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ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

人生の贈り物~他に望むものはない~

2009年05月17日 | マミム・メモ

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 17日の朝、目覚めて何気なく枕もとのラジオにスイッチを入れると、岩崎宏美さんがアナウンサーの問いに応えて、この曲との出会いを紹介しているところでした。やがて流れてきた岩崎さんの落ち着いた深みのある歌声に触れたとき、鳥肌が立つほどの感動を覚えました。私は、68歳になってもまだ、心ときめき、人生に迷い、人を憎み、諍い、傷けて生きています。でも、今は、そんな自分を、若い日より、はるかに、ゆとりをもって見つめ、愛おしいと感じることができます。
 この歌は、さだまさしさんが、韓国の歌手楊姫銀(ヤンヒウン)さんの詩を訳して曲をつけたもので、この歌にほれ込んだ岩崎さんがさださんに頼みこんで歌わせてもらったのだそうです。Dear Friends IVに収録されていますが、2004年に、さださん自身のシングも出ていて、ダ・カーポのアルバムにも収録されています。私は下記からダウンロードしました。
http://morawin.jp/package/80312272/TECI-1232/

Dear FriendsIV

インペリアルレコード

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人生の贈り物~他に望むものはない~
作詞:楊姫銀  訳詞・作曲:さだまさし  唄:岩崎宏美  

季節の花が これほど美しいことに
歳を取るまで 少しも気づかなかった

美しく老いてゆくことが どれほどに
難しいかということさえ 気づかなかった

もしももう一度だけ若さを くれると言われても
おそらく私は そっと断るだろう

若き日のときめきや 迷いをもう一度
繰り返すなんて それはもう望むものではない

それが 人生の秘密
それが 人生の贈り物

季節の花や人の 生命の短さに
歳を取るまで 少しも気づかなかった

人は憎み諍(いさか)い そして傷つけて
いつか許し 愛し合う日が来るだろう

そして言葉も要らない友に なってゆくのだろう
迷った分だけ 深く慈しみ

並んで座って 沈む夕日を一緒に眺めてくれる
友がいれば 他に望むものはない

それが 人生の秘密
それが 人生の贈り物

季節の花が これほど美しいことに
歳を取るまで 少しも気づかなかった

私の人生の花が 散ってしまう頃
やっと花は 私の心に咲いた

並んで座って 沈む夕日を一緒に眺めてくれる
友がいれば 他になにも望むものはない

他になにも 望むものはない
他になにも 望むものはない

それが 人生の秘密
それが 人生の贈り物

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新緑の書写山(姫路)2009/05/03

2009年05月04日 | マミム・メモ

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楞厳寺(りょうごんじ)のミツバツツジ in 綾部市 2009/4/19

2009年04月21日 | マミム・メモ

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京都府綾部市にある塩岳山楞厳寺は、高野山真言宗の寺院で、四季のカラスを描いた襖絵があることからカラス寺として知られる。関西花の寺二十五カ所霊場の第2でもあり、この時期は、寺の正面の池の向こうの大師山に咲き乱れるミツバツツジがなんとも美しい。花をめでた後は本格的な蕎麦料理を出す「そばの花」で昼食をとって、綾部温泉まで足を伸ばして、ひと風呂浴びるのも楽しみである。

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専門職に求められるコミュニケーション能力をめぐって

2009年04月01日 | マミム・メモ

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 今日41日、多くの企業で入社式が行われた。今年度の採用をめぐっては、内定企業から自宅待機や関連会社への転籍、内定辞退などを迫られるケースが問題になったが、329日付朝日新聞朝刊には、10年春の新卒採用計画に関して主要企業100社を対象に行った調査結果が掲載されていた。採用を減らす企業が増えるなか、採用にあたって重視する点として「コミュニケーション能力」を挙げる企業が最多の74社にのぼり、「行動力」(51社)、「人柄」(32社)、「熱意」(31社)が続く。その一方で「マナー」「語学力」「成績」を選んだ企業はなく、「学生時代の活動」(9社)も少数派だったという。採用試験に面接やグループ討論を取り入れる企業も多く、記事は、「与えられたテーマについての考え方を知るだけではなく、討論の中で現れる他者とのかかわり方を通じ、コミュニケーション能力を見極めようという姿勢がうかがえる」としている。

 阪神淡路大震災を契機として1997年から新しくなった学校図書館の運営に携わるスタッフを数年にわたって公募した際に、私が選考基準の最優先においたのも「コミュニケーション能力」だった。司書や情報リテラシーの指導者として「自分のやりたいこと、やっていること、やったことを具体的に示す」ことを求めた。だが、それだけでは期待に応える仕事をしてもらえるかどうかを見極めるのに十分とはいえない。応募書類と面接から読み取ろうとしたのは「専門職としての自覚と志の高さ」である。応募者とことばを交わしながら「この人は専門的な知識や技能を実際の行動に結びつけることができるだろうか」と自分に問うてみた。念頭にあったのは、半田智久氏がその著書知能環境論 頭脳を超えて知の泉へNTT出版、1956)で「熱い知」と呼んでいるものである。それは、「感性」、「夢を描く力」(想像力)、「知の欲動」(実践に駆り立てる力)、「意志」で構成されているというのだが、それらを総合的に判断するのはたやすいことではない。それでも面接を重ねるうちに、時折、何かドンと胸を打つものを感じることがあった。押しつけがましさやあからさまな自己主張ではない。専門的な知識と技能に裏付けられた自信と謙虚さが胸を打ったといえばいいだろうか。「自分は、この人から学ぶものがある」と感じる。この人なら、スタッフ同士や他の教職員あるいは学校外の人たちと対等に交渉や連携を行い、チームで何かに取り組むときにも、自らの専門性や個人的な特性が求められる場合には必要に応じていつでもリーダーシップが取れるにちがいない。援助職に徹しながらリーダーシップを取れるということは、子どもに対しても、ただ彼らのニーズや要求に応えるだけでなく、時機を逃さない積極的な介入によって成長と発達を促進する役割を担えるだろう。それは、これからの教育者(親、教師、周りの大人たち)に求められる能力でもある。

 専門職の採用にあたって自分の専門外である図書館に関する知識と技能を直接的に問うことはなかった。だが、職員は、それぞれの立場で専門的な職務を確実にこなしながら、互いの立場を超えて対等に議論や協働を行う中で積極的に学び、それぞれの能力を飛躍的に向上させていった。それによって、学校図書館がこれまでとは見違えるほど活性化し、学校の教育活動のインフラとして定着してきたことはいうまでもない。

 このささやかな経験を振り返ってみても、冒頭に挙げた主要企業の採用基準は、まったく頷けるものである。

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ポーランドから届いた嬉しい便り

2009年03月02日 | マミム・メモ

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 今朝、メールをチェックしていたら、ポーランドで日本語教師をしている友人から「ブログを開設しました」という知らせが届いていた。「アントーノフカ」の挿画で紹介したあの人である。あのスケッチが実はロシアではなくポーランドで描かれたものであることをバラしてしまって少し後ろめたい気もするが、おそらく作品の雰囲気をよく醸しだしていることから訳者が気に入ったのだろう。

 まずは、東欧の風景と暮らしを徒然につづったという、この「おてんばあさん」のブログをのぞいてみてください。

「おてんばあさんのスケッチメール」

 スケッチばかりでなく、文章も魅力的だ。自分に求めてもかなわない感性の持ち主なのでそう感じるのかもしれない。これからは、いつでもこのサイトを訪れて精神の平衡を取り戻すことができる。そう思うと、なんだか幸せな気分だ。

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ドストエフスキーと中学生

2009年02月16日 | マミム・メモ

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 人気の本の著者が各地の学校を訪問して子どもたちにじかに語りかける読書推進プロジェクト「オーサー・ビジット」を進めている朝日新聞の216日付朝刊に、関西学院中学部で図書部の生徒を対象に行われた亀山郁夫さんの授業が紹介されている。亀山さんは、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキーに関する著作でよく知られている方だが、そのメッセージは、中学生にどのように受けとめられるのだろうか。
 亀山さんは、14歳の時に『罪と罰』を読んで、自分が殺人を犯したかのような強い衝撃を受けたが、いまの中学生には、それほどの衝撃はないだろう、という。当時は、情報が足りないぶん、想像が感受性を育んだが、いまは、既視感(いつか、どこかで体験したことがあるような感覚)に満ちていて、「驚く」という体験が減っている。また、ニュースで殺人事件を知っても、だれも犯人と友達になりたいとは思わないのに、『罪と罰』の読者のほとんどが、罪を犯した主人公を応援したくなるのはなぜか。亀山さんの問いかけに中学生たちは黙りこんでしまう。亀山さんは、『罪と罰』には、「善か悪か」に二分しがたい、人間の心の奥底が描かれていると説明する。
 意見や質問は少なかったそうだ。中学生が、『罪と罰』で提起されているような重い課題をつきつけられて、即座にすらすらと意見を言えるほうが、むしろ不自然かもしれない。紋切り型の応答よりも、想像を膨らませ、思考を深めるための沈黙を大切にしたい。亀山さんが中学性の心に播いた種が、芽を出し、育つまでには、どれくらいの時間がかかるだろう。いつまでたっても芽が出ないかもしれないし、人生の終盤になって、はじめて実を結ぶということだってあるかもしれない。いまの中学生に必要なのは、未知にたいして開かれた心をもち、既成の枠組みで整理できないものも受け入れて、自らの課題としてもちつづけることではないか。複雑な問題を考え抜く知的忍耐。(リチャード・ポールのクリティカルシンキング)は、公正な思考を行うために求められる資質の一つでもある 

 ちなみに、関西学院中学部の教諭日記には、今回の亀山郁夫さんによるオーサー・ビジットに結びつくドストエフスキーに関する記述がある。

 ところで、亀山さんによるドストエフスキーの翻訳や論考は現代社会においてどんな意味をもつのであろうか。半世紀前に、ドストエフスキーの芸術的特徴を「ポリフォニー」(「対話」)、「カーニバル」(「広場」)といったキーワードで読み解いたミハイル・バフチンが注目を集めていることとも無縁ではないだろう。

ドストエフスキー―謎とちから (文春新書)
亀山 郁夫
文藝春秋

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ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
ミハイル・バフチン,望月 哲男,鈴木 淳一,Mikhail Mikhailovich Bakhtin
筑摩書房

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諸行無常、それは生きる力の源

2009年01月18日 | マミム・メモ

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 117日の夜明け前、神戸の街は、深い祈りに包まれていました。それは、14年前に起きた阪神淡路大震災で犠牲になられた方々の霊を慰めるとともに、今後またいつ起きるともかぎらない災害に備えて2度と同じような被害を出さないという私たちの決意を新たにし、生き残った一人一人が自分自身の生き方を見直すための祈りでもありました。

 震災の日の朝、我が家の建物には被害がありましたが家族の身は無事だったこともあって、私は、職場に向かうべく、546分の地震発生から1時間後にミニバイクで家を飛び出しました。いたるところで寸断され、余震に揺れる道路を、山際へ海岸へと大きく迂回しながら、自宅のある神戸市の西端から東の端を越えて4時間近くかかって職場のある芦屋市まで駆け抜けました。その途中で目に映った神戸の街は、一瞬にして50年前へとタイムスリップしてしまったかのようでした。それは、終戦直前の大阪大空襲で焦土と化した(当時住んでいた)尼崎の町と重なって、その後に続く戦後の記憶をも包み込んだ「懐かしい」光景でした。その光景が私の人生の原点だといってもいいでしょう。私の心を覆っていたのは、あの時と同じ、どうにもやりきれないこの世の無常であり儚さでした。しかし、それがこの世のありようそのものであり、その現実を受け入れることによって、新たに生きる力が湧き出してくるということを、私は幸いにも50年のうちに多少なりとも学んでいました。事実、震災直後の混乱から復興にいたるまでの何年かは、私の人生でもっとも精神的な高揚感をもって仕事ができた期間でもありました。破壊は痛みと犠牲をともない耐えがたいことではあるけれども、それは同時に創造の原動力にもなりうるという事実に望みを託すほかないでしょう。

 1995117日は、私が学校図書館に本格的にかかわるようになる契機となった日でもあります。それまでも何らかの関心を持っていたし、1年前には図書課長の職にもつきました。しかし、今から思えば、確たるビジョンもなく、批判こそすれ本気で学校図書館をつくりかえようという気持ちがあったわけではありません。以下に、震災を経験したあとの私と学校図書館とのかかわりについて、これまで私がブログにつづった文章を挙げておきます。

 

◆ 生きている限り
◆ 災害と図書館

◆ シンポジウム「災害復興に役立つ情報活動とは」
◆ つながりを活かす学校図書館(震災復興を契機として学校図書館の再生をめざす)
◆ 1.17 阪神淡路大震災を契機として学校図書館をどう再生したか

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幸せに生きるには

2009年01月17日 | マミム・メモ

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 昨年末に亡くなったジャーナリスト筑紫哲也さんがその活動を通して私たちに伝えたかったことは何か。『スローライフ―緩急自在のすすめ』(岩波新書1010)には、その遺志とでもいうべきものが端的に語られている。

スローライフ―緩急自在のすすめ (岩波新書)
筑紫 哲也
岩波書店

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 岩波書店の読書雑誌『図書』の連載をまとめたもので、話題は、衣食住、自然環境、政治経済、教育など多岐にわたる。筑紫さんは、このような日常生活における様々な分野における私たちの性急な営為にたいして常に「それで幸せになれるか」という問いを投げかけ、スローライフを提唱する。スローライフとは、ただ遅いということでなく「ゆっくり、ゆったり、(心)ゆたかに」生きることだという。それは、ひとつの価値観にとらわれず、緩急のペースを自分で選び取って融通無碍に生きることでもある。このようなライフスタイルにたいしては「一方で、都会の一部恵まれた人たちだけが享受できる流行にすぎない」という批判もある。だが、健康や環境について考えて行動することが、たとえ自分ひとりの都合や家族の繁栄を優先させることであっても、その一方で世の中の全体や人類とそれを取り巻く動植物が平衡を維持して生存し続ける地球環境にも目を向けていくことはできるはずだ。筑紫さんは、取材や講演などの旅を通して日本各地で起こっているスローライフの動きを見聞し、そこから次のようなルールを導きだしている。
(1)自発性こそがすべての出発点であり、命である。
(2)ゆるやかな結びつきを組織原理とする。
(3)「小さいことはよいことだ」(少数派であることを誇りにする。)
(4)水平型、ネットワーク型の結びつきを目指す。
(5)「正当性」に固執しない。
(6)寛容とゆとりをもつ。
(7)「快」「楽」を最優先にする。
 こうして、自分で考えて行動する多様な個人が共に生きる社会が形成されていくことが、私たちが幸せに生きるための条件であり、スローライフの目指すものといえるだろう。

「ああおもしろかった」と臨終の際にどこまでいえるかが、限りある生の勝ち負けを決めるものさしだと私自身は思っている。(p.202)

 ジャーナリストとして卓越した行動力と観察眼をもち、多彩な交友関係や人脈を通して、様々な分野に興味と関心をもって生き、発言をしてきた筑紫さんは、きっと思い通りの臨終を迎えられたにちがいない。

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弓削牧場ライブ、ふたたび

2008年10月12日 | マミム・メモ

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 久しぶりに地元神戸で珠玉の乳製品を作り出している弓削牧場の話題です。牧場長の弓削忠雄さんとその奥さんや娘さんたちご家族と直接触れ合うことのできる牧場の製品で私がとくに気に入っているのは、生チーズ「フロマージュ・フレ」と、それを使ったシフォンケーキ。牧場内のレストラン・ヤルゴイで食べるハーブたっぷり使ったチーズのフルコースもお勧めです。先日もフランスで数多くの三ツ星レストランを経営するアラン・デュカス氏が訪れてこのフルコースを食され、10月3日に西梅田のブリーゼブリーゼ33で開店したビストロ“ル・コントワール・ド・ブノワ”のためにハーブやチーズなどの食材を求めていかれたそうです。(牧場長のブログ

 弓削氏は、1983年にチーズの生産を始めて以来、消費者との交流を通して新しい食文化の創造や食と農の在り方について考えてこられましたが、今年の5月にNPO法人「都市型農業を考える会」の設立に向けて動き出されました。私たちの生活の根幹をじっくりと考え直そうとされている氏の試みにエールを送りたいと思います。

 その弓削牧場で、昨夜(11日夕)はシタールの演奏会がありました。午後6時すぎに着くと、牧場はもう日が暮れていて、会場のレストラン・ヤルゴイの輪郭が、外に配置されたロウソクや松明と内側からの明かりで浮かびあがっていました。当初、演奏は屋外で行われる予定でしたが、急激な冷え込みのために急きょ屋内に変更されたのでした。中に入ると、すでに50人ほどの人が集まっていて満席に近い状態でした。演奏の始まる7時まで、特製のカレーとラッシーやチャイなどの飲み物をいただきながら歓談していると身も心もほっこりと温かくなり、文字通りウォームアップ完了です。

 演奏は、インドで長年修行してこられた伊藤公朗さんのシタールと奥さんのタンブーラとボーカルによる古典的な楽曲や歌を中心に進み、やがて二人の息子さんと新たな楽器も加わって、夜が更けるとともに、ゆっくりと盛り上がっていきました。楽器や歌声は、時間を超越した、ゆったりとした空気の振動を生み出し、それが周りのモノや人と共鳴し、やがて木造りのヤルゴイがまるで一つの楽器になったような響きに包まれ、私の内面で大きなうねりとなっていくなかで、五感や言語を通したさまざまな日常的経験を超えて、これまでの人生とこれからの人生が、いまここにいる自分に凝縮されてあるという統一感を久しぶりに味わうことができました。

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よく見ればなずな花咲く垣根かな(芭蕉)

2008年02月27日 | マミム・メモ

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 今朝(227日)の朝日新聞「ひと」欄によれば、臨済宗妙心寺派の禅僧、松原泰道師はこの句が気に入っておられるそうだ。松原師といえば、私が1985年(44歳のとき)にカリフォルニア大学サンディエゴ校で開かれた一般意味論国際大会で般若心経について話したとき、その原稿(PRAJNA-PARAMITA-SUTRA: A GENERAL SEMANTICS INTERPRETATION)を書くにあたって『般若心経入門』(祥伝社、1972)をはじめ何冊かの著書を読ませていただいたのだが、それを執筆されたとき、師は65歳だったということを、今日はじめて知った。

 あれから三十数年を経て、私はすでに65歳の定年を迎えて2年が過ぎようとしている。今も非常勤講師としていくつかの学校で教えているが、それは規則的な生活を維持してボケを遅らせるためだ。何かにつけて、そろそろ現役を引退して悠々自適の老後を過ごしたいという気持ちが強く、あちこちで二言目にはそのことを口に出す。だが、松原師は「生涯現役、臨終定年」をモットーに65歳以降に130冊を超す著書を出し、100歳の今も現役で説法と執筆を続けておられるという。そのことも驚きだが、私はそれよりも芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」に感動されること、つい見過ごしてしまいそうな何気ない日常の一コマに気づいて感動し、そこから真理を読み取る鋭敏な感受性をもちつづけておられることが凄いと思う。

 何万分の一でも師に近づきたいものだが、それには、是が非でも「がんばろう!」とするのではなくて、いまここでベストをつくして生きることであろう。過去はいまここにあり、未来はいまここかからはじまる。いまここに生かされない過去や、いまここに足場をもたない未来は意味がない。過去と未来をいまここに包み込んで、ひたすら生きる。あとは「なるがまま」にまかせるということでいいのだろうか。師がお聞きになれば、まだまだ修行が足りぬと一喝されそうだが・・・

般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
松原 泰道
祥伝社

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映画「サラエボの花」

2008年01月14日 | マミム・メモ

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 昨年末に見た映画「4分間のピアニスト」「君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956」に続いて心待ちにしていた「サラエボの花」がやっと関西で公開された。

「サラエボの花」公式サイト

 1992年、旧ユーゴスラビアの解体にあってボスニア・ヘルツェゴビナの独立をめぐって民族の分離を目指すセルビア人クロアチア人ボシュニャク人(ムスリム人)が対立した。1995年まで続いたこの民族紛争が残した爪あとを描いた映画である。だが、戦時の暴力的なシーンは一切ない。

 貧しい母子家庭で娘を修学旅行に行かせようと費用の工面に奔走する母親と娘の関係。ある意味でありふれた日常の場面を淡々と描く。画面の隅々から戦争の傷跡が人々の生活に影を落としていることが感じ取れる。やがて娘は、母親から聞かされていた父親像や自分の出生について疑問を持つ。このあたりから、しだいに、この映画が「民族浄化」の名の下に行なわれた集団レイプの被害を描こうとしていることが明らかになっていく。そして、ついに苦悩する母親から娘に出生の秘密が明かされる。ここで、観客は母子の愛情を確認し、紛争が人々の心の奥に残した傷跡から人間のおろかさを再確認する。だが、考えてみれば、これはこの映画を見ようと思ったときから内心用意していた見方ではなかっただろうか。

 さらに深い普遍的な思考へと私を導いてくれたのは、113日付朝日新聞(大阪本社版)に掲載された大越愛子近畿大学教授の評であった。「女性が<妊娠・出産可能な身体>として存在するのは、根源的不条理である。」という冒頭の一文は衝撃的だ。そして、この認識を踏まえて次のように問いかける。「生命の源であるはずの「妊娠・出産する身体」に、なぜ暴力的な欲望が向けられるのか。」そうして生まれた子どもを「愛することができるのか。」

 映画は、母親が心の傷として奥に秘めたまま苦悩する受け入れがたい事実を語ること、娘が真実を知ることが、母子の新しい関係の構築へとつながることを示唆しているのではないか。そこに希望をつなぎたい。だが、それには「被害女性がどのような葛藤にさいなまれ、何と格闘せざるをえないのかについても考える必要がある。」と大槻教授はいう。男性としては、想像力を最大限に発揮して女性の率直な感覚に耳を傾けながら自らを振り返るほかない。

 私たちは、どんな苦悩のさなかにあっても、最終的には生きる希望を愛に託すしかないだろう。だが、それは「愛」という言葉を借りて観念的なロマンティシズムに逃げ込むことではない。愛は意思を持って具体的に作り出していくものである。そのことをこの映画は伝えているのだと大越教授は指摘してくれている。

 ハリウッド風のエンターテインメントの手法に慣れた観客にとっては冗長な感じがするかもしれない。時空を超越して伝えたいメッセージを鮮烈に表現することができる映像の可能性をあえて抑制して、ありふれた日常生活の断面を切り取ることで、観客の想像力を呼び覚まし、過去と今をつなぐ深く広い思考へと誘う。映画芸術と呼ぶにふさわしい真っ当な映画の証であろう。

 クラシック音楽のファンとして次は「マリア・カラス 最後の恋」を楽しみにしている。

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「アントーノフカ」の挿画

2007年12月15日 | マミム・メモ

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 ロシアのノーベル賞作家イワン・アレクセーヴィチ・ブーニンの短編「アントーノフカ」が、この11月に翻訳出版された。解説によると、アントーヌフカとは、ロシア特産のリンゴの品種のことで、黄色味を帯びて香りが高く、わが国でも戦後の一時期に長野県で「鳳」という名で栽培されたこともあるという。本書は、領主貴族の子として生まれたブーニンが、このアントーノフカの香りに誘われて、革命前の豊かな農村生活を美しいことばで回顧し、読む者を心豊かにしてくれる小品である。 

アントーノフカ
イワン・アレクセーヴィチ ブーニン,長濱 友子
未知谷

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 ページの隅々にまで配慮が行き届いた丁寧な装丁や本文のデザインから作り手の思いが伝わってくる。ハードカバーのしっかりとした手ごたえ。80ページの薄い冊子が、手のひらにしっくりとなじむ。そして、品のいい、なめらかな訳文に付された気の利いた脚注と20枚に及ぶ風景画が、ロシア文学になじみの薄い読者の想像力を刺激してくれる。

 挿画の作者は、じつは私の友人で、そのことが、ロシア文学に縁遠かった私がこの作品に触れるきっかけとなった。その友人によると、描かれているのはロシアではない。1998年から2000年にかけて1年半ほどポーランドに日本語教師として滞在していたときのスケッチなのだそうだ。「行き先のわからないバスに、終点まで乗ると大体ほどよい郊外に出て、そこから気ままにとぼとぼと歩いて見晴らしのいい丘があるとついのぼりたくなってそこでのんびりとスケッチを楽しむ一人だけの時間を楽しんでいた」という。繊細な筆致で描かれたポーランドの田園風景は、ブーニンの作品とはまったく異なる文脈で描かれたにもかかわらず、本書の醸しだす雰囲気にぴったりで、時代を超えたコラボレーションはみごとに成功している。ただひとつ残念なのは、絵そのものについての説明が一切ないことだ。できれば一枚一枚の作品が特定できるようにタイトルとか描かれた場所、年、季節など絵に書き込まれているメモでも付して、その一覧をつけてもらいたかった。

 いま、私は寝室でアントーノフカならぬ青森産の薫り高いリンゴをほおばりながら、この小品を手にして遠い国の遠い時代へと想いをはせている。白いブックカバーがはずれ、下から全面を水彩で彩られた表紙が現れる。ぼくは思わず息を飲み、ポーランドの国境に近いドイツの町に暮らす友を想う。青森で生まれ育ち東欧の風土に自身を投じている彼女は、関西のぬるま湯のような文化の中で育ちアメリカ文化に憧れて育った私にとっていろんな意味で遠い存在だ。そんな彼女を違和感なく友と呼べるのはなぜか。外国語教師同士という近親感か。豊かな経験に支えられた彼女の言語感覚への敬意か、それとも、離れていても同じ時間を生きていることへの共感か。たしかに感じるのは、遠いものを想うことによって満たされる自己。そう考えると、「アントーノフカ」に描かれている世界もまた、単なる追憶ではなく、現代に生きる私たちの心が深いところで求めている原風景なのかもしれない。

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最近読んだお勧めの新書2冊

2007年10月21日 | マミム・メモ

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ロハスの思考 (ソトコト新書)
福岡 伸一
木楽舎

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 ロハス=LOHASとは、Lifestyles of Health and Sustainabilityの頭文字をとった言葉で、健康持続可能性に配慮したライフスタイルのことであるという。なんだか健康オタクや環境問題にコンシャスな人たちを対象にした商業主義のにおいがただよっていて、これまで、あまり関心がなかった。だが、本書に関しては、著者が専門とする分子細胞生物学の立場から真摯な態度で記述されていて、科学者の良心が感じられる好著である。内容も興味深く、ていねいに書かれていて読みやすい。

 健康や環境について考え、行動するには、自分ひとり、あるいは家族の健康と繁栄といった自己中心的な志向ではなく、個人の健康の維持と地球環境の持続可能性が結びつく視点を明確に持ちながら自分のライフスタイルを自分で作り出していくことが大切である。

 それには、ロハスという言葉を錦の御旗にしないことである。ロハスを標榜する商品に安易に手を出さないことである。これからはロハスをビジネスチャンスとして捉えようとする動きが高まっていくにちがいない。商品を売る側からの提案を無批判に受け入れるのではなく、私たち一人一人が自らの思考と判断によって行動することで、商業主義に毒されないで真に健康と地球環境の持続可能性に配慮したライフスタイルをつくっていくことができる。本書はそのための思考法を示してくれている。

子どもの力は学び合ってこそ育つ―金森学級38年の教え (角川oneテーマ21 A 73)
金森 俊朗
角川書店

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 あたりまえのことだが、子どもの教育は「国家」や「企業」のために行なうものではない。子どもたちが、社会や自然など私たちを取り巻く環境の変化のなかでたくましく生きていく力、状況を切り開いていく力を育み成長することが教育の目標であるはずだ。本末転倒した教育論にまどわされてはならない。「学力低下」や「教師の指導力不足」といったキャンペーンに踊らされてはいけない。目の前の子どもと私たちが置かれている社会の構造をしっかりと見据えながら親と教師が一緒になって、まっとうな教育を展開していきたい。そのための指針を示してくれるのが本書である。

 本書を流れている思考法を一言でいえば、私たちの学びや生きる営みを関係性の中で捉えていることであろう。個人の成長も、生きた知識の獲得も、問題状況を生み出している構造も、環境とのかかわり、社会、親、学校のかかわりとして捉えることができる。こうして子どもたち一人一人が状況を見通して適切な判断ができる力、他者と協力して困難を乗り越える力、一人の人間として自らのいのちを全うする力を身につけることができるなら、そのような教育を受けた子どもたちが将来大人になったときに自分たちが生き生きと生きるための国や企業のあるべき姿を選択、形成することができるようになるにちがいない。

☆ いのちや生きることについて子どもとともに考える本

いのちってなんだろう (子どもだって哲学 (1))
中村 桂子,金森 俊朗,沼野 尚美,高橋 卓志,鷲田 清一
佼成出版社

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☆ 新書選びには「新書マップ」「WEBマガジン風」が便利です。

 

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コスモス満開(あわじ花さじき)

2007年10月21日 | マミム・メモ

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 秋の花のなかでも、とりわけ私の大好きなコスモスが「あわじ花さじき」で満開でした。

 

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佐川美術館

2007年09月28日 | マミム・メモ

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 湖西線堅田方面から琵琶湖大橋を渡ってまもなくのところにある佐川美術館は私が一息つきたいときに訪れるお気に入りスポットの一つである。敷地に足を踏み入れると、小刻みに波立つ広大な人工の水庭があり、そこに浮かぶように建てられた軒の深い切妻屋根の2棟の建物が訪れる者を包み込むように迎え入れてくれる。コンクリートなのに冷たさや硬さはない。それどころか、どっしりとした重厚感のなかに柔らかな温もりさえ感じる。建物に近づくと、水庭を循環する流水の音がからだ全体を心地よいバイブレーションで満たしてくれる。所蔵されている平山郁夫の絵画と佐藤忠良の彫刻もさることながら、私はこの美術館のたたずまいに魅かれる。日光を受けてキラキラと輝く水面、そこに戯れる蜻蛉、水中にじっと立つ彫像。そんな光景を、ガラス張りの廊下やカフェテリアから眺めていると時間の立つのも忘れてしまう。

 そんな佐川美術館に、樂家の15代当主樂吉左衞門氏が設計した茶室が完成したというのでさっそく出かけてみた。水庭の中にもぐるように降りていき、水中の小間を経て水庭と同じレベルに立つ広間に出て行くという奇抜な演出。千利休の「守破離」考えの体現を目指したというだけあって、何もかも型破りで現代的だ。それなのに不思議に落ち着く。ジンバブエ産の割り石をふんだんに使い、オーストラリアで廃線になった鉄道の枕木までも取り入れていて、日本産の素材は和紙ぐらいだという。ブラックコンクリートの壁に浮かび上がる杉板でつけた淡い模様にも、どこか朽ちかけた木の懐かしさが漂う。

 水中から広間に出て外に眼を向けると、葭の生い茂った島の向こうに比良の山々と広い空が広がる。

 「茶碗も茶室も目的ではなくなにかを得るための手段にすぎない。茶とはなにかという問いのこたえがたとえば夕日だったりしてもよいのだろうと思わせてくれた。」(『芸術新潮10月号』p.119)

  広間に正座して背筋を伸ばしたとき、私も同じような感慨を抱いていた。

佐川美術館

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)