台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

南港媽祖5

2008-05-05 | 媽祖と研究
富南宮では聖誕日前日の農暦22日

つまり4月27日(日)午後に媽祖巡行があるようです

南港媽祖3

2008-05-05 | 媽祖と研究
ここは周辺にあった神廟を統合したようで

いろいろな神様 神仙 仏様が住んでいらっしゃいます

まるで「神さま団地」


媽祖聖誕節

2008-05-05 | 媽祖と研究
旧暦(農暦)3月23日は媽祖の誕生日

今年は4月28日にあたります

天上聖母と崇められ信仰の盛んな台湾

この日の前後 各地で盛大な催しがあります

厨房和盥洗室

2008-05-05 | 媽祖と研究
キッチンは簡単なもの

最初から付いているのは2ドア冷蔵庫と湯沸しポットのみ

コンロやレンジはなかったので
入居翌日 ネット通販で遠赤外線クッキングヒーターを購入

鍋は家樂福(カルフール)の特売品

日本人には何と言っても バスタブがあるのがうれしい!

靈濟殿的王船是很精緻

2005-04-02 | 媽祖と研究
靈濟殿には王船もありました。これは王爺船ともいい、瘟神、疫神など悪しきモノを船に載せて送り出すという民間信仰の祭祀に使用されるものです。

本来は海に流したり浜で燃やしたりするのですが、廟などに保管されて信仰の対象になっているものもります。ここの王船は長さ3メートルくらいでですが、たいへん精巧につくられていました。

船尾に近くには小さな堂がつくられていてなかには、媽祖がまつられていました。

安平靈濟殿是魚民的神【台南調査記14】

2005-03-30 | 媽祖と研究
安平の靈濟殿は、旧北極殿・水仙宮・慈濟宮・仙史宮の神像が合祀されたもので、この地区に住む漁民たちの信仰を集めています。向かって右側に安置されている旧仙史宮の伍府恩主公には、次のような伝承が…

鄭氏政権末期の1679年、船や筏で出漁中の約200名の漁民が暴風で遭難しましたが、突然遠くでまたたき出した灯光を頼りに漕ぎ進み、澎湖諸島望安島の海岸にたどり着き半数が助かりました。

岸の上に仙史宮があったので、灯光を発してくれたのはここの伍府恩主公と考えた漁民たちは、香火を分けてもらって帰り、安平にも同じ仙史宮を建立して伍府恩主公を祀った、いうことです。

今は台南運河に面している廟の前には、色とりどりの旗が高層マンション群をバックに、海からの強い風にはためいていました。

安平古堡碑的昔顔【台南調査記13】

2005-03-20 | 媽祖と研究
日本統治時代の安平のエピソードをもう一つ。観光の目玉でもある安平古堡(オランダ時代のゼーランディア城址)に立つ安平古堡の四字が刻まれた石碑。

これはもともと1930年に総督府開催の「台湾文化三百年」祝賀行事の一環として建立された「贈従五位濱田彌兵衛武勇之趾」記念碑でした。

これは大員での日本船の貿易にオランダが規制や課税を強化したため、1626年に彌兵衛たちが商館員を人質にした事件のことです。

それにしても「日本人の武勇を海外に示した」として彌兵衛(の子孫)は、位階までもらっていたのですね。

悲情歴史在安平天后宮【台南調査記12】

2005-03-20 | 媽祖と研究
左は安平の旧天后宮跡地、現在の石門國小の一角です。17世紀当時の大員島の東端、中国人街の海岸沿いにありました。

1895年、日本軍安平入城の際に抵抗した清軍黒旗兵55人が、天后宮内で殺害され、廟後に大穴を掘って埋められました。神聖な場所が血に染まったので、信徒も遠ざかり荒廃していったといいます。

その後、安平公学校が建てられ、天后宮はいったん廃絶しました。太平洋戦争後の1962年に現在地に再興されたのは《台湾媽祖史5》に書いた通りです。

その新しい天后宮の事務室でお祭りの時の写真が展示されていました。画面右は祭開始の際に安平の海岸で、福建省の湄州島に向かって事(総代)が祈っている場面です。

海侠子孫是皆好漢【台南調査記11】

2005-03-19 | 媽祖と研究
好美里太聖宮の前に整列しているのは、村の長老(真ん中)廟の総代(右)廟の管理人(左)と調査団一行です。管理人さんに日本から来たことを告げると、わざわざ二人を呼んでくれました。

現在も篤く信仰されている媽祖像の調査はなかなか難しいのですが、ここでは神壇の前に入れてくれただけでなく、特別に「衙門媽」の神服をめくり上げての撮影を許可してもらいました。多謝!

この辺りの内陸は唐山人(漢人)の入植が早くから進んだ所でしたが、魍港はオランダ人が来る前から、中国系海上勢力の顔思齊や鄭芝龍(成功の父)が、台湾沿岸の拠点にしたといわれいます。

管理人さんが若い頃まで好美里は陸地との路は無く、船筏で往復していたそうです。管理人さんは自分たちの祖先は顔思齊らと一緒に活躍した海賊だといっていました。

明代魍港在紅樹林江中【台南調査記10】

2005-03-19 | 媽祖と研究
台南市から養魚池を貫いて走る臨海工業道路を車で飛ばすこと1時間、八掌溪の河口に到着。八掌溪は嘉義縣と台南縣を分ける大河で、嘗てこの河口部は大きなラグーンでした。このラグーンが明代の魍港と考えられています。

堤防からは紅樹(マングローブ)が生息する自然保護区が見えます。かつての内海はマングローブの樹海が広がっていたそうです。その意味では、東南アジア島嶼部の港市と環境がよく似ています。

この内海の中に青峰と呼ばれた島(砂堆)がありました。ここだけが濃い緑のガシュマル(榕樹)に覆われていたからです。オランダ人の砲台や清代の海防所がここに置かれました。良い水も出たようで紅毛井という古井もあったそうです。

そしてそこにあった「衙門媽」(魍港媽)を現在、祀っているのが太聖宮です。

海安宮和【台南調査記9】

2005-03-14 | 媽祖と研究
金華路という大通りから斜めの路次をしばらくいくと穃樹(ガシュマル)のゲートの向こうに海安宮が見えます。林爽文らの蜂起を鎮圧した福康安ににって1788年に創建されました。前回、紹介した風神廟のすぐ西側(海側)に出来た港の新しいランドマークです。

鹿耳門の旧天后宮が1871年の洪水に遭った時(《台湾媽祖史4》)、救出された神像が約50年間、ここに仮安置されていました。ここも1945年3月の台南空襲で破壊され、戦後再建されます。

正殿の左右に2つの井戸があります。何時の頃からか円形のものを日井、半円形のものを月井、合わせて日月雙井と呼ばれるようになりました。旧暦端午節の午時にこの井戸から汲んだ水は疫病を防ぐと、古くから伝えられているそうです。

風神廟和接迎亭【台南調査記8】

2005-03-11 | 媽祖と研究
右の絵図は、1776~79年に台灣府の長官をつとめた蒋元樞が、在任中に新建・修復した所を描かせた「重修臺郡各建築圖説」。場面は台南港で官吏が上陸する地点に建てられた石坊(石の門)と隣接する風神廟です。

大天后宮から西に500mほど行った街中に、この2つは現存していました。大天后宮の創建時期には、その前に海岸があったのですから、100年間でこんなに陸化が進んだことになります。

蒋元樞の修造事業は台灣住民へ重税を強いることになり、それも引き金となってこの後、林爽文たちの大蜂起が置きます。これを鎮圧した福康安が、風神廟の西に新しい媽祖を祀る海安宮を創建したことは《台灣媽祖史9・10》で述べました。

実は風神廟から海安宮へ行こうとした時、すぐ近くのはずなのに路が入り組んでいてたどり着けませんでした。と、いうことで再挑戦のため明日から2日間、また台南に行ってきます。