豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

禅定三昧による圧倒的知恵の悟り

2014-05-26 12:24:51 | 日記
こんにちは!

諸行無常による清浄行を極めた、皆様!


相変わらずの、妄想狂、豊田です。


本日も朝から、嫁様の暴れ馬状態を目撃しておりました。

まあ僕の口が原因であることが、ほとんどでありますが、女の人というのは『虚栄心』というのか褒められたいというのか、この『会話で親切にされる』ということに非常に敏感なのかなと、思います。

男同士だったら、貶して冗談とかは、親密な関係の証拠なのですが、どうも違うのでしょうかね……。

まあ、僕が子供っぽいだけなのですが、なんか調子狂います、笑。


さて、今日もCMだけは入れておきましょう。

人気ブログランキングは、たまに、ですが新規に、このブログを見に来てくれる人がいます。

が、上位になると気になって覗きに来る人が、増えるという仕組みになっております。

まあ、ここにきても、なんじゃこりゃーと避ける人も多いとは思いますが、まあ出会いが生じるのであります。

と、いうわけで、一時期、どうでもよくなっていたブログランキングに燃えているのです。



人気ブログランキングへ←燃えている僕に、ご協力、宜しくお願いします!


さらに、嫁様の『ダラックマのブログ』は、悠聖の育児のことや、まあ、生活のことを書いてあります。

毎日更新はしていないようですが、こちらも、遊びに来て貰えると嬉しいです。

宜しく、お願いいたします。


※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


『超個人的疑問』は、僕の半生を気になる部分だけ抜き取って、中途半端に仕上がった自伝であります。

これを読んで、ためになることは、特にはないと、思うのですが、まあ、時間がある方に読んで欲しいなあという個人的な願いであります。

僕のダメさが、全開で、出ているかもしれませんw


※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上、本日もCMでした☆


さて、縁起の法を昨日は勉強しておりましたが『無明に縁って行がある』から始まって、すべての繋がりから、生があるらしいです。

この生が無くなれば、死は無いというのが仏教の教えでありますね。

関係性で出来ているので、1方が無ければ、もう1方も無くなるのであります。

無明というのは『諸行無常、一切皆苦、諸法無我』を知らず、縁起を知らず、苦の滅尽することを知らないことでしょうか。

そして行というのは『意志』のことであり、身、口、心の活動だと書かれていますね。

この行から識がうまれ、色がうまれ、色によって識があり、識によって色があるという状態になる。

意識があるから体がある、体があるから意識があると説かれています。

しかし、これに先行するのが、意志(指向性?)である、身、口、心の活動性なのです。

この、身、口、心の意志(指向性)すらも、諸行無常であるが故に苦が滅するということでしょう。

苦があるところには我はないと、御釈迦様は言っているのです。

なぜなら、苦とは我の自由にならないところから生まれているからであります。

生老病死が、その中でも代表的な4つということでしょう。


これは、身と口と心を『わがもの』と見なさないということではないでしょうか。

生の根本まで辿っていくと、身と口と心の動きがある、この動きを我だと思い、ここに識があって、色がある、色があって識があるという勘違いが生まれているのだ!

行為と言葉と心も、諸行無常、一切皆苦、諸法無我から外れないのである。


水面に映る心眼も、日々生きている行為も、口をつく言葉も、何もかも一切が、無常であり、苦であり、無我である。

遠ざかり離れることに寄って、この『わがものである』という観念を落としてしまう。


このように観ずる方法として『禅定三昧による圧倒的知恵の悟り』という方法があるのでしょう。



「それならば、バーヒヤよ、この世において、次のようなことが学ばれねばならない。


見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。


聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。


考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。


識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。


実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。


見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。


聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。


考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。


識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。


バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。


それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」


バーヒヤという樹皮をまとった行者は、このように、尊師が簡略に法を説くやいなや、執着がなくなり、煩悩から心が解脱しました。


さて、尊師は、樹皮行者のバーヒヤにこの簡略な教誡によって教えて、去っていった。


ところで、尊師が去って間もない頃、樹皮をまとった行者バーヒヤに、牝牛と仔牛がぶつかって、命を奪い去りました。


そのとき、尊師は托鉢のために行じて、食後に乞食より戻って、


多くの比丘たちとともに町から出て、樹皮をまとった行者であるバーヒヤが亡くなったのに出会いました。


これを見て比丘たちに、話しかけました。


「比丘たちよ、樹皮をまとった行者バーヒヤの身体を取り上げて、寝台に乗せて外に出し、火をつけなさい。


そして、かれの塔を作りなさい。比丘たちよ、おまえたちと共に清浄行をしていた者が亡くなったのだ」


「尊師よ、その通りにします」と比丘たちは答えて、樹皮をまとった行者バーヒヤの身体を取りあげて、


寝台に乗せて外に出し、火をつけて、かれの塔を作ったあと、尊師のところに赴きました。


尊師のところに赴いて、挨拶をした後、一方の端に座りました。


一方の端に座った比丘たちは尊師にこのように述べました。


「尊師よ、樹皮行者バーヒヤの身体は荼毘に付され、かれの塔が建てられました。かれの赴く先はどこでしょうか。未来の運命はどうなのでしょうか」


「比丘たちよ、賢者である樹皮をまとった行者のバーヒヤは、法に関して随法行を行い、わたしを、法の課題で悩ませることはなかった。
比丘たちよ、樹皮をまとった行者バーヒヤは、般涅槃したのである」




これは某掲示板で紹介していただいた法話ですが、僕は、この話を聞いて、これこそ仏道と感動しました。

諸行無常であるが故に苦が滅する、つまり、我がものという思いが消え去ることができるのである。

これを略せば、諸行は無常であるが故に世の一切は苦であり、世の一切は苦であるが故に諸法は無我なのである。

ということで完結します。


これは人生を生ききることであると、思われます。

目の前にある諸行無常を、それを、それと感じて、我がものとせず、忘我している。

我が無いときには、もはや、苦は滅尽しているのである。

静粛という、言葉や状態すらなく、静粛なのである。

認識主体のない、清涼なる境地なのである。

もしも我の分別を持ち込まずに、目の前の現れに、だだひたすら没頭しているならば、これが仏道の修業だろう。


今日も一日、生き切りましょう♪



人気ブログランキングへ←ポチッとな、だけがあるだろう、笑

消滅

2014-05-25 13:47:34 | 日記
こんにちは!

神の恩寵に導かれし、皆様。


今日は朝から特に問題なく流れております。

11時半ごろに起きてきて『阿含経』を携帯から読んでいました。

これが、あんまりにも的を得ているので大笑いしていたら妻が「自宅にて不審者発見! 不審者情報に書いておこう」と言いました、笑。

さらに、あーっはっはっは、ほーっほっほっほと笑いを起こしていると、今度は「悠聖くん、新しいパパ探しに行こうねえ」とか言っている(爆笑)

うむ、マジメに生きなければ!



さて、ここで、いつものようにCM☆です。


人気ブログランキングも皆様の応援のポチッとなのお陰で親父ランキング13位くらいまで上がってました。

ありがとうございます。

ちなみに、僕は『親父ランキング』と『鈴鹿市ランキング』と『思想・哲学ランキング』の3つに登録しています。

ですので下のボタンをクリックすると、その登録先ランキングの何れかに飛びます。

僕のマニアック精神世界旅行的ブログではない、日常世界の楽しいブログがたくさんあるのであります。

しかも、総合ランキングへ辿っていくと、書籍化までされている超有名ブログが多数あります。

と、いうわけで、ランキングのポチポチを、宜しくお願いいたします。


人気ブログランキングへ←こちらをポチッとしてくださいね。


更に嫁様の、たまに更新する『ダラックマのブログ』も宜しくお願いします。

まあFacebookの方が簡単なので、そちらの更新の方が多いようですが、まあ僕の仲間なので応援しているのです。

もうちょっと更新してくれたら、いいのになあ、とは思います。


※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


さらに、いつもの如く『超個人的疑問』も怖ず怖ずしながらご紹介したいと思います。

こちらは、僕の生まれた頃から、結婚するまでくらいを、超個人的疑問、つまり、なぜここにいるのか? と繋げながら書こうとしたものであります。

もちろん、下手くそな訳ですが、自分で書いたのも中々ないので気に入っているのです。

そして、まあ、僕がどんな人間なのか。

言い換えれば、この男が、どれほどにDamedameマンなのかが分かるという内容であります、笑


※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上! 本日も長々とCMでありました。



さて、阿含経は素晴らしいですね。

さっきも「消滅!」と大声を発して笑い転げておりましたら、妻に精神病院へ送られそうになりましたw(冗談です)

えーっと、まず、諸行無常であるがゆえに苦が滅するとあります。

諸行無常が苦であるのは、そこに我を投影している、執着しているからなのですね。

しかし真実は肉体は滅びるのです。

絶対確実に滅する者が肉体であるわけですね。

しかし、これを永遠の者、我が者であると勘違いしてしまうが故に苦が生じている。

この苦を取り除くには、諸行無常なので一切皆苦だと知ることから始まるのであります。

ですから、世の中が歓喜に満ちている人に、仏道は歩めないということになりますね。

まあ、僕も歩めていませんが、笑


諸行無常で一切皆苦を知ると、そこから離れようとするのであります。

つまり世間の一切から離れようということですね。

これは、まあ自己を構成している、わがものであると勘違いしている、肉体、感覚、表象、意志、意識、等々というものから、離れるということなのだそうです。

素晴らしい、仏陀さん。

これはですね、グルジェフさんのお話とも、マハルシさんのお話しとも非常に似ているのですね。


こうすることによって『貪』が滅すれば、即涅槃であります!


これは、まあ、想像するに、思考、感情、動作、本能、性の各構成要素を客体化して、離れるということでしょう。

そしてまた他者とのコミュニケーションにおいても、内的考慮しないということでしょうね。

無であります。


無心、空っぽ、この状況が究極の境地だと仏陀さんは言ったのであります。

そして、他の人は、これを真我だとか、幸せだとか名付けたわけですが、なんと仏陀さんは、アートマン=ブラフマン(凡我一如)ですら、幻だ、夢幻の如くだとおっしゃるのです。

これで完全に我を滅却しましたね。

もちろん心理的に滅却しただけですので、働きとしての、諸行無常の世界は、今までと全く変わらないのです。


そう考えますと、修業というのは一切から遠ざかり離れることである。

見ることを無くせ、嗅ぐことを無くせ、味わうことを無くせ、触れることを無くせ、聴くことを無くせ、意識することを無くせと言うのです。

これは、まるで、死にきっている様子ではありませんか。

もちろん、あれですよ、我が離れるのです。

なんというか、これらの諸活動は、自然現象なのですよ!!!!


アナタの意志とは無関係に、縁起によって巻き起こっている、神のスーパー高速移動装置なのであります。

例えるなら、神の機械なのです。

ですから、グルジェフさんも「あなたは機械だ。機械でない人はひとりもいない」と断言したのですね。


これらの世の諸々が落ちたとき、そこにあるのは、静粛だけなのです。

目の前のやるべきことに集中して没頭し、すべてを忘れて、そこに忘我する。

これは、あれは、すべて、我ではない。

上も下も横も中央も、すべて認識できる範囲が、執着の対象である。

我の対象である。

我は、我という者は、元々、どこにも存在していないのである。


歓喜が我を束縛する要素として、5感プラス意志に作用しているから、勘違いするのである。

心を虚しくして、静かに、幻の世界を離れて観ることで、サヨナラしよう。


これ、正に消滅!



人気ブログランキングへ←ここをクリックすると諸行無常が展開するのです、笑

オンリ一切

2014-05-24 18:21:59 | 日記
こんばんは。

親愛なる世界、そのものであられる皆様!


どうも、だめだめ感MAXの豊田です。

余り怪しい記事ばかり書いていると変な人で確定していきますね、笑


本日は朝から嫁様にブツブツ言ってしまい、またもや大騒動。

怒りMAXの彼女とだめだめ感MAXの僕のやりとりが、延々と眠るまで続けられました。

朝から地域の屋内消毒サービスがあって、夜勤で帰ってきたが8時まで寝られず・・・・・・orz

やっと眠って気が付いたら「悠聖がベッドから落ちた」と嫁様が言う。

母親が救急コールセンターに電話したが3病院紹介されて、すべて没です。

なんと、救急車まで呼んで、病院を探してもらったら鈴鹿中央総合病院だけ受け入れてくれた。

素晴らしい!

それで、なんと、脳外科の先生が見てくれたらしい。

父親が事故したときも、鈴鹿中央総合病院へ救急で運んでもらったので、何かとお世話になっている。


これらも悪業の因縁が巡ってきているのだろうと、静かに過ごしていくしかありません。


さて、ここでCMだけ入れときましょう。

ブログランキングをクリックしてくれると来てくれる人が増えるので、ご協力、宜しくお願いします。

下のボタンをクリックして、画面が変わればOKなのです。

携帯の人はさらに表示されたURLをクリックしていただきたいのであります!

ランキングに執着する僕なのです、笑


人気ブログランキングへ←あなたに押して欲しいのであります、あなた!


さらに嫁様のブログも併読していただけると嬉しいです。

彼女は、今日は朝からMAX怒って、昼からは悠聖の事故で疲れ果て、憂いに満ちています。

まあ、悪い事ばかりは続かないのが世の中だからね。

とにかく、また覗いて、コメントあげてくださいませ。


※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


そして、いつもの如く『超個人的疑問』の方も宜しくお願いします。

この自意識過剰でシュールな自伝は、鬱状況まっしぐらな時に書いたものですが、また時間があるときに手直ししたいと考えています。

文字数制限があるので、あれ以上長くすると記事を分けないといけないので、短くしたのですが、もっと長くして2つに分割しようかな。

まあ、時間のある方は、このポンコツマンの独り芝居をご覧下さいませ。

是非とも! よろしくです。


※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上! 本日も長々とCM☆でした。



さて、今日の出来事の流れを感じてみるに、愚痴、迷い、迷妄からくる怒り『こうであってほしい』が連鎖して悪口を言ってしまうという僕の真の悪魔が、打ち倒されなくてはなりません。

よく考えたら、このブログにも言葉を載せているわけで、ここで非難めいたことを書いてはいけないということになるのかな?

正しい言葉、正語を身につけないと、ますます不運のカルマ(業)が堆く積まれてしまう。

縁起とは『こちらがあってあちらがある』ということなので、まあ、こちらに悪がなければあちらにも悪がなくなる。

はずだ。

この重要問題を解決するのは非常に難しいけれど、物事に囚われないことだと思われます。

世界は眠りの中にはなかったとマハルシが言いますが、この眠りを持ち込むことだろうと思うのです。

ついつい、目の前の現象に囚われてしまい、悪口が出てしまう。

心が、この事象にくっついて離れないことで、諸行無常の動きが非常なる緊迫感をもたらすのである。

なので、世界から遠ざかり離れること、無常を観ずることを常にやっていなければならないことになる。

無常を観じ、心を虚しく過ごしていく。

世界には重要なことなど、なにもない。

重要なことは心の方であって、こちらが、混乱すれば、世界も混乱の渦に巻き込まれるのである。

その結果が戦争だ。


心を常に清涼に保とうとすれば、動かさないでいるしかない。

しかし、事象が動き続ける限り、表面的な反応を止めることはできないだろう。

とすれば、さざ波程度の心の乱れを捉えて、これを静めていくことである。

さざ波が来たときに、反応を止める、止め続けることができれば、事象の方も収まると思われます。

しかし、このさざ波に大きく反応して、悪口を発してしまうと、さらに大きな波が来て、もはや止まらなくなってしまう連鎖。

非常に注意深く観察していないと難しい。

しかも、慣れている環境では特に、難しくなると感じています。

家族と過ごしているときや、のんびりと楽しんでいるときなどでも、目の前の事象を浮かび上がらせて、立ち位置を保持しないといけない。

真我のポイントは眠り-目覚めの間で、常に保持されていなければならない。

世界が夢なのではなくて、世界を夢にしなければならないのだ!


自分自身で、この幻想の世界を、諸行無常を超えたポイントを見失わない努力をしなくてはいけない。


苦楽、快楽-不快原則を、どのように遠ざけるのか、難しいが、やっていかなければならない。

思い切ってレンズの向こう側に澄み切った境地で、居座ってしまうことだと思うのだが、果たして生きていけるのか?


いや、しかし、レンズの向こう側に、夢の主体の側に、居続けることだ。

ただ独り離れてある、とは、そういうことだろう。



人気ブログランキングへ←神の世界を贈り給う。

無所有の境地を目指そう

2014-05-23 14:54:17 | 日記
こんにちは。

欲望を捨て去った清涼なる、皆さん。


本日は昼過ぎ13時に起きて、久しぶりに座禅をした豊田です。

体のあちこちが痛い、笑

計画生活をやめてから2ヶ月くらいかな?

座禅をまったくやっていなかったのですが、していないと気が付かないのが不思議ですね。

体が、様々な動きをしているのですが、まったく気が付いていないという摩訶不思議。

計画を再開するのは、もうしないですが、座禅と読書は計画的にやっていこうと再考しています。


えーっと、またCMをしておきたいのですが、

とりあえずブログランキングをクリックして貰えると、ランキングが上がって嬉しいのでお願いします。

来てくれる人が増えて欲しいのです。

欲望を叶えたいと望んだ人がもしもそれを得られないと嘆き悲しむのです(大爆笑)



人気ブログランキングへ←コレを押して、欲しい、のです!


また千鶴さんが、たまに気分で更新している『ダラックマのブログ』へも遊びに行ってあげてほしいな。

今日は更新しているのか、僕も知りませんが笑

たしか彼女は、今日の僕の暴言で、怒り狂っていました。

和室で座禅しているのですが、乱雑に散らかっているのを自分の責任なのに、彼女に当たってしまったのです。

まあ、それはいいとして、彼女のブログも、宜しくお願いします!!!!


※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


さらに恥ずかしさに頬を染めながら『超個人的疑問』という自意識過剰な自伝も紹介しておきます。

昨日も、紹介しましたが、これは下手な文章ですが、いつも推敲しない僕が、なんどか確認して訂正したという珍しいものです。

単に自分の至らない半生を書いていったものですが、何しろ、他人の人生をのぞき見る機会も中々ないでしょうから、楽しんでいただけるとありがたいのであります。

まあ、しかし、怪しいかも知れません、笑


※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上! 長々とCMでした。


さて『スッタニパータ』を今朝は読み返していましたが、やはり煩悩を捨てることに集中しています。

一番最初に強調されているのが、欲望です。

迷い、怒り、欲望を捨て去るのに、根本の『わがものにしたい』を捨てなくてはならないようです。

究極の境地を『無所有の境地』と表現しています。

この境地は心理的な状態を指していると思われます。

この無所有の境地を実現するためには『独り離れてあること』だと書かれています。

そして、この『独り離れてある』『無所有の境地』は『見解=知恵』に寄って到達される。


欲望を捨てるというのは、離欲もすてることである。

彼は、欲望から離れたいという欲すらあってはならないと説くのだ。

心の中で、欲望に悩み考えるという状態を一切滅してしまえば涅槃の境地に至るのである。

しかも、この境地は生老病死を超越して、苦の根本を滅尽させるという凄まじい境地なのだ。


体の欲求というのは『食う、寝る、やる』が基本だと思われます。

その他にも付随して、様々な心理的欲求、『虚栄心とか自己愛』がありますが、これらも欲求であります。

この『食う、寝る、やる』と『虚栄心と自己愛』を心の中に住まわせないことだと考えます。

見解というのは、観て分かることだと思います。

つまり、これらに対する欲求が苦の根本であると見抜いて、理解したならば、苦は取り除かれる。


なんと、この最上の境地は、焼肉が食べたいと思ったら、即行動するというだけです。

食べたいから、悩み考えるという心の中の状態をキレイサッパリ捨てることなのです。

食べたくても我慢するという心の中の状態をもキレイサッパリ捨て去ることなのです。

つまり、コミットメントしていることですね。


今やる、すぐやる、できるまでやる、トコトンやる、

状態です。


言葉を換えると、

与えられたものしか摂らないとか、

人事を尽くして天命を待つとか、

結果は気にしないとか、

私は何も気にしないとか、

今を生ききるとか、

日々是好日とか、

禅とか、

幸せであること、幸せになることとか、


になると思います。

目の前にある現実は無くすことはできないのですが、コレに対する理解が変容することをブッダは言ったのでしょう。

これは欲望と行為の間に心が入らないことです。

スルーするのです。

心の中で『あれが、これが』と悩み考えていることがないことですね。

心は空っぽで、ただ目の前の現実だけが、そこにある。

その目の前にある現実に即行動していくわけで、何の執着もないことが欲望がない状態です。

徹底的に心理学的な道ではないですか。


僕はこう考えました。

これは、単に至福に留まって満足している状態で生ききる事だと思うのです。

欲望や、それを起点にした怒りは、至福の上に巻き起こっているのですが、注意を向けなければ力を持てません。

そこに自分がのめりこんで『どうしても○○が欲しい』とならずに、スルーしていくと巻き込まれませんね。


これは、何かに似ている。

連想を、そのままにして静めるときにやっていた瞑想と、凄く似ているのです!!

今度は煩悩をそのままにして静めるということが必要なのですが、これは真我を起点にやることですね。

真我とは『幸せであること、幸せになること』です。

幸せであることは自然な状態なのに、自分以外の対象に幸せがあると勘違いしているだけなのです。


だから、ただ独り離れて、欲望を捨てるには、心に静粛をもたらすことです。

連想を静めるには、頭の注意を、例えば呼吸に向けて集中するなどの座禅法がありますよね。

この座禅法、つまり客観的自己観察を、心の側でもやることなのであります。

心の奥には、幸せが常にある、この至福を見失わずに、幻惑させる欲望たちを、ただ放っておく。

静かになるまで、これを続けること、保持することが修業なのでしょう。


マハラジも『私は在る』の感覚を見つけて、そこに留まりなさいとアドバイスしていました。

彼は、この方法で、たった3年で真我実現を果たしたのです。




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没頭帰心

2014-05-22 13:14:46 | 日記
こんにちは!

世界の実存を支えている神の分光である、皆様!


本日は、なんと夜勤になってしまいました豊田です。


このところブログランキングを貼ってなかったら、読者数激減&ランキング激ダウン笑

というわけで、クリックにご協力お願いします。

人気ブログランキングへ


ついでに嫁様のブログも読んで貰えると嬉しいです。

本人、かなり楽しみに書いている様子ですので、応援してあげてください。

※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


さらに、僕の拙い文章で書いた自意識過剰な自伝『超個人的疑問』も、こちらは時間のある方、是非読んでください。

※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上! CMでした。



さて、昨日は仕事終わってから嫁様の飯を貰ったり、悠聖のお風呂を手伝ったりとしましてから『煩悩リセット稽古帖』(小池龍之介)を読んでいました。

非常におもしろい4コマ漫画と一緒に、煩悩を除く方法がゆるりと書かれています。

これは素晴らしい。

迷い、怒り、欲望という3つの煩悩、3毒を取り除くことが仏道だったのですね。

迷いは『いまここ』から『いまどこ』つまり、脳内へ引き籠もること。

怒りは『こうであってほしい』から『抵抗』する、つまり『いやいや』と『嫌悪感』『不快感』を持つことですね。

欲望は『苦(ストレス)』から逃れようと、所有したい、自分のものにしたいと思う心です。


これらに対する執着が元凶であって、これを取り除くために座禅、等々があるわけです。


これを読んで見て、思ったのは、そのとき、そのときで留まるべきところなく、ただ諸行無常、諸法無我を全体内であるがままに巻き起こらせることだということです。

一休さんも『雨ふらばふれ、風ふかばふけ』と言っていますね。

もう、とにかく、すべては自然現象なのですから、生ききっていることで煩悩はなくなるんです。

って、まあ、未だ煩悩塗れの僕が言っても効果ないかもしれませんが(爆笑)


しかし、カルマ(業)の残存思念が新たなる不幸を連鎖的に呼び込んでいるのは間違いないと思います。

1つでも、この執着を捨てることができれば、我々は無我に近づいて幸せになることでしょう。


小池龍之介さんは『集中して没頭』と書かれますが、そのとおりですね。

苦・楽・普通に対する3毒が、滅するのは、この目の前の行為に集中して没頭しているときです。

まあ、それ以外にも深い睡眠時には滅していると思いますが笑

生ききっているときは、平凡なことが楽しみになる。

しかし、この楽しみという感覚は我が戻ってきてから思っているので錯覚します。

あー楽しかったと思うのは、楽しんだあとなのであって、楽しんでいるときは、それもないのですね。


ここで僕は、こう考えました。

没頭しているという状態を維持しようとすると、確かに、無我の境地、禅定に留まる。

このとき、心は純粋にして、目の前の事象のみとなる。

目の前の事象は実は、心の中味である。

心の中味と直接相対しているときに、わたしたちは無心に楽しみます。

無心に楽しんでいるときに心眼が開き、つまり眼前の事象がレンズの中に収まり、僕は全体の観察者となる。


この観察者には我が無い。

つまり、あの人、この人、アレ、コレ、等々指し示すべき者がいない。

ただ全体を遠くに反映させている、私自身なのである。

この状態に留まるとき、通常の感情センター、つまり心は、心と言うより、喜怒哀楽と言った方がいいのかもしれませんが、とにかく、ここ、胸のここは、静まります。

静粛です。

心の奥に、もうひとつの真の心があることに気が付く。


すると、この心は、喜怒哀楽にせよ、想念にせよ、また行為、出来事、等々世界で巻き起こっていることに影響されないことを知る。

この安寧の上に、巻き起こっているのが世界であり、出来事であり、生活、人生、政治、芸術、まあ、他にもすべての人間世界における活動、人生、生、また神の現れ等々と言われているものなのです。


雨や風は、私のお陰で、私に対して、自己表現している。

自由に、また法則に則って、世界が、回転していくのである。

留まることなく、永遠の今の中で、諸行無常に、諸法無我に、動きまくっている。

世界において留まることなく、世界の向こうで留まり、これらの出来事をあるがままに、受容する。

この受容するものには、今までの自分自身も含まれているのである。

今までの自分自身とは体であり、これを保存しようという自我である。


心の奥にある、安心、安寧な無心を主体として、煩悩を、我を通過する客として執着せずに、過ごす。

つまり真我を起点として、あらゆる、活動に、忘我するのだ。

これこそが、修業であり、人生の意味であり、苦の滅却であり、涅槃なのである。


と、個人的には思います。

要するに、世界においては留まらないことなのです。

そして世界の向こうにある包括的自己の大本である、心、自分自身のハートを開いて、事に没頭することなのです。

すべては起こるようにして、善い場所に収まっているのです。



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