こんにちは!
世界の実存を支えている神の分光である、皆様!
本日は、なんと夜勤になってしまいました豊田です。
このところブログランキングを貼ってなかったら、読者数激減&ランキング激ダウン笑
というわけで、クリックにご協力お願いします。
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ついでに嫁様のブログも読んで貰えると嬉しいです。
本人、かなり楽しみに書いている様子ですので、応援してあげてください。
※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。
さらに、僕の拙い文章で書いた自意識過剰な自伝『超個人的疑問』も、こちらは時間のある方、是非読んでください。
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
以上! CMでした。
さて、昨日は仕事終わってから嫁様の飯を貰ったり、悠聖のお風呂を手伝ったりとしましてから『煩悩リセット稽古帖』(小池龍之介)を読んでいました。
非常におもしろい4コマ漫画と一緒に、煩悩を除く方法がゆるりと書かれています。
これは素晴らしい。
迷い、怒り、欲望という3つの煩悩、3毒を取り除くことが仏道だったのですね。
迷いは『いまここ』から『いまどこ』つまり、脳内へ引き籠もること。
怒りは『こうであってほしい』から『抵抗』する、つまり『いやいや』と『嫌悪感』『不快感』を持つことですね。
欲望は『苦(ストレス)』から逃れようと、所有したい、自分のものにしたいと思う心です。
これらに対する執着が元凶であって、これを取り除くために座禅、等々があるわけです。
これを読んで見て、思ったのは、そのとき、そのときで留まるべきところなく、ただ諸行無常、諸法無我を全体内であるがままに巻き起こらせることだということです。
一休さんも『雨ふらばふれ、風ふかばふけ』と言っていますね。
もう、とにかく、すべては自然現象なのですから、生ききっていることで煩悩はなくなるんです。
って、まあ、未だ煩悩塗れの僕が言っても効果ないかもしれませんが(爆笑)
しかし、カルマ(業)の残存思念が新たなる不幸を連鎖的に呼び込んでいるのは間違いないと思います。
1つでも、この執着を捨てることができれば、我々は無我に近づいて幸せになることでしょう。
小池龍之介さんは『集中して没頭』と書かれますが、そのとおりですね。
苦・楽・普通に対する3毒が、滅するのは、この目の前の行為に集中して没頭しているときです。
まあ、それ以外にも深い睡眠時には滅していると思いますが笑
生ききっているときは、平凡なことが楽しみになる。
しかし、この楽しみという感覚は我が戻ってきてから思っているので錯覚します。
あー楽しかったと思うのは、楽しんだあとなのであって、楽しんでいるときは、それもないのですね。
ここで僕は、こう考えました。
没頭しているという状態を維持しようとすると、確かに、無我の境地、禅定に留まる。
このとき、心は純粋にして、目の前の事象のみとなる。
目の前の事象は実は、心の中味である。
心の中味と直接相対しているときに、わたしたちは無心に楽しみます。
無心に楽しんでいるときに心眼が開き、つまり眼前の事象がレンズの中に収まり、僕は全体の観察者となる。
この観察者には我が無い。
つまり、あの人、この人、アレ、コレ、等々指し示すべき者がいない。
ただ全体を遠くに反映させている、私自身なのである。
この状態に留まるとき、通常の感情センター、つまり心は、心と言うより、喜怒哀楽と言った方がいいのかもしれませんが、とにかく、ここ、胸のここは、静まります。
静粛です。
心の奥に、もうひとつの真の心があることに気が付く。
すると、この心は、喜怒哀楽にせよ、想念にせよ、また行為、出来事、等々世界で巻き起こっていることに影響されないことを知る。
この安寧の上に、巻き起こっているのが世界であり、出来事であり、生活、人生、政治、芸術、まあ、他にもすべての人間世界における活動、人生、生、また神の現れ等々と言われているものなのです。
雨や風は、私のお陰で、私に対して、自己表現している。
自由に、また法則に則って、世界が、回転していくのである。
留まることなく、永遠の今の中で、諸行無常に、諸法無我に、動きまくっている。
世界において留まることなく、世界の向こうで留まり、これらの出来事をあるがままに、受容する。
この受容するものには、今までの自分自身も含まれているのである。
今までの自分自身とは体であり、これを保存しようという自我である。
心の奥にある、安心、安寧な無心を主体として、煩悩を、我を通過する客として執着せずに、過ごす。
つまり真我を起点として、あらゆる、活動に、忘我するのだ。
これこそが、修業であり、人生の意味であり、苦の滅却であり、涅槃なのである。
と、個人的には思います。
要するに、世界においては留まらないことなのです。
そして世界の向こうにある包括的自己の大本である、心、自分自身のハートを開いて、事に没頭することなのです。
すべては起こるようにして、善い場所に収まっているのです。
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さて、昨日は仕事終わってから嫁様の飯を貰ったり、悠聖のお風呂を手伝ったりとしましてから『煩悩リセット稽古帖』(小池龍之介)を読んでいました。
非常におもしろい4コマ漫画と一緒に、煩悩を除く方法がゆるりと書かれています。
これは素晴らしい。
迷い、怒り、欲望という3つの煩悩、3毒を取り除くことが仏道だったのですね。
迷いは『いまここ』から『いまどこ』つまり、脳内へ引き籠もること。
怒りは『こうであってほしい』から『抵抗』する、つまり『いやいや』と『嫌悪感』『不快感』を持つことですね。
欲望は『苦(ストレス)』から逃れようと、所有したい、自分のものにしたいと思う心です。
これらに対する執着が元凶であって、これを取り除くために座禅、等々があるわけです。
これを読んで見て、思ったのは、そのとき、そのときで留まるべきところなく、ただ諸行無常、諸法無我を全体内であるがままに巻き起こらせることだということです。
一休さんも『雨ふらばふれ、風ふかばふけ』と言っていますね。
もう、とにかく、すべては自然現象なのですから、生ききっていることで煩悩はなくなるんです。
って、まあ、未だ煩悩塗れの僕が言っても効果ないかもしれませんが(爆笑)
しかし、カルマ(業)の残存思念が新たなる不幸を連鎖的に呼び込んでいるのは間違いないと思います。
1つでも、この執着を捨てることができれば、我々は無我に近づいて幸せになることでしょう。
小池龍之介さんは『集中して没頭』と書かれますが、そのとおりですね。
苦・楽・普通に対する3毒が、滅するのは、この目の前の行為に集中して没頭しているときです。
まあ、それ以外にも深い睡眠時には滅していると思いますが笑
生ききっているときは、平凡なことが楽しみになる。
しかし、この楽しみという感覚は我が戻ってきてから思っているので錯覚します。
あー楽しかったと思うのは、楽しんだあとなのであって、楽しんでいるときは、それもないのですね。
ここで僕は、こう考えました。
没頭しているという状態を維持しようとすると、確かに、無我の境地、禅定に留まる。
このとき、心は純粋にして、目の前の事象のみとなる。
目の前の事象は実は、心の中味である。
心の中味と直接相対しているときに、わたしたちは無心に楽しみます。
無心に楽しんでいるときに心眼が開き、つまり眼前の事象がレンズの中に収まり、僕は全体の観察者となる。
この観察者には我が無い。
つまり、あの人、この人、アレ、コレ、等々指し示すべき者がいない。
ただ全体を遠くに反映させている、私自身なのである。
この状態に留まるとき、通常の感情センター、つまり心は、心と言うより、喜怒哀楽と言った方がいいのかもしれませんが、とにかく、ここ、胸のここは、静まります。
静粛です。
心の奥に、もうひとつの真の心があることに気が付く。
すると、この心は、喜怒哀楽にせよ、想念にせよ、また行為、出来事、等々世界で巻き起こっていることに影響されないことを知る。
この安寧の上に、巻き起こっているのが世界であり、出来事であり、生活、人生、政治、芸術、まあ、他にもすべての人間世界における活動、人生、生、また神の現れ等々と言われているものなのです。
雨や風は、私のお陰で、私に対して、自己表現している。
自由に、また法則に則って、世界が、回転していくのである。
留まることなく、永遠の今の中で、諸行無常に、諸法無我に、動きまくっている。
世界において留まることなく、世界の向こうで留まり、これらの出来事をあるがままに、受容する。
この受容するものには、今までの自分自身も含まれているのである。
今までの自分自身とは体であり、これを保存しようという自我である。
心の奥にある、安心、安寧な無心を主体として、煩悩を、我を通過する客として執着せずに、過ごす。
つまり真我を起点として、あらゆる、活動に、忘我するのだ。
これこそが、修業であり、人生の意味であり、苦の滅却であり、涅槃なのである。
と、個人的には思います。
要するに、世界においては留まらないことなのです。
そして世界の向こうにある包括的自己の大本である、心、自分自身のハートを開いて、事に没頭することなのです。
すべては起こるようにして、善い場所に収まっているのです。
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