演劇人 RAKUYU

https://blog.goo.ne.jp/matumotokouji

国民文化祭2021

2020年04月21日 | 日記
新型コロナウイルスで心中穏やかでないときですが、少しでも明るいニュースをと思い・・・

令和のことば

2019年11月23日 | 日記
11月23日(土)
有間皇子ことはじめ展

「万葉集から紐解く」というイベントで全国万葉幹事馬場吉久先生
をお招きしての講演。
冒頭に令和の生まれた言葉を紹介。

梅花の歌三十二首 序をあわせたり
天平二年正月十三日、師老の宅にあつまり、宴会を申ぶ。
時に、初春の月、気うるわしく、風らぐ。


宮子姫物語

2019年06月01日 | 日記
>原作:「道成寺」栗原省氏の大作をどのようにすれば今後の劇団活動に生かせられるのか?今後につなげられるのか?ということをいろいろな上演プランを想定してチャレンジします。

小説「有田川」

2019年05月05日 | 日記
流暢な紀州弁の心地よさが読者を物語の世界へ誘う。有田みかん作りに人生をかけた女性の物語。2020年3月1日~ 紀文ホールにて演劇「有田川」公演(詳細未定)  「有田川」出演者オーデイション6月16日(日)受付13:00~開始13:30~5月31日締め切り。 7月6日スタッフキャスト顔合わせ 問い合わせ有田市民会館自主事業実行委員会、TEL,0737-82-2626  FAX0737-82-2655     

ブンナよ、木からおりてこい

2018年08月29日 | 日記
劇団RAKUYU第13回公演
好評のうち、無事終演することができました。

移民の父、工野儀兵衛2

2018年08月10日 | 日記

1888年9月5日、カナダ、ビクトリア
に上陸。開拓の進んでいないバンクーバーから
鮭漁業の基地スティブストンに到着。
儀兵衛は松林を切り開き、家を建てた。
その頃はちょうど鮭漁のシーズンで、
フレーザー河を折り重なるようにして
上る鮭の大群を見て、その模様を故郷に急報した。
「フレーザー河ノ夏期ノ鮭漁期ニ至レバ
魚族ノ群集ハ海面ヲ圧シ未ダ嘗テ
我ガ国ニ漁業者ノ見ザル後継ナリ。」
と後の文章に書き記している。
また、鮭漁に従事するカナダ人たちも
少数で、鮭缶詰会社も小規模だが
将来有望であるとして、弟、親族、友人
を呼び寄せた。
翌年になって、村人を次々と呼び寄せた。
人々は「つれもていこらい。」とばかり
儀兵衛を頼ってカナダにわたり、
やがて数百名にも達した。1892年、
スティブストンに家屋を構え、増加する
三尾村からの渡航者の便宜を図るた
め、食料品の販売兼下宿屋
(ポーディングハウス)を始めた。
しかし、異国の地で渡航者たちの世話
や仕事に没頭している間に、妻たつは
帰ってこない
儀兵衛を待つことができなかったのか、
二人の子供を残して、有田郡の農家へ
再婚して行った。

移民の父、工野儀兵衛2

2018年07月21日 | 日記
1888年9月、カナダ・ビクトリアに
上陸。開拓の進んでいないバンクー
バーから鮭漁業の基地スティブスト
ンに到着。儀兵衛は松林を切り開き、
家を建てた。その頃はちょうど鮭漁
のシーズンで、フレーザー河を折り
重なるようにしてのぼる鮭の大群を
観て、その模様を故郷に急報した。

「フレーザー河ノ夏期ノ鮭漁期ニ至
レバ魚族ノ群集ハ海面ヲ圧シ未ダモ
ッテ我国ニ漁業者ノ見ザル光景ナリ」
とのちの文章に書き記している。

また、鮭漁に従事するカナダ人たち
も少数で鮭缶詰会社も小規模だが将
来有望であるとして、弟、親類、友
人を呼び寄せた。
翌年には村人たちを次々と呼び寄せ
た。人々は「つれもていこらい」と
ばかり儀兵衛を頼ってカナダにわた
り、やがて週百名にも達した。1892
年、増加する三尾村からの渡航者の
便を図るため、食料品の販売兼下宿
屋(ボーディングハウス)を始めた。
しかし・・・

『道成寺』 ~宮子と道成ものがたり~

2018年06月17日 | 日記
 
道成寺建立にまつわる歴史物語2006,2007年公演

移民の父:工野儀兵衛1

2018年06月03日 | 日記
1854年5月23日、父喜市、母ユキの長男として生まれた。
14歳の時、龍王神社の社殿建築を請け負った京都の宮大工
に弟子入りした。そして19歳の春、父の病気のため、三尾浦に
帰り、棟梁として働くこととなった。やがて比井崎村小浦の親類
より妻たつをむかえ、二男一女をもうける。
明治16年、三尾浦に初めて堤防を造るという計画があり、
儀兵衛は入札に参加したが、工費で話がまとまらず、防波堤は
昭和初期まで実現しなかった。
彼は、防波堤を造り、よい漁港をもつことによって漁港の振興や
新しい産業となつ養殖場を創ろうと考えていた。
1886年、防波堤の話がまとまらず悩んでいたとき、横浜に住む
従兄から「カナダは漁業や農業でも有望だから一緒にいかない
か?」との手紙が届いた。
ひとまず、横浜に行こうと決心し、家族に知られぬように家を出
て、横浜に向かった。
懐には2銭銅貨2枚であった。
横浜では芳野勘蔵の家で居候をしながら、大工として働く.カナダ
航路の船員から現地の状況を聞き取り、将来が有望であることを
確かめた。郷里に帰り、弟や友人を誘ったが誰一人として一緒に
行くことを希望する者はなく、単身渡航を決心する。
1888年8月、アビシニア号にて横浜港を出帆した。
船賃代わりに船員食堂のコックやボイラーマンとして働いた。
途中暴風雨にあうも、大工の技術を生かして、船の修理もしていた。

アメリカ村

2018年02月16日 | 日記

 和歌山県日高郡美浜町の三尾をアメリカ村と呼ぶようになったのは大正初期からである。カナダ移民の母村として発展した三尾村は、過去の寒村から裕福な村へと変わっていった。カナダからの送金によって、大正末期から昭和初期にかけて住居の改装や増改築が行われ、村は一変した。生活、服装も洋装化し、英語交じりの言葉が使われるなど、大正・昭和初期の漁村にはない独特の村が出現したのである。お寺や神社にはドルによる寄進札もかかっている。

南方熊楠Ⅺ

2017年11月17日 | 日記
「神社合祀令」(じんじゃごうしれい)とは?:

1906年、西園寺公望内閣の原敬内相のもとで出された通達事項。厳格に実行はされなかったが、平田東助内相の頃には激しさを増した。趣旨は、由緒や財産もなく、神職不在で祭祀が行われていない神社を由緒ある神社に統合し,敬神の念を高めるようにという内容である。
全国の神社は、1871年、太政官布告で、官社、府県社郷社、村社、無格社に格付けされていたが、合祀の対象となったのは小さな村社や無格社であった。

合祀に応じない神社は、必ず神職をおき、村社は年120円以上、無格社は年60円以上の報酬を支給のこと。また、基本財産積立法を設け、尊社は500円以上、無格社は200円以上の現金を有し、貯蓄させるものとする。法制化された。合祀は地方官吏の裁量にまかされ、全国でも三重県と和歌山県が特に厳しく実施された。
神社の故事来歴を無視した手あたり次第ともいえる合祀であった。合祀に反対する氏子たちが500円積めば、1000円、1000円を積めば2000円へと引き上げ強引に合祀を進めた。
伐採した木材が金儲けの対象になり、巨樹木の多い神社は逆に狙われ、神職と官吏とが癒着して私腹を肥やすという悪弊が生まれたのである。


熊楠は、3年に及ぶ、那智勝浦での粘菌調査を終え、田辺に腰を落ち着けた。中学時代の友人喜多幅武三郎達がいたからである。今回は、父の友人多屋家で借家住まいを始めた。
しばらくして、熊楠にも身を固める時がやってきた。
統計神社宮司の四女、田村松枝との結婚である。1906年、暑い盛りの結婚式であった。
長男熊弥が誕生すると、熊楠も落ち着きを見せ、田辺の町で研究に没頭していくかに見えた。
ところが余の中は複雑である。この先10年間も熊楠をわずらわせることになる一つの通達が、時の政府から出されたのであった。「神社合祀令」である。

神社を取り巻く自然林は、何千年、何百年と人の手が入っていない生物の宝庫でる。そして、神社林こそが、熊楠の粘菌の採集地だった。研究領域を荒らされ、熊楠は怒った。
和歌山県内3700社から600社に激減した。合祀の嵐であった。1909年、熊楠は地元紙「牟婁新報」に意見寄稿し、反対運動に取り組むようになった。
地元国会議員に資料を送り、参議院で質問がなされた。1911年、柳田国男に協力を要請る。のち「南方2書」として反響を呼んだ。

1918年貴族院神社合祀廃止が議決され、合祀は収束に向かった。だがこの2年間に7万社の自然林が姿を消した。熊楠が反対した理由は研究の領域を奪われた以上の怒りであった。
子供が生まれると詣で、神社を中心に生業を営み、人々は祭りを心待ちにしていた。地域の歴史を記憶する場所であった。その神社をつぶすことは人々の融和を妨げ、庶民の慰安を奪い、人情を薄くし治安を悪化させ、美しい天然風景を奪う。熊楠は、1郷1村衰微させ、1国を衰退させていくと警告し続けたのである。
当時、熊楠はエコロジーという言葉を使っている。

「ところでエコロジーと申し、この草木の相互関係を研究する特殊専門の学問さえ、いできたりおることに御座候。」
熊楠は環境問題のパイオニアでもあった。

南方熊楠Ⅹ

2017年08月14日 | 日記

熊楠が研究したのは真正粘菌である。
細胞性粘菌と共に胞子を作り、アメーバの時代をもつ。
異なるのは、細胞性粘菌のアメーバは「一つの細胞に
一つの核をもつ」のに対し、真正粘菌のアメーバは
「一つの細胞に数え切れないほどの核をもつ」という点
である。粘菌の役割は解明されていないが、粘菌の食
べ物に着目することで働きが推測される。
生態系の中で落ち葉をバクテリアやカビが分解して、
有機物から無機物になり、植物はこの無機物を栄養分
として、根から取り入れ成長する。
バクテリアが増え過ぎると問題が起こる。分解の速度
が速まり、雨が降ると無機物が全部流れてしまう。土
壌は肥えず、森は衰弱する。そこでバクテリアを主食
をする粘菌が登場し、食べることによってバクテリア
の大量発生を抑え分解の速度をコントロールすると
考えられる。


私たちは自然の摂理を考えず、環境破壊をすることを
避けねばならない。


英国から帰国後、和歌山南部の熊野や田辺周辺で粘菌
研究が行われた。新種を含む200種近くの粘菌を発
見し、目録を発表する。大正末期には皇太子であった
昭和天皇に標本を献上している。
熊楠は粘菌について述べている。
『粘菌類の原形体は非常に大にして・・虫眼鏡で生き
たまま、その種々の生態変化を視察できる。ゆえに
生物繁殖、遺伝などに関する研究を至細にせんと
ならば、粘菌の原形体についてするが第一手近しと
愚考す』と述べている。
単細胞である粘菌は原生生物界に分類されているが、
胞子を作る点などで「はみだしもの」である。
この植物とも動物ともつかない「中間生物」の研究
は熊楠にとって楽しくて仕方のないものであった。
『無尽無究の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を
顕微鏡一台買うて一生見て楽しみところ尽きず。』
と述べている。短時間で生と死のサイクルを繰り返す
粘菌の中に、曼荼羅の世界を見ていたのかもしれない。
しかし、生態について何もわかっていなかった。
熊楠は粘菌学のパイオニアであった。
1917年、8月24日和歌山県田辺市の自宅の柿の
木で発見された「ミナカテルラ・ロンギフィラ」は
ロンドンの自然史博物館に保管されている。

南方熊楠Ⅸ

2017年04月28日 | 日記

曼荼羅とは?:「本質を有するもの」という意味のサンスクリット語からき
た名称。「胎蔵界」と「金剛界」の曼荼羅を指す。
「胎蔵界曼荼羅」は12の囲いの部分から成り立ち、そこに414尊の
諸仏や諸菩薩が描かれている。中心に大日如来が座し、まわりの4仏
4菩薩画を通じて慈悲の心が四方八方に伝わっていく様を図示されている。
大日如来が宇宙をあまねくてらし、仏の世界を人間の世界に向かっ
て開いて示した理の曼荼羅とみなされる。
「金剛界曼荼羅」は金剛頂教という経典に基づいており、全体が九
等分して描かれている。九等分された一番右下の部分から渦巻き状
に進んで行って、中心に到達する構図になっている。これは人間の
心が進歩向上していく段階を図している。人間が行を重ね仏の世界
に入っていく方向を示した智の曼荼羅とみなされている。


大英博物館に通い、孫文らと友情を温めた熊楠は1900年10月、
14年ぶりに帰国した。両親はすでに亡くなり、何の学位を持た
ない熊楠への親類の目は冷たいものであった。熊楠は翌年、追い
出されるように和歌山市から那智勝浦へ移る。
その那智山麓で、熊楠の学問は飛躍的に高まるのである。
那智山は神域であり、照葉樹林の原生林はそのままである。採集
から戻った熊楠の足を洗ったという湧き水が今も流れている。
この静かな環境の中で研究に集中し、学問的水準をあげていった
のであろう。「南方の曼荼羅」が生まれる。のちの真言宗高野派
管長になる土宣法竜である。二人が知り合ったのは、熊楠がロン
ドン時代。1893年10月にシカゴで行われた万国宗教大会に
参加したのち訪英した彼を紹介された。
翌春、彼が帰国するまで、二人の書簡がロンドンパリ間を何往復
もした。熊楠が帰国したのちも続いていた。
「南方曼荼羅」を書いたのが1903年。宇宙を構成している
そのものである。立体図で前後左右上下、どの方向からでも筋道
が透けて見えるようになっている。その筋道の数は無数にあり、
どの筋道からでも宇宙の真理に到達できるようになっている。
熊楠はその中で最も重要なポイントを萃点と呼ぶ。「南方曼荼羅」
は熊楠の宇宙観、世界観を示した図といわれる。熊楠の親が真言宗
の信者であり、幼いころより仏教説話を聞いて育っっている。その
ため真言宗の教えが染みついている。その土台の上、19世紀末、
ロンドンの時代背景が重要となる。
当時、英国ビクトリア朝の黄金期で、欧州の人文科学自然科学が
開花した時代であった。そのころキリスト教と比較して仏教論が
盛んに登場していた。彼はイギリスの自然科学の方法論と人文
社会科学をよく勉強し自分の仏教思想とヨーロッパの描いた仏教
論を心の中で検証し、格闘させた。その結果、「南方曼荼羅」が
生まれた。「仏教は因縁である。」という。
イギリスでは自然科学の目標に因縁律を発見することであった。
因縁律とは一つの原因があれば一つの結果が生じる。一対一の対応
関係には必然がある。
それが因縁律である。当時の欧州の自然科学で因は解き明かすこと
ができても縁というものが解明不可能であった。
「偶然の出会い」が縁である。彼は偶然性を必然性とともにとらえ
なければ、物事の変化の状況はわからないのではないかと考えた。
それが「南方曼荼羅」である。
直線と曲線があり、直線は必然性を意味する。
ところが、この直線の中に、他の直線とであっても、そのまま直線で
あり続けるものと、出会うことで曲がることもある。その出会いが
偶然性なのだという。
多くの線が出会うところが「萃点」である。ここをおさえると
「いろいろの理を見い出すに易くしてはやい。」
ポイントなのだという。
萃とは集まるを意味し、萃点とは集まる場所である。



南方熊楠Ⅷ

2017年01月01日 | 日記

1897年30歳 孫文と会う。
         孫文カナダ経由で日本へ。
1898年31歳 博物館で女性を注意し、博物館を追われる。
1899年32歳 「ネーチャー」30周年記念号に特別寄稿家
         として名前を記される。
1900年33歳 熊楠、帰国の途に。
1901年34歳 英ビクトリア女王死去。
         孫文、和歌山の熊楠を訪ねる。
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 8年間に及んだ熊楠のロンドン時代。貴重な1ページが
孫文との出会いであった。
1897年3月、二人は大英博物館の東洋図書部長R.ダクラス
の部屋で初めて顔をあわせた。
1896年秋、アメリカから渡英してきた孫文は、前年、中国
広州での武装蜂起に失敗し、海外に逃れていたが、渡英後、ほど
なく駐英清国公使館に拘禁されてしまう。本国へ送還されれば、
命を失うことになるのはほぼ確実だったが、清国公使館の使用人
がロンドン在住の孫文の恩師カントリー牧師に知らせたことから
解決にむかった。政府や新部員に知らされたことで公になり、
孫文は監禁10日あまりで釈放された。
孫文はその後、大英博物館にたびたび訪れ、ダグラスが熊楠を
引き合わせたのだった。初対面の時、孫文は熊楠に問いかけて
いる。「ミナカタ、君の一生の所期は?」
「できることなら、我々東洋人は一度、西洋人をことごとく
国境外へ追放したいものだ。」と答えると「、、、」英国に
助けられた孫文としてはダグラスの面前でうなずくこともでき
ない。さすがの孫文も返事に窮してしまった。
であって、3日後には「午後6時孫文とともに、、、食す。
それよりハイドパークにて話し、バスに乗り、その宅に行き、
10時まで話し帰る。」それから孫文がロンドンを離れるまで
約3か月館、毎週のように顔を合わせた。
孫文は別れ際に自筆でこう書き残した。「海外逢知音」
知音とは「心の底から理解しあえる友」を意味する言葉である。
何が二人をそこまでひきつけあったのか?
無類の酒好きであった熊楠に対し、孫文は酒を飲まない。
方や学問一筋で、一方は革命家、一見対照的に見える二人だが
共通項もあった。
ダーウィンの進化論を愛読していたそんぶんは医者であり、
理数的知識を身に着けている。熊楠の博識に驚きながらも、
言葉の意味を理解しただろう。
「革命は99回失敗しても、最後に成功すればいい。」
と語った孫文の革命への情熱と覚悟は熊楠を吸い寄せるのに
十分なものであったに違いない。
二人はこんな約束もしていた。「ミナカタ、革命が成功したら、
わたしのふるさと広州にある羅浮山を天下の植物園にしよう。」
海外生活10年、学位も取らず、独学を続ける熊楠と
武装蜂起に失敗してひとり海外ですごす孫文。
夢に向かう情熱と希望を失わない明るさが二人を強く結び続けて
いたのだろう。孫文と熊楠の別れは1897年6月30日だった。
熊楠は孫文の家を訪ねて、別れを告げた。
大英博物館のダグラス東洋図書部長に、孫文の言葉を伝えたのち、
その足で、ハイドパークにやってきた。演説者たちは全く違う
テーマで声を張り上げていた。議論はつかみかからんばかりに
白熱していた。乱闘にまでなった演説を体験し、下宿に戻ると
日付が変わっていたという。
孫文を見送るのはつらい。だから、ハイドパークの喧騒の中に
身を置いたのではなかろうか。熊楠はこの日を境に
スピーカーズコーナーに頻繁に行くようになった。
和歌山で熊楠と再会したのち、孫文は熊楠に手紙を送っている。
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君が欧米に遊学すること20年ならんとし,,,
その哲学理学の情ふかなるは、西洋諸国の専門名家といえども
常に驚倒をなす、、、君は明利にこころなく、志を額に苦しめ、
独立し、ひとり行くこと10余年1日の如し、
(1925年、「革命はいまだ成功せず。」言葉を残し北京で客死す。)






南方熊楠VII

2016年09月18日 | 日記

1892年渡英 (25歳)
1893年英科学誌ネイチャーに論文を投稿、掲載される。
1894年日清戦争(27歳)
1895年大英博物館図書館閲覧室の利用許可を得る。
     「ロンドン抜書」作成。
1896年(29歳)母、すみ死去。
熊楠30歳。大英博物館で猛烈な独学を続けていた熊楠だった。が、それもやがて終わりを迎える。閲覧室への入室許可を得て、3年目の1897年11月。熊楠は白人男性を激しく殴った。理由があった。「愛人は何人いる。」「日本人は猫を食べるのか。」そんな言動を続けていた英国人青年に我慢を重ねていた熊楠の怒りが爆発したのである。 いったんは博物館に戻ることを許されたが、翌年、女性を大声で注意したことで紛糾し、ついに博物館を追放されてしまう。故郷からの送金は途絶え、14年に及んだ海外での生活を終えて、帰国するのは1900年9月、33歳の秋であった。
学半ばで、英国を去った熊楠だが、ロンドンで得た数々の友情は生涯の財産となった。そのうちの一人に、ロンドン大学事務総長、フレデリック・ディキンズがいる。ディキンズは英国海軍の軍医として幕末の日本に滞在、英国公使のもとで働いた経歴を持つ。「百人一首」を英訳するなど、日本への造詣が深い。2人は1896年にディキンズから手紙をもらったことで知り合い、2年後、初めて顔を合わせた。
書簡「履歴書」にこう書いてある。『この人、小生がたびたび「ネーチャー」に投稿して東洋のために気を吐くを奇なりとし、一日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔…』だがその前にひと悶着あった。ロンドン大学の事務総長室、ディキンズが自身の英訳「竹取物語」を熊楠に見せた。熊楠は「貴人たちがかぐや姫と交互に交際しようとした。」とある部分を読んで、ひっかかった。「これはいかん。悪く読めば、かぐや姫が男たちと毎晩寝たように誤解され、日本人の倫理観が疑われる。書き直してくれ。」苦心の訳を批判され、ディキンズは激怒した。熊楠を追い返すと、すぐに手紙を送り返してきた。「近頃の日本人、無礼なり。老人への礼の仕方も知らんか!」ここで引き下がる熊楠ではない。手紙を読み終えると、その足でディキンズの部屋へ押しかけた。「日本人の礼は、国の不面目をねつ造する外国人の老人のためにあるのではない。ほかの日本人は外国人に腰を曲げるのが上手かもしらんが、わしはちがう。」ディキンズも立派だった。  熊楠を認め、これを機に、いっきに親交を深めるのである。金銭面で援助し、殴打事件でも博物館への復帰のための骨を折った。二人の友情は生涯続き、のちにディキンズは結婚祝いに床掘熊楠の妻、松枝にダイヤの指輪を送っている。
のちに、デイキンズの孫がそっと熊楠のことを述べている。「祖父は短気で一番印象にのこっているよ。気が強かった祖父だから、ミナカタとぶつかったのでしょう。熊楠は祖父をすごく困らせた人・・・」
ロンドンの熊楠はどんなところに住んでいたのでしょう。8年間で4度住まいを変えている。1893年から約5年間。一番長く住んだ下宿の場所は市街地西部ケンジントン地区プライスフィールド・ストリート15という番地の3階建ての家があった。熊楠の言葉を借りれば、「馬部屋の2階のような、部屋に住んでいた。」という。かつて、その部屋を訪ねた友人の新聞記者は「大阪毎日新聞」にこんな記事を寄稿している。「その汚いことといったら、他に比べるものがないほどである。へこんだ寝台に破れたイス、便器のそばには食器が陣取り・・・感心であったのは、書籍と植物の標本とはほとんど一室をうずめていた。」
晩年、熊楠は『もう一度、ロンドンで勉強したい。』と語っていたという。