オルテガが大衆の典型として、専門人をあげている。
専門人。。。学者、官僚、医者、知識人。。。そんな感じだろうか。そういう人間は大衆と一緒で、付和雷同の生き方をしてる。それだけではない。専門に閉じているにも関わらず、総合的知にも長けていると勘違いする。それだけ、タチが悪い。学校の成績がいい、それだけのこと。
専門人が大衆と同じ性格であると喝破したのはオルテガであったが、日本ではこのような考えを強調したのは、西部邁であったと思う。保守論客の大家であった。西部自身、専攻した経済学が専門に閉じていることから、経済学自体を対象にして経済学批判を行った。そこには彼なりの人間論社会論、国家論がにじみ出ている。
もし医者であれば総合的知を志し、医療批判という視点が少なからず生じる。官僚なら当然、官僚システムへの批判的視点を持ち、システムの改善を試みるのは当然であろう。しかし、そうはなっていないようだ。
そもそもニーチェが同様のことを言っていたと記憶している。愚かさというのは、もっとも日常的なことに無知であったり、些細なことから目を逸らすこと、そんなことを言っていたと記憶している。この愚かさこそ、地上の禍である。
反対側からいえば、日常的なこと、些細なことではなくて、なんだか社会的に重要であると観念化されること、つまり理念的な思考/志向が一人歩きしていることが禍の元である。
ソクラテスは言う。「良いことも悪いことも、家の中で起こることである」。うちの妻がなんで怒っているのかを感知する繊細な心こそ、人間が生きるために必要な力なのである。西部はどう考えたのだろうかとも頭をよぎる。
とはいえ、社会システムが膨大化複雑化しているために、家の中にまで侵食しているようにも思う。生活や暮らしをシステムに奪われてはいけない、そんなことを思うのだが。