大天后宮から道路を隔てて赤嵌樓があります。オランダ人が築いた普羅民遮(プロビンシャ)城の跡で、基礎部分には当時の煉瓦積みが残っています。
鄭氏政権時代以降は紅毛樓と呼ばれ、武器庫として再利用され、清代後期には楼閣が整備されて文教の中心になりました。植民地時代は陸軍病院、学校、歴史館などに利用され、光復後は史跡として整備されました。
建物の周囲には市内各所から石碑が集められ、碑林の一つとして整備が進んでいます。石碑のなかに軍工廠(兵器工場)を刻んだものがあります。乾隆42(1777)年のものですが、下方に造船所や軍港の様子が描かれている大変貴重なものです。
【本のハンターの皆さんへ】赤嵌樓の販売所は台南の文化歴史の文献がけっこう揃っています。
鄭氏政権時代以降は紅毛樓と呼ばれ、武器庫として再利用され、清代後期には楼閣が整備されて文教の中心になりました。植民地時代は陸軍病院、学校、歴史館などに利用され、光復後は史跡として整備されました。
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