕がワクチン接種を行わない理由は、政治哲学的というか道徳哲学的な判断からである。詳細説明は面倒なので、トロッコ問題として、ワクチンの政治(道徳)を取り出していこう。
トロッコ問題に関しては、何度か取り上げたことがるが、とりあえず
https://ja.wikipedia.org/wiki/トロッコ問題
を貼っておこう。
ある状況で、ある人物が行動をとれば、5人助けることができる。レバーを右にしたわけだ。あるいは1人だけ助けることができる。こちらはレバーは左にしたわけだ。
ある人物は、そのどちらかを選択しなければならない状況になっている。さて、ある人物はどちらを助ける行動をとるべきかという問題である。つまり、右か左か?
さて、そこで今回のワクチンの場合、どのような図式になるだろう。
ワクチンがない場合、当然コロナに感染、さらに死亡もある。ここで仮に1万人死亡としておこう。これはトロッコ問題におけるレバーを右にしたようなものだ。
ワクチンがある場合、コロナでの被害は少なくなると考えられる。そこでワクチン接種である。しかしながら、ワクチン接種しても被害は出る。その数は大きく減少するとされている。
さらにワクチンの副作用で被害が生じるし、死者も出る。実際ワクチンで死亡事例が報告されている。ここで仮に100人死亡としておこう。これはレバーを左にしたようなものだ。
ワクチン接種するかしないかという問題は、接種しなければ1万死亡。接種すれば100人死亡。われわれは、人類はこのどちらを選ぶのかという問題の前に立たされているのである。
その意味で、ワクチンはトロッコ問題になっている。
そこでワクチンは社会的に意味があると言う時、それは「全人口−死亡者数」つまり生き残れる人の数が多いと言う意味である。だから、ここで1万人対100人との想定をしてきたので、100人の方を選ぶわけである。
多くの人が助かるが、少数の被害はしょうがないということなので、人々の日常的実感にかなり一致する。通常功利主義で、最大多数の最大幸福である。社会はそれを選んでいることになる。
しかしながら、どうしても僕はこのような考えをできないのだ。