アリサカスクール ~マッサ・カンタービレ~ 東京都目黒・新潟県上越教室(声楽・ピアノ・イタリア語・英語)

有坂まさよし テノール歌手です。
東京都と新潟県でアリサカスクール(声楽、ピアノ、イタリア語)を経営しています。

良い人材を育成するために!!

2016-12-30 23:27:44 | アリサカスクール・ありさかピアノ教室
私は、私の生徒さんが正しい・良い意見を言ったときは大いに褒めています。また、反対に間違った・悪い意見を言ったときには助言を与え、正しい考えを持てるように導こうとしています。そのようにして、教室運営を行っています。
ある日、小さな生徒さんが非常に正しい意見を言ったので、大変素晴らしいと褒めました。その生徒さんは大いに喜びました。ただその時、その生徒さんが気になることを言ったのです。幼稚園で同じことを言ったら、幼稚園の先生に叱られたのいうのです。私は気になったので、その時の様子を聞いたのです。簡単にまとめると、ある生徒さんが怠けていて様々なことがしっかりできなかったので、それを私の生徒さんは正しい意見で注意したというのです。それを幼稚園の先生に叱られたというのです。私はなんて愚かな教師なのか愕然としました。私はその現場にいたわけではないので、私の感じたことがすべてだとは思いませんが、私の生徒さんの話を聞くかぎりでは奇妙な話だなと感じたのです。
私は、正しい意見を述べたのに注意されてしまうようなことが続いては、本当の意味で弁論やディベートなどができる人材が育たなくなってしまうと感じています。なぜなら、正しい意見を述べるためには、その意見を述べる本人がしっかりと学修をし、論理的な思考力で意見を形成し、的確な意見の述べ方を考えていくのです。また、本当の弁論やディベートなどは事実や真実に基づいて、自分の意見を構築して行っていくものです。もし正しい・良い意見を述べたのに注意され続けるような状況が続けば、おそらくその人物は学修もせず、論理的に熟考することをやめ、支離滅裂な意見を述べるようになるでしょう。つまり、学識のない怠け者を育成してしまうのです。それに、本当の平等も学ぶことができないでしょう。私は本当の平等とは正当な差が生じることだと考えています。例えば、大変努力をし、優れた知識と教養を身につけて、一生懸命仕事をする人と何も努力もせず、知識も教養もなく、仕事も一生懸命しない人が同じ賃金だったら不平等と感じると思います。この例は賢い人物・物事をきちんとできる人・正しい行いのできる人などを注意もしくは罵倒し、賢くない人物・物事をきちんとできない人・正しい行いのできない人などを庇い、もしくは称賛することと同じことなのです。
人の行いに対して的確で正しい判断をするという行為は教師の質を向上させることにもなるのです。なぜなら教師は正しい意見・行いを判断をするためには、様々な知識・教養・徳を身につける必要があるからです。つまり、良い人材を育成するためには、教師の質の向上と正当な判断が存在する環境が重要だと考えます。
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アリサカミュージックスクール・ミニプレッシャー会!!

2016-12-28 13:28:25 | アリサカスクール・ありさかピアノ教室
今日はアリサカミュージックスクール(ありさかピアノ教室)で生徒さんのミニプレッシャー会を開催しました。
私ども教室では年に数回、何人かの生徒さんが集まりお互いに普段のレッスンの成果を楽しく発表し合うミニプレッシャー会をしています。
今回は、小さな生徒さんたちのミニプレッシャー会です。

先生・生徒さんの記念撮影です。




さあ、ミニプレッシャー会の始まりです。

ダイナミックにしっかりとしたタッチで弾いていますね。


洗練されたタッチでレガートにピアノを奏でています。男の子の生徒さんも思わず拍手です。


上手に練習した成果を発揮しています。2人の生徒さんも感心して聞いています。

先生と一緒に



先生と競い合います。


先生と息を合わせてピアノを奏でます。

音符カルタで日頃から覚えている音楽用語の競争をします。



よ~く、見て。


先生との勝負に勝ちました。


やったね




男の子の生徒さんも負けじと、奮闘しています。




しっかりと先生の言葉を聞いています。


混戦です。


おっと、すぐ近くにあった。




完璧な勝利です。


みんな、しっかりと日頃のレッスンの成果が発表できたね。
Siete Bravi
それでは、次回のミニプレッシャー会で
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ワンポイント・イタリア語レッスン59!!

2016-12-24 22:43:09 | イタリア語
初級イタリア語レッスンを始めます。

【ミニ・会話6:直接補語】
…続き…

- Naturalmente. Lui mi prega di portare una mia amica. Allora, vengo a prenderti con la macchina alle undici e mezzo di mattina.
(ナトゥラルメンテ ルイ ミ プレーガ ディ ポルターレ ウナ ミーア アミーカ アッローラ ヴェンゴ ア ポルタールティ コン ラ マッキーナ アッレ ウンディーチ エ メッツォ ディ マッティーナ)
当然だよ。 彼は私に友だちを連れてきてと頼んでいたんだ。それじゃ、午前10時半に車で君を迎えに行くよ。

- D'accordo. Ti aspetto a casa mia.
(ダッコルド ティ アスペット ア カーザ ミーア)
分かったよ。君を私の家で待つよ。

≪ミニ文法≫
補語人称代名詞の間接補語(~に)について解説します。これにも強勢形という形があります。
a me(ア メ:私に) / a te(ア テ:君に) / a lui(ア ルイ:彼に) / a lei(ア レイ:彼女に) / a noi(ア ノイ:私たちに) / a voi(ア ヴォイ:君たちに、あなた方) / a loro(ア ローロ:彼らに、彼女らに)



A me piace quella città.(ア ピアーチェ クエスタ チッタ:私はあの都市が好きです。)

Sua madre telefona a lui ogni sera?(スア マードレ テレーホナ ア 彼の母は彼に毎晩、電話をするのですか。)

[ミニ単語]
naturalmente(もちろん、当然)/ pregare(プレガーレ:お願いする)

〚ミニ復習1〛
次の日本語をイタリア語にしてみてください。
1 あなたはどこ出身ですか - 私はローマ出身です。

2 君はどこ出身? - 私はロンドン出身だよ。

3 君たちは出身ですか? - 私たちは神奈川出身です。

4 この少女はどこ出身ですか? - 彼女はミラノ出身です。
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学問を生かす。

2016-12-21 23:03:58 | イタリア語
時々、学問の根本を日常に生かすためにはどうしたらよいのかと考えることがあります。おそらく、「学校で勉強したりする数学・理科・歴史など、様々な教科は世の中に出てから役には立たない」と思っている方もいると思います。確かに学問の根本を知らなくてはそういう風に考えてしまうかもしれないのです。また、例えば、「英語の通訳者になるのであれば、英語の勉強は役に立つとか、数学者になるには数学の勉強が必要だとか、科学者になるためには理科の勉強が不可欠だ」と考えて、学校の勉強は世の中に出てから一部の人たちに役立っていると考える人もいると思います。確かにこの考え方も正しい考え方の1つだと思います。
それでは身近なところで学問の根本を考えていきたいと思います。例えば、今大学受験をしようとしたときに受験する大学の受験科目を調べます。受験科目の必修科目が英語・国語(配点それぞれ200点)、選択科目が数学・理科・社会(配点それぞれ100点)だとします。そして、数学が得意科目で、英語と国語はそれほど得意ではないとします。心理的には自分の得意科目で点数をたくさん取りたいと考えます。しかし、それではこの人の場合は高得点を狙えない可能性があります。例えば、得意な科目を中心に得点を取りにいき、数学を100点、英語100点、国語100点となったとしましょう、そうすると合計300点です。しかし、ここであまり得意でない英語を中心に得点を取りにいったら、数学100点、英語180点、国語100点となったとしましょう、そうすると合計380点となります。この後者のほうが学問の根本を生かしきれていると考えられます。それでは、もう少し身近なところで考えます。例えば、生活をしている上では、支払わなくてはいけないお金と支払わなくてもいいお金というものが発生すると思います。もし支払わなくてもいいお金、例えば自分の趣味のお金を優先的に生活の中で費やしてしまったら、支払わなくてはいけないお金を支払えなくなり、生活がしていけません。これは学問の根本を生かしてはいないということです。
学問の根本は、情報収集をし(新しい知識を得る)、世の中の状況と自分の置かれている状況などを考え、得た情報の取捨選択をして、自分の活動に生かしていくことにあるのです。上記で上げた大学受験の例は、自分が数学が得意であっても、まず大学側が求めているのは語学能力の高い人物であるということ、そして、配点も語学のほうが高いのであれば、そちらを優先的に得点できるようにすれば、大学側求めている人物にも当てはまるし、自分も望んだ大学に通えるということです。また、必修科目はどんなことがあっても避けられない科目です。それに数学はどんなに頑張っても100点より高い点数が取れません。つまり、やらなくてはいけないことはしっかりやって、その上で自分のやりたいことをするということです。これは次に例に挙げたお金の話でも同じだと考えられます。
また、学校は非常にいい練習の場になるのと考えます。なぜなら、英語・国語・数学・社会・理科以外にも音楽・美術・体育・技術・家庭科・保健など様々な情報があり、その中で学問の根本を生かし、自分の活動に生かせるからです。世の中に出れば、情報は学校のように無条件で与えられることはないと感じています。なぜなら、世の中で一番高価なものは情報だからです。「情報が一番高価???」と思った方がおられるかもしれませんが、情報なくして何も行動はできせん。何か活動するきっかけになるものは情報です。情報収集はとても苦労が伴うものです。日本という国は情報を得ようとすれば安易に手にはいる国です。そういうのに慣れてしまうと学問の根本も忘れてしまいがちになってしまいます。
このように考えると学問の根本を生かして様々な分野を探索・探求してみたくなるのでないのでしょうか…
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小さな巨匠!!

2016-12-19 17:47:38 | アリサカスクール・ありさかピアノ教室
先週の土曜日にいつも元気にアリサカミュージックスクールにピアノ・レッスンに通ってくれている生徒さんのミニ・リサイタルを開催しました。お父さんとお母さんを招待しました。


リサイタルの開演を英語で知らせます。


おっと、カメラ目線だね。


小さな巨匠の演奏が始まります。ダイナミックな素晴らしい演奏です。


今度は繊細にピアノを奏でます。


さあ、お母さんと一緒に小さな巨匠の演奏が続きます。息をぴったり合わせて


お父さんのビデオカメラに気づいたね。


ピアノの先生になって、お父さんにピアノを教えます。お父さんは先生の言葉に耳を傾けています。


さあ、小さな先生と一緒にお父さんも真剣にピアノを弾いています。


ピアノを上手に教えたね。Bravo Pianista


今度は音楽の先生になり、音楽用語について解説をしていきます。


お父さんが小さな音楽の先生の質問に答えます。素晴らしい


Bravo Maestro

将来は優れた音楽家・音楽の教師だね。
未来が楽しみな生徒さんです。これからもピアノを一緒に楽しもう。
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姉妹そろってピアノのレッスン!!

2016-12-18 22:43:25 | アリサカスクール・ありさかピアノ教室
今日は、先日のファミリーコンサートでも素晴らしい演奏をしてくれた姉妹がアリサカミュージックスクールにピアノのレッスンに来てくれました。


さあ、妹からピアノのレッスンを開始です。


今、ベートーヴェンの「エリーゼのために」を挑戦し、練習をしています。その間お姉さんはベートーヴェンの伝記を読んで、ベートーヴェンの世界に浸っています。


真剣に、楽譜に忠実に演奏していきます。


ペダルも上手に踏んで、作品の世界を十分に表現していきます。


次はお姉さんのピアノ・レッスンです。


しっとりと作品の世界観を表現していきます。


エレガントに、聴衆を意識して、ピアノを奏でます。


ピアノの音色に耳を傾けながら、1つ1つ丁寧に表現をしていきます。


姉妹で楽しくピアノ演奏です。


2人ともピアノ・レッスンがうまくいったね。




楽しい楽しい音符カルタで音楽用語の勉強です。2人でどれくらいできるか競争です。
意外と難しいですね。

これからも2人ともピアノのレッスンを楽しく、快活にしていこうね。
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ワンポイント・イタリア語レッスン58!!

2016-12-15 17:19:16 | イタリア語
久しぶりの初級イタリア語レッスンです。それでは始めましょう!!

【ミニ会話6:直接補語】
…続き…

- Se non sei impengata, puoi venire anche tu con me da lui?
(セ ノン セイ インペニャータ プオイ ヴェニーレ アンケ トゥ コン メ ダ ルイ)
 もし君が時間があるなら、君も私と一緒に彼のところに行きますか?

- Che bello!! Ma posso accompagnarti veramente?
(ケ ベッロ マ ポッソ アッコンパニャールティ ヴェラメンテ)
 素晴らしい!!しかし、私が本当に君と一緒に行っていいのですか?

…続く…

≪ミニ文法≫
補語人称代名詞の間接補語(~に)について解説します。
mi(私に) / ti(君に) / gli(リ:彼に) / le(彼女に、あなたに<敬称>) / ci(私たちに) / vi(君たちに、あなたたちに<敬称>) / gli(リ:彼らに、彼女らに)


Dottore, Le piace questo ufficio?(ドットーレ、レ ピアーチェ クエスト ウフィッチョ:先生、あなたはこの事務所が好きですか?)

Ragazzi, quando volete, vi racconto il mio sogno misterioso.(ラガッツィ クアンド ヴォレーテ ヴィ ラッコント イル ミーオ ソーニョ ミステリオーゾ:みんな、君たちが望むとき、私は君たちに私の不思議な夢を語ろう。)

※gliの発音に関して、カタカナで「リ」と表記をしましたが、日本語の「リ」という発音ではなく、正しくはリの発音を潰したように発音します。

[ミニ単語]
impegnato(インペニャート:忙しい)/accompagnare(同行する)/veramente(本当に)

それではまた次回、ciao ciao
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イタリアの響き!!

2016-12-13 19:18:29 | 音楽
私は、イタリアの声楽作品を演奏するときは、常にイタリアの響き、つまりイタリアの空気・雰囲気・思いなどを伝えようと努力しています。なぜなら、イタリアの響きというのは、日本のどこにも存在しないし、イタリアで勉強された方々でも(音大の教授でさえも)、それを実現できている方は数少ないからです。また、声楽を勉強した・している方々でもイタリアの響きを見分けらる人も少ないでしょう。なぜなら、イタリアの響きはまわりに存在していないからです。
それでは、イタリアの響きは日本人で実現できるのか、それはある条件が揃えば近似値にできると思います。イタリア人と同じいうことは不可能です。なぜなら、日本人はイタリア人ではないからです。そして、条件をクリアするときには、うわべだけの近似値を求めるのはやめなければなりません。
うわべの近似値というのは、発音の美しいイタリア人のイタリア語の発音の真似、イタリア人の所作の真似、イタリア人の食生活だけを実践する(日本食を全く食べない)など外面的なことだけを自分に取り入れて行うことです。この外面的なことを取り入れるのも重要な事なのですが、これだけでは本当の意味のイタリアの響きにはちかづかないと私は感じています。
本当の意味でイタリアの響きの近似値にするためには、先ほど述べたように外面的なことを徹底することも必要と考えます。例えば、日本で培ったものを一旦考えないようにし、まるで声楽を学び始めたばかりのような新しい気持ちで、イタリアの発声法を身につけるためのイタリアのメソッドをしたり、多くの歴代のイタリア人作曲家の作品や練習曲をきちんとしたイタリア音名で行ったりするなどが必要と思います。
そして、日本人の本来持っている感性とアイデンティティーを介して、イタリア人の感性・アイデンティティーにふれ、それらを手に入れることも必要です。例えば、「Ti amo(私は君を愛している)」というイタリア語の歌詞があります。これを本当にイタリア人が感じているように表現できるのか、それはイタリアという地で先祖代々から脈々と受け継がれ、血となり肉となっている感性からくる心情を心の底から湧き出るように表現できるのかということです。もし自分の経験則だけに頼り切ってしまえば(イタリア人と恋に落ちたとしても)、おそらく日本人には不可能にちかいのです。もしそのような感性・感情を知りたければ、まずは私たち、日本人が人に対して「私は君を愛している」と言葉で発するとき、どのような感情や感性に包まれるのか、日本という大地で育まれ、日本人の先祖代々から受け継がれる感性が体の芯からどのように込み上げてくるのかを知ることが重要だと感じます。
音楽家であるならば、それが古来から現代までどのような音楽の響きで奏でているのかを音楽で学ぶことが肝要です。そうして、自分の中に凛とした音楽の感性の筒のようなものを築きます。それと同時にイタリア人がどのような音楽の響きでこの感性や感情などを音楽で表現しているかを知り、違い・共通点を見出し、共通点はこの音楽の感性の筒に素直に取り込み、違いは自分が納得のいくまでその音楽を演奏して取り込んでいくのです。日本人の音楽感性を知ることがイタリア人の音楽感性を知ることに繋がるのです。その結果、イタリアの響きの近似値が得られるのです。また、和楽器をしっかりと演奏できることも必要でしょう。
さらに、イタリア人にも受け入れらえ、なおかつ日本人にしかできない音楽感性の響きも実現でき、イタリア人の物まねから脱却できると思います。そしてイタリアの音楽が借り物ではなく日本人のものになると感じています。
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言語学的な見地から2…!!

2016-12-12 18:47:40 | イタリア語
私はイタリア語という語学についても研究しているので、普段使う母国語(日本語)にも常に注意を払うように心掛けていますと前回も書きましたが、いつも日本語は難しいと感じています。なぜなら、時代とともに同じ言い回し、表現、単語などの意味が変わってしまい、それがすぐに採用されてしまうからです。採用のスピードやその変化の広がりは、非常に速いように感じます。
その日本語の変化とは、例えば「全然分からない」のように、「全然」は否定的な意味の語を伴って用いるのが主流だったはずです。しかし、今は肯定的な意味の語を伴って用いています。このように、全く正反対の使い方で使ったり、以前は敬意をこめて使っていた表現が逆に人を軽視する意味の表現と変貌したり、その逆で尊敬の表現ではなかったものがそのような意味を持ったりと目まぐるしい変化をしています。本当に日本語は難しいものだと思います。それに変化した言葉は嫌いですね。なぜなら本来の言語学的な美しさが失われたように感じるからです。また正直イタリア語のほうが簡単だと思います。
イタリア語というのは、それが言語としてしっかりと体系的に整理されてから100年あまりしか経っていません。そして、文法のルールや言い回しや表現は現在のスタンダードなイタリア語では時代とともに変化はあまりしていないのです。もちろんイタリア語も外部の言語の影響を受けたり、社会状況の影響を受けたりして変化はしました。また、日本語のように目まぐるしく、今も変化し続けているような言語ではありません。よって昔はこうだっだのに今は違うのかということに直面することはあまりないと考えられます。つまりお年寄りの世代と話していてイタリア語が違う、もしくは若い世代と話していてイタリア語が違うということが起きにくいのです。日本語はかなりあるように感じています。
それにイタリア語の場合、その人達の生活している状況や生業としているもので使うイタリア語のレベルが違い、ただみんなが目標とするイタリア語は最も高度なイタリア語を目指しているので日本語みたいなことは生じないのかもしれません。
イタリア語のレベルが違うというのは、まずイタリア語にははっきりとした書き言葉と話し言葉があり、単純に言ってしまえばレベルの高いイタリア語とは書き言葉のことで、知識人や文化人や階級の高い人たちが話すとき、書くときなどに使う言葉です。このような人たち以外は一般的に話し言葉だけで十分なのです。文法の観点から考えても大きな違いがあります。高級なイタリア語とは接続法や前過去などを含むスタンダードなイタリア語の文法すべてを使用するイタリア語です。話し言葉のレベルは半過去までのイタリア語なのです。それになぜ高級なイタリア語を目指すかというと、まず日常生活では高級なイタリア語を知らなければ、ちゃんとした新聞は読めません。そして、使用するイタリア語によってその人の学識のレベルも判断されるのです。また、おそらく昔の名残りでしょう。昔は書き言葉をそのまま日常生活に取り入れていたのは上流階級(貴族以上)の人たちでした。つまり憧れもあると思います。
様々な要因があり、イタリア語は絶対に譲れない部分は変化せずに存在しているのだと思います。やはり日本語よりはイタリア語のほうが容易いように感じますね。
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言語学的な見地から…!!

2016-12-10 18:50:34 | イタリア語
私はイタリア語という語学についても研究しているので、普段使う母国語(日本語)にも常に注意を払うように心掛けています。それで、日本語の中で嫌いな言い回しがあります。それは「私は(誰に)~してやった、私は(誰に)~してあげた」という言い回しです。
この言い回しは人に対して失礼極まりなく、失敬な人物であります。なぜなら、この世の中は、それぞれの人がそれぞれの立場でしっかりと活動し、お互いに助け合って生活をしています。この言い回しはそれらを無視して自分だけの立場が他の人よりも上で、自分だけが偉く、自分だけが世の中に役立っていると考えている表れであると、私は考えます。また、常に必要以上の人から見返りを期待し、求めているのです。
人のために何かをするときは、始めにその人の役に立ちたいと思って行います。その真摯な姿勢が人に感銘を与えてます。そして、学識のある人であれば、その人の真摯な行動・言動に自然とそれ相応の行いで答えてくれるのです。
それに、自分がその人に役に立っていると思っても、相手からすれば有難迷惑なこともありますし、役に立ったといってもその人にどれ程の度合いで役に立ったかなど自分では知ることはできません。つまり、この言い回しを使う人物は高慢で傲慢でエゴイズムな人物であります。また、本当に人のために役立つことをしたことがない人物ともいえるような気がします。なぜなら、このような人物のまわりには、知識と教養を兼ね備えた良識のある人々はいないだろうし、人の助言も分からないような学習能力のない人物と考えられるからです。
様々な人の立場や自分の立場などを理解できていない学識のない人物であり、高等で高級な知識と教養のない人物でもあります。
この言い回し「私は(誰に)~してやった、私は(誰に)~してあげた」を使っている人は無知、無能、無学で、つまり粗野な表現をしてしまえば「大馬鹿者」ということです。
言語を研究している者として、言葉は言霊ということを肝に銘じたいですね。
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